日常の象徴

日常の象徴

カワキのスレ主

空座町


 ここは空座町の片隅にある小さな喫茶店————カフェ・ヴァンデンライヒ。


 落ち着いた雰囲気の店内は心地良い静寂で満たされ、まばらに客の姿が見える。

 学生達の間でも評判の喫茶店は、放課後のこれからが書き入れ時だ。まさに今——軽やかな音を立てて扉が開いた。

 豊かな黒髪に立派な髭を蓄えた店の主が音に反応して顔を上げる。


「いらっしゃいませ……ああ、お前達か。よく来たな」

「邪魔するぜ、バッハさん」


 店の雰囲気と同様に、落ち着いた物腰で出迎えたマスターに軽く手を上げて応えたのは常連の少年だ。

 「頼れる大人を体現したような人物だ」とマスターを慕うその少年は、友人達と共によくこの喫茶店を訪れていた。

 橙色の髪の常連——一護を先頭に、同じ制服の少年少女達が、「お邪魔します」と会釈して後ろに続く。

 入店してくる学生達の中に、自分と同じ黒髪をクリップでまとめた蒼い瞳の少女を見つけ、相好を崩したマスターが穏やかに言葉を掛けた。


「戻ったか、カワキ」

『ただいま戻りました…………お父様』


 黒髪碧眼の少女——カワキは愛想笑いを浮かべることもなく、静かな声で答えた。

 娘の表情が人形のように動かないのは、いつもの事だ。「お父様」と呼ばれた事にマスターが笑みを深めて頷いた。

 店内で働いていた個性豊かな店員達も、マスターの娘とその友人達を和やかな空気で出迎える、平穏な日常の光景。

 以前から喫茶店に足繁く通う常連客で、マスターの娘であるカワキとも親しい一護達は、勝手知ったるという様子でグルリと店内を見渡すと空いた席に向かって歩く。


『じゃあ私はこれで。ごゆっくり』


 席に着こうと歩いていく一護達にひらりと手を振ったカワキは、定型文を述べると店の奥に向かおうとする。

 体格の良い長身の少年——茶渡が小さく首を傾げて声を掛けた。


「……どこへ行くんだ? カワキ」

「茶渡くんの言う通りだよ、カワキさん。今日は君の為の集まりだって言うのに」


 眼鏡をかけた少年——石田は呆れた表情だ。『着替えて厨房』と端的な言葉で二人の質問に答えたカワキは何かから逃れようとしているようだった。

 不思議に思ったマスターが「……今日は何かあるのか?」と訊ねると栗毛色の髪の少女——井上が「勉強会です!」と明るい声で答える。

 店内の空気がザワリと俄かに波立った。「……勉強会?」「で……お嬢様が?」と店員達の間でヒソヒソと話が交わされる。


「ったくよ……カワキ、お前、ただでさえ成績ヤベーんだからちゃんとしろよ……。今度の期末テスト、70点以上取らなきゃいけねえんだろ?」


 呆れと心配を含ませた一護の声。

 そう、カワキは諸事情で次の期末テストでは5つの科目で70点以上の点数を取る必要があるのだ。

 というのも、とある破面から強力な封印術を伝授してもらう為に提示された条件の一つがこれだった。「学校での勉強を疎かにしない為」という破面らしからぬ常識的な着眼点から繰り出された条件はしかし、カワキにとっては難問だ。

 半目でカワキを見遣った一護が「大体、中間テストの結果はどうなってんだ……」と前回のカワキの点数を羅列していく。


「技術・家庭に国語、理科……数学、音楽それに美術……これ全部59点って……。先生が“狙ってやってるのか”ってキレてたじゃねえか」


 話していくうちにツッコミに熱が入って一護の語気が強まっていった。わなわなと震える手は自然と握り拳に変わる。


「英語は39点で赤点ギリッギリだし……社会や保健体育なんて4点だぞ、4点! 逆にどこが合ってたんだよそれは!!」


 最後には息を荒くして、目を吊り上げて叫んだ一護。苦笑した井上がまあまあ……と間に入る。

 思い出したように「そういえば」と井上が笑顔を浮かべた。


「前回もみんなで勉強会したよね」

『ああ、その節は世話になったね。今回は私の事は気にしなくて良いから』


 井上の言葉通り、カワキはこの点数でも頑張った方だった。

 元々、書類整理や戦闘に役立たない座学は好きじゃない。勉強会が無ければもっと悲惨な点数となっていたであろう事は想像に難くなかった。

 気まずそうに眉を下げたマスターが娘を庇うように口を開く。


「私達がこちらへ来たのは最近の事だからな……カワキも努力しているのだ、大目に見てやってくれ」

「確かに、外国育ちのカワキさんに社会は難しいかもしれませんが……甘やかし過ぎは本人の為になりませんよ」


 親バカを諌めるように苦言を呈した石田に「……うむ……」と重く頷いたマスターの後ろから、長い金髪の店員が歩み寄る。彼はここの副店長だ。

 カワキの道を塞ぐように立つ副店長は、「邪魔をするな」と無言で訴える蒼い瞳を黙殺して言葉を紡いだ。


「————成程、話は解った。そういう事ならそちらを優先しろ。カワキ、以前からお前の成績は目に余ると思っていた」

『…………不要だ、ハッシュヴァルト。手は考えてある。目的は果たしてみせるよ』


 封印術は何としてでも会得してみせる。その為ならば実力行使——具体的には教師の脅迫やカンニングも厭わないと、あらぬ方向に決意を固めるカワキ。

 人間らしい感情に乏しく、その事に自覚が無いカワキの真っ直ぐな瞳は後ろめたいことなど何も無いと物語っている。

 感性のズレを目敏く感じ取って、女性客からの人気を集める副店長の美貌が憂いに翳った。

 同じ不安を覚えた表情で、言い難そうに茶渡が「……お前を疑う訳じゃないんだが……」と、おずおずと口を挟んだ。


「俺達はお前が不正行為をしないように、見張りを頼まれているんだ……」

『………………そうか』


 それでは、当初の計画を実行に移すのは難しい。

 条件を出した破面はカワキの善性を信じ切っているようだった。となると、恐らくその破面の兄の差し金か?

 表情こそ変わらないものの、どことなく嫌そうな雰囲気が滲み出るカワキにジトリとした視線を向けた一護が言った。


「何だよ今の間は。俺は疑ってるぞ。お前の事だし、どうせカンニングか何かする気だったんだろ……」


 眼鏡を押し上げた石田が、溜息交じりに「とにかく……」と話を戻す。


「副店長さんもこう言ってる。諦めて勉強するんだ、カワキさん。テスト勉強と並行して解剖学の勉強も必要だと聞いてるよ」

『解剖学なら心配いらないよ』


 封印術の伝授にあたって、件の破面から提示されたもう一つの条件が「魄睡と鎖結などが直接関わる為、解剖学を学び安全に使用出来る状態にする事」だった。

 高度な滅却師の治療術式を扱えるカワキにとって、むしろこちらの条件の方が達成は容易いものだ。

 カワキの知識の偏りはちぐはぐで、石田が呆れた様子で言葉を紡ぐ。


「どうしてそっちは出来てテストの結果はああなんだ……。君は地頭は良いんだから本気でやれば出来る筈だ」


 何やら「僕の目が黒い内は君に不正行為なんてさせないぞ」とやる気を見せる石田と、頭上から無言で圧を掛けてくる副店長に挟まれ、カワキは物憂げな溜息を吐く。


『仕方ないな……』


 とうとう観念したカワキが席に着いた。


◇◇◇


 勉強会が始まる……と思いきやここでも問題が起きた。

 しゅんと眉を下げた井上がカワキの手の中に収まったボトルに目を向ける。一護が静かな怒りを感じさせる声で問い掛けた。


「なあ、そのボトル何だよ」

「カワキちゃん……それ、お店の商品じゃない?」

『飲み物。“店のものは好きにして良い”と父が言っていたから大丈夫。……あぁ、君達の注文もそろそろ来る筈だよ』

「大丈夫なとこ一個も無えよ! 馬鹿みてえに酒呑むなっていつも言ってるだろ!」

「……アルコールは良くない」

「カワキちゃん、ジュースにしよう?」

「未成年の飲酒は健康に悪影響を齎すと、あれほど——」


 口々にカワキから酒を奪おうとする友人達の言葉をカワキは右から左に聞き流す。

 高校生のフリも楽じゃない……と、心配して叱る友人達の忠告も聞かず、カワキがボトルを開けようとしたところで「注文の品が入ったぜ」とタイミング良く店員が席を訪れた。

 統一された白いティーカップはきっちり人数分……カワキは自分で店にあった酒を持ち出した為、注文していない筈だが——

 不思議そうに顔を上げるとオールバックから一筋の前髪を垂らした特徴的な髪型の店員が、カワキの前に紅茶を置いた。


「ほら、コッチにしときな、お嬢。まァた副店長に叱られるぜ?」

『…………アスキン』


 そう言ってさりげなくカワキの手許からボトルを抜き取った店員——アスキンは、不満げに見上げるカワキに苦笑を返した。

 不満がありありと浮かんだ蒼い瞳に仕方なさそうに笑って、アスキンは銀色に光るティースプーンを取り出す。

 そして温かな湯気とともに華やかな香りを漂わせる紅茶へティースプーンひと匙分だけラム酒を垂らして混ぜた。


「この位で我慢してくれ。それに店長からの差し入れにはコッチのが合うと思うぜ」


 そう言いながら紅茶を差し出すアスキンが運んで来たシンプルなトレイの上には、注文の品以外にも店長からの差し入れだというケーキが載っていた。


「わあ! 美味しそう……! ありがとうございます!」


 嬉しそうに礼を言って弾けるような笑顔を浮かべた井上に続き、一護達も礼を言いながらケーキを受け取った。

 小さく溜息を吐いたカワキが紅茶を一口飲んで呟く。


『美味しいけれど、あとティースプーン4、5杯は欲しいところだ』

「そりゃ致命的だぜ、お嬢。それじゃ紅茶じゃなくてカクテルになっちまう」


 肩を竦めて笑ったアスキンは「勉強会、頑張れよ」と学生達に声を掛けると仕事に戻って行った。


◇◇◇


 やっと始まった勉強会は困難を極めた。

 人の急所だけは余すことなく頭に入っているカワキだったが教科書の内容はまるで頭に入っていない。

 鞄から取り出した授業ノートの中身は、どれも店の食器に負けないくらいに真っ白だ。新品同然のノートはカワキの授業態度を如実に物語っていた。


「授業中、何してたんだよ……」

『…………今後の動きを考えたり、周囲の警戒をしたり……色々だよ』

「学校で何を警戒する事があるんだ……」


 僅かに目を逸らして、暫し沈黙した後に告げられたカワキの回答に、石田が指先でこめかみを押さえる。

 あまりの有り様に頭が痛いという態度の石田や一護に対して、茶渡はカワキをどこか痛ましげな様子で見遣った。


「……何かあっても俺達が居る。お前だけが警戒に当たらなくても大丈夫だ」

「あたしの授業ノート見せてあげるね」


 井上が鞄から自分のノートを取り出してカワキに差し出す。『ありがとう』と礼を言って受け取るカワキは、ノートを開くとパラパラと中身を確認した。

 ————そういえば、授業ではこんな話をしていたような……していなかったような……?

 ぼんやりとノートを眺めるカワキは授業の内容を思い出しているかも定かではない様子だ。


「しっかりしてくれよ、カワキ……来年、一緒に進級できなかったらどうすんだ」


 ————別にどうもしない。

 カワキの任務は「黒崎一護の護衛、及び諜報活動」である。学年を違えてしまうと少し面倒だが……それだけだ。

 任務を続けられない程の障害では無い。


『その時はその時だ。未来の事なんてまだわからないだろう』


 適当な返事をするカワキに「もっと将来の事を考えろ」と、カワキ以上にカワキの事を心配した様子で、友人達がアレコレと勉強を教える。

 既に勉強会が開始してから幾許かの時間が経っていた。穏やかな空気が流れる店内にあたたかな夕陽が射し込んで、ノートや教科書が広げられたテーブルを照らす。

 静かな店内に聞こえる声は、ごく普通の学生の日常をそのもの——当たり前の平穏な日常の光景。


 その様子を遠目に眺めていたマスターが眩しげに目を細めた。傍に立つ副店長も、普段より柔らかな空気をまとっている。

 橙色の夕陽に照らされたマスターの横顔は喫茶店の主として……そして一人の父親としての幸福に満ちていた。

 穏やかな目をしたマスターが、独り言を呟くように口を開く。


「————……喫茶店の経営というのも、悪くないものだ」

「…………そうですね、マスター」




オマケ▶︎

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