Tyrann des Schatten

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現世・空座町
霊王護神大戦と呼ばれた戦争から6年。
この6年間、重霊地である空座町は度々災禍に見舞われながらも、おおむね平和な日常を保っていた。
そんな町の商店街に、昔から店を構える一軒の駄菓子屋がある。
浦原商店——長年、胡散臭い店主と筋骨隆々の店員、そして二人の子ども達が切り盛りしてきた駄菓子屋だ。
浦原商店には、数年前から新たな従業員が加わっていた。新たな従業員は女性で、何故か滅多に店先には出てこない。
一介の店員らしからぬ美貌と、浮世離れした佇まいから、面白おかしな噂をされたり、時に熱の込もった目を向けられることもあったが——
元より浦原商店はそこはかとない怪しさの漂う駄菓子屋だったので、結果的に彼女はよく店に馴染んでいた。
ここは、その新従業員が、浦原商店から繋がる「影」に形成した領域。
「失礼するっスよー、カワキサン」
西洋建築が立ち並ぶ町並みの中央部分に建てられた城。その一室に、軽いノックの音が響き、目深に帽子を被った甚平の男が部屋の扉を開く。
洋風の城に和装の男という状況は、強い違和感が拭えなかったが、それを気にする者はいない。
男は浦原商店の店主、浦原喜助。浦原はこの城——否、この「空間」の主に明るく声をかけた。
「今日は京楽総隊長と、瀞霊廷でいつもの飲み会……ではなく! 会談の日っスね。はい、これ。ウチからの手土産っス」
『そこに置いておいて』
老齢の女性に、絹のような黒髪を丁寧に梳かれながら、部屋の主が淡々と答える。
何かの発明品か、ただの菓子折りか——中身がわからない手土産が机に置かれた。
部屋の主、カワキは気怠げに視線を虚空に流してぼやく。
『会談、か。無意味な集まりだ。出される酒の趣味が良いから参加するけれど、私と話をしたところで何にもならないのに』
「カワキ様」
支度を整える手は止めず、カワキと共に部屋にいたもう一人の女性が、ピシャリとカワキを咎めた。
老いてなお、凛とした芯のある声が諫言を紡ぐ。
「貴女はわたくし達、滅却師の代表として会談に招かれているのです。品位を貶める発言は謹んで下さいまし」
老齢の女性の名は志津蓮トキネ。カワキの側仕えだ。
誰が相手であれ耳の痛い言葉を厭わないトキネに、カワキは小さく眉を寄せた。
物心つく前から馴染んだ側仕えであっても、髪を整えられるのは急所に触れられているようで、どうにも落ち着かない。
それもあり、カワキは機嫌が悪かった。溜息交じりの言葉が口をつく。
『陛下が後継者に指名したのは、石田くんだ。知っているだろう』
「そのような問題ではございません」
テキパキと手際良くカワキの支度をするトキネは職業婦人然とした口調で嗜めた。
「死神達はカワキ様を陛下の『後継者』であると認識している、そう申し上げているのです」
『事実誤認も甚だしい。私は今まで何度も訂正している。……毎回、京楽さんが先に潰れてしまうから、覚えられないのかな』
もしかして……という調子で、ボソリと呟かれたカワキの言葉に、トキネは自分の額を抑え、店主の浦原は軽く吹き出した。
どことなく穏やかな雰囲気の中、浦原は軽い調子でカワキに語りかける。
「ま、四十六室の手前、京楽総隊長だって何もしないわけにはいかないんスよ」
『私が付き合う義理はない。酒の切れ目が縁の切れ目だよ』
「そのような諺はございません。それより——」
ジロリ、とトキネが皺のある目で浦原を鋭く睨めつけた。
「一体いつまで淑女の身支度を眺めているつもりですか、浦原喜助。用が済んだなら出て行きなさい。無礼ですよ」
「おぉっと、アタシとしたことが! これは失礼」
浦原にはカワキがこの領域への出入りを許可している。第一、身支度など見られたところで何だと言うのか。
カワキは、特に気にすることはない、と思っていたが浦原は大袈裟な声をあげて、退出の言葉を告げた。
「それじゃ、アタシはこれで。京楽総隊長によろしく伝えといて下さい」
『ああ。わかった』
浦原が部屋を去った後、カワキは淡々とトキネに苦言を呈した。
『どうせ酒を飲み交わすだけで終わりだ。適当で良いよ』
「わたくしは、これから公の場に赴く主の身嗜み一つ整えられない無能な従者、などと烙印を押されたくはありません」
苦言に苦言が返される。
ふと、ガラス玉のような蒼が振り返り、トキネを覗き込んだ。
『……陛下はもういないのに?』
「それでも……生涯、貴女をお支えするのがトキネの役目でございます。わたくしの生き甲斐を奪わないで下さいませ」
『……好きにすればいい』
白い騎士服に、黒の外套。白い軍帽。
それが、カワキの慣れ親しんだいつもの装備だ。黙々と準備が整えられていく。
『京楽さんが酒の席を用意して私がその席に招かれた、それだけのことなのに』
小さな愚痴がこぼされた。
一見すれば無表情——しかし、慣れた者であればわかる程度に僅かに表情が歪む。
赤子の頃からカワキに仕えているのだ、それを読み取れぬトキネではない。
「…………。では、石田雨竜を名代として呼びますか?」
駄々を捏ねる子どもに言い聞かせるような、厳しくも優しい声色。
問いの形を取っているが、カワキが何と答えるか、トキネは既にわかっているようだった。
逡巡を浮かべた蒼が宙を彷徨う。
即断即決で動くカワキには珍しく、どこか躊躇いがちな動きだった。
何か言いかけて開いた口が閉じられる。
『……いや……』
答えに迷っていたわけではない。
この結論を出すに至った理由が、普段のカワキなら考慮しないであろう事情だったため、適切な言葉がわからなかったのだ。
ややあって、カワキはポツリと呟いた。
『今、石田くんは大事な時期だから……彼は呼ばない』
「ええ、そうでしょう」
よくできました、という調子でトキネは生真面目で厳しげな面持ちを緩め、カワキの言葉に深い頷きを返した。
良いことをした子どもを褒めるような、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「医者になるというのは立派な目標です。友人だと思われるなら、勝手な都合で面倒を押しつける真似はいけません」
『トキネ』
「わたくしが貴女にお仕えして一体何十年になるとお思いですか。そのくらい、このばあやはお見通しですよ」
『…………。もう出発する』
何となく落ち着かない気持ちになって、カワキは席を立った。
拗ねているような、照れているような、あるいは機嫌を損ねたような——どうとも取れる声色は、実年齢より幼く聞こえた。
スッと静かに動いたトキネは、浦原が机に置いていった手土産を主に差し出す。
そして——影の領域から尸魂界へと赴くカワキを、トキネは恭しく見送った。
「行ってらっしゃいませ、カワキ様」