Twinkle Twinkle Little Star III
見えざる帝国—現代
『…………さい。……きてください。……おきてください、へいか』
誰かが自分を呼んでいる。
しきりに自分を呼ぶ幼子の声と、小さく柔らかな手が膝に触れる感覚に導かれて、ユーハバッハの意識が輪郭を持った。
ゆるやかに瞼を持ち上げて、世界が焦点を結ぶ。
ユーハバッハの視界に自分と同じ真っ黒な髪と、こちらを覗き込む昼間の空の色をした目が映った。
「…………。カワキ?」
『へいか。おはようございます』
そこにいたのは、あどけない幼女。
胸に分厚い本を抱えて、子供らしからぬ冷淡な表情でユーハバッハを見上げる女児の名前は、志島カワキ——ユーハバッハのかわいい娘だ。
ここは玉座の間。ユーハバッハは椅子に腰掛けて、微睡みの淵で夢を見ていた。
穏やかな声色で用件を訊ねる。
「どうした、カワキ?」
小さな身体を抱き上げて、自分の膝の上に乗せた。膝に感じる子供らしいあたたかな温度に心が和らぐ。
用件を訊く途中で、ふと気が付いた。
そういえば、この部屋の近辺には見張りの聖兵がいるはずだが——
膝の上に座ったカワキに問いかける。
「カワキ、ここにはどうやって入った?」
『……? とびらからはいりました』
つぶらな瞳に怪訝そうな色を浮かべて、当たり前のことのように告げたカワキに、先刻の夢に出てきた友人を思い出した。
「そうか。カワキは霊圧を隠す技がとても上手だな。素晴らしい才能だぞ」
めったに表情を変えることが無いカワキの無愛想とも取れるところはエドガーの妻であった彼女によく似ている。
だが、ふとした振る舞いや特徴の中に、確かにエドガーの面影を感じた。
懐かしさに目を細めて頭を撫でてやるとカワキはされるがままに、グラグラと首を揺らす。
そして、たどたどしい口調で答えた。
『では、もっとたんれんします』
「ああ。そうすると良い。……それで、私に何か用事があったのではないのか?」
微笑ましさにまなじりを下げて、優しく問いかけたユーハバッハに、カワキは胸に抱えていた本を差し出した。
見ると、カワキが持ってきた本は滅却師が使用する呪法について、その効果や呪文が記載された教導書だ。
小さな子供が読む内容の本では無いが、カワキが好きそうな本だと思って、ユーハバッハは顔を綻ばせた。
「この本を渡したのは……キルゲか?」
『はい。キルゲにもらいました』
「お前の好みをよく理解している。キルゲを教育係につけたのは正解だったな」
先日、カワキの教育係に任命したキルゲは娘とうまくやっているらしい。
志島の一族は千年前から周囲との交流を軽視する節があり、孤立しがちだった。
カワキにもその傾向が見られたため心配していたがキルゲとは気が合うようだと、ユーハバッハは安堵にほっと息を吐く。
親の心子知らず、とはよく言ったもの。ユーハバッハの心配など知らず、カワキが本を開いて小さな指でページを指差した。
『へいか、ここにかいてあるわざをつかいたいです。おしえてください』
「今からか?」
『はい。なるべくはやくがいいです』
カワキは子供らしいことにはまるで興味を示さず強さばかりを追い求める子であるが、ユーハバッハは気にしなかった。
愛しい娘のおねだりだ。父として応えぬわけにはいくまい。
「ああ、良いとも。向上心があって良い事だ。お前が望むならいくらでも教えよう」
快諾すると、淡白な表情こそ変わらないものの、氷のようだったカワキの蒼い目に微かに光が差したような気がした。
『……! へいか、へいか。まえにキルゲがはなしていた「ぎんとう」のつかいかたも、しりたいです。それから、「ちりょうじゅつしき」と……』
舌足らずな口調で一生懸命にあれもこれもとねだるさまが愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。
こうも頼られては、父親冥利に尽きるというものだ。
「ははは、落ち着け。そう慌てずとも父は逃げぬぞ。銀筒と、治療術式だな。教材を用意させよう」
『はやく、たんれんにいきましょう』
カワキがピョンと膝から飛び降りた。
小さく柔らかい手が、ユーハバッハの節くれだった手を握りぐいぐいと引っ張って歩く。
「カワキ、こちらへ」
子供と大人では歩幅が異なる。己の手を引くカワキをユーハバッハが抱き上げた。
風邪を引かぬよう己の外套で包むように抱えると、もみじのような手がギュッと服を握った。
ふと、夢の内容を思い出す。
エドガーと過ごしたあの当時は、こんな日が来るとは思わなかったし、視ようともしなかった。
それがどうだ。今の自分がカワキにしていることは、あの夜のエドガーが、自分にしていたことと、よく似ている。
お前もこんな気持ちだったのか?
答えはわからない——わかる日は、もう来ない。
『へいか? ぐあいがわるいのですか?』
急に黙り込んだユーハバッハを訝しんだカワキが、コテンと首を傾げながらユーハバッハを見上げる。
「……いいや。少し、昔を思い出していただけだ。案ずるな」
『むかし? たんれんにかんけいすることですか?』
娘の声に、ありし日から現在まで意識を戻したユーハバッハは、カワキの問いかけを「まさか」と笑い飛ばした。
「聞かせる程の事でも無い話だ——とてもくだらない話だよ」
『そうですか』
鍛錬に関係が無いと知るや否や、カワキは興味無さげな相槌を返す。正直な子だ。
そういうところは彼女に似ていた。
ああ、本当に……この子はお前達によく似ているよ。カサネとエドの血を継ぐ末裔——私のかわいい娘。
「……お前にも友人を作ってやれると良いのだが」
『……? それは、つよくなるためにひつようなことですか?』
「それはカワキ次第だな。だが……共に星を見上げる友がいる、というのは悪くないことだぞ」
『そうですか』
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