出来ることを
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井上のマンション
傾いた陽が地平に消えていく頃、一護と茶渡くんは、井上さんの身柄を私に預けてマンションを立ち去った。
二人の姿がすっかり見えなくなった後、私はくるりと井上さんを振り返る。
『……さて。井上さん、何か気づいた事があったんだろう? ……様子が変だった』
「うん。確かにあたし、あの時斬られた。でも、気がついたら傷口は無くて……」
『うん』
ポツリポツリと、伏し目がちに井上さんが語ってくれる話に相槌を打つ。
斬られたはずの肩にそっと手で触れて、彼女は自分の身に起きた不可解な出来事を頭の中で整理しているようだった。
井上さんが違和感の核を掴むのを、辛抱強く待つ。
少し黙ってから、強い困惑と不安が滲み出す声で、井上さんが違和感の正体を言葉にして紡いだ。
「……それでね。そのあと茶渡くんと黒崎くんが来てくれた時……あたし一瞬だけ、あの人のことを“友達”だと思ってた」
『——……友達? 石田くんを襲って、君を斬った男を?』
私は驚きに目を瞬いた。
いくら井上さんがお人好しでも、自分を斬った男に対する認識ではないだろう。
にわかには信じ難い感情の動きだ。
だけど——
——……恐らくは洗脳の類、トリガーは斬撃か。
故郷にいる同系統の能力者の存在が脳裏をよぎる。
——今は本人も違和感に気付けている。
——だけど……時間の経過で症状が進むタイプの能力だったらまずいな。
表面上は普段と変わらない様子を保ったままで敵対されると、判別が面倒だ。
井上さんの性格なら、いきなり攻撃してくるとは考え難いけれど、人格にまで作用する洗脳など珍しくもない。
希望的観測による楽観視は危険だ。
『…………』
「……カワキちゃん……」
井上さんは、月島の能力に検討をつけて考え込む私が、彼女の言葉を疑っていると思ったのだろうか。
ごめんね、と井上さんは申し訳なさそうに、困った表情で眉を下げた。
——謝ることなんてないのに。
「あたしも、言っててよく分かんないんだけど、とにかくその人のことを“友達”だと思ってたの」
混乱した様子で支離滅裂なことを口走る井上さんを落ち着かせてあげようと、そっと不安で丸くなった背中を撫でる。
『うん。わかってる。大丈夫だから、落ち着いてその時に感じたことを聞かせて』
触れて確認した限りだと、井上さんの体に妙な部分はないように思えた。
月島の霊圧の残滓も感じない。
不安げな顔を上げて私を見た井上さんが少し安心したようにふにゃりと笑った。
「……カワキちゃん……ありがとう……」
井上さんは少し平静を取り戻して、自分の心身に起きた変化を言葉にしていく。
「誰か友達に見間違えたとかカン違いとかそういうんじゃなくて……なんて言うんだろう……。“昔の記憶をたどったらその人のことを思い出した”ような感じだった——……」
『…………。昔の記憶……』
——感情を操作するんじゃなくて、記憶に作用する能力なのか?
先刻、井上さんを斬りつけて逃げた男を思い返す。
彼は血塗れで虫の息にも関わらず、驚異的な生命力で私の不意を突いてみせた。
——彼が負傷していたせいでうまく干渉できなかった、とも考えられるけれど……最悪を想定するべきだ。
——……井上さんはもう味方の数に勘定しない方がいい。
「……気をつけてね、カワキちゃん……。あの人の能力……なんだかすごく怖いものみたいな気がする——……」
『……ああ』
——状況によっては、私がこの手で彼女を葬ることになるかもしれない。
そうなったら……残念だ。その時が来るならせめて、彼女には出来るだけ苦しみが少ない終わりをあげたい。
私は胸の内で最悪の事態を想定した覚悟を固めた。同時に、月島の能力から彼女を解放する方法を探し始める。
——大丈夫だ、まだ出来ることはある。
——洗脳ならかけた本人に解かせるか、あの男を殺せば解ける可能性は高い。
何も知らずに私の身を案じてくれる井上さんに、微笑みかける。
『心配いらないよ。私は、私に出来ることをする。きっと何とかするから』
「……うん、ありがとう」