2. Stagnation
「———を救わないでくれ」
世界を終わらせようと云うのに、男は悲壮感すら浮かべず宣った。
残酷で、穏やかで、荒涼とした虚無の世界。安寧と引き換えに、何れ終わりを迎えるこの世界を、男は否定した。
しかし余にとってはこんな世界こそが拠り所だったのだ。必然、男との対話は平行線を辿る。
そのせいで男は『とある提案』をすることになった。
余はそれを受け入れた。
その結果、多くの苦しみが生まれると知りながら、その決意を止めることをしなかった。
そうして、弱い男の代わりに引金を引いたのだ。
……ああ勿論。これは言い訳に過ぎない。誰がなんと言おうとも、すべての責任が余に在った。
だからこそ余は、そなたの言葉に———
Ⅲ
尸魂界・瀞霊廷某所
貴族達の住まう瀞霊廷でも特筆して荘厳な屋敷。その豪奢な塀の上に一つの影が降り立った。
深夜零時、星すら雲に隠れた深い夜。
歳十を過ぎたばかりであろうその少年は外套を宙に躍らせると、瀞霊廷において誰もが慄く威容の屋敷を門すら通らずに忍び込んだ。
恐れを知らぬ侵入者は静まり返った廊下を迷いなく進み、鍵の掛けられた扉を容易に開いては隠された部屋の奥へと侵入する。
途中、外套を深く被った明らかに客人ではない少年を、見廻りに着く家人が視界に収めるも——声を掛ける事なく通り過ぎていく。
そうして階段を下り、最後の扉を開いた少年の前に、厳重に封印された『小さな社』が現れた。
壁から伸びる太い鎖と大量の札。
そして独自に編まれた鬼道により施された強固な封印は、その社の中身を外敵から守る為ではなく、閉じ込める為に施されたものだった。
少年は懐から取り出した霊具を使い、先日新しく施されたばかりの封印を——否、だからこそ易々と解除していく。
数分の後、完全に解かれた封印の残骸を踏み越え、少年は社の扉を開く。
暗がりの中に一尺半程の箱が収められているのを確認し、慎重に取り出す。
以前よりこの屋敷には、尸魂界にとって知られてはならぬ『遺物』が複数保管されている事を少年は真実として知っていた。
しかし、この箱に収められている筈の『遺物』だけは少年にとっても未知のものだった。
理由は、異常なまでに強固な保管体制にある。
なにせ関連する文献や研究資料すらなく、限られた関係者達もこの箱の中身について言及する事が無い。
とは言っても少年はこれまでの調査である程度の推測は立てており、結論として干渉は不要だと考えていたのだ。
それがどうして、この地下深くまで侵入する事にまでなったのか?
それは最近、この『遺物』に関して進展があったせいである。
『魂魄昇華実験への使用』
尸魂界の戦力不足で混沌としている三界を発展させる為の遺物の解明。そう言えば聞こえは良いが、その実態は少年すらも呆れざるを得ない程の所業であった。
少年は今まで、慎重に慎重を重ね、動いてきていた。それが今回、危険を冒してまで箱の中身を回収に来ている。
果たしてその行動が義憤から来るものなのか。…それは不確かだが、少なくとも少年にとって愚を冒す理由としては十分であったらしい。
「……霊王の欠片、か」
開いた箱の中身が推測通りなのを確認し、次いで、この状態でも生きているソレに思わず眉を顰めて苦笑する。
——それにしても成程、『霊王の欠片』等という曖昧な表現を使う訳だ。
彼等にも品性という概念があるのだな、と詮無いことを考えながら少年は中身を入れ替えるため、懐から鉄筒と特殊な保護袋を取り出す。
そして広げた袋へ、箱の中身を移し替えようと『ソレ』に触れたときだった。
「……ッ!!」
一瞬のうちに膨大な量の霊力を奪われ、箱から瞬時に距離をとる。
驚愕の表情も束の間、直ぐに愉快げに笑みを吊り上げ、箱を見下ろす少年。
話に聞く『霊王の右腕』同様、触れてはならぬ遺物。当然、最悪を想定し準備を行っていた。——しかし流石にこれは想定外である。
箱の中身が光を帯びる。
そうしてゆったりと蠢きながら徐々に人の姿を象っていくのを、少年は興奮を押さえつつ観測した。
青白い光と異常な霊圧変動が十数秒続き、——やがて四,五歳ほどの童女の肉体へと滲むように収縮した。
童女がふるりと瞼を持ち上げる。覗く、真黒な瞳が少年の姿を射止めた。
「……やぁ? はじめまして…だね? おかしいな……君は誰?」
記憶にないや、と顎に手を当てる童女の言動をみて、少年は想定していなかった可能性に気付き目を見張る。
この童女から確かめるべき事は多い。しかしその前に、己が味方であることを信じさせねばならなかった。
少年は慌てたように目を伏せ跪くと、脱いだ外套を童女に差し出した。
「それよりこれを…!」
「おわっと、これは済まない」
童女は受け取った外套にもたつきながら袖を通す。
体格に合わぬ長い裾を、結び目を作ることで合わせようとするのを『霊圧知覚』で警戒しつつ、少年は状況の説明を試みる。
「お初に目にかかります。僕は藍染惣右介。——【死神】です」
「…………へぇ、藍染君かぁ。……いい名前だね!」
【死神】という単語に反応はせず、否、敢えて避けたのか、童女は「ここはどこ?」と話を促した。
「この場所は五大貴族・綱彌代家の本邸。その地下八十間に隠された大空洞です。——此処へは、貴方の救出に参りました」
「そっかぁ、じゃあ早く逃げなきゃだね。どうすれば良い?」
「……少々お待ちを。時間を稼ぐ必要がありますので」
そう言って少年は童女に手を貸し箱から引っ張り出す。
それから鉄筒を開け、明らかに人の『臓腑』らしきものを取り出すとそれを箱に収め、蓋を閉じた。
「え、ちょ君それ…」
「申し訳ありません。本物が無いことを誤魔化すには、本物と同質のものを代わりとする必要があるのです」
「なら仕方ない……?」
「いずれ……『取り戻す』ことも出来るでしょう」
少年は悲しげな表情を浮かべ、社の再封印を開始する。暫くすると童女が首を傾げながら少年の手元を覗き込んだ。
「大丈夫? 霊力足りる?」
「残念ながら…。どうやら先程、貴方の肉体の成長に相当の霊力を消耗したようで……」
「わぁ、君そんなことまでしてくれたの?」
だから私の霊圧に君の霊圧が混じってるのかぁ、と呟きながら童女は少年の左腕に両手を添える。
「今返せる分は返すね。あと敬語は要らないよ?恩人だもん。今度は私が助けるから、友人だと思って気軽に頼ってよね!」
そうにっこり微笑んだ童女の掌から、奪われた霊力が少年に流れ込んでいく。
青白い光が収縮して以降、童女から一切の霊圧を知覚できなくなっていたのは童女自身が意図的にそれを隠していたからのようだった。
これ程の精密な霊圧操作ができる者は瀞霊廷でも数少ないだろう。感嘆に値する技量であった。
少年は「ありがとう」と照れくさそうに童女へ微笑みを返す。
そうして社の再封印を終えると、童女を誘導しながら静かに屋敷の廊下を移動した。
「いいかい? 君の霊圧は特殊だ。万が一にも死神達に観測されてはいけない。このまま隠しておくんだよ」
「わかった」
そう頷く童女の手はしかし、不安げに少年の袖を掴んで離さない。
「大丈夫。堀まで行けば、後は僕が君を抱えて逃げよう」
「……ありがとうね、藍染」
庭園へ出ると、いつの間にか雲は晴れ、月明かりが二人を照らし出した。「おいで」と手を差し伸べる少年に童女は縋り付く。
重なる小柄な影が二つ。堀を飛び越えて、暗闇に翳る瀞霊廷を駆け抜けた。
Ⅲ
「───秘密基地?」
「そう、見つかったら大事になるような物ばかり置いてある」
室内に灯りがともる。
床には箱と機材、壁際にはモニターが置かれ、棚には大量の本と何かの器具が整然と並べられていた。
童女が目を輝かせて周囲を見渡す。通路に戻った少年は別の扉を開く。
「こっちは食料庫。食べられない物はあるかい?」
「ないよー!」
「良かった。じゃあ後で幾つか見繕っておこう。この隣は倉庫だけど、危険な物が多いから、勝手に入ってはいけないよ」
「……………わかった!」
本当に理解したのか分からない調子の童女に少年は「待っていて」と言い、倉庫の奥へと向かった。

暫くして、引き戸を掴みながらそわそわと中を覗く童女のもとに少年が布団一式を抱え戻ってくる。
少年が「おいで」と言えば、童女は最初の部屋まで雛鳥のようにあとを着いて行く。
「当分の間、寝泊まりは此処でしてもらう事になる。悪いね……」
童女は受け取った布団を抱えながら大丈夫と首を横に振る。
「僕はこれから行く所があるけれど、一日経てばまた此処へ戻って来る。その間、ひとりで待てるかい?」
「……問題ないよ!」
良い子だね、と優しく撫でれば童女はご満悦といった様子で目を細める。
「——ところで、君のことは何て呼べばいいのかな?」
すると童女はキョトンとしたのち、鈴のように丸い目をぐるぐると彷徨わせてから「名前……ない?」と自信なさげに首を傾げた。
「…そうかぁ。ねえ、もし良ければ、僕が君に名前を付けてもいいかな?」
「——良いの!? 嬉しい! 可愛いのにしてねっ!」
「あははっ、分かった。帰ってくる迄に考えておくよ」
そう言って少年は自身が戻ってくるまでの食料を童女に渡してから、地上への扉を開いた。
もし、敵が嗅ぎつけてきたとしても問題はない。この拠点へ来るまでに、童女に『地下通路に隠された装置で【断界】へ身を隠す方法』を教えていた。
「それじゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい!」
童女は大きく手を振る。
そして少年の背が灯りのない洞窟へと消えていくのを見送ると、しばらく呆然と立ち尽くした。
目をこすり、ふらつく足で部屋へと戻って布団に沈み込む。そうして眠気に身を任せるまま小さな瞼を閉じるのだった。
Ⅲ
一つ、
二つ、
また一つと。
長い年月をかけ、魂と肉が削れていった。
救いの手を望むも、声は届かない。
逃げ場のない闇の底では、足掻くことに意味などなかった。
それならばと、あの子を探して手を伸ばす。だがそれも、既に帰らぬ温もりなのだと思い出し、
───心までもが削れていった。
Ⅲ
「お早う。……随分と魘されていたね」
少年は手ぬぐいで、童女の額に浮かぶ汗を拭ってやる。布団から覗く瞳がぼんやりと此方を見上げた。
「…………遅いよぅ」
「済まないね…。思ったよりも事後処理に時間が掛かってしまった」
基地を出てから二日は経っていたが、童女は倉庫を漁るどころか、部屋から出ることすら無かったらしい。
「…それって私のせい…?」
「いいや、僕にとっても必要な事だったよ」
一拍置いて、少年は迷うように口を開いた。
「……君に聞きたい事があるんだ。でもどうしてもという訳じゃない。無理はしないで欲しいんだ」
心配そうに見下ろす少年に童女もまた心配気にいいんだよ、と穏やかに返す。
「何が聞きたいの?」
「そうだね、…君は、自分が何者なのか把握できているかい?」
「何者なのか…?」
「身分もそうだけど、君があの屋敷に居た理由とかだね」
「…………ごめん。記憶がなくて、わかんないや」
起き上がった童女は困ったように首を振る。少年は悩ましげに顎へ手を添えると、「そういえば」と呟いた。
「僕が何か食べられない物はないかと聞いたとき、迷わず答えていたよね? どいういった記憶……いや、知識ならあるんだい?」
「えっと……う〜〜ん………い、いっぱい?」
「そっかぁ。それって誰かに教わったのかな? それとも自分で見聞きしたものかい?」
「え…ん…? うん…と…どこかで…みたもの…?」
緊張した様子の童女を安心させるため、少年は声をより和らげる。
「…そうか。君があの屋敷に囚われていたのは理解していたかな?」
「うん。………『救出』しに来たって藍染君、言ってたから」
「つまり、救出される理由に君自身は心当たりがないんだね?」
「うん」
少年は少しの間だけ悩み込むと、重々しく口を開いた。
「——『綱彌代家』。それが君を囚えていた者達の名だ。五大貴族筆頭であり、瀞霊廷を実質的に支配する一族でもある」
「…せーて……なぁに?」
「『瀞霊廷』だよ」
瀞霊廷とは、三界の調整者であり尸魂界を管理・守護する【死神】達が住む街だと説明する少年。
「綱彌代家……いいや、五大貴族を筆頭とした死神達の祖は昔、大きな罪を犯したんだ」
「……罪?」
「嗚呼。……【霊王】。かつて世界を救い、神とすら崇められた存在への……度し難い冒涜のことだよ」
怒りを滲ませた少年が一転、悲哀に顔を歪め、言葉を絞り出す。
「それが…君の囚われていた理由でもある」
「どういうこと?」
困惑する童女に、少年は憐憫の眼差しで告げた。
「——霊王様はおそらく、君の母君だ」
目を見開き「か…かあさま…?」と上擦る童女を置き去りに、少年は続ける。
「百万年前の死神達の蛮行によって、霊王様は今もなお苦しまれている。彼等……いいや、僕もだね。祖先達だけの問題ではない」
霊王様が今こうしている内も冒涜を受け続けているならば、己はその為に手段を選ばずに救い出すべきなのだ、と零す少年。
俯く顔からは後悔と慙愧の念が感じ取れる様だった。
「藍染くん……」
「今回の件で僕は、今度こそ自分を許せそうにない。…綱彌代家は魂魄実験の為に君を使い潰そうとしていたんだ。それだけではなく余罪も多い。——最早、手段など選んでいる余地はない…!」
少年が立ち上がる。
「えっ」
「前々から準備はしていたんだ」
「な、なにを?」
腹を括ったとでも言うような顔で童女を見下ろす少年。
「——瀞霊廷を、崩壊させる」
口をあんぐりと開き硬直する童女。少年は構わずに続ける。
「奇襲になる。瀞霊廷に住む一般魂魄だけでなく三界全体に甚大な被害が出るだろう…。だが、未来のことを考えれば……今やらねばならない事だ」
「はわわ」
童女の顔が蒼白になる。しかし少年は、やはり童女に構わず背を向ける。
「君には此処で待っていて欲しい。安全を保証できそうにない」
「まって!? 一旦待って藍染君!! その結論に至るまで様々な過程があったんだと思うよ!? だからってそれは駄目だよ!!」
童女が立ち去ろうとする少年に縋り付く。
「君は……良いのかい? 母君に対する死神達の所業を許すと……?」
気配に剣呑さを滲ませ始めた少年に、童女は唾を飲み込み口を開く。
「か、母様は…そんなこと望まないよ。ほとんど何も!覚えてないけど…!それだけは覚えてるのっ!」
「霊王様が…?」
───そうか。やはり霊王は望まない、か。
童女の剣幕に動揺した『演技』をしながら、少年は引き出した情報を吟味していく。なんせ元より瀞霊廷の機能を消失させようなどという暴挙を犯すつもりはないのだから。
「そうだよ…! 絶対嫌がるよっ! 大勢の人を巻き込むなんて、そんなつもりじゃないって……!」
童女が今にも泣き出しそうな顔で少年を見上げ、捲し立てていた。
「…やめて…よ……そんなの…嬉しくないよ……」
「済まない……僕は……どうやら、とんでもない思い違いをしていたらしい。てっきり霊王様は我々を憎んでいるものと……」
「……そんな事ないよ?」
童女が不安気に此方を見上げるのを少年は真剣な顔で見つめ返した。
そうして、死覇装を握る震えた手を自身の両手でそっと包み込み、童女に目線を合わせると決然とした態度で言い放った。
「僕は死神として、これ以上、君達の望まないことをしたくない。しかし、それとは別に瀞霊廷は変えていかねばならない。
……僕達が不甲斐ないばかりに救えない魂魄が現世だけでなく尸魂界ですら多く存在している。それを放置する事はできない」
「私も…それは大切なことだと思うよ……でも…」
「ああ、分かってる。もう、先程の様なことは言わない…。賛同してくれる仲間は少ないだろうが、何とかやってみるさ。時間はかかるけどね」
童女が申し訳なさそうに瞑目する。
「……ごめんよ、藍染くん」
「いいや、謝罪すべきは僕の方だ。お蔭で取り返しのつかない過ちを犯さずに済んだ。ありがとう」
藍染は優しいね。と、童女が再び顔を上げたとき、その瞳には強い意志が宿っていた。
「私にも協力させてほしい。誰かが何かで困っているなら、それを変えるのは知る者の責務だと思ってる」
少年が驚きのまま「本気かい?」と尋ねれば童女は「私がそうしたいと思ったの」と返す。
「…然し」
「もうっ、じゃあ勝手に約束するね! 私はこれから君に協力するけど、それはぜんぶ私の為であって、私の責任なの! だから君や誰かの説得なんてぜーったい聞かないんだからねっ!」
「そんな一方的なものは約束とは呼ばないよ…?」
両腕を腰に当て仁王立ちする童女に思わず笑いを零す。むくれる童女に少年は謝りつつ息を整え、己もまた約束を返した。
「そうだね…僕もだよ。己の理想の為ならば、誰が何と言おうとも変わるつもりはない。故に、全ての責任が僕に帰属する。だからこれから何があろうと君も……どうか、気に病まないで欲しい」
「…むぅ。善処する!」
少年は「約束だね」と微笑んだ。
Ⅲ
「……ところで私の名前どうなったの」
もしかして忘れてないよね…? という顔で少年を凝視する童女。
「あはは、勿論ちゃんと考えて来たさ。気に入って貰えると良いんだけど」
少年はそう言って懐から一枚の懐紙を取り出し、童女へと手渡した。
「——わぁ!」
懐紙を開けば、達者な字で二つの文字が書かれていた。
「これからよろしく。——梨子《りこ》」
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