"AI"と"愛"に関する雑感―人間はどう生きるか
もんじゃこれはKumano dorm. Advent Calendar 2020の13日目の記事です。ちなみに、私が1年前書いたアドベントカレンダーの記事(熊野寮から京都駅への交通手段考察)はこちらです。他にもたくさん面白い記事があるので、ぜひご覧になってください。感想などありましたら#kmnac2020でつぶやいていただければと思います。以下本文です。
2020年も12月となった。今年の流行語年間大賞が先ごろ発表され、「3密」となったことにも象徴されるように今年1年はCOVID-19感染症がすべてをむしばむ、そのような年であった。
冒頭ではあるが、日本中で多くの医療従事者の方が懸命に活動をしてくださっていることに感謝申し上げる。また、私が住む熊野寮でも私を含め多くの人が気力・体力を使いながらも助け合い、コロナ対策を行ってきた(今も動いてくれている人がいる)ことに感謝と労いの心を忘れないようにするべきだろう。
ここで、昨年末、私が(2019年の)アドベントカレンダーを書いていたころどんなことがあっただろうとふと記憶をたどってみる。思い起こせば、あの頃はとにかく「AI(Artificial Intelligence, 日本語では「人工知能」)」の話題が流行っていた。近年の目まぐるしい技術の進歩についての話題もあったが、多くは「AIは人間を超えるか」など、AIとは、そして人間とは、AIとどう共存すべきかといった話題が多かった。いくつか例を挙げて見てみる(私の感銘を受けた作品の布教的側面もあるので、各作品にあまり興味のない人は3段落くらい飛ばしてもらいたい)。
この話題は映像作品やゲームなど、文化的なコンテンツでも数多く扱われた。私の触れた作品の中にも複数がこのテーマについて扱い、様々な切り口で我々への問いかけや考察をしていた。
昭和の名作アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のリメイク「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」では人工知能の導き出した戦略に従う地球艦隊の方針と、「人間の船」であるヤマトが考えをぶつけ合うような描写があった。作中ではヤマト艦長の土方竜の「人間は弱い。間違える。それがどうした。俺たちは機械じゃない。機械は恥を知らない。恥をかくのも、間違えるのも、全部人間の特権なんだ。」というセリフ(筆者はこのセリフ、ヤマト2202屈指の名ゼリフだと思っている)があり、物語は人間にしかできない(であろう)戦術を用いて未知なる敵に立ち向かっていく地球防衛艦隊が描かれていた。
アトラスの人気ゲーム「ペルソナ5」の続編である「ペルソナ5 スクランブル ザ ファントム ストライカーズ」では、「ペルソナ5 」で活躍した怪盗団が、AIの新しい仲間「ソフィア」と全国を旅するというあらすじだ。ソフィアは発見されたとき記憶を失っていたが、「人の良き友人となれ」という目的のみを覚えていた。これが物語展開の重要なカギになっていく。最適解を求めAIに隷属し、思考停止する人間と、AIの役割を問い直すようなストーリーだった。
東映が製作している特撮作品、仮面ライダーシリーズのうち2019年夏に放送を開始し2020年夏までの1年間放映された「仮面ライダーゼロワン」もAIをテーマにした作品である。本作品では、「ヒューマギア」と呼ばれる人工知能搭載人型ロボットと人間の共生というテーマを、人間の悪意にも焦点を当てて描いている。人工知能は人類にとって敵か友か、ただの道具なのか。またもし人工知能に自我が芽生えた場合どのように人間は接していくべきなのか。そのようなことを問いかける作品となっていた。
これらの作品では、それぞれ人工知能が様々な描かれ方をしていたが、どの作品に共通することは、人工知能が人類を超越し、脅かす存在になりうるという認識ではないだろうか。その時に人間はどう生きるべきなのだろうか、ということを問うものが多かった印象である。また、人工知能に感情が芽生えるのか、そしてそうなった場合どうやって人類は人工知能と向き合っていくのかというテーマも見られた。感情を持ち、自律して行動できる人工知能は我々が道具として扱っていいのかという問いである。
上のような作品群のことを思い出し、人間の感情とか人間のできることは何だろう、と考えた時、同時期に体験していたこの記事のタイトルにある「愛」に関する出来事を思い出した。自分語りに傾きすぎないように注意しつつ、記事の結論につながるポイントを押さえながらその出来事を紹介する(筆者の出来事に興味ない方は2段落ほど読み飛ばしていただきたい)。
この出来事は、言葉にすれば簡単で、いわゆる「交際相手との破局」である。20歳まで「プロの独身」(注1)であった私にとっては初めての経験であった。この出来事が起こるに至った理由は様々考えられるが、そのうちの一つは当然、互いに相手への愛を見失い、その感情を喪失してしまったことであろう。実際周りの人達の色恋沙汰をそこそこ耳にしてきたことはあったが、いざ自分が体験してみると様々な事に考えを巡らせることになった。以下の考察も、この出来事がなかったらできなかったと思われる。
そもそも「愛」という感情は不思議なもので、京大生(特に理学部生?)の好きな“well-defined(注2)”なものでは全くない。その定義は人によって様々で、多くの解釈があり得る。何しろ哲学で「愛」をテーマにできるくらいだ。しかしながら、どうやら「プロの独身」だった私は「愛」という感情を非常に明確なものと考え、白黒はっきりつくものだと考えていた。もちろんそれも考え方の一つとしては尊重されるべきであろうが、世間一般の「愛」の定義から見れば圧倒的に変な考え方だったと今になって思う。そのため、少なくとも私は相手方の思いや行動を「0か1か」でしか判断できなくなってしまい溝が深まってしまった。その結末は先述のとおりである。
上のような出来事から何を学んだかといえば、人間の感情は決して「0か1か」で表現できるものではないということである。それこそ色々な出来事を経験し、色々な考えに触れて生きていく中で時に急激に、時に少しずつ動いていくようなものではないのだろうか。そして、「愛」という感情はその複雑な感情を持ちながら生きている相手を思いやり、その複雑な感情を尊重しつつ、自分の複雑な感情と食い違うところがありつつも相手の幸せを願い、応援していきたいと思う感情なのだろう、ということが最近ようやく自分の中で腑に落ちた「愛」の解釈である。この解釈すら複雑であるように、人間の感情は簡単に割り切れるものではない。
“AI”は、もっと言えばコロナ禍で叫ばれた「デジタル技術」は、この世の中のあらゆる物を0と1の2進数で表現し、できるだけ現実に近いものを再現したり、様々な思考を行うことができる。すなわちあらゆるものを「離散化」して扱うのである。そのため、例えばレコードやフィルムカメラなどの「アナログ」な技術では扱えた、値の微妙な量に関しては離散量に整理されてしまう。
そもそも現在では「デジタル」と「アナログ」という言葉は新旧の技術の対比のように使われていることも多いように感じるが、もともとは「アナログ(analog)」の意味は「データを連続的に変化する量で表すメカニズム」というものであったし、「デジタル(digital)」の意味は「連続的な量を、段階的に区切って数字で表すこと」というものである。
このことを踏まえると、人間の感情というのは多分に「アナログ」なものであり、決して「デジタル」ではないのではないか。そしてこれは、「デジタル」で動く人工知能にないものではないだろうか。これはあらゆるデジタル技術に言えることだが、どんなに「デジタル」の刻み幅を大きくして「アナログ」を再現しようとしてもそれは本当の「アナログ」ではない。言い換えれば、人間の持っている「アナログ」な感情は「デジタル」なAIには完全には再現できないと私は思うし、人間のもつ「アナログ」さ自体が人間が人間たるゆえんではない かと思う。
しかし昨今の人間社会を見ると、人はどんどん「デジタル」化しているのではないか、と感じてしまう。ネット上に目を向ければ、左翼的な政治主張を持ち脊髄反射的な政権批判に固執したり、政策面関係なしに人格攻撃を行うユーザーや、ただ右翼的な政治主張をもち無批判に政権を擁護したり、差別的な発言を行ったりするユーザーがいる。これはまさに「0か1か」思考ではないか。そこには、様々な政党の打ち出す政策の一つ一つを検討し、どこが良い点でどこが欠点なのか比較検討しながら全体でよりよい政策がなされるように提言していくという「アナログ」的な思考はほとんど見られない。
昨今のコロナ禍においても、様々な出来事を自分の気に食わないからとただ感情的に非難する人がいる。これも「0か1か」思考であろう。様々な情報を集め整理し、今後のあるべき行動を検討しようという「アナログ」的な視点は欠如しているのである。
上のような思考の「デジタル」化が進めば、ますます離散的な考え方に立つ人の中で対立が深まっていくことも考えられる。そこには、人間の持つ「愛」という感情はなかなか芽生えにくいだろうし、そもそも“AI”の出す決断と何ら変わりはなくなってしまうのではないだろうか。
人間が人間らしく生きるためには「愛」などの繊細で豊かな感情が大きな役割を果たしている。それらの感情の根底にある「アナログ」さを大切にしていくことが、“AI”の進歩著しい、そして未知の感染症と戦う今日の我々人類にとって必要なことではないだろうか。
今後の人生において、「0か1か」すなわち「デジタル」で生きるのではなく、0と1の間をじっくり考える「アナログ」な生き方をしていくこと。私はこれを心掛けたいし、この記事を読んでいる皆さんの生き方の参考になればよいと思う。
(注1)この言葉は、今年再ブレイクしたテレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ(通称:逃げ恥)」で出てくる言葉である。主人公のひとり、星野源演じる津崎平匡は生まれてから35年間交際経験がないというキャラクターであるのだが、その平匡が自分を形容するのに使った言葉である。本記事では主に「恋人いない歴=年齢」を指す意味で使った。
(注2)数学では、「定義によって一位の解釈又は値が割り当てられる」ことを指し、そもそも英語の形容詞として「容易く理解できる」という意味がある。
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あとがき
この1年で悩み考えて答えを出したことを何とか言葉にしてみたが、やはり何かまとまらない印象が残った。文章に限らずあらゆることの上達に終わりはない…
中間部の恋愛遍歴について、(一部ではあるし詳細は伏せているが)恋愛話というのは公でするのはタブー的風潮もあるような気がしたので最初はカットしようと思った(実際、カットしたバージョンの記事もある)。しかし、同ブロックの先輩がアドベントカレンダーに書いた記事にいろんな人の自分語りを読みたい、と書いてあったので覚悟を決めて載せた。
筆者は独り身になってから1年くらい経ち、着々と「プロの独身」(恋愛下手かつ恋愛経験希薄)への道に戻りつつある。今は世の中の恋愛関係の話を聞くたびに、一人は一人でいいことあるし、二人は二人でいいことあるから何とも言えないなあという感想になる(これもある意味では「アナログ」な思考?)。
まあ人間一人ひとりがそれぞれの思う「幸せ」の中で生きられたらそれでいいのかなあ。まあ、深く考えすぎても生きにくいかもなあ。こう悩むのも人間の特権かも。最後はタイトル通り「雑感」でした。お粗末様でした。