28.俺とラウダ

28.俺とラウダ




 頭を抱え込んで、激しく掻き毟った。自分の声とは到底思えぬような酷い悲鳴が上がった。それがまるで獣か怪物の断末魔のように聞こえて背筋が凍った。


 一頻り絶叫したボブは__、グエルは、ゼイゼイと背中で息をしながら、突っ伏していた上体を肘立ちに持ち上げた後で、寝台からゆっくりと半身を持ち上げる。手も足も、全身がガクガクと震えている。とてもじゃないが立ち上がれない。四つん這いになりながら、肩を上下させるのが精一杯だった。

激しい吐き気は鳩尾から込み上げるのか、ズキズキ痛む胸の方からせり上がってくるのか。呑み込んでも、呑み込んでも、迂闊に口を開けば絶叫と共に飛び出そうだ。

全身から噴き出た汗でTシャツがじっとりと皮膚に張り付いている。それが気持ち悪くて仕方ない。堪らず乱暴に脱ぎ捨てる。


そうだ__、そうだった、俺は__。

俺が。俺こそが、グエル・ジェターク、だった。


 ラウダの兄貴を心の中で散々腐してきた。放蕩兄貴だとムカっ腹を立ててきた。可愛い弟を置き去りにして、厄介事の全てを丸投げにして、何処をほっつき歩いてんだクソ野郎と毒づいてきた。なんて情けない野郎だ、俺が彼の兄なら、もっとずっと、彼のことを思いきり甘やかしてやるのに、愛してやれるのにって__。

この手で思い切り綺麗な藍色の髪を撫で乱し、強く抱き締め、お前はよく頑張った、もう大丈夫だ安心しろ、後は全部俺に任せろ__そう言って。何があっても体を張って、俺が彼を守ってみせるだなんて__、呑気に宣ってきた。それが。その俺が。クソみたいな張本人そのものだった。


ああ__、全て思い出した。穴の開いてた部分も、皆、みんな全て__。

いや、穴あきどころの話じゃない。

俺は何と言っていた? 地球辺境の小さな孤児院で育ったアーシアン? 

なんだそれ。なんなんだ、その笑えるくらいに適当な設定は。巫山戯るのも大概にしろ。

現実を見たくない。あの地獄の光景を思い出したくないからって__。過去の全てを中身の見えない瓶に詰めて、完全に蓋をして、地下室に放り込んで鍵を掛けて。生々しい地球の記憶で適当に上面を塗り固めて、隙間を埋めただけじゃねえかっ!!!


あいつ__。ラウダは、どんな思いでそれを聞いてたんだ、俺そっくりのボブの戯言を。

どっから見ても俺にしか見えないであろうこの姿を、あいつは " ボブ " として見てくれた。ボブという一人の人間として愛してくれた。

あいつ、どんな気持ちで俺の事を__。


身体中に無数につけられた、愛された痕がヒリヒリ痛む。

首筋から首元、胸から腹まで残る甘い噛み痕、吸い痕が、今更になって疼くように痛んだ。


申し訳なさで胸が潰れる。

気の触れた、哀れで情けない兄さんを、お前は気遣ってくれていたのか?

それとも真顔のボブの言い分を、心底信じてくれていたのか?


ラウダ__、俺の優しい弟__。

あんなに大事に思ってきたのに。大切にしてきた筈なのに。


いつもお前の数歩前に立ってきたのは、どんな時でも、咄嗟にこの両手を広げてお前を庇うためだった。

後ろにお前を隠すように立ってきたのは、無遠慮に飛んでくるあらゆる悪意の前に立ちはだかるためだった。

お前に手を上げようだなんて、邪な気を起こされぬように腕組みをして、周囲に対して常に睨みを利かせて回った。

お前の生まれに対する嘲り、侮辱、言葉の暴力の一切から、お前の事を守りたかった。そんな言葉を吐こうもんなら、俺はその言葉が終わらぬうちに相手に殴り掛かった。お前の耳に汚い言葉が届く前に、相手を打ちのめそうと必死だった。


こいつだけは絶対に守り抜くと、あの日、そう心に決めたから__。


 誰も彼もが俺の前から去って行った。そんな俺の前に、突然流星のように現れたお前は、俺に残された最後の希望だった。お前は俺にとって唯一無二の存在になった。こいつだけは絶対に失いたくない。そう固く誓った、何より大切なものだった。


憧れだった父さんに、何より大事なお前の事まで__。

自分が辛いからって、大好きな家族の事まで。記憶の全てに蓋をしてしまい込むなんて、俺はどこまで最低野郎なんだ。


そうだよな、アーシアンのあの子の言う通りだ、俺が死ねば父さんは__。

俺が代わりに死ねば父さんは__。

ジェタークも安泰だった、可愛いお前に、こんな苦労を背負い込ませる事も無かった。

全部全部、俺が悪いんだ、俺の責任だ。


子供の頃主力機だったデスルターは、ごっこ遊びの定番で__。

チャンバラや水鉄砲、ラウダとは、いつもなりきりごっこで遊んでた。

数えるほどしか無かったけれど、父さんともやり合ったチャンバラごっこ。


『俺、デスルターね!! 』

『じゃあ、そうだなぁ__、父さんは開発中のディランザ・プロトタイプにしとくかな』


そんな会話を思い出し、再び吐き気に襲われる。口元を必死で押さえ、激しい嫌悪と一緒にせり上がろうとする大きな嘔気の波を、何とか喉の奥に押し戻す。

やめときゃよかったんだ、あんな事。

中々勝てなくて、躍起になって。最後は父さんが勝ちを譲ってくれた。

勝てなくなんて、良かったのに__。


父さんだって分かっていれば、勝ちたくなんて無かった__。


静まり返った室内で、ぼたりぼたりと重たい音を立てながら冷たい雫が滴り落ちる。それは顔の真下で隣同士に並ぶ枕を容赦なく濡らした。


視界が滲むにつれて、頭の方も覚束なくなってくる。

いっそのこと、舌でも噛んで死んでしまえと自分の奥底から悍ましい声が囁きかける。その声に誘われるように、ぼんやりと低下していく意識の中、弛緩している舌に歯を宛がい掛ける。


その時、脳裏に誰かの後ろ姿が見えた。

見慣れた色のビジネススーツ。本社の机に向かい、椅子に腰かけ、俯き加減に少し姿勢を丸めながら、こちらに海老茶色の背中を向けている。

誰だ__? 父さんか__? 

ゆっくりと背後からカメラが回り込む。片手で額を押さえるその表情は、目元に影が掛かっており伺い知れない。しかし、噛み締められる唇は、酷く辛そうに見えた。褐色肌の細い指は、時折まごついている。慣れない手付きで情報端末内の書類の束と格闘しているようだ。やつれたせいか仕立てた物である筈なのに、少しだぶつくビジネススーツに身を包む、心細そうなその背中は__。

正面まで回らなくとも分かる。

今まで何百回、何千回と撫でてきた、大好きな藍色の髪。

ラウダ__、 そうだ、俺はラウダを守るために!!


慌てて意識を引き戻し、だらりと下がった舌を引っ込める。

何をやってる、駄目だろ、そうじゃない!!

尤もらしい詭弁を使って安易な道に走るな、もう逃げるな!!

そんなんじゃ、またラウダを苦しめるだけだ。

俺がすべき事は何だ?

俺がしたい事は何だった?

お前は、何のために軌道エレベーターに乗ったんだ!?


俺のせいで家族を失い、独りにさせてしまった。散々迷惑を掛けてしまった。愛する弟に対する贖罪とその窮地を救うため、俺はここに戻って来たんだろ!?

その一心で宇宙(ここ)まで戻って来たんだろっ!!!


『こいつの会社、もうすぐ潰れるんでしょ?』アーシアンの少年の一言で我に返った。自分の罪の大きさ重さに押し潰され、魂が抜け落ちたが如く殻に閉じ篭っていた俺は、そこで初めて会社の現状を知った。その瞬間、独り遺された愛する弟が脳裏をよぎった。

その姿は、かつてこの生家の前で対面した時の、線の細い少年のまま。瞳に映る光は無く、死んだような目をしながら、おどおどビクビクしながら落ち着かぬ様子で、こちらを恐々上目遣いに見上げていたあの日のまま。

幼い姿で、辛い、寂しい、助けてと両手で目を擦りながら、しゃくり上げ、すすり泣いているラウダが見えた。

その途端、俺は居ても立ってもいられなくなった。

この手はオルコットの裾を掴んで取り縋り、『教えてくれ』と叫んでいた。


「僕は兄さんのこと、ずっとずっと支えるよ。初めて会った時に言っただろ、覚えて無いの?」

俺と出会ったあの日の事を、ラウダは時折持ち出し嬉しそうに口にする。俺は気恥ずかしさもあり、大抵黙ったままそれを受け流す。しかし其の実、自分の方こそ心が救われ嬉しかったのだ。照れ屋の俺は、勿論それを口にしたことはない。だが、あの日、口を衝いて出た『弟がいたなんて、すっげぇ嬉しい』は嘘偽りのない本心だった。

お前は世界に色がついただとか、薔薇色に見えただとか、俺のいつかの誕生日、はにかむように口にしていたが、内心大変驚いたんだ。俺の方も、それと全く同じ景色が見えていたから。


俺は、護るべき大切なものが出来た事で大きく変わった。家の為、そして母さんが父さんに辛く当たられないため、強く『あらねばならぬ』と己を戒め続けてきた日々から、お前を守るために強く『ありたい』、強く『なりたい』と己を励まし、奮い立たせる日々へと変わった。

抑圧されていた毎日が、お前と過ごすことで、毎日毎時が、楽しいものへとガラリと変わったんだ。



 お前が来る前日の夜、父さんから急に話があった時、また面倒な事になりそうだと、少しばかりウンザリした気分になったりもしてたんだ。使用人が一人一人と辞めて行き、去っていくその後ろ姿を見送る時の、あの気持ちに似た何か。侘しさ。寂しさ。やるせなさ。そしてある種の諦めとかだ。


ああ__、まただ。また、俺がちゃんとしなかったから。ちゃんと出来なかったから。俺が不甲斐ないから。だから、みんなが去っていく。

優しくしてくれていたあの人も、あの人も__。

みんな、最後には俺から顔を背けて去って行く。


そして、今度去るのは……。とうとう、母さんなんだな__、と、そう思った。


 だから正直なところ、最初は心の底から歓迎するって感情で、出迎えたわけじゃなかったんだ、お前のこと。

父さんからは、母さんが家を出ることになった事と、今まで行方不明であった血縁者の所在が分かり、一緒に住む事になったと聞かされただけだった。情報はそれだけで、俺はお前が父さんに手を引かれて此処に来るまで、兄が来るのか姉がくるのか、弟が来るのか妹なのか、それすらも知らなかった。


 もう慣れてはいるんだ。誰かが去り、誰かがその代わりにやって来る。でも、それも長くは続かない。そんな事は過去に何度もあった。俺が父さんに求められる様々な事柄を、全てにおいてキッチリと完璧にこなせないから。父さんの満足のいく成果や結果を出しきれないものだから。皆、みんな、厳しい父さんに首を切られたり、当て擦られてはそれに耐えかね、愛想を尽かして去っていく。


父さんは俺の憧れだから__。父さんの方はどう思ってるのか本当のところは分からないけど、俺は父さんのこと、大好きだから。

気難しいところがあって、厳しくて、誰に対しても強い態度で接する父さんの傍にいてやれるのは、きっと俺しかいないから__。

母さんまでが去るってのは、少しばかり淋しい気持ちも無いではないが、これで母さんは殴られずに済む。心の何処かでホッとしたところもあった。

全ては詮方ない事だ__。


 それでも、何かが心の中でちょっぴり蟠った。ポケットに両手を突っ込んで、少し突っ慳貪な態度での対面になってしまったことは、どうか許してほしい。

あの日、遠目に初めて見たお前は、小さな拳を弱々しく握っていた。俯いた顔は不安に満ちており、酷く寂しそうで。その姿は今にも融け落ち、消え失せてしまうのでは?と心配になるほど儚げだった。


父さんが近寄ってきて。

『お前の弟、だ』と耳打ちしてくれた。


弟__、か。


 一度伏せた視線をもう一度上げて、お前の方を見た。こちらに怯えるように立ち竦む、お前の姿がこの目に映った。光の無い瞳をしたお前が僅かに視線を上げる。そんなお前と目と目が合った瞬間だった。

頭の中に稲妻が、体中にも轟音と共に、光に満ちた何かが、流れる流星のように駆け抜けた。その顔が、その瞳がこの目に強く焼き付いた。


お前のその瞳を見た瞬間から、俺はこいつを生涯守ると心に決めた。誰よりお前を護りたい、守ってみせると強く思った。


 気が付いたら俺の足は、お前の元に向かって歩き出してた。無意識だった。心細げに小さく震える細い肩を抱いた。藍色の頭をぐっと引き寄せ髪を軽く乱した。口からは『嬉しい』って言葉が出てた。抱き寄せた細い体は少しだけ温かかった。瞳に光は無くとも、こいつは俺と同じで確かに生きている、そう思った瞬間、体同士がぎゅっとさらにくっ付いた。細いお前の腕が、俺を抱き返してくれたんだと、すぐに分かった。今度はハッキリとした温かさだった、熱いに近い温度を感じた。心までが熱を持って、何だか急に勇気が湧いてきた。お前となら、きっと上手くやれる、何でも出来る、強くなれるって。そんな風に思ったんだ。


だって、もう一度視線を合わせたお前の瞳は__とても綺麗で。

大好きな父さんと同じ色の瞳で__。

それに今度は光が差してて__。


なんてあったかそうな茶色だろうって思った。琥珀のような。べっ甲飴のような。黄金色を帯びたその瞳の色に俺の目は吸い込まれた。なんて綺麗な色だろうって、思わず息を呑んだ。キラキラしてて美しい、まるで宝石みたいだと思った。


 お前が俺の元に来てくれた。だからこそ、俺は心の底から強くなりたいと思ったし、そうあろうと固く心に誓ったんだ。

あの日から今日までの俺は、お前が作ってくれたものだ。

全てはお前のおかげなんだよ、ラウダ__。


お前は、大好きな父さんがくれた宝物だ。俺にたった一つだけ残された最後の希望。

何より一番大切な、掛け替えのない、心の底から愛する人なんだ。



だから__。だから、今回こそはもう、失敗は許されない。

俺がやらなきゃ__。


ごめん、ラウダ。今までごめん。

今度は俺が、ちゃんとやるから。

全部、全部ちゃんとするから__。





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