好きに貴賤は無い、と胸を張って言えない話

好きに貴賤は無い、と胸を張って言えない話

chin-roto

これはKumano dorm.(2nd) Advent Calendar 2021の12日目の記事です。


この寮祭企画も3年目らしい。昨年度その前も記事を投稿させていただいた。

昨年度以前の企画者の魂を受け継ぎ、この企画を実行してくれた寺さんに感謝である。

もう卒寮しているので所謂老害ムーブをかましているところだが、カレンダーに空き枠がまだあったのが悪いと思って、許していただきたい。なんか例年より自治関係のことを書く人が多いみたいだが、僕は変わらず隙があったので自語をする。

そういうわけなので、嫌な人は今からブラウザバックをよろしくお願いする。


※あくまで自省であって、特定の誰かを非難する意図は一切ありません。


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獅子志司さんの曲をよく聴く。ついこの間最新曲の「日進月光」が配信されたばかりだ。

この人の曲にはほとんど一貫したテーマが流れている。ような気がする。

特定のアーティストの曲を年単位で追うことはほぼ無い僕にとっては、「作者で曲を選ぶ」数少ない例だと言える。


かつてB4ブロックに在籍していた頃、昨今の時勢になる前くらいまでは、よくB4談話室の民でカラオケに繰り出すことがあった。カラオケというのはすごい空間で、他人が歌っているのを見て自分の中にない曲を知ることができるのだ。お陰様で他人のレパートリーから盗むことで、自分のレパートリーはそれなりに増えた。

だが、色んな曲を知ることができても、例えば同じアーティストの違う曲まで知ろうとはならないのがこの形式の欠点だ。「なんかこの人の曲この曲しか知らんな」という状況になりがちなのだ。

私事で恐縮だが、YOASOBIさんの曲は『夜に駆ける』しか知らないし、チャットモンチーの曲は『シャングリラ』しか知らないし、カンザキイオリさんの曲は『命に嫌われている。』しか知らない。

2曲以上を知っているアーティストなんてμ'sかAqoursか、そうでなければアイドルマスター関連しかない(そしてこれらについて僕は最新の曲を何も知らない)。

つまりまあ、なんか知ってる曲数は多いが「この人の音楽が好き」みたいなアレは無いっていうことになる。選り好みしないと言えば聞こえはいいが、要はそれは熱烈に好きなものが無いことの裏返しになるワケなので、本当の意味で好きだと言えるかは怪しい。


好きに貴賤は無い、と言う人がいる。本当にそうだろうか。


僕はどちらかと言えば、5年間くらいアイドルマスター(アイマス)という作品群に対して「あんまよく分からんことの方が多いけど好き」みたいな立ち位置を続けていた。それはそれで良い時間だったと思う。友人に誘われて、アイマス関連の同人誌即売会に本を出させてもらったことが1度か2度あった。それはそれで貴重な体験だったし、そこそこお堅くて忙しい仕事に就いた今ではもう二度と経験できないことだろう。

色んなCDも買った、ソシャゲに課金もした。カラオケのレバートリーの9割はアイマス関連楽曲だ。日常生活とアイマスは一体で、きっとそれは寮を出てからも続いていくと、何となく思っていた。

だが結局、僕は大学卒業を機に、四条のらしんばんで持っていたほぼすべてのアイマス関連CDを売却してきた。どうしても手放せなかった5枚程度のCDだけが今僕の元に残っている。

自分の青春には結局、3万円と少しの価値が付けられた。


今でもふと思うが、結構馬鹿なことをしたのではないかと思うこともある。

あともう少し待てばプレミアが付くであろうCDの山だった(そもそも既にプレミアが付いてるCDも中には幾らかあった)はずなのに、あっさり手放すのは流石にやりすぎたのかもしれない。

それでもその時、僕はそのCDを手放した。合理的な説明はできないが、強いて言うのなら、劣等感と罪悪感によるものなのではないだろうか。

アイマス程のコンテンツになれば、Twitterで調べれば幾らでも色んな人の考察が上がる。そのコンテンツの最初期から追いかけていたであろう人が、これまでの全てを基に思考した結果を幾つも目にすることができる。そこに浮かぶ感情は憧れと、諦めだ。

この人のように一つの考察を作りたい。だが、真似をしても自分のそれはなんか薄っぺらい。それでもって、この人と同じだけの知識を得るだけの努力はきっと自分にはできない。やがてその諦めは、怠惰な自分への自責に変わる。そして最終的に、好きなものに対する努力ができないのは、実のところそれがあんまり好きではないものだったからだ、という結論に落ち着く。

大いに飛躍した結論だろう。だが僕は頭が悪いので、どこがどんな風に飛躍しているのか自分では説明できない。同じことを言う人がいたら理路整然と反論できない。

結局、当時の僕も、自分の中で組み上げたこの飛躍した結論を受け容れた。そして、その歪んだ劣等感は「なぜこんな自分が、こんな貴重なCDを持っているんだろう」「より渡るべき人のところへ渡るべきなんじゃないだろうか」という罪悪感へと変化した。ここは何かすごい飛躍しているのが分かるが、感情の波とかいう奴はこの段階では理性でどうにかできるもんでもなくなっていた。

当時のことはもうよく覚えていないから、何となくこんな感じなんだろうと、思う。


それ以外にも、コンテンツの大部分を占めるソシャゲ×音ゲーという形態や、ゲーム内イベントの形式が僕に合わなかったという理由もあるだろう。

だが本質的な点は多分、劣等感と罪悪感だと思う。そして、結局そんな些細なことで"好き"を放棄できるあたり、僕は本当にアイマスのことが好きじゃなかったんだと思う。コンテンツの全てを愛して、コンテンツが続く限りリソースを割き続けるというのは僕には難しいことだった。

それでも、未練はあるのだろう。アイマスの文脈から切り離してアイマスの曲を聴くことは今でもあり、通勤の折にごく稀に聴いている。本当に最近になって、僕はアイマスのキャラクターはどうでもよくて、アイマスの曲だけが好きだということを知った。もっと早くにこの事実を認識できていたら、僕の青春は無価値のまま自宅の屋根裏に仕舞われていたかもしれない。

そっちの方が良かったのか、或いはそうではないのか。今となっては分からない。


だが、僕はたまに自問自答する。

本当に、僕はアイマスの曲のことは好きだったと言えるんだろうか。

思えば、CDは結構買ったが、そのうち所謂"積みCD"になっていたものは幾つあっただろう。数えたら両手を使っても足りないくらいあったように思う。本当に好きなら、積みCDは0か、あっても片手で数えられる程度ではないだろうか。

なんだか、結局のところ、僕はアイマスの曲のことも積極的に知ろうとしていなかったんだと思う。


好きに貴賤は無い、と言う。だが僕の"好き"は、今にして思えば間違いなく賤の方だと思う。"好き"の在り方を自分で肯定することができず、かといって何かを好きになるために努力することもできない。いや、そもそも好きになるために努力するとかいう発想が出る時点で下の下なんだろうか。

僕は本当に好きなものにまだ出会えていないのか、それとも物を好きになるという人間として根本的などこかに致命傷を喰らっているのか。そもそもなんかズレてんのか。

結局、分からないまま僕はしばらく生きていくんだろうと思う。


この記事を書いている間、ずっと獅子志司さんの「日進月光」のMVを横で流していた。

この人の曲は、劣等感を爆発力に変えてくれるような歌詞が多い。僕が新曲の出る度にMVを無限ループする理由はそういうところにあるのだと思う。


いつかはこの劣等感にも答えが出るのだろうか。そして僕の力になるのだろうか。

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