分水嶺⑤

分水嶺⑤


ひとつ前



「あ、そうそう」


唐突に、カクからの異世界に関する質問をのらりくらりと躱していた子供が思い出したように声を上げた。


「仕事終わりにいきなり呼び出されたからさァ……ぼくのカバン、社長サンに預けっぱなしなんだわ」


……この状況でわざわざそんなことを口にする意味など、一つしかないだろう。

あのアイスバーグ社長のことだ。保護した子供が鞄を預けたまま行方を眩ませれば手がかりを求めてその中身を確認することは想像に難くない。


「……何が言いたい」


例えばその中に、この子供がこちらの世界に来て知り得た情報をまとめた記録なんてものがあったら。


「ぼくはさァ、」


付き合いの長さの差もある。すぐに確信に至るようなことは無いにしても、一度抱いた疑心というのはそう簡単に消えるものではない。潜入任務においては、ほんの僅かな匂わせであっても可能性が示唆されることそれ自体が致命的となる。


「君らの邪魔するつもりとかこれっぽっちも無いし、」


特に任務における最重要事項の糸口すら掴めていない今、それが最も避けるべき事態であることは火を見るより明らかだ。


「できれば美味しく一献交えるだけで済ませたいわけ。──分かる?」


見透かすような視線がレンズ越しにこちらを見やる。

掌中に隠した小瓶を傾ける手を止め、判断を仰ぐべくルッチに目線を向ける。

やがて苛立たしげな舌打ちと共に寄越された中断の合図を受け、グラスに混入する寸前だった即効性の睡眠薬は手元に開いた"ドア"を経由し隠し棚の奥へ出戻ることとなった。


「いやァ話が早くって助かるよ〜〜!」


へらりと相好を崩す様子に、今しがた殺されかけた緊迫感など一片たりとも見られない。


「まったく、どこまでも厄介なヤツじゃのう」

「どうやらここでの始末は諦めるしか無さそうだな」

「……フン」


もはや憤りを通り越して呆れきった声のカクに比べ、ルッチはすっかり不機嫌な顔をハットで隠すとそっぽを向いてしまう。肩の上の相棒がくるくると労わるように頬に頭を押し付けているのが目に入って、まるで保護者のように見えなくもない。


いろいろと思うところはあるものの、今夜は一先ずこれで手打ちということで収束しそうだ。

今後の動向次第ではまたどうなるか分かったものではないが、向こうも相互不干渉を望んでいるのであれば無理に事を荒立てる必要も無いだろう。──藪をつつくには、少々リスクが大きすぎる。


ふつりとどこか緩んだ空気が場を満たしたとき、徐に視線を彷徨わせた子供がカクの持つグラスを指して言葉を紡いだ。


「それ、アイスブレーカーでしょ? いいなァ」

「名前なんぞ知らんわい。というかお前さん、酒は飲めんのじゃなかったのか?」

「別に飲みたいってんじゃないよ。なんて言うか、さっすがマスター気が利いてるな〜〜って」

「何が言いたいんじゃ……」


氷が溶けて薄くなりつつあるサンセットカラーの名前を的確に言い当てられて思わず目を見張る。訳知り顔で頷きながら横目にこちらを見てくるその態度に、何度目かの年相応でないものを感じた気がして内心で軽く嘆息した。

まさか、半ば癖のようにそこに込めた意味合いまで読み取ったなんてことは無いだろうが……とそこまで思考を巡らせたところで、不意にルッチが席を立った。


「なんじゃルッチ、帰るのか?」

「カリファに連絡してくる」


考えるまでもなく、今夜のことについてだろう。

あまりにも荒唐無稽な内容にしかならないとは言え、秘書業務の都合で来れなかった同僚への情報共有を欠かす訳にはいかない。

仏頂面で差し出された手に店の備え付けとは別に常備してある盗聴防止のための専用子電伝虫を乗せる。そのままスイングドアを押し開けようとするルッチに、慌ててグラスの残りを流し込んだカクが後に続いた。


「待て待てルッチわしも行く」

「……別に構わねェが、なんだ」

「お前さんのことじゃから、どうせまた言葉足らずで話が拗れるかもしれんじゃろ。わしが側で聞いとってやるわい」

「…………勝手にしろ」


カクの言い分に物言いたげな表情で口を開きかけるも、面倒が勝ったのかため息をひとつ零すに留める。

そうして今度こそ、二人と一羽はバックヤードへ姿を消した。



***



従業員室の奥に存在する扉の無い防音空間へ"ドア"を繋ぎながら、ひらひらと手を振って見送った張本人に向き直る。先の疑問をどう切り出すか考えあぐねていると、向こうから先に話を振ってきた。


「マスターさァ、酒場じゃなくってバーとかのが向いてるんじゃない?」

「……それはまた、どうしてそう思ったんだ?」


汗をかいたグラスの縁を指でなぞりながら何気なく呟かれたそれに、少々意外な気持ちで返した。


「だって、カクテル作るの手馴れてたじゃん。マスターからしたら趣味なのかもしんないけど、充分稼げるレベルに見えたし」


ゆったりとした仕草でカクの置いていったグラスを持ち上げ、底に僅かに残る夕映えの欠片を照明に透かす。そうして、どこかしみじみとした声音で言葉を続ける。


「コーラルレッドって言うの? 色味もそうだけど、木工の職長センパイにピッタリだよねェ」


それは暗に、色以外の部分もそうであると示しているようで。

これを出したときのカクの言動を思い返し、無意識に選んだそのサンセットカラーに付随した意味合いが脳裏に浮かぶ。そのまま手渡されたグラスに残る氷を捨て、慣れた手付きで洗い流しながら答えを口にした。


「生憎、バーより酒場の方が情報収集には向いてるんだ」

「そりゃまァそうだわ。裏町の人らみたいなのが入りにくくなっちゃったら本末転倒だもんね」


あっさりと頷き手のひらを返す。理解力の高さも然ることながら、やはり年齢にそぐわない達観した思考が一際目立って見えるのは気のせいではないだろう。


その不釣り合いさを異世界に生きる故であると断ずるには、いささか判断材料が不足しすぎている。

何せその口から語られる素性を額面通りに受け取るのであれば、人並み外れた演技力や洞察力を身に付ける必要があるとは到底思えないのだから。……最も、それすらどこまでが真実か怪しいものだが。


「ところで、」

「んー?」

「『服部ヒョウ太』と名乗っている理由は、聞いても良いのか」


裏を返せば、ロブ・ルッチと名乗らずにいるのは何故なのか。

言外に問うたそれにぱちくりと瞳を瞬かせた子供は、ややあって目を細めると口元に指を立てた。


「ナイショ。──って言ったら?」

「……それは、おれたちを名前で呼ばないことと関係しているのか?」


重ねた問いに、悪戯っぽく誤魔化した表情が一瞬虚を突かれたように崩れる。珍しく素直な反応に見えるそれを受けて、漠然と抱いていた予感が確信に変わる。


社長サン、職長サン、センパイ、秘書サン、マスター、ヤガラの店主サン、八百屋の旦那さん、雑貨屋の奥さん、露店のお兄さん、屋台のお姉さん、などなど……思えば、よくここまで器用に呼び分けるものだ。

この子供を同じ名を持つもう一人と同一の存在として見たときにまるでらしくないそれに、やはり"服部ヒョウ太"と"ロブ・ルッチ"は別物なのだと再認識させられる。少なくとも自分の知る子供はルッチのような徹底した苛烈さを持ち合わせてはいないし、その代わりに卓越した人心掌握能力を備えているように見える。


本性がどうであれ丹念に取り繕われ馴染みきったその仮面に綻びは見られず、それ故に自分たちはもう一人のロブ・ルッチについて驚くほどになんの情報も得られていない。

素の性格も、普段の言葉遣いも、交友関係も、まったくと言っていいほど何も。


(カリファのことを言い当てていたからには、それなりの関係値ではあるのだろうが)


この子供が生きてきた世界で築いていた関係性と自分たちの間に存在するそれとに、いったいどれほどの隔たりあるいは共通点があるのか。

言葉の端々から窺い知れるものはあれど、積極的に話す気が無いのはカクとの問答からも明らかだ。

ざっくりとしたこの世界との差異などについてこそ語られはするものの、より詳細な──例えば"同じ名前と容姿を持つ者たち"に関してなど、少しでも突っ込んだ質問をすると途端に言及を避けて話題をはぐらかすばかり。


中でも特に、ヒョウ太自身にまつわることについてはその最たるものと言えるだろう。


「……もしもお前がおれたちを通して誰かを見ているのなら、」


かたん、と言葉を遮って指先がカウンターを小突く音が響く。

見下ろした子供の表情は俯きがちになって判然としない。伸ばされた人差し指が彼我の境をなぞるようにカウンターの上を横一直線に滑っては止まる。


真っ直ぐに引かれた見えないそれは、れっきとした境界線の合図。

暗にこれ以上は決して踏み込んでくれるなというやんわりとした警告のサインであり、


「ぼくは"ぼく"だよ、マスター」


同時に、明確な拒絶を示してもいる。


「マスターだって、"マスター"でいたいでしょ?」


──今は、まだ。

顔を上げた子供の貼り付けたように完璧な微笑みの中で、半ば脅しにも似た言葉が音にならずに紡がれる。知らず詰めた息を慎重に吐き、一先ずの追及は諦めることにした。


「……お互い、余計な詮索はしない方が身のためという訳か」

「んはは、分かってくれて何よりだわ〜」



***



「ねェマスター、」


先程までの一線を引いた態度はどこへやら、洗い終えたグラスを拭いていた手元を覗き込んで子供は親しげに声をかけてきた。


「喉乾いちゃったから、何か飲み物欲しいなァ」

「……呆れた奴だ」


今さっき薬を盛られかけたのをもう忘れたのだろうか。

だとしたら相当な能天気だが、さすがにそこまでお気楽ではあるまい。おそらくはこちらに加害する気が無いことを理解した上での発言なのだろう。軽くため息を吐いて問いかけた。


「何が飲みたい?」

「マスターのオススメは?」

「そうだな……アメール・ピコン・ハイボールなんてどうだ?」

「えェー、ぼく子供舌だし苦いのはお断りだよ〜〜」


半ば試すような心持ちで言ったそれにあっさりと返されて、なるほどどうやら先の自分の推測は間違っていなかったらしい。こなれた様子も相まってか、数刻前に酒は飲めないなどと宣っていたのは気の所為だったのではと錯覚しそうになる。

何かしらで口にした機会があるのか、それとも単なる知識なのか……口振りから判別は付かないが、どちらにせよ大したものだ。


「──それより今はブルームーンとか飲みたい気分かなァ、なんて」


その口から洩れ出す言葉が、突然がらりと声色を変えて鼓膜を揺さぶった。

頬杖をつき、髪を耳にかけ、軽く首を傾げ、引き下げたマスクに指を添え。そうしてたっぷりと含みを持たせた笑みは、今しがた子供舌を自称していた様子からはまるで想像できないほど大人びている。

まさにその名を冠するカクテルを彷彿とさせる思わせぶりな色を乗せて告げられたませた要求に、少々面食らいながらも平静を装って言葉を返す。


「……それこそ子供の飲むものじゃないだろう」

「ウ〜ン手厳しいね!」


たちまち纏わりつくような空気は霧散し、見慣れた表情がその顔に戻ってくる。それにどこか無意識に胸を撫で下ろしている自分がいることに気が付いて、改めて目の前の子供を末恐ろしく思った。


今夜だけで散々経験させられたとはいえ、先に挙げた能力に加え口先ひとつで場の空気を操る手腕──それも、下手したらそこらの諜報員より厄介な──は何度見ても舌を巻かされる。

投げかけられた言葉に、その場その場で最もふさわしい応えを立ちどころに投げ返す機転も並のものではない。咄嗟の判断で最適解を的確に選び取るあたり、他者とのやり取りをすることそれ自体に長けているのだろう。


(やはり、脅威と言わざるを得ない)


けれど同時に、滅多なことではできないこのやり取りをどこか楽しんでいる自分がいることもまた事実で。

上辺だけの交流に過ぎないとは分かっていても、もうずいぶんの間変わり映えのしない停滞に満ちた日々を繰り返している己にとって、束の間の戯れじみた諧謔的な掛け合いは確かに新しい刺激となっているのだ。


「……お前が酒を飲めるなら、コロネーションでも出していたところだ」

「お生憎、そのときはシャンディ・ガフでも注文してるよ」


渦巻く心情のままに零した、より直接的に踏み込んだそれは今度こそ素気無くあしらわれ。キリの無い問答の予感に先に白旗を上げたのはこちらだった。


「結局、お前が何を飲みたいのか判らないままなんだが」


お手上げの意を込めて呟いた言葉に、得意げな表情を子供は浮かべる。


「そりゃぼくはコンクラーヴェだからね」

「好物が?」

「そう聞こえた?」

「どうだろうな」


端的な言葉を投げ交わしながら、気持ちを切り替え今朝仕入れたプッチ産オレンジを二等分する。ペティナイフに付いた果汁をさっと拭き取り、スクイーザーを使って手早く搾る。


「だってピッタリでしょ?」

「自分で言うのか」

「ぬはは、まァね〜」


搾り終えたオレンジ二つ分の果汁を果肉ごとシェイカーに収め、続いてミルクセーキ用に保冷庫に常備しているミルクを用意する。ジガーカップで丁寧に計量したそれをオレンジジュースに追加する。


「そういえば、」


くるりと指の間を回したジガーカップで量り取ったフランボワーズシロップをバースプーン伝いに注ぐ最中、ふと思い立って口を開いた。


「木苺が赤い理由を知っているか?」

「えェなにそれ、色素の話? それとも網膜とか光の波長とかそっち系?」


脈絡の無いその話題に、怪訝そうな顔を浮かべつつも応じる。

いわゆる文明水準の差によるものだろうか、子供の挙げた内容に関しては少々自分は門外漢な気がしてならない。


「いや、伝承的な話だ」

「伝承? カレワラの中でマリヤッタって人が口にしたってのは聞いたことあるけど……ああ、クリティでの逸話の方?」


宝石のように真っ赤に透き通った最後の一滴が流れ落ちる様から目を逸らさずにひとつ頷く。カレワラとやらに聞き覚えは無いが、どうやら神話の類はこちらの世界と共通するものも存在しているようだ。


「元は神の白い果実と呼ばれ、色を持っていなかったらしい」

「確かそれを摘み取ろうとしたニュムペーが、棘で手を切ったせいで血の色に染まったんだっけ」

「詳しいな」

「いやァそれほどでも」


シェイカーの中身を混ぜ合わせながら素直な感嘆のつもりで零したそれは軽い調子で流される。

照明の下でひらひらと踊る、こちらの世界に来てもうしばらく経つはずの子供の手の、さながら穢れを知らないかの如く不気味な白さが目につく。


「それでマスターは結局、何が言いたかったわけ?」

「いいや。ただ……、」


充分に混ざったそれを用意したコリンズグラスに注ぎ入れる。

毒々しいほどの赤は、甘ったるいアプリコットイエローに溶け込んですっかり見えなくなっていた。


「──お前に、よく似合っていると思ってな」


グラスを差し出すほんの一瞬、嗅ぎ慣れた鉄の臭いが鼻の奥を擽った気がして、瞬きする間も無く直後に熟したオレンジの匂いがまるで上書きするように空気を塗り替える。


「それほどでも」


とろりと芳醇な香りを放つそれを受け取った子供は、やはりひどく甘ったるい温度を乗せて笑った。





アイスブレーカー『冷静になって』

アメール・ピコン・ハイボール『分かり合えたら』

ブルームーン『できない相談』

コロネーション『あなたを知りたい』

シャンディ・ガフ『無駄なこと』

コンクラーヴェ『鍵のかかった部屋』


補足という名の蛇足

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