Walk The Walk “Tails” Ⅲ
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見えざる帝国・銀架城
「……出発は、本日……深夜1時です」
現在時刻は深夜0時を過ぎたところだ。出発予定時刻まで、もう30分も残されていない。
何も言わないユーハバッハの隣で、傍に控えて共に報告を受けたハッシュヴァルトは、新緑の双眸を見開いていて固まった。
一瞬の硬直の後、我に返ると憤りがふつふつと湧いてくる。そのような重要なことを、どうしてすぐに伝えない。
「何故、私に通信を繋がなかった? お前達は何をしていたのだ……!?」
「そッ……、それは! 殿下からのご命令です! ハッシュヴァルト様に通信を繋ぐな、と……」
責任を問われた聖兵は、藁を掴むような様子で釈明を叫ぶ。
なるほど、いかにもカワキが言いそうなことだと、主従は揃って渋い顔になった。
大方、連絡が出発直前になったことを、あれやこれやと咎められるやもしれぬ、と悪知恵を回したのだろう。
これに関して聖兵を責めるのはあまりに酷である、とハッシュヴァルトは喉元まで出かかった言葉をグッと飲み込んだ。
ぶつけどころのない不満を飲んで感情を抑えたことで、不自然に抑揚が減った低い声が、淡々と次回以降の指示を下す。
「…………。カワキが何と言おうと、次回からはすぐに私に繋げ。良いな?」
「はっ!」
一呼吸置いて、ハッシュヴァルトは玉座に座す主、ユーハバッハを仰ぎ見た。
「いかがなさいますか、陛下」
残されたこの僅かな時間で、いかにしてカワキの無茶を止めるのか。
自分に妙案はないが、未来を見通す力を持つ主であれば、あるいは——そんな思いで、ハッシュヴァルトは黙したままユーハバッハの言葉を待つ。
しかし、ユーハバッハの答えはハッシュヴァルトの予想だにせぬものだった。
「……カワキの申請を——許可する」
驚愕に呼吸が止まる。何故——ハッシュヴァルトの思考を、疑念が塗り潰した。
あれだけ能力を制限した状態で死神共と戦えば、カワキとて無事では済まない——そこまで考えて、ふと、思った。
この方は、侵攻前に死神共の戦力を知る機会と秤にかければ、カワキの安否は些事であると、そう考えているのではないか。
一度でも頭をよぎってしまった考えは、そう簡単に消えてはくれない。
「危険です! いかに殿下と言えど、血装もなしに護廷十三隊と戦うなど……」
泡を食ったように危険性を訴える聖兵の声が、遠く彼方に聞こえるようだった。
暗く、恐ろしい想像が、心の奥底から手を伸ばす。思考が良くない方向に転がっていくのを自覚できても、思考を止めることができない。
聖兵の慌てふためいた叫びが、考えたくもない想像を、ハッシュヴァルトの脳裏に映し出す。
「命を落とされる可能性はもちろん、もし殿下が捕らえられ、こちらの情報を話してしまったら……」
死神共との戦いで、カワキが命を落とすかもしれない——かつての戦争の中、命を散らしたあの人のように。
あるいは、何事かを囁かれ、手の届かぬ場所へ消えてしまうかもしれない——戦争の終わり、二度と戻って来なかったあの人のように。
動揺で鈍るハッシュヴァルトの思考を、玉座の間を満たした、重く、押し潰すような霊圧が、一気に現実へと引き戻した。
焦りから聖兵の口をついて出た言葉が、ユーハバッハの逆鱗に触れたのだ。
「今、なんと申した?」
「は……っ……あ……」
怒りと侮蔑が浮かぶ冷たい赤が、失言を悟りざあっと青ざめていく聖兵を捉えた。
「……お前は、カワキが敗北する、と……父である私を裏切る、と……——そう言いたいのか?」
カワキは、赤子の頃からユーハバッハが目を掛け、その手元で滅却師としての教育を施した子供だ。
ユーハバッハは、あらゆる技術、知識、戦い方、その全てを惜しむことなくカワキへと注ぎ込んだ——それこそ、もう一人の自分を育て上げるように。
自身の最高傑作を愚弄されたことに気分を害したのだろう、とハッシュヴァルトはことの成り行きを静観する。
逃れられぬ終わりを前に、聖兵の顔色は青を通り越して白く色を失っていった。
「そっ……そんな、まさか……ッ! そのようなことは……殿下が陛下を裏切るなどあるはずがございません……!」
そうだ。カワキはこの帝国から、この方から、逃れることなどできない。
子供らしい遊びの一つも知らず、幼少期を鍛錬に費やし、ただ強くなることだけを追い求める——記憶の中の幼子の姿を思い出した。
自らの家族の死にすら感情を揺らすことはなく、任務を達成するためには時に己の命さえ投げ打つ、心を失った兵士。
ハッシュヴァルトの主は、現世から連れ帰った赤子を、そうなるように育て上げたのだから。
地を這うような声が、静寂で満たされた玉座に重く響き渡った。
「では、先程の発言は何だ? お前は私の決定に、偽りの言葉で異を唱えたのか?」
「……あ……」
凍てつく赤に見据えられ、恐怖のあまり放心した聖兵は、膝をつき口を開けたままの姿勢で固まった。
これから行われることを悟ったハッシュヴァルトは、何も言わずに長い金の睫毛に縁取られた新緑をそっと伏せる。
ゆっくりと持ち上げられた節くれだった指先が、蛇に睨まれた蛙を指差してピタリと止まった。
告げられたのは、たった一言。
「私は——嘘が嫌いだ」
夜半を過ぎた玉座の間には、ただ赤黒い血溜まりが残るだけだった。