逃避行②

逃避行②



前作 逃避行 – Telegraph 2024/1/1

続き 逃避行③ – Telegraph 2024/1/29


※閲覧注意※

作品を通して、グロテスク、病気、流血、軽度のリョナ、

ネームドキャラ及びモブの死ネタを含みます。

視点変更ありません。今回は比較的 不穏 です。

キャラ同士の距離が近いですが、あくまで友情・親愛・ブロマンスです。

恋愛感情はありません。

文章長いです。

以上を許せる方のみお進みください。


まったく展開が進んでないけど許してね。






【本文】


《ペンギン視点》

数週間ぶりに立ち寄った島は、ぽかぽかと暖かな陽気の名残りに満ちていた。

海に傾く夕陽がポーラータングに眩しく反射している。

う〜ん、と伸びをすると、春の香りに数日の緊張が柔らかくほぐれる気がした。

なぜこの春島に来たか。それは我らが愛しのキャプテンが、3日前から少々厄介な状態にあるからだ。

特に異常もなく、いつもの航海だった。夕飯を食べ、テーブルを囲んで団欒し、操舵士と見張りを残して皆が眠りについた、いつもの静かな海の中。

時刻で言えば明け方、キャプテンがクルー達の寝床へ酷い顔色をして駆け込んできた。

乱雑にドアを開く音に目を開ければ、キャプテンが震えて立ち尽くしていた。飛び起きたおれとシャチを始め、クルーがモゾモゾと動き出す。

口々に名前を呼べば、キャプテンはぼろぼろと涙をこぼしてベポに抱きついたのだ。

異常な事態ということはわかった。俺とシャチは顔を見合わせて、シャチが船内の見回りに部屋を出る。おれは酷い脂汗をかくキャプテンの着替えとタオルを用意するよう指示した。

同時に、敵の姿はないか意識を張り巡らせる。ソナーでも確認したが、周囲には人や軍艦どころか、海王類の姿もない。

一先ず、何者かによる精神攻撃の線はないと考えて良いだろう。そう判断し、未だベポに埋まるキャプテンに寄り添った。

顔を埋めてずっとなにか呟いている。くぐもった声を聞き取ろうと耳を澄ます。背中を摩り、静かに名前を呼び続けた。

過呼吸気味に浅く呼吸を繰り返す。時折、この世の全てを嘆くように、弱々しく呻いた。

『い、きてる、いきてる、あぁあ…よかった、ごめん、ごめん、死ぬな、どうして、夢、ちがう、ちがう?ゆめだ。なんで。くらい、さむい、いたい…ちがう、おれは、いやだ、たすけてくれ…』

ガタガタと震えがとまらない。よく観察すれば、右腕をだらりと下げ、脱力している。怪我をしたのかと触診するが、異常もない。そもそも、右腕の存在を忘れているように反応がなかった。

ますます困惑しながらも、ベポがキャプテン強く抱き締める。

一瞬身体が強張り、ふっと弛緩した。気を失ったのだ。

その後、航路の変更を決めた。水面へ浮上し、ちょうど近くにあったのがこの島だ。シャチと話し合い操舵士に目的地を伝えた。


ずっと深海にいて、気が滅入ったせいかもしれない。日に当たれば落ち着くのかも知れない。それでも、鋼のようなメンタルを持つキャプテンのあの取り乱し様は説明しきれないが、可能性は排除した方が良い。

1人にはできないと判断し、キャプテンをベポと一緒に寝かせ、おれたちもいつでも対応出来るように交代で不寝番をした。

キャプテンは時折苦しげに呻き、聞き取れないほど小さな寝言を言う。悪夢を見ているのだろう。

苦しげに寄せられた眉と、肩を竦めるような寝相は、出会ってすぐの頃のキャプテンを思い起こさせた。

丸一日眠って、次の日の昼頃に目を覚ましたキャプテンは、このことを覚えていないようだった。

『…ベポ?…なぜ、おれはここで寝てる?』

『え、キャプテン、覚えてないの?』

『……なんのことだ…?それより、おれは部屋に戻る。朝食はいらない』

それから今まで、キャプテンは自室に籠っている。声をかけても、返ってくるのは少しの沈黙と、暗く沈んだ声色。

先程も声をかけたが、返事はなかった。気配を探れば、起きてはいるがどこか遠くを考えているように感じられた。


何が起きているのだろう。わかるとすれば、今晩は船から出られそうにないということだけだ。おれとシャチとベポは、おそらく今、潜水艦から離れるべきではない。

だが、突然の錯乱の理由がわからない。おれは顎に手を当てて、ふらふらとポーラータングの側を無闇に歩き回った。

「はーぁ…キャプテ〜ン…どうしたんだよぉ」

「ぇ……」

ピク、と意識がそちらを向く。消えそうな程に霞んだその一声が、どうにも気になって仕方がなかった。


その男は、ポーラータングを見上げる様に立ち尽くしていた。その体制のまま、おれの方を向いている。バチッと目があって、その眼が、キャプテンと同じ色をしているのに気がついた。

「…あれ、キャプテン?」

「ぺん、ぎん…」

呆然と、無意識に口が動いたような、微かな透明な音だった。

そこで気がついた。

その身体が、一昨日の朝に部屋に引き籠るまではなかった傷でいっぱいなことに。

切り裂かれた服の下が、袖の先が、首も頬も。紙で指を切った時のように細く切れて、真っ赤な血が滲んでいた。

きれいな折り目のついた上質な布地のズボンから覗く骨と皮しかないような裸足は、指先が冷えからくる青紫色になっていて痛々しく、そこも細い傷が無数につけられている。

キャプテンが被っているのと同じ帽子だけが異様に綺麗なままで、見たことのない大きなコートが身体を包み込んでいた。

 

青みがかった黒髪、わずかに垂れた目尻、黄みがかった灰色の目。構成するものは、キャプテンと殆ど変わらない。

耳の下あたりに伸びた髪と、真っ白な肌と、見慣れない服と、ひどく痩せ細った身体以外は。


キャプテンのそっくりさん。それも、顔立ちも背の高さもほぼ同じの。

 

小刻みに震えるその姿は“儚い”では言い表せない。

例えば、手のひらに舞い落ちた雪の結晶のようだ。温度を間違えれば、触れてしまえば、溶けて消えてなくなるような気がした。


唖然として身体が動かなかった。が、動け!と自分の中から声がして意識を戻した。この人が誰であろうと、とにかく、怪我人なら治療しなければ。

駆け寄り、頬の傷を触らないように手を添えながら目線を合わせる。ビクッと彼が震えるのがわかった。安心させるように微笑み、なるべく穏やかな声で問いかける。

「怪我、治療しましょう。歩けますか?」

おれの声は聞こえているらしい。やや間を置いて、コクン、と僅かに頷くが、歩き出す意思は感じなかった。

そういえば裸足だったことを思い出し、一つ断って抱き上げる。

身長はおれより少し高いのに、あまりの軽さにギョッとした。服越しの感覚は、およそ人間とは思ないほど冷たく、肉の削げた骨の感覚が伝わる。筋肉も脂肪もない。人体模型を運んでいるようにすら感じる。

横抱きに大きく反応することもなく、キャプテン似の男は弱々しく震えながらおれに体重を預けた。

ぽつり、ぽつり、普通にしていれば聞き取れないほど小さく、言葉を紡いでいる。

「……ゆめ、か……ごめん、ごめん、いたかっただろ……ごめんな…」

その言葉が、数日前のキャプテンと重なる。

おれは医療班の名前を叫びながら、船内へと駆け込んだ。

 


《ifロー視点》

「お、目を覚めましたか?おはよう。ちょっと待ってな」

優しい光に瞼を焼かれて、おれはゆっくりと目を開けた。

パタパタとおれから遠ざかるよく知った気配。

暖かい陽の光。清涼感のあるシーツの感触。聞き覚えのある穏やかな声。

カモメの鳴き声。船にあたる波音。

懐かしい、なにもかも、なくしたものたち。

つい…と左腕に視線を送れば、ぼやけた視界に点滴の針が見えた。

アイツの顔がフラッシュバックして咄嗟に抜こうとしたが、身体が痛くて動けない。仕方なく視界に収めないように顔を背ける。

ふと、横に気配を感じた。先程の声の主人が戻ってきたのだろうか。左腕の先へゆっくりと視線を向ける。

「…しゃ、ち……?」

「……」

いや、シャチではない。真横に立つ人物は、かつての自分だった。

右腕がある。体つきがしっかりしていて、胸のタトゥーは綺麗に形を保っている。

驚きに目を見開いた。はくはく、と意味もなく口が開いて、閉じる。

数秒して、ようやくおれはある結論に至った。

夢だ。優しい夢。いつぶりだろうか。


それに不思議な夢だ。自分が自分を見下ろしているなんて。

かつての自分が、今の自分を断罪してくれるのだろうか。

おれが殺したみんなの目の前で、裁きを。

ifロ「…ふ、ふふ、…ゆめかぁ……ゆめ……」

なぜこんな夢を見なければいけない。やめてくれ。

ころせ、ころして。夢だとしても、おれに幸せな夢をみる資格なんてない。

視線が絡み合う。

“おれ”が呻き声を上げた。目を見開いて、顔色は青白い。

両手で頭を抱えて耳を塞ぐ。後退りの途中によろけて、ベッドサイドのミニテーブルに手をついた。

筆記用具が散らばり、ペン立てが落ちて酷い音がした。

“おれ”を呼ぶ声がする。関係ない。

はやく、はやく、ころしてくれ。もう終わりにする。

この幸せな夢も終わりにする。

起きた時が辛いんだ。痛いんだ。

裁け、おれを、ころして、夢でもいいから。

どうせもうすぐ死ぬんだから。

夢の結末くらいは選ばせてくれ。

正史ロ「は、はァっ、うぅッや、めろ…やめろっ!」

苦痛に呻く“おれ”がハサミを掴んだ。右手で。それを振り翳す。

“おれ”がおれを恐れている。やめろ、死ぬな、と脳が揺さぶられる。

ああ、まだ目覚めたくないと思っている。

だめだ。早く目覚めなければ。幸せを噛み締める前に。

正史ロ「う、ぁ、はっ、あぁああ゛!!」

シャチ「やめろ!」

べポ「ダメだよキャプテンっ!!」

思い切り振り下ろされた右腕が、白い毛並みの腕に掴まれる。胴体をシャチに捕まれ、“おれ”が、おれから遠ざけるように引きずられて行った。

部屋の角から角へ。成り行きとは言え、おれが奪われたクルーたちに囲われる“おれ”を見て、涙が頬を伝った。


死ねない、なんで、死にたい、ころしてころしてころして。

どうして邪魔するんだ。

もういたいのはいやだ。いたい、いたい、解放されたい。

こんな夢は見たくない…!

正史ロ「はっ、はっ、ベポ…シャチ……う、あぁア…ッ」

シャチ「何してんすか!?急に部屋から出てきたと思ったら!」

正史ロ「っ、すまない……“引っ張られた”…“おれ”に」

べポ「ど、どういうこと?キャプテン」

正史ロ「意識、が…共鳴した、と言えばいい、のか……感情が重なるような感覚がして…制御できなかった」

まだおれを押さえてろ。と“おれ”が言う。おれを写す鏡のようにぼろぼろと涙を流す。

ベポが両腕を纏めて腕に抱き、胡座をかいて座らせた。

シャチが“おれ”からハサミを抜き取り、散らばった文房具といっしょにペン立てに入れて部屋の外へおいた。

その足でおれの真横に立つ。

シャチなら殺してくれるかな…ぼんやりと見つめていたら、シャチも泣き出した。


どうして泣いてる?やめろ、泣くな。笑ってくれよ。夢の中でくらい。

やっぱりダメだ。おれはいなくならなきゃだめだ。

説得、しなければ。

ifロ「…しゃち、とめな、で。どうせ、もうすぐしぬ。こんな、ゆめ、みたくない…はやく、…ころして……」

シャチ「ぐずっ、なんで、ぞんなごどいゔんですがぁ!!」

ifロ「…しゃち」

シャチ「泣いでるじゃん!アンダまだ生ぎでるのに!ッ生きろよ!おれだぢのまえでじぬなんでいうなよぉお!!」

うわぁああん!と子どものように泣いている。シャチが、おれのせいで泣いている。泣いてくれている。

…そんな資格、おれにあるわけがない。

みすみす目の前で殺されて、助けることもできなかったおれが、俺のために泣いてもらえるなんて、そんなこと許される訳がない。

くるしい。身体を襲う痛みが強くなる。

荒くなる自分の呼吸すら、おれを傷つける。

ifロ「うゥ、っ」

シャチ「…?ぐすっ、ど、どうした…?」

ifロ「い、…ッぐ、ぅう…いたい、いたいぃ…っ、〜〜ッぁあ゛ア!!!」

身体が震える。がくがくと跳ねる振動で痛みが増幅される。痛みに支配されて思考がままならない。

悶えて、身体を丸めて、心臓の上を抑える。

叫び続けて、喉が焼けそうなほど熱い。あつい、のに、さむい。いたい。

いたい、さむい、いたい、いたいッ

ifロ「あ゛ああああああああアッ‼︎‼︎」

正史ロ「っベポ、離せ!シャチ、治療室に運べ!麻酔の用意をしろ!」

シャチ「っ!は、了解だ、キャプテン!」

正史ロ「ベポは医療班を呼べ!足りなければペンギンを入れろ!手術しながら説明する!執刀はおれだ!」

べポ「あ、アイアイ、キャプテンッ」

意識が薄れる。きっともう夢が終わる。暖かい夢が消える。

目を覚ませば、またあの暗い鳥籠。

何もない、何もできない、痛みの世界。

「 」

言葉が、音にもならない。何をいおうとしたんだっけ?

おれは意識を手放した。

左手が、強く握りしめられた。

“生きろ”と言われた気がした。

《正史ロー視点》

『え…キャプテン、覚えてないの?』

酷い悪夢だった。

壊滅したドレスローザ。切り刻まれる人々と断末魔。笑って死んだレベッカと、涙を湛えて後を追ったヴァイオレット。

おれと共に捕まり、おれの知らぬうちに死んだ麦わら屋。

アイツの知らないおれを消し去るためだけに殺された大切なおれのクルーたち。

ひとりひとり、丁寧に、丁寧に。四肢をもがれ、ゆっくりと肉を削がれ、糸の束に貫かれ、治療したそばから目の前で一瞬にして命を奪われた。

思い通りにならなければ暴力を。奴はそれを“愛”と呼んだ。

消し去ったはずの病が身体を蝕む。熱くて、冷たくて、痛くて、なにもわからない。


一年と数週間の、酷い悪夢。違う、これが現実。今が夢?…そんなはずない、おれは奴を倒した。いや、本当は負けたのか?わからない、それこそが夢?


なんでもいい。全ては籠の鳥が見る夢の話。

“おれ”はとうとう生きることを諦めたのだ。

目を覚ませば、酷い胸焼けと頭痛がした。

それが何故かは思い出せない。丸一日眠っていたと、ベポが心配そうに伝えてきた。

周りにはクルー達が固唾を飲んで見守っていて、夢の記憶が掘り返されそうで、おれは咄嗟に言葉を返した。

『なんのことだ…?それより、おれは部屋に戻る。朝食はいらない』

逃げるように、クルーの寝室を後にする。朝食はいらない。胃に入らない。

酷い吐き気がする。

自室にある水差しからコップに注ぎ、一口で飲み干した。

ムカつきは消えない。グルグルと世界が回る感覚。

ベッドに倒れ込み、再び気を失った。

島に着くまでの記憶は朧げだ。起きていた気もするし、寝ていた気もする。

部屋の前に置かれた食事を、食べられる分だけ、単純な作業のように食べたことは覚えている。

何度も夢を見ていた。毎回内容は違っていたが思い出すことはできなかった。わかるのは、敗北の記憶と失ったものたち。痛みと白と赤色。

自分が自分なのか分からなくなりそうで、意識があるうちは数ヶ月間の航海日誌を読み耽った。

そうしないと、おれがおれを保てない気がした。

自室の窓から外を眺めていた。昨日の夕陽は姿を消して、柔らかな青空が広がっている。また気を失っていたのかもしれない。ぼんやりと、夢のような心地がしていた。

部屋をノックされ、誰だと返せば、ペンギンが入室の許可を求めた。

断る理由はない。

ペンギン「…ひどい顔色ですね、キャプテン」

対面してそうそう、ペンギンは言った。そうだろうか。きっとそうだろう。

13年も一緒にいたのだ。兄のような存在だ。

ペンギンだって酷く生気を失っていた。おれのことは言えないだろうと鼻を鳴らすと、沈黙の後に小さな工程が返ってきた。

いつも通りに放せているだろうか。頭も動いてきた。そろそろ本題に入りたい。

正史ロ「…要件は」

ペンギン「あんた、弟とかいないよな」

正史ロ「いない。妹はいた、…が、既に死んだ」

なんの話だ。

訝しむおれを他所に、ペンギンはためらいなく、昨日の夕方、患者を1人拾ったと言った。おれにそっくりなのだという。確かに、船の中にひとつ、知らないようで、一番よく馴染む気配が増えたのを感じていた。きっとここ数日の夢に関係があるのだろう。

昨日の時点でおれに方向くしたかったが、おれは目覚めなかったらしい。

この島の病院に放り込むよう言ったが、病院も診療所もないという。

ペンギン「酷い怪我なんです。病気…と言っていいのか…それも。手当てはしました。でも、その病気はキャプテンじゃないと治せないんです」

今はシャチが見守ってます。彼が目を覚ましたら、診てあげてください。

返事はしなかった。一方的に約束を取り付けられた。だが、そうまで言われては断る気は起きなかった。

仕方なく、その男が起きたことを見聞色で察知し、僅かに隙間の空いたドアを押して病室に入る。

白い、肌。

痩せ細った体躯。

記憶が、夢が、流れてくる。

乱れる呼吸を押し殺す。その男と目があった。

ころして

はやく

しにたい

ころせ

ころせ

おれを、ころして

感情に押し流される。


殺意なんてなかった。それなのに、いつの間にか手にハサミを持って、振り翳していた。

叫んだ気がする。おれの身体は言うことを聞かない。

シャチ「やめろ!」

べポ「ダメだよキャプテンっ!!」

2人がおれを“おれ”から引き離す。助かった。なんで。死にたかったのに。

ころせなかった。とめてくれてよかった。ちがう。そんなこと思ってない。


シャチが怒りを露わにする。ベポは震えていた。

シャチ「何してんすか!?急に部屋から出てきたと思ったら!」

正史ロ「っ、すまない……“引っ張られた”…“おれ”に」

べポ「ど、どういうこと?キャプテン」

正史ロ「意識が…共鳴した、と言えばいい、のか……感情が重なるような感覚が…制御できなかった」

そうだ、それが一番しっくりとくる。

同時に、ここ数日の異様さが理解できた。

おれと“おれ”の存在が、夢を通して重なっていたのだ。

つまり、あの夢は全て目の前のおれの記憶。

理解できれば単純なことだった。

おれは“おれ”であり、ただ“おれ”と同じ存在だから、記憶が重なったのだ。

少しずつ落ち着きを取り戻す。封じ込めた夢の記憶を、“おれ”という画面越しに感じる。これは目の前のおれの記憶であり、ここにいる“おれ”のものではない。

大丈夫、大丈夫、もうわかる。落ち着け。

“おれ”は痛くない。痛いのは目の前のおれだ。

ifロ「い、…ッぐ、ぅう…いたい、いたいぃ…っ、〜〜ッぁあ゛ア!!!」

おれの身体が震える。珀鉛の中毒による痙攣と、全身の激痛。

過去の痛みが蘇る。あれを取り除かなければ。既に生きてるのがおかしいほど、症状が進んでしまっている。

叫びが伝わってくる。リンクが途切れる感覚がして、自身を明瞭に感じ始めた。今しかない。

正史ロ「っベポ、離せ!シャチ、手術室に運べ!麻酔の用意をしろ!」

シャチ「っ!は、了解だ、キャプテン!」

正史ロ「ベポ、医療班を呼べ!足りなければペンギンを入れろ!手術しながら説明する!執刀はおれだ!」

べポ「アイアイ、キャプテンッ」

死なせてたまるか…おれは医者だ。

ベッドから慎重にストレッチャーに乗せ、手術室に向かう。

既に意識はない。呼吸も浅い。弱り切った姿。

“たすけて”

声が聞こえた。

当たり前だ。必ず助ける。彼の左手を強く握った。


「おれなら治せる。気を楽にしろ」


治療開始だ。

 

 

 

 

 

【おまけ】個人的な”ヘルメス”の設定的な、そうじゃないようなやつ

 

一つのガラスのコップが、机の上に置かれているとしよう。そしてひとりの人が傍に立っている。それらを“観測”する“存在”もいる。

 

例えば、たった今観測対象のコップが倒れたとする。

当然コップの中の水はこぼれるし、もしかしたらコップが割れるかもしれない。

だが、傍に立つ人がコップを支えればコップは倒れない。

 

コップが倒れた世界と、コップが立ったままの世界は、並行することはあれど同じ世界で同時に起こることはない。

 

近くに立っている人は、倒れかけたコップを支えるか否か。

コップが倒れた世界で、水は机の上に留まったか、それとも滴って床を濡らしたか。

コップは割れたか、割れなかったか。

 

“選択”によって幾つもの世界に分岐する。

 

分岐により並行する世界は、分かたれたその時から平行している。つまり本来交わることはない。

 

“本来”であれば。

 

それを変えるのが“観測”を行う“存在”

いつしかその“存在”は“ヘルメス”と呼ばれた。

 

“存在”には名前がない。実体がない。過去はない。未来はない。

時間と呼ばれるものがない。空間と呼ばれるものがない。

何物にも縛られない存在。常識なんてものはない。世界においてわからないものなどない。

 

だが、どんな物より不自由であり、常識的であり、わからないものがあった。

 

“ヘルメス”は実体を与えられた。

“世界”において“ヘルメス”は不自由だった。


使用する人間たちは常識とされる力しか使わなかった。

“ヘルメス”は常識に縛られた。


“ヘルメス”は心が分からなかった。感情と呼ばれるものが分からなかった。

それは“ヘルメス”にはないものだった。

 

あるのは数多の願いと祈り。

“ヘルメス”は何者でもないが、それらによって何者にでもなれた。

名前のなかった“存在”は、それらに“ヘルメス”という名と役目を与えられた。

 

そう望まれたから。役目として、世界と世界を結びつける力を。

 

数え切れない無数の世界。その中の、この世界で“ヘルメス”は呼び起された。

 

「座標を指定します」

若い男女だ。

 

[お望みの世界をお教えください]

「…ほら、ロー」

「…別の、世界…」


使用者は男性の方。ひどい怪我だ。それに病に侵されている。

空の上に巣を作った大きな鳥。鳥かごの中に、愛を求めて誰かを引きずり込む、ひどく歪んだ怪鳥がいるのだ。

 

男性の手は屍のように冷たかった。だが、生まれたての雛鳥をそっと持つような、ガラスのコップを落とさないように握るような、そんな思いやりと優しさを持つ手だ。

彼はためらっている。

だが、女性は気が付いた。怪鳥が、彼女の協力者を振り切りこちらへ向かってきていることに。彼女の目に焦りがにじむ。

…まあ、なんとも大変なことだ。

手伝ってあげようか。

 

 

 

さあ、ちいさな人間、望みなさい。本心を覗かせて。

 

 

 

おれの仲間と、麦わら屋達が生きて、笑っている世界

 

 

 

…ああそうか。彼なら教えてくれそうだ。

 

さあ、ちいさな人間、ロー。

 

ローの仲間が、ローの友達が、そしてローが、笑っている“未来”につながる!

そんな特別な世界へ!

 

 

 

ロー、君たちが、わたしに“こころ”を教えてくれる。

そんな気がする。

わたしにもわからないけど、わからなくていい気がする。

 

そうだ。始まりの季節は春って、相場が決まっているね。

丁度ペンギン帽子がいるし、そこに置くね。

 

 

 

ロー。

この先、大変なことが沢山ある。でもね、この世界の仲間たちとなら大丈夫。

怪鳥はわたしが足止めする。ローのことが大好きな人たちと一緒に。

…ローは負けないよ。




“ヘルメス”には時間と呼ばれるものがない。過去がない。未来がない。

すべては“ヘルメス”であり、過去が未来を変え、未来が過去を変える。

“ヘルメス”は世界にひとつ。過去にも未来にも。

“観測”されたその瞬間に、“ヘルメス”は存在する。

“ヘルメス”は願いの力。“ヘルメス”は祈りの力。“ヘルメス”は欲望の力。

“ヘルメス”は、“観測”する何者かが望んだもの。


あなたが創った“存在”

それが“ヘルメス”




22024/1/7 最終修正


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