ごめんねスレッタ・マーキュリー─硬実種子の迷い(後編)─
何となく無言になったまま、スレッタ・マーキュリーとエラン・ケレスの2人は夜の町を歩いていた。
気まずさはなく、ただほんの少しだけ気恥ずかしいような、くすぐったいような、そんな落ち着かない気持ちになっていた。
エランの方が体温が高いようで、直接触れ合わせた手のひらが温かい。触れ合った手から熱が伝搬して、スレッタの体温も上がっていくようだった。
歩いているうちに少しずつ人が増えて来る。エランとの手繋ぎに集中していたスレッタは、ふと辺りを見回してそれに気づいた。
ナイトマーケットが近いんだろうか。そういえば、周辺の明かりも増えている気がする。
キョロキョロと周辺の観察をし始めると、ふと目に留まったのは1組の男女だった。
仲良さげに腕を組んで歩いているのは、あまり自分たちと変わらないくらいの少年少女だ。
彼らは笑顔で、ほっぺたに口がくっつきそうなほど近くでおしゃべりしては、楽しそうに笑っている。
何かを言われたのだろうか。嬉しそうにはしゃいだ女の子が男の子の腕をぎゅっと両手で抱きしめて、柔らかそうな胸の間に閉じ込めていた。
「………」
何となくその2人の姿をスレッタとエランに置き換えてしまい、そんな想像をする自分が恥ずかしくなって俯いてしまう。
今日でようやく素のままの手繋ぎができたのに。腕組みなどは、少し気が早く思える。ましてやあんな、大胆な仕草なんて…。
でも、このまま進展していけば、いずれは自分たちもあんな事ができるようになるんだろうか。
チラリと斜め前を見る。エランは時々こちらを気にしながらも、先導するように少しだけ前を歩いてくれていた。
いたって真面目な様子に、スレッタはほんの少し反省する。
今日は初めての料理のお礼と気分転換を兼ねて、特別に外に連れて来てくれているのだ。余計な事は考えずに、今この時を楽しんだ方がいい。
気分を切り替えると、スレッタは町の景色を楽しみながら歩き始めた。しっかりとエランが手を引いてくれているので、少々不注意をしても大丈夫だ。
歩いているうちにますます周りが明るく、人が多くなっていく。方々で明かりをつけて、まるでコミックで見た何かのお祭りのような賑わいだ。
どうやら、いつのまにかナイトマーケットに到着していたらしい。
「ほんとに色々なお店がありますね…」
「うん。この近くは特に食べ物のお店が賑わっているみたいだ。少し見学して、食べたいものを見繕おうか」
もう仲直りは済んでいるけれど、エランに話しかけるのは少し緊張してしまう。けれど彼は普段と同じ様子の受け答えをしてくれたので、スレッタはほっと息をついて体の力を抜いていった。
よかった。気恥ずかしい空気も、なんだかムズムズするような空気も、揃って消えて無くなっている。
気が晴れたスレッタは、好奇心のままに気になる店に一歩踏み出そうとした。今度は自分が前に立って、エランを先導しようとしたのだ。
するとエランはスレッタの動きには従わず、それどころか繋いだ手を急に引っ張ってきた。
「ふぇっ」
スレッタは目を丸くしつつ、彼のそばまで後ろ向きにたたらを踏んだ。履き慣れないサンダルだからか、更にそのまま足首を捻りそうになる。
「あ…ッ」
一瞬ヒヤッとするが、後ろに倒れ込む前にエランが背中に手を回して支えてくれた。背中に腕をしっかりと回し、腰骨の辺りを手のひらで掴んでスレッタの体重のいくらかを請け負ってくれる。
スレッタの目の前を、勢いを付けた人が通り過ぎていく。あのままだったらぶつかっていただろう。どうやら事故が起こる前に助けてくれたようだ。
「ごめん、大丈夫?」
バランスを崩したことを気にしているのか、エランが声を掛けて来る。けれど彼が手を引っ張ってくれなかったら、もっとひどい事になっていた。
スレッタは背中に回された腕の力強さにドキドキしながらも、後ろを見上げてお礼を言った。
「あ、ありがとうございます、エランさん」
「どこも傷めてない?」
「エランさんがすぐ支えてくれたから、大丈夫です」
「よかった。…人が多いから、出来るだけ端に寄ろう」
何もかもが初めてなのに、調子に乗ったのが悪かったのだ。すぐに背中から離れた手を少し残念に思いながら、スレッタは彼の言う通りに端っこへ寄った。
今度は先走ることなく、隣り合ってゆっくりと歩くことにする。
そのままお店を覗いてみると、本当に色々なものが売っている。お腹が空いていたら目移りしていただろう。
けれど早めの夕飯で食べたジャガイモ料理がまだお腹に残っていたので、今回はあまり悩まずに、軽めのスープを頼むことにした。
エランも同じものにしたらしく、ついでに手軽に摘めるサイドメニューも頼んでいる。
店の近くにある小さいテーブルと椅子に料理を置いて、スレッタはいつもの挨拶をしようと口を開いた。
「「いただきます」」
すると、向かいにいるエランも同じ挨拶をした。スレッタの料理を食べた時にも言ってくれたが、これからも挨拶するつもりになったんだろうか。
きょとんとしていると、彼は若干気まずそうに口を開いた。
「今までは、食事には特に挨拶する必要はないと思ってたんだ。けれどきみが作ってくれた料理を見て、自然と口に出していた。…その、だから」
…これからはキチンと言う事にしようと思って。
彼には珍しく、明確な説明になっていなかった。けれど、スレッタは何だか嬉しくなってしまった。最近たまに見せてくれるようになった、等身大の男の子の姿がそこにあったからだ。
ほんの少し照れているような素振りの彼に、スレッタは笑いかけた。
「えへへ、エランさん。わたし嬉しいです」
自分でもだらしない笑顔だったと思う。けれどエランは、目を細めてはにかんだ顔をしてくれた。
食べ終わった後、腹ごなしに散歩をする。
ポツポツと何でもないような事を喋りながら散歩するのは、思いのほか楽しいものだった。
「明日は何をつくるの?」
「明日こそは簡単なものにします。朝はパンケーキの予定です。ケーキと言っても甘くなくて、バターとジャムと、ソーセージなんかも付けちゃったりします」
「美味しそうだね」
「えへへ、上手くいくか分かりませんけど。そうだ、目玉焼きも付けましょう」
「とっても楽しみだ」
「…んんっ、とりあえず朝はしばらくパンケーキで固定します。あとは夕飯のメインを作ります。最初なんで、無理はしません。だから、エランさん、昼食とメイン以外の軽食は…」
「分かった。買ってくる。あとは追加の材料もメモを貰えれば調達してくるから」
「頼もしいです」
そんな会話をしながら、ゆっくりと歩いていく。
まだ辺りはナイトマーケットの明かりが届いている。あまり暗いところは行かない方がいいらしい。
だからこの辺りを少し歩いて、また来た道を戻る予定だった。
少し残念だが、思ったほどじゃない。それは帰ってからもエランがそばに居てくれると分かっているからだろう。
ここ最近は、ひとりの時間がぐっと減った。水星の寂しかった頃とは違って賑やかで、学園に通っていた騒がしい頃とは違って落ち着いている、そんな時間をエランと過ごしている。
「………」
今だっていつの間にか会話が無くなっているが、いやな沈黙じゃない。片手は相変わらずしっかりと繋がっていて、もはやスレッタは孤独とは無縁のようだった。
…この時間は、いつまで続くんだろう。
2人で過ごす穏やかな時間を楽しみながら、スレッタは時折考えることをまた頭の端に思い浮かべた。
エランに教えてもらって、ペイルという力を持った恐ろしい会社が2人の命を狙っている事はもう分かっている。
正確にはスレッタは命までは取られないかもしれないが、相当に酷いことをされるだろうことは予想が付いた。エランに至っては、確実に殺されると彼自身が確信を持っているようだ。
彼の妄想や、作り話だとは思わない。そんな段階はもう過ぎ去ってしまった。
最近では、残して来た人達のことを思って泣くことも減って来た。ふとした拍子に頭に浮かぶ顔、夢に出て来る人物、懐かしい人たち。
そう、懐かしい。だんだんと過去のものとして自分の頭は処理しようとしている。水星ではそれ以上の期間をエアリアルと2人きりで耐えていたというのに、不思議なものだと思う。
それでもたまには泣いてしまう。最初の頃は、それでエランに悲しい顔をさせてしまうことも多かった。今は寝ている場所が違うため、知られることはないはずだ。
お母さん。エアリアル。ミオリネさん。地球寮のみんなも。
また、会えることはできるだろうか。会えたらいいな、とスレッタは考える。
母親とは、会えるかもしれない。エランが言っていたのだ。自分が処分されること、スレッタが危険だということを教えてくれた人が居ると。
それはスレッタの関係者なのだという。ならそれは、母自身か、母の使いに違いなかった。
今は母も動けないのだろう。弱小とはいえ会社の社長だ。責任だってあるし、エアリアルを狙っている輩からも身を守らなくてはいけない。
再び会えるには、水星でお留守番をしていた時間以上にかかってしまうに違いない。…数か月、それとも1年くらいだろうか。
スレッタはちらりとエランの顔を見上げてみた。その時、彼との関係はどうなっているんだろう。
自分を連れて逃げてくれた彼。自身の命よりも自分を優先してくれる彼。ずっと自分のそばに居てくれる彼。
「…エランさん」
「なに」
呼びかければ、こちらを向いてくれる大好きな彼。
スレッタはどきどきしながら、今日のお礼を言おうと口を開いた。
「…あ、あの、今日は……ッきゃっ…!」
エランの顔を見上げて、足元が不注意になっていたスレッタは何かに蹴躓いてバランスを崩した。本日2度目だ。可愛らしいからとデザイン重視のサンダルを選んだことが悪かったのだろうか。
咄嗟にエランが支えようとしてくれるが、それよりも早くスレッタは彼の腕に縋りついた。
自分の腕より何回りも太くてしっかりした腕。それをぎゅうっと抱きしめて、なんとか転倒を免れる。
「………っ」
「あ…、ご、ごめんなさい」
思いきりしがみついたので痛かったかもしれない。スレッタは慌てて腕を離すと、エランの顔を改めて見上げた。
彼は少し眉根を下げて、戸惑っているようだった。
「?あの…ごめんなさい、エランさん。痛かったですか?」
「……大丈夫。きみこそさっきの事もあるし、足を痛めてない?」
エランに言われて、足首を何度か回してみる。つま先にも少し体重をかけ、痛くないことを確認する。一応目視でも確認したが、腫れたり色が変わったりはしていない。
「大丈夫です」
「そう、よかった」
ほっとした空気が流れ、また夜の散歩を再開する。今度は足元に注意して歩くことにした。
「あの、エランさん。今日はありがとうございました」
「楽しめた?」
「はい、とっても!」
「毎日は無理でも、夜にまた、散歩に行こうか」
「いいんですか?ナイトマーケットへもまた?」
「うん。持って帰れない食べ物もたくさんあるから」
「楽しみです」
この生活はもう少し続く。
1ヶ月か2ヶ月経ったら、また別の土地に行くことになるけれど、それまでは続いていく。
そうして、違う土地に行った後も、また同じように暮らせたらいいと思う。
ゆっくりと来た道を引き返して行く。
彼と一緒なら、同じ景色でも楽しいものに思えた。
「生活も落ち着いてきたし、僕も短期の仕事を探してみようかな」
「お仕事するんですか?」
「ほんの少しね。最近はやる事も無くなって来たし、きみにも負けてられない」
「……帰ってきますか?ちゃんと、まいにち…」
少し不安になって、確認してしまう。母は仕事が忙しくてあまりそばに居てくれなかった。エランもそうなったら、どうしていいか分からない。
「帰って来るよ」
元気がなくなったスレッタに、エランは手をぎゅっと握って答えてくれた。
「ちゃんと帰って来るから、安心して」
「………」
エランが言うなら、きっと大丈夫だ。
けれど一度寂しい気持ちを思い出した心は戻らなくて。スレッタはエランの腕に手を添えると、ほんの少しだけ寄り添ってみた。
腕を組む…まではいかない。でも体温はずっと近づいた気がする。
先ほどの背中と腰に回された手や、縋りついた腕の温度を思い出して、スレッタはほっと息をつく。
エランはスレッタの行動を咎める事もなく、そのままゆっくりと隣り合って歩いてくれた。
こんな当たり障りのない毎日が、ずっと続いていけばいい。ずっと、ずっと…。
最初は、スレッタの気持ちを無視して始まった逃亡のはずだった。
けれど今のスレッタは、彼と過ごす日々が変わらぬようにと必死に願っていた。
美しい男 前編
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