ハッピーエンド

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現パロ 直義先生その4


下記の続きとなります。


①「元漫研の石塔君が軽音部入部に至るまで」

https://telegra.ph/%E5%85%83%E6%BC%AB%E7%A0%94%E3%81%AE%E7%9F%B3%E5%A1%94%E5%90%9B%E3%81%8C%E8%BB%BD%E9%9F%B3%E9%83%A8%E5%85%A5%E9%83%A8%E3%81%AB%E8%87%B3%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7-10-20


②「ノーダメージなわけなくない?」

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③「めでたし、めでたし」

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※ちょっとNL色が強い(直義×渋川姉)ので苦手な方はご注意ください


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なんか長編になっちゃったので前回までのあらすじというか設定を書いときます。

①~③読んでなくても下記押さえといていただければ。

・逃げ若129話の家長の最後の幻想を下敷きにした現代学園パロディです。

・各キャラクターの設定は下記になります。

 古山(足利)直義:元尊氏の会社の副社長。現関東庇番高校公民科教師で軽音部の顧問。③で結婚した。兄上大好きだけど自分が兄の足かせになると悟り別の道を選んだ。

 足利尊氏:元はカリスマ的社長だったが、弟が別の道を選んだことでやる気をなくしたしちょっと病んだ。弟にとても会いたい。ずっと探していた弟の居場所が③でわかったので大喜び。今から迎えに行く。

 高師直:尊氏を支え栄えさせることを至上の喜びとする人。現副社長。直義を追い出したものの、尊氏の現状があまりにもアレなので③で連れ戻そうと動く。

 高師泰:師直の言い分はわかるけど押しつけがましさにうんざりもしてる人。直義と仲良し。③で尊氏と師直の動きを直義にチクった。

 庇番メンバー:基本的に原作に出てきたメンバーは原作の通り軽音部。③の時点で渋川、岩松、石塔、今川、上杉が3年、孫二郎が1年。みんな仲良しだし顧問大好き。

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師泰の主―尊氏―と兄―師直―が、長年の尋ね人である主の弟―直義―の居場所を鎌倉に発見し、京都にある自社に無理やり攫ってくる計画を立てたとき、師泰は正直なところ二人にドン引きした。めちゃくちゃ犯罪である。そしてその計画の遂行に当然のように師泰を組み込んだことに憤りを覚えた。兄者たちからすりゃ弟は都合のいい道具で人権なんかねえってのか。師泰はもともと直義とは弟同士気の合うところもあり、詮索しないことを暗黙の了解として唯一連絡手段があるため、兄へのささやかな反抗として今から鎌倉へ向かうことを伝えた。うまく逃げおおせて鉄面皮の兄の顔に焦りや困惑が浮かべばいいと思った。

結果、真夜中過ぎにコンシェルジュもいなければオートロックもないような慎ましやかなマンションに到着した時、部屋に人の気配が全くないことにほっとしていた。ちょっと師泰の想定と違ったことは、師直から射殺さんばかりの目線を向けられた(当然情報漏洩元がバレた)ことと、揉める二人を尻目に、尊氏が何かに導かれるようにパイプスペースを確かめた際、彼の置手紙があったことだ。

「近くのジョーンズでお待ちしております」

そこには全国チェーンのファミレスが記載してあった。人目のある場所で会いたいということらしいが、逃げに徹していないことに師泰は軽く失望した。――折角逃げろと言ってやったのに。身を隠す能力は結構高いのだから、おとなしく嫁さんと逃避行の旅に出ればよかったのだ。もともとお坊ちゃんだった直義がこんな安マンションで満足できるのだから、嫁さんと二人なら全国津々浦々で安住の地探しも十分幸せだったろうに、ふいにしやがって。


3人が指定のファミレスに到着すると、深夜にしてはいやに人の多い中、置手紙の通り、直義が4人掛けのテーブルで待ち構えていた。5年ぶりに見る彼は、部下をコントロールしきれずに心労でやつれ果てていたあの頃とは打って変わり、心身ともに健康を取り戻しているように見える。片割れを失ったことでどこか憔悴した尊氏とは対照的だ。師泰はこっちの苦労も知らずに幸せそうにしやがって、と安心半分憤り半分くらいの心持だった。師直に至っては多分憤り100%であろう苦虫をかみつぶした表情をしているが、そんなものたちには構わず尊氏は駆け出した。

「直義!!」

「兄上」

尊氏の声を聴き、直義も立ち上がって応える。ここ数年、基本ずっとぼんやりとした表情しか浮かべてなかった尊氏が、ぎゅうぎゅうとその弟を抱きしめ滂沱の涙を流した。弟の存在を確認するように体をぴったりとくっつけ、頬ずりをしている。直義もそれを受け困ったような笑顔を浮かべて泣き付く兄の背に手をまわした。その手の動きに、尊氏からはち切れんばかりの笑みがこぼれる。そんな仲睦まじい兄弟の様子をみて、(世間的には人を殺しそうな顔に見えるかもしれないが)師直も師泰も相好を崩した。とにかく5年以上ぶりにこの4人の笑顔が揃ったのである。心なしか、ほかの客からも温かい眼差しが向けられているように見えた。

「元気そうで安心したぞ直義。どれだけ会いたかったか言葉では表現できない」

「……私もです兄上。…少し痩せられましたか?」

「痩せたかもしれない。なにせお前がいないと飯の味もよくわからなくて、箸が進まなくてな」

「……それは、申し訳……」

「もう二度と離さない」

「……困ります」

「何だつれないな」

「その……呼吸の問題が…………」

背中をタップされ、落ち込んだ大型犬のような表情で名残惜し気に尊氏が直義を離した。直義は口では離すように言ったものの、兄を見ながらどこか切なげな表情を浮かべている。その表情を見て、師泰は直義がやはり決別を決意していると感じた。――だからやっぱ逃げときゃよかったんだよ。根っこのところじゃ兄貴に逆らえない癖に、お互い……――師泰が呆れた表情を浮かべていると、尊氏が涙ながらに弟の両手を握り、「一緒に京都へ帰ろう」と言った。直義は「いいえ」と師泰の予想通りの答えを返した。尊氏の笑顔が凍り付いた。

「もう兄上と一緒にはいられません」

「なぜだ」

「私が兄上の傍にいると兄上の妨げになるからです」

その言葉を聞き、師泰は尊氏から発せられる氷点下のごとき冷気に背筋を震わせる。師直もこの後どうすべきか察知した。もう尊氏はこれ以上の会話を必要としない。握った手も放した。

「……師直、師泰」

「全く頑固な御仁だ」

「あーあー、結局こうなるのかよ」

師泰が強引に直義の腕をつかみ、師直が比較すると小柄な直義を目立たせないようにうまく体で隠しそのまま連れて行こうとした。が、しかし、意図せぬ方向から直義の体が引かれ、そのまま師泰の手から離れた。

「おーっと申し訳ないこちらは通行止めでござるwww」

「あとうちのアイドルお触り厳禁なんでェ。すいませんねどうも」

隣の席に座っていた二人の男のうち、目つきの悪い中年の男が師泰らの道をふさぎ、若くチャラついた男が直義を引き寄せ背中に庇った。尊氏は表情を見せずに冷たい声で問いかける。

「何だ貴様らは」

恐ろしいまでの圧をかける尊氏に二人の男はややたじろいだが、それでもなお引きはしなかった。直義は二人に「ありがとう」と言った後、前に出て尊氏を真っ直ぐに見つめた。

「師直と師泰とこちらに来られると知った時、こういうことになるかもと思っていましたから。彼らともう何人か、荒事になったら手を貸してくれるよう頼んでいます」

道理で、この時間帯にしては客が多いわけだ。尊氏たちは3人で来ている。店内の人間がすべて直義の手の者かはわからないが、そうであれば15人ほどいる。そうでなくとも、複数人で殴る蹴るの騒ぎになれば他の客や店が警察を呼ぶかもしれない。少しばかり尊氏たちの分が悪い。直義が尊氏の手を取り、言葉を続ける。

「兄上。どうかこの直義と話し合いをしていただけませんか」



* * *



止むを得ず、3人は直義の居たテーブルに着いた。しばらく寒々しい雰囲気だったが、直義が「ひとまず何か頼みましょう。兄上は何を頼まれますか?このドリアなんか結構具材が豊富でおいしいですし、栄養面でも申し分ないんですけど、兄上はうどんがお好きだから……」などと言えばコロッと転がるのが尊氏だ。「うどんが好きだが、直義が薦めるならこのドリアにしてみようか~」などとニコニコしてしまっているし、師泰は緊張感なく「俺ジョーンズあんま来たことねえんだよな」などと言いつつライス大盛りとハンバーグなぞ頼んでいる。子供か、と内心毒づきつつ師直が何も頼まないでいると、「師直は何も頼まないのか」と直義に声をかけられた。師直が呑気な言葉に若干苛立ちを覚えつつ「業務中ですので」と返すと、「何も頼まないと店に迷惑だろう」と直義が眉間にしわを寄せた。師直は「そんなことをしに来たのではない」と思ったが、尊氏が「直義がこう言っているのになにか文句でもあるのか」といい、師泰が「俺ら晩飯食ってねーじゃん、変なとこ突っ張んなくてもいいだろ兄者」と続くので、不承不承目についたパスタを注文した。なぜこのテーブルで俺がアウェーになってるのだ、と師直はやや憤慨したが、そういえば直義が絡むと昔からこうだった気もする。全くの不本意だったが絶対に自分で作った方がうまいと思うパスタを胃袋に押し込んだ。


食後ののんびりした空気の中、真っ先に師直が口を開いた。

「それで、話し合いとは?戻る気がないのなら数にものを言わせてさっさと去ればいいでしょう。なるべく良い条件で社に戻るためのおためごかしとか?……我々も直義様にはこちらに戻られることを望んでおります。社に混乱を起こすような立場にはお戻しできませんが」

師直は尊氏の現状を憂慮し、直義の身柄を押さえておきたいのは確かであったが、権力を渡す気はなかった。尊氏に任せておけば必ずこういう。「また前のように副社長として永劫我を支えてくれ」と。そうならないために師直が手綱を握る必要がある。どんなに正面にいる主から睨まれようとだ。そんな師直を直義が鼻で笑った。

「本当にそんな気はない。私はもう部外者だ。お前がどういう想定で居るかは知らんが、戻る気もなければお前の立場など狙ってもいない」

直義は尊氏に対しては絶対に浮かべないであろう酷薄な笑みを師直に向けた。こんなに好戦的な態度の直義を見るのは付き合いの長い師直にとっても初めてのことで、やや面食らった表情をしたが、すぐに鉄面皮に戻り、この舐めた態度の若造をどうへこませてやるか検討を始めた。だが、直義も積もり積もったものがあってか、師直の怒りなど涼しい顔でかわしそのまま続けた。

「だがこのようにそちらの都合で出ていけだの戻ってこいだの言われても迷惑だからな。ここらで追いかけっこは終わりにして落としどころを決めたい」

涼しい顔をしている直義とは対照的に尊氏は不満顔だ。師直が直義のことについて大きな顔をして話を進めることも直義がきっぱりと戻らないといったことも尊氏は気に入らない。しかし、それでも穏やかな声色で弟に話しかけた。

「直義……本気で我が下に戻らないなどというつもりか?」

「ええ。お互いにとって一番良い関係を模索しましょう」

「我と直義にとって一番いい関係など永劫傍にいることしかないだろう」

「……それは、どうでしょう」

直義はタブレットを起動し、尊氏たちへ向けた。そこには、尊氏たちの会社における過去10年の業績を整理した資料があった。

「結局、私を連れ戻したいのは、会社の利益のためでしょう。売上は堅調に伸ばし続けているのに対し、利益率については2016年下期に前期比78%に落ち込んで以来、少しずつ改善はみられるもののそれ以前の水準には達していませんからね」

2016年度は直義が会社を去り、師直が副社長となった年度だ。かつ、利益率の落ち込みは師直にとって目下の課題であった。師直は耐えがたい屈辱を感じ、立ち上がって斜向かいに座る直義を睨みつける。

「当て擦りですか直義様。俺があなたと比べて力不足と」

「……そう結論を急ぐな師直。お前と私が入れ替わったわけではなく、私や部下が抜けて単純に人手が減ったのだから、手腕とは関係なく多少の落ち込みは当然だろう。私とお前の立場が逆ならもっと落ちていたかもしれない」

「……」

ひとまず席にかけなおす。議論するうえで熱くなりすぎるのは不利だ。多少癇に障ることを言われたくらいでいきり立ってはいられない。

「売上が伸びているのに利益率が上がっていないというのは単純に考えて経費の比重が増えているということだが……」

問題は直義の物言いは基本的に師直の癇に障るという点だろうか。当たり前のことを取りすました顔で言いやがって。

「そんなことは貴方様にご教授されるまでもなくわかっている。誰かが抜けたおかげで人件費がかさんでしょうがないのでね」

追い出しといてよく言うよな、と師直にしか聞こえない声で言う弟に渾身の眼光を向けて黙らせる。――どの立場でものを言ってるつもりだこの愚弟は。そんな言葉を万が一にでも尊氏様に聞かれたら殺されるだけで済まんのがわからんか。

師直と直義は対立する立場ながら、ある種の信頼関係がある。直義の性格からして「師直に追い出された」などと兄に泣きつくことは断じてないが、共犯者であるはずの師泰に足元をすくわれるのは困る。逆らうようならば、と改めて隣に座る弟に圧をかけていると、それを意に介さず直義が続ける。

「それだけじゃないだろう。最近ネットやテレビで随分商品CMを見かける。随分広告に力を入れているようだし、広告された商品はそれなりの売上を上げてはいるようだが、かつてのような爆発力のある商品はない。結果、広告費用の比重も増えているとみている。その原因は……」

「あっ直義様もネット動画とか見んのか。何見てるんで?」

「えっ。ゴールデンレトリバーが延々駆け回る動画とか」

「あー昔から大型犬お好きですもんな」

「下らん茶々を入れるな師泰」

「我が延々駆け回ってやるのに……」

「尊氏様のそういうのに我々は困っておるのです」

まだ何か言い募ろうとする師泰の脇腹に師直が肘を入れる。これでは全く話が進みやしない。直義もくだらない質問など無視すればいいのに律儀に答えとる場合か、お前のそういうところが……いや、今回は我が弟の不出来だ。責めはすまい。こちらが責任をもってまとめよう。

「それで、直義様。あなたの言うことは全く正しいし、我々も懸念点として理解しているところです。最近我が社が大ヒットに恵まれていないのはそうですね。睨んでおられる通り尊氏様の不調です。あなたがおられないゆえ、です」

「そうだ」

会社の話になってから今まで(犬の代わりに駆け回るという発言はさておき)口を閉ざしていた尊氏が口をはさんだ。

「お前の話はお前の必要性を主張しているように思える。それは我らの要求と変わらないではないか」

「……では伺いますが兄上。私をお戻しになるとして、どのような立場に戻すおつもりなのです」

「当然副社長だろう。師直には秘書に戻ってもらう」

「「なりません」」

直義と師直が声をそろえて尊氏を窘める。師直は意表を突かれた顔で直義を見たが、構わず直義が続けた。

「師直を慕っている社員たちをなんとします。私が師直を差し置いて副社長などに復帰すれば、『結局実力ではなく血縁がものをいう会社か』と大勢の社員が会社を見放すでしょう。2016年下期の落ち込みの比じゃなくなります」

師直はやはりこの男は馬鹿ではない、と思う。尊氏の傍に戻すのは危険なように思うが、尊氏は直義がいないと力が発揮する気にならないのだからしょうがない。もともと師直が立てていたプランを伝える。

「……ですから、貴方には名誉職を準備します。尊氏様の機嫌を取って一日を過ごすだけでよろしい」

しかし、それも直義は首を横に振った。

「それも断る。私の部下であった者たちもまだ社に残っているようだから、名ばかりの名誉職に封じられた私を見ればいらぬ動揺を与え、最悪の場合再び会社の分裂の危機が起こるだろう。実権があろうがなかろうが、私が戻れば会社には悪影響しかない」

「しかし、それでは尊氏様のフォローはどうされるおつもりか」

その言葉を聞くと、直義はぎろりと鋭い眼光で師直を睨んだ。

「兄上のフォローをどうするつもりかだと?私は会社を辞めるときお前たち兄弟に『兄上を頼む』と言ったしお前はそれに『言われるまでもない』と答えたはずだ。自分の発言の責任くらい自分でとれ」

「……くっ……それは、……それは我らの力不足でした。尊氏様にとって『あなたがいない』ということがどれほどのことか理解できていなかった。あの言葉は取り消します」

心底悔し気に言葉を吐き出す師直を尻目に、尊氏が焦れた様に愛弟の肩を抱き寄せ、優し気に囁く。

「直義。もういいだろう?師直もこうして自分の非を認めてる。もしお前が戻ってきてガタガタいうようなものがあれば全員辞めさせるさ。なに、立ち上げたときは我ら4人だけだったではないか。人なんかすぐに補充できる。我とお前がいれば」

直義は抱き寄せられたまま、真っ直ぐな瞳で兄を見つめた。

「……そんな身内びいきをすれば、だれも兄上の会社を信用しなくなってしまうでしょう。失った信用を取り戻すのは0から築くよりよほど難しい。それよりも、私は、今の立場から兄上のお役に立てることもあると思うのです」

「……どういうことだ」

「私の現職が教師であることはもうご存知なのでしょう。幸い生徒からはそれなりに慕ってもらえてまして、よく進路の相談も受けるのです。最終的な志望先の一つに兄上の会社を挙げる者がいました。私の教え子の中でもとりわけ優秀な生徒です」

3年前東京に支社を作られましたものね、結構目をつけてる生徒が多いのですよ……と、他人事のように言っている男を探しやすくするために作った支社とは思ってもいないだろうな。師直は内心苛立ちを覚えたが、しかしようやく直義が言いたいことが見えてきた。

「私は彼に兄上の会社の長所も短所も、向き不向きも、求められる能力も……何でも教えてやれる。そうして教育した生徒がもし兄上の会社に入って成果を上げることができたら……」

指をきゅうと握りこみ、絞り出すような声で直義は続けた。

「何もかもしていただいてばかりだった私がようやく兄上のお役に立てるかもしれない」

ふと師泰を見るとなんだか感動して目に涙を浮かべているように見える。単純な奴め、と師直はあきれたが、しかし一方で、こんな手管を覚えてきたか、という感心も覚えた。師直の知る直義という男は、綺麗ぶった正論とデータで話をする男だった。説得に当たって整然とメリットデメリットを並べるような男で、こういう感情への訴えかけを得意とするタイプではなかったのに。

「兄上はいつか私を月と言ってくださいましたね。太陽である兄上の手の届かないところを照らすようにと。…であれば、同じ天に昇らない方が良いと思うのです。お互いにとって、きっと」

――これが最善かもしれない、と師直も思う。直義はやはり今でも人を誑し込む天才だ。実直な性格で簡単に人の信頼を勝ち取り、今、感情をもって扇動する手管も身に着けている。名ばかりの名誉職につけても、何ならどこかの一室に監禁したとしても、いずれ彼を慕うものが現れ、尊氏を脅かすかもしれない。それよりもこうして、「直義が尊氏を慕ってる」ことを尊氏に実感させつつ、「直義に部外者で居てもらう」ことが一番の解決策では。

「……尊氏様。直義様の自由をお許しになられては。今まで直義様の捜索に月の半分は使われていたはず。本社で半月、東京支社で半月業務をするようになされば、どちらに所属する社員も士気が上がるし、直義様にもお会いしやすいかと」

「そうですぜ。それが会社のためにもご兄弟のためにもいいんじゃねえですかい」

今日初めてようやく師直・師泰の兄弟の意見も一致し、さてこれで解決、と思ったその時。

「そんなものはお前たちの勝手な言い分ではないか!!」

テーブルを強くたたく音と共に、尊氏が声を荒らげた。店内は一瞬水を打ったかのように静まり返る。直義も師直も師泰もこれにはただ目を丸くし動きを止めた。3人とも怒りを買ったことがないわけではない。溺愛されている直義でさえも、普段穏やかな頼れる兄から底冷えするような怒気や圧を受けたことはあるし、師直・師泰に至っては直義を追い出した後割と頻繁に殺意すら感じるときがある。それでも、それらはあくまで静かなものであり、尊氏がこうして感情的に怒りを爆発させることは3人とも初めて見る光景であった。

「会社のためだと!?誰が望んだ!!?会社のためなら弟がいなくなってもよいと誰がいつ言ったのだ!!答えてみろ師直!」

「……いえ。しかし、尊氏様はもっと高く羽搏かれるべきお方。兄弟の情がその妨げになるのであれば、それは……」

「なぜ我の飛ぶ先をお前が勝手に決める!実に不愉快だ!!師泰!!お前も同じ考えか!」

「い、いや、で、でもほら、直義様にも自分の人生に対する決定権ってもんがあるじゃないですか」

「直義は我が片割れだぞ!直義の居ない人生など設計しているものか!!直義にこそ我の人生を勝手に決定する権利があるのか!?直義!!どうだ!!」

「いっいえ。ないです。し、しかし兄上、会社には社員をはじめ大勢の人生がかかわっています。私一人のために大勢の人生を左右する権利もありません」

まるで駄々っ子のようにわめいていた尊氏が動きをぴたりと止めた。師直は「やっぱり直義は馬鹿なのでは」と思ったが、そんなことは露知らない直義が心配げに尊氏の表情を伺うと、目にもとまらぬ速さで尊氏の腕の中に吸い込まれた。

「……直義とずっといるための遊び場だったのに。こんな煩わしいことになるのであれば作るのではなかった」

「そうおっしゃらないでください。お傍にはおれませんが、直義はこれからも兄上のお役に立てるよう尽力いたします」

「役になんか立たなくたっていい。お前が傍にいてくれれば、それだけで尊い。傍にいてくれなければ生きている甲斐がない」

「………」

「それでもお前が我とともに生きる気がないというのなら」

傍目にも尊氏の腕に明確に力が籠ったのが見て取れた。ミシミシと骨のきしむ音と直義の噛み殺しきれなかった悲鳴がテーブルの向かいに座る師直にも聞こえてくる。急いで引きはがしにかかるが、師直と師泰だけでは引きはがせないほどの剛力だった。

「が、あ」

「二人で死のう、直義」

あわや、と思ったその時、さらなる力が加わり、引きはがしに成功した。

「正気かこの兄さん!!いけませんて!!」

「ファミレスで心中は流石に草枯れる」



* * *



一色頼行は関東庇番高校の数学科の教師だ。あまり教育に情熱を燃やすタイプではないが、生徒たちに加え、講師陣もなかなかに個性派揃いの本校は刺激的で、楽しい教師生活を送っている。とりわけ、公民科の古山直義とは年も近く話も合うため、プライベート含めよくつるむ仲だ。そんな直義から退勤前につかまって「頼みたいことがある」と真剣な顔で言われたときは、「奥さんと喧嘩でもしたか~~?」と微笑ましい気持ちで安請け合いをしたものだが、「顔はマスクで隠して絶対バレないようにしてくれ」と言われたときに断ろうか悩み、「ケガをする可能性も高いから無理なら断ってくれていい」と言われて心配になってやはり引き受けた。声を潜めてはいるものの、隣の席にいるとやはり十分話は聞こえてくる。思いもよらない一方で納得感のある彼の過去(多分元会社役員で相当なお坊ちゃん育ち)を知ってしまったり、同じく同僚の吉良満義と生傷を作りながら心中を阻止したりした今、引き受けたことに若干の後悔も覚えた。しかし、生傷で済んだ直義を見てやはり来て良かったとも思った。


「そんで話を総合するとお兄さんはえっと……直義君と一緒にいたいだけなんですよね」

「……そうだ」

「直義君はお兄さんの邪魔になりたくないし役に立ちたいと」

「……そうだな」

「そこの顔の怖い兄さん方はこのお兄さんと会社が大事」

「……」

「正直俺ぁ丸く収まればなんだっていいんだがよ」


一色は何とかこの友人周りのゴタゴタを解決するすべがないか考えてみる。多分こういうのは部外者の方がニュートラルに考えられる。お兄さんがガマンすりゃ一番話が早そうだけどそれも難しそうだ。別に全員の願いが決定的に矛盾してるわけでもないんだし……。一色が悩みながら友人兄弟を見ると、兄の方も随分落ち着いたようだった。先ほどまでとは一転、しょぼくれて背を曲げてしまっている。

「すまなかった。ついカッとなってしまって。痛かったか直義」

「いいえ。兄上にかけてしまった心労を思えば、なんということはありません」

「ととと尊すぎる。いかん、無理だ。もう離せん」

再び兄が弟をヒシと抱きしめ、弟も文句も言わずされるがままになっている。正面の強面二人はこのやり取りに何の疑問も抱いてないらしい。一色は若干この光景にひきつつ、それでも「この兄弟ほんと仲いいんだろうな」とは思った。

「いっそ会社をたたもう。会社のことがなくなったら直義は我の傍にいてくれるか」

「いえ、兄上、ですから……」

「また有象無象の話か」

「師直たちも困ってしまいますよ」

「……ううむ。だが師直らのせいでお前は出て行ったのだろう」

一瞬強面二人に緊張が走ったように見えたが、直義は柔らかく笑って否定した。

「いいえ。むしろ、兄上の枷となってしまった私に代わってよく兄上を支えてくれたと感謝しています。兄上も二人に感謝しているからこそ、あまり強く出られないのではないですか?」

「……直義様」

さっき散々喧嘩して名ばかりの名誉職に押し込もうとしてきた相手に対してよく感謝の言葉なんか述べられるな、と一色は思った。でも、この強面と直義の間にも、多分付き合いとか信頼関係があって、ただ嫌いあう仲ってわけでもないのだろう。いや待てよ。

「あのォ~~ちょっと発言いいですかね」

「部外者は口出し無用」

眼光鋭く睨みつけてくる強面(おそらく師直と呼ばれてる方)に威圧され、一瞬言葉を引っ込めようと思ったし、隣にいる吉良は目線で「やめとけ」と促してくるが、もう乗り掛かった舟というか勢いというかいったれ、という気持ちで言った。

「例の名誉職、そっちの兄さんにやったらどうです。さっきの話だと今ほとんど仕事してないんでしょ」

空気が固まった。一色は怯んだが続けた。

「たま~に重要なとこだけ顔出してさ、あとは直義君と一緒にいたらいいんじゃ……ダメですか」


「ふざけるな!!」「それいい~~」


ほぼ同時の発声だった。



* * *



一色の発案を受け、師直はこれ以上にない苦い顔をしたが、尊氏はこれ以上にない上機嫌な顔だ。鼻歌交じりに直義の頬を撫でている。当の直義は虚無の表情をしているが。

「え~。我賛成~~。我が鎌倉で先生やればいいのか~~。そっか~~。何か問題があるのか師直」

「かっ会社はどうなさいます」

尊氏は一瞬凄んでみせた後、またヘラリとにやけた顔に戻った。余程一色の提案がお気に召したらしい。師直の懇願染みた反論に対してもニコニコと返す。

「お前に任す。今もよくやってくれてるではないか。太陽が師直で月が師泰。それでいい」

「え~……俺兄者とそういうの嫌だわ」

「俺とて御免だ!!……御冗談はおよしください。尊氏様あっての我が社です」

「だから名誉職として籍だけあれば十分だろう。たま~に顔出すから」

「直義様も何とか言ってください」

師直が嘆願の先を直義に移すと、直義は一瞬驚いたような顔をした後、数秒の思案を挟み、真剣な表情で尊氏を諭した。

「……はっきり申し上げますが、兄上に教職は向いておられないかと」

「えっ?わ、我先生ダメか?」

「兄上は何でも感覚で的確にこなされるから、できない者の立場にたっての指導などできないではありませんか。あと、教師というか公務員は原則副業禁止です」

「じゃっじゃあ我用務員さんやる!!」

「ああ言った日々コツコツやる仕事を兄上が続けられるとはとても思えません。100%お飽きになる」

「んんんんん~~」

これには尊氏もへこんだ様子を見せた。師直もそうだが、直義もやはり尊氏に会社を放り投げてほしくはないらしい。それはそうだろう。直義にとっても思い入れのある会社だ。尊氏のためだからこそ手放した会社を尊氏があっさり手放すのは納得できまい。このまま説得を進めて……と師直が考えていると、今度は師泰が軽口を挟んだ。

「じゃあ尊氏様が直義様の学校買い取ったらいいんじゃねえんですかい。あそこ私立でしょう。理事長様なら公務員じゃなくてもいいし」

「「師泰!!!!」」「名案すぎる。天才の集まりかここは」

弟を抱きしめながらまるで恋人に囁くかのような甘い声で「またずっと一緒にいられるな直義ぃ~」と微笑む兄に直義はただ力なく笑った。


二人だけの幸せな世界にどっぷり浸かっている尊氏(と、直義)の兄弟とは対照的に、師直は師泰の胸倉をつかんで弟を責めた。

「何を考えている師泰!尊氏様がいなくなれば一体どれだけ社に損失が……」

しかし、師泰は意外にも兄の激昂をものともせずのんびりと宥めた。

「まあまあいいじゃん兄者。俺思うんだけどよ、やっぱあのお二人ほんとに一心同体なんだと思うわ」

「何を馬鹿な……」

「俺なりにずっと考えてたのよ。勘のいい尊氏様がなんで何年も直義様を見つけられねえのかって。なんか今日結論出たわ。今まで直義様が望んでなかったからだよ」

「……」

「多分尊氏様と直義様がお二人で同じことを願ってるとき、尊氏様はあの神懸かり的な勘を発揮できるんじゃねえかな。逆にどっちかの意に沿わないとだめなんだ。多分今回尊氏様が直義様を見つけたのも、直義様が結婚のタイミングで会いたいって思っちゃったんじゃねえか」

「今日結論出た、とは」

「だってあんな当然のようにパイプスペースの紙っ切れ見つかんねーだろフツー。直義様が会いたいって思ったら当然のように会えるんだろ」

「……」

確かに。師直にも心当たりがある。今はすっかりそういう姿は見なくなったが、尊氏には直義がいなくなってからも仕事の勘だけはさえていた時期があった。あの時は、尊氏は直義の居場所として会社を守るため、直義はいつでも尊氏の成功を祈っていただろうから、二人とも仕事がうまくいくように願いが一致していたのではないか。

「だからよ、兄者。直義様のトコにいてもらった方が俺らにとってもいいって。この5年、尊氏様がどんだけやる気なかったか思い出せよ。直義様が一緒にいたら定期的に尊氏様のケツ叩いてくれるぜ、多分」

師泰のいうことも正しいかもしれない。今の尊氏はやる気を失ってしまっているが、今日の様子なら直義はおそらく会社のことをまだ気にしている。あんな企業データをタブレットに入れてるくらいだ。折を見て尊氏のやる気を煽ってくれれば、或いは。

「……一理あるかもしれん」

「だろ?まあ普段の会社経営は兄者なら大丈夫だろ」

「お前も手伝うのだろうな」

「直義様みてえな献身は求めんなよ」

師直はふと表情を緩めた。未だ彼の最愛の弟を抱きしめて放さない主に声をかける。

「尊氏様。今日は引き揚げましょう。学校の買収の準備をしなくては。どうやら現理事長は無気力な男の様子。金を積めば尊氏様の思い通りになるでしょう」

「わかってくれるか師直!」

ぱあ、と尊氏が表情を明るくする。直義もわずかに嬉しそうに目を細めた。本当のところを言えば、師直だってこの二人が喜ぶことは嫌ではないのだ。尊氏の躍進と比べれば優先順位が下がるだけで。

「でも今日は直義といるから二人で帰っていい。心配しなくても、明日には帰る」

「やれやれ。仕方のないお方だ。師泰。帰るぞ」

「帰りは運転してくれよ兄者……」

「甘ったれるな。これからもっと忙しくなるのだからな」




* * *




斯波孫二郎は校舎の屋上から雪のちらつく町を見下ろしていた。今日は久しぶりに仲の良かった先輩方が孫二郎に顔を見せに来てくれた。とても楽しかったが――それでも孫二郎を緩やかな絶望から救ってくれるものではなかった。孫二郎が関東庇番高校に入学してもう2年近くになる。1年生の頃は本当に楽しかった。もともと音楽やっていた経験を活かして、何なら自分より巧い人間なんかいないだろうと思って軽音部に入ったら、先輩どころか顧問の先生にプライドをズタズタにされて、それでも将来性があると褒めてもらえて嬉しくて。ギターの腕をメキメキ伸ばして、先輩たちと一緒にちょっと大きいハコで演奏したら評判は上々だったし、動画サイトに自作の曲をアップロードしたら大バズリで、もうずっと音楽に携わって生きていこうとその時は本気でそう思っていた。

半年前。ネットで見つけた「AIに作曲させてみた」という動画の曲が構想中の新曲と瓜二つだった時、その思いはひび割れて壊れてしまった。それまでは「AIは人間の足跡をなぞってるだけだ」と思ってたけど、自分だって、先人の複数の足跡をなぞってちょっといじくって出力しているだけでは?AIと人間の学習能力は違う。自分が1曲から学習する間にAIは世界中から何百曲も学習できるだろう。……そう思ったら、すっかり気力がなえてしまった。

直義先生は「優劣なんて関係なく表現したいものがあるから音楽をやっているのではないのか?」なんて言ってきたけど、たぶん自分がやらなくったって他の誰かが表現するだろうと思うとどうでもよくなってしまった。まして、機械なんかと自分の表現したいことが一致してしまったらもう立ち直れない。

「石塔先輩はいいよなあ。鶴子ちゃんは唯一無二だもの。いや、そういう脳内彼女のこともいずれAIの方がうまく出力したりして」

世界で一番尊敬してる人たちの言葉も、今の孫二郎にはうまく響かなかった。きっと自分に何か人生を捧げたくなるような強い使命があったら発奮できたかもしれない。例えば自分が音楽を作り続けることで直義先生や先輩たちの命を救えるとか―バカバカしい例えだが、それくらいのことがなければもう、音楽は……人生すら、ただズルズルと手慰み程度に続けることになるだろうな。そんな愚にもつかないことを考えていると、ガチャリと後ろのドアが開く音がした。

「屋上は立入禁止だぞ」

「直義せんせ――……なんだ。一色先生か」

「よっ。似てた?」

あいにく今あの人忙しいからね。そう言いながら一色先生は孫二郎の隣に寄り、煙草をくわえた。

「わぁっ不良教師。こんなところでタバコ吸っちゃダメなんですよ。あっち行ってください。しっしっ」

「何だよ、つれないね。孫君の大好きな足利君に頼まれてきたのに」

「直義先生に?」

「そ。多分屋上で黄昏てるだろうから風邪ひかないよう声かけてくれって」

どうにも直義先生には自分の行動を見透かされているようで面映ゆい。きまり悪く孫二郎が口を閉ざしていると、一色先生は急に話を変えた。

「でも職員室から出て行かせてもらって助かったよ。なんせ今日もあの理事長様が来てっからね。もうちょっとここで時間潰そっと」

あの理事長か。孫二郎は思い浮かべて苦笑いする。

直義先生は1年前に名字を「足利」に変えた。変えた、というよりは多分戻したのだと思う。先輩たちは推測が当たった!!って妙にはしゃいでいたっけ。渋川先輩などは「姉が『短期間で2回苗字変える羽目になったから直義さんから平謝りされたんだけど、会えないと思ってたお義母さんやお義兄さんに会えて嬉しい』ってニコニコしてた」と楽しそうに内情を教えてくれた。その直後に理事長としてやってきた若き実業家―足利尊氏が渋川先輩のお姉さんが言うところの「義兄」であることは間違いない。学校に関心のなかった前任の北条理事長とは違い、しょっちゅう学校に顔を出してはよく直義先生と一緒に過ごしているようだ。孫二郎もたまに二人で居るところを見かけることがあるが、直義先生が普段の冷徹な表情を崩して無防備な笑みを浮かべているのを見たときは、なぜか痒いような苛立つようなおかしな気持ちになったものだ。

「俺あの人苦手なんだよー。なんか笑顔が怖いし。でも実はあの人がうちの理事長になったの俺のせいなんだよね」

「え??は???なんで???」

それから、一色先生はぺらぺらと話してくれた。1年前直義先生に頼まれてある話し合いの立会いをしたこと。そこで聞いたおおよその直義先生の生い立ちのこと。一色先生が放った一言で直義先生が理事長のもとに戻るんじゃなくて理事長が直義先生の居場所に来ることになったこと。

「ヤッバ」

「だろ?」

「それ勝手に僕に教えていいんですか」

「足利君には内緒にしといて。怒らせると怖いから」

おお寒、やっぱ別のトコで時間つぶそ。そんなことを言いながら、一色先生は吸っていた煙草を携帯灰皿に収めた後、屋上の出口に向かい、ふと足を止めた。

「あっそうそう。渋川君から聞いたけど孫君なんか将来達観してんだってね」

「……渋川先輩も意外と口が軽いなあ。お説教ですか?」

「まあお説教って言うか。真面目な同僚が『あいつにはいろいろ可能性があるから』って目にクマ作りながら音楽関係やら教育関係やら起業の資料やら取り寄せて真剣に研究してるの見たらその思いに真剣に応えてやってよって気になるじゃん」

「……」

「『お兄さんの会社薦めてみたら?』って言ったら『あいつがそれを望むなら全力でサポートするが、どうもあいつに会社員は向かない気がする』ってさ。あれっ孫君泣いてる?」

「……雪が目に入ったんです」

「そっか。孫君も早めにあったかい部屋に戻んなね」

一色先生は笑ってそういうと今度こそ屋上を後にした。


孫二郎には多分もっと向いている時代があったかもしれない。無気力な今よりもきっと使命に燃えて生きられる時代があったかも。それはきっと今よりずっと幸せだろう。でも。

「僕より真剣に僕の将来を考えてくれる人がいるんなら、僕ももうちょっと真剣に将来考えてみよっかな」

そんなことを思いながら、孫二郎は屋上を後にした。

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