君とまた会う時には
canola flower伸ばされた手を、取れなかったことがある。
掴まれた手を、離してしまったことがある。
交わした約束を、果たせなかったことがある。
それを、私だけが覚えている。
──それは祝福か、それとも呪いか。
◇◇◇
放課後の美術室。
鼻をつく独特の絵の具や他の画材が混ざった匂い。私はその中で、ひとり鉛筆を走らせていた。
記憶の中を辿って、ある風景を描いていく。さらりとした紙に乗る鉛筆の音が心地良い。
──キーンコーンカーンコーン……
「……え」
聞こえてきた最終下校時刻15分前を告げるチャイムの音で、私は自分が随分と時間を忘れて絵を描いていたことに気が付いた。
今日は美術部の活動はないが、先生に少々無理を言って美術室で絵を描かせてもらっていた。どうしても施設だと集中して絵が描けないから、と。
とはいえ部活ではないので最終下校時刻を過ぎるわけにはいかず、せっせと画材を片付ける。
自前の鉛筆は筆箱に。少し大きめの画用紙は部活でも使っている乾燥棚に入れさせてもらった。イーゼルだけは準備室に戻しておいて、と言われているので、えっちらおっちらと準備室まで運ぶ。
準備室の扉の前に着くと、一旦イーゼルを置いて扉を開けた。
扉を固定してイーゼルを運び込む。定位置に置くと、ふう、と一息ついた。私の顔を撫でるように風が吹く。
……風が吹く? この狭い、空調なんかろくに無い準備室で?
風が吹いてきた方を見やると、なんと窓が開いていた。この学校の防犯対策はいかがなものだろうか。
「──ぁ」
でも私は、そんなことよりも。
その窓の近くの荷物やらにもたれかかって寝ている男──上履きの色からして、3年生の彼に目を奪われた。
くすんだ緑色の髪。長めにカットされた前髪と残された横髪がかかる顔は、眠っていてもよく整っていることが分かる。
「んん……」
その人が声をあげる。
やはりその声に聞き覚えのあった私は、彼から目を離せずにいた。
「あれ、寝てた……ん?」
若草色の瞳に射抜かれ、私は動けなくなる。
「……君、誰?」
これが、私と彼の初対面──私にとっては、再会だった。
◇◇◇
私には前世の記憶がある。と言うと正気を疑われるかもしれないが、少なくとも私の他の前世持ち──身近なところだと、ニカ・ナナウラとの記憶に大した齟齬はないので本当のことだと思われる。少なくとも私だけの妄想ではないようだ。
自覚したのは、約1年前だったか。何がきっかけだったかすら分からないが、今では遠い過去の出来事を、事細かに思い出した。正直言って胸糞悪い前世だったので、思い出さないなら思い出さないで良かった、とも、少しだけ思う。
前世の記憶がある人の基準は謎。現に、ソフィにはそれがない。私とニカが無駄な嘘をつくような性格じゃないことを知っているからか、馬鹿にせず信じてくれてはいるけれど。
──僕と来い!
なんて、恥ずかしいプロポーズまがいのことを言ったくせに、彼はそのことを微塵も覚えていなかった。
唯一の救いは、彼がなんの因果が、今世でもエラン・ケレスの名前と顔だったことだろうか。さすがの私も、顔も名前も声も別人になっていたら気付ける自信がない。
……本当の名前を聞く機会を、逃してしまったとも、言えてしまうけれど。
彼と偶然美術準備室で再会したとき──彼にとってそれは初対面だったわけだけど──私は、もしかして彼にも記憶があって、あの日の約束を果たせるかもしれない、と思ったのだ。
──僕をあの絵の場所に連れて行け!
──あとで聞かせて、あなたの本当の名前
……現実はそんなに甘くなく、彼は私のことをこれっぽっちも覚えていなかったけれど。私のことを、と言うか、前世を。
「君、誰……?」
ぼんやりと見つめてくる瞳は確かにあの人のものだったけれど、その口から吐き出されたセリフから、私はこの人に記憶が無いことを悟った。
「──って、何、どうしたの!?」
「え……」
彼がギョッとした目でこちらを見る。
彼と出会えたことと、しかし彼には記憶が無いことと。嬉しいやら悲しいやら様々な感情がせめぎ合った私はその場でボロボロと泣いてしまったのだ。
「え!? ごめん、僕なんかした!?」
「あ、いえ、すみません……」
咄嗟に顔を伏せて涙を拭う。そんな私を彼は慌てた様子で見ていた。
まあそれも当たり前で、彼からしてみれば初対面の見ず知らずの後輩が起きたら目の前で泣いている、という状況なのだ。慌てない方がおかしい。
「な、なんでもな……っ、失礼、しました」
私はそう言い残すと、彼を置いて準備室を出る。カバンを乱雑に取り、足早に美術室を去った。
一緒に帰る約束をしていたソフィには泣き腫らした顔を見られたのでえらく心配された。帰ったら話す、と言ったらそこでは深く聞かれなかったけれど、夜、ニカと一緒に事細かに──そこまで話すことは無いと言えば無かったけれど──問いただされた。
会えたことを喜ぶべきか、記憶が無いことを悲しむべきか。正直どちらもあって、それから数日はいつもと調子が狂っていたように思う。
それぐらい、この出来事は私にとって大きなものだった。
◇◇◇
すう、とひと呼吸して扉に手をかける。
力を込めてガラリと扉を開けると、中央の前あたりの席に彼が座って勉強をしていた。
扉の音に反応してか顔をあげるとニコリと笑って手を振ってくる。
「やっほ。遅かったね?」
「……ゴミ捨てじゃんけんに負けてしまったので」
近くの机にカバンを置いて、準備室へイーゼルを取りに行く。チラリと顔を動かして彼の方を見ると、もう下を向いて勉強の続きをしていた。
週に一度、水曜日。美術部の活動が無い日に、私は先生に言って美術室で絵を描かせてもらっている。
……エラン・ケレス付きで。
何がどうしてこうなった? とは、まあ、私も思う。私としては、彼と一緒にいることができて嬉しい、という側面もあって悪い気はしない。
彼は美術部の幽霊部員だ。出会ってまだ間もない頃、こんな会話をしたことがある。
「絵、好きなんですか?」
「うーん、普通。ていうか多分、絵を描くのは下手な方」
「……じゃあなぜ美術部に?」
「さあ、なんでだろうね。ただなんとなく、見たい絵があるような気がして」
「見たい絵、ですか」
「うん、何かは分からないんだけどね。自分でも変だなって思うんだけど」
「……いえ」
それがもし、私が今描いている風景画の絵だったらいいななんて、幻想を抱きながら。
一度だけ彼の絵を見せてもらったことがあるが、まあ……なんというか、かなり下手だった。
私がコメントを渋っていると「あはは、無理になにか言わなくてもいいよ。下手でしょ、僕の絵」とのことだったので、自覚はあるらしい。
……なおのこと、なぜ幽霊部員とはいえ美術部員なのかが不思議でしょうがなくなってきたけれど。
1回、2回、3回。彼と会うたび、やっぱりこの人は前世のあの人と同じ人なんだ、と思い知らされる気持ちになる。
彼の立ち振る舞いは、前世とあまり相違ない。天使のような笑顔を振りまき、円滑なコミュニケーションを取る。
前世と違って、私に対しても、だ。
少し込み入ったことを聞こうとすればはぐらかされるし、茶化される。いつもニコニコと微笑んで、その裏では何を考えていることやら。
踏み込ませないし、踏み込んでこない。今世ではスケッチを覗かれることもなかった。目の前でイーゼルを置いて絵を描いていても覗きにくるような素振りはない。
なんなら、私があまり彼の──エラン・ケレスの名前を呼ばないこともあって、1日のうちに名前を呼び合ったことがあるかすら怪しい。
……それぐらいの、距離感だった。
間違いなく彼であることは確かなのに、もどかしい。しかも前世では私の方が突っぱねていたので、どう接すれば彼の琴線に触れるのかも分からない。
私から話題を振ってもそれっぽい回答をされただけで会話が終了してしまったり、前世と若干関係のあるような話をしても芳しい反応はなかったりと、なかなか上手くいかない。
「あなた、どうしてここに入り浸っているんですか?」
「んー? なんとなくだよ、なんとなく」
「……スペーシアンとアーシアンの差別についてどう思いますか」
「作文の宿題でも出たの?」
「何してるんですか?」
「数学の課題だよ」
「……シャディク・ゼネリとガンダムについてどう思いますか」
「僕理系だから歴史はよく分かんないなぁ」
「誕生日っていつですか?」
「え、どうしたの藪から棒に」
……ずっとこんな感じで、特に何も進まず、彼が前世を思い出すこともなく。あっという間に2ヶ月が経ってしまった。
◇◇◇
「それで、ノレア。エランさんとは何か進展とかあった?」
「ゲホッ」
ニカの唐突な発言に思わずむせ返る。当のニカはというとニコニコと笑いながらこちらを見ていた。
施設の食堂にて。「今日は友達と食べて帰る!」と言っていたソフィはいないので、私はニカと2人で一緒にご飯を食べていた。
「……何もないけど……」
「えーないの? 知り合ってもう2ヶ月なんでしょ? 踏み出しちゃいなよー」
「……えらく簡単に言うけど、あっちは記憶ないみたいだし」
「何かのきっかけで思い出すかもしれないよ? 辛いでしょ、ノレアだって。自分だけエランさんとの記憶持ってるの」
「それは……」
もごもご、と口ごもる。ニカの言うことももっともだったから。
ご飯を口に含んで反論できずにいると、ニカがペラペラと口を開く。
「それにさー、もうすぐ夏休みでしょ? エランさん、幽霊部員ならさすがに部活には来ないよね」
「来ないと思う」
「でしょ? なら、何かしないと忘れられちゃうよ?」
「さすがにそんなことは……」
ない、とは言い切れないところがある。あんな振る舞いをしていて、あの人は興味のないことに本当に興味がない。
仮に私に対して興味がなかったとして、さすがに存在を忘れられることはないと思うけれど、休み明けに名前を忘れられていてもおかしくないぐらいの関係であることは確かだ。
「……何か、か」
ニカにも聞こえないぐらいの小さな声で、私はひとりごちる。
急に黙った私を見て何を思ったのか、ニカは「そうだ!」と言った。
「何か遊びに誘っちゃえば? エランさんならノッてくれそうじゃない?」
「……それ、本気で言ってる?」
「え、うん、結構」
「あの人、ああ見えて内に入れる人は少ないし、関わりの少ない私が誘ったところで適当に誤魔化されて断られるのが関の山だと……何、その目」
ニヤニヤと何か言いたげにニカがこちらを見ている。
「ん〜? ノレア、エランさんのこと詳しいなって」
「は?」
「あと、前世で私は内に入れてもらえてなかったんだなって。ほら、あのグラスレーでの隔離部屋でさ──」
「変なこと思い出させないでくれる!?」
思わず大きな声が出る。意外と図太い神経を持つニカはそれでも「えへへ〜」と笑っていた。
いや、まあ、確かにあの部屋で私と彼、それからニカとを明らかに線引きしたのはあの人だけど。
よほど苦虫を踏み潰したような顔をしていたのだろう、ニカは私を見て「あ、ごめん」と言った。
「余計なことまで思い出させた?」
「……別に。平気」
「そう?」
ニカにまで話すことではないと思って、私の最期のことは話していない。ただ、私がそこら辺を誤魔化しているのを知ってか知らずか──いや、そもそもソーンが撃ち抜かれたという情報が前世でニカに伝わっている可能性もあるのだが──ニカはあまり深く聞いてはこなかった。
ただ、私と彼の関係について、前世と今世含めたら一番よく知っているのは彼女だろう。あの部屋では私と彼とニカの3人だったわけだし。
それはそれとして。前世で私と彼がどんな関係であろうと、彼はそれを知らないわけで。
「……だから、多分、何かに誘っても無駄。というか、気持ち悪がられて終わるだろうからあんまりしたくない」
「えーそうなの?」
「今の関係だって、約束してるわけじゃないし……」
そう。今、水曜日の放課後に美術室でたむろしているのは別段何かがあるわけではないのだ。
どちらかが来なくなれば、おそらくこの関係は終わりで。……正直、夏休みが明けたらこの関係が続いているかどうか怪しい。彼も一応受験生なんだし。
「でも、私はとにかくノレアの想いを応援するからね!」
「……それは、どうも」
◇◇◇
授業が終わって、消されていく黒板をぼーっと見つめる。
歴史の授業だった。深緑の黒板に白く刻まれた文字は、クワイエット・ゼロ、ミオリネ・レンブラン、ベネリットグループ。その他色々。
遠い昔の言葉であるはずのそれらは、私にとっては身近なものだった。シャディク・ゼネリ──プリンスに至っては、広い目で見ると上司のようなものだったし。
「ノーレアっ!」
「わっ……ソフィ、どうしたの」
「どうしたのって、ノレア、お昼食べないの?」
「お昼……あ、今4時間目だったっけ」
ついぼーっとしてしまっていると、お腹を空かせたソフィが待ちきれないといった様子で飛びついてきた。
「購買にパン買いに行こー」
「また? お弁当持ってきてるんじゃないの」
「足りない!」
「……仕方ないなぁ」
そう言って席を立つ。せっかく良い天気だし外で食べようよ、とソフィが言うので私もお弁当を持っていった。
購買まで話しながら向かう。と、購買に見慣れた人影がいることに気がついた。
「あ」
「エラン・ケレスじゃん」
「ちょっ、バカ、ソフィ。一応先輩なんだから敬称つけてよ」
「え? ああ、ごめんって」
ケラケラと笑う友人は危なっかしい。彼はあれでもイケメンなので、ファン……というか、取り巻き? が結構いるのだ。目をつけられたらたまったもんじゃない。
遠目から彼の姿を見ていると、パチっと目が合った。……ような気がした。でもすぐにふいっと目を逸らされてしまう。
「…………」
まあ、結局。今世での彼の中の私は、そのぐらいの扱いなのだ。
校庭の、ちょうど木陰になるベンチ。日頃取り合いになる場所だが、今日は運よく空いていた。
購買で買った菓子パンを美味しそうに頬張るソフィの横で私もお弁当を食べる。
「そういえば来週末だね、夏祭り」
「夏祭り?」
「うん。夏祭りってか、花火大会? ほら、毎年やってるじゃん。海の近くでさ」
「あー、あの大きなやつ」
花火大会。毎年大盛り上がりしている、この地域では夏の一大イベントだ。
屋台もかなり充実していて、すべて回ろうと思ったらかなりの時間を要するぐらいには大規模なお祭りだ。
「ソフィ、今年も行くの?」
「もちろん! ノレアは行かないの?」
「……人混みは、苦手」
「えー、楽しいのにぃ。ノレアと一緒に楽しみたいんだけどなー」
「まあ、気が向いたら」
こんなことを毎年言っているような気がするけれど、大体はソフィに引っ張られてほぼ毎年花火大会には行っている気がする。
行ったら行ったでとても楽しいから良いけど。
「なんか今年の花火大会ね、すごいらしくって」
「そうなの?」
「うん。お祭りが50周年だとかなんとかで、いつもより花火の数とか屋台とか多いらしいよ」
「へぇ」
それはちょっと楽しみかもしれない。……なんて言うと、当日ソフィに文字通り振り回されかねないので言わないけれど。
ぱく、と卵焼きを頬張る。ふんわりと甘い味が口の中に広がっておいしい。
ソフィは食べ終わった菓子パンの袋を結ぶと、何かを思いついたように「あ、そうだ」と口にした。
「ノレア、花火にエラン・ケレスのこと誘えば?」
「グフッ」
唐突に挟まれた親友の爆弾発言に思わず口に入れていた卵焼きを吹き出しそうになった。
「ゲホッ……何、ソフィ、突然」
「えー? だって夏祭りとか花火って言えばカップルの一大イベントじゃん」
「そんな少女漫画みたいな……ていうかカップルじゃない」
私が緩い否定をするとソフィは「そうかなぁ」と言う。
「良いと思うんだけどなー」
「大体あの人が私と一緒に行ってくれるわけ……」
「分かんないよ? 案外ノッてくれるかも」
「えぇ……?」
昨日ニカにも言ったが、そもそもあの人が私の誘いに乗るとは思えないのだ。今世でそれほどの関係値を私は彼と築けていない。
しかし、ソフィはなおも続ける。
「当たって砕けろだよ! 一回誘ってみなって!」
「砕けちゃダメな気がするんだけど」
「細かいことは気にしなーい!」
◇◇◇
放課後。美術室の扉に手をかける。
水曜日。部活はないが、代わりに私がひとりで絵を描く日だ。なぜか活動日でもないのに幽霊部員である彼がここに来る日でもある。
ガラリと扉を開けると、今日は彼の方が一足早かったようで、机に突っ伏して寝ていた。
起こさないように、準備室から音を極力立てずにイーゼルを持ってくる。
いつものように、風景画の画用紙をセットして……私は、それにとりかからなかった。
カバンから小さなスケッチを取り出して、さらさらと鉛筆を走らせる。
人物画を描くのはいつぶりだろう。高校生になってからは施設の子たちの似顔絵を描くこともほぼなかったので、本当に久し振りだ。
さりさり、と鉛筆の音と、カチコチ、という時計の音だけが美術室に響く。
もう少しで描き終わる、というところで、彼の瞼が動いた。
「ん……」
思わずサッとスケッチを隠す。というか、気が付かないうちに随分と近くまで寄ってしまっていたようで、急に恥ずかしくなって椅子から立ち上がった。
「んあ……あれ、ノレア? 来てたんだ」
「はい。……というか、あなたが寝過ぎなだけです」
「え、……嘘もうこんな時間!? ちょっと、起こしてくれても良くない!?」
「あなたが随分と気持ちよさそうに寝ていたので、起こすのがもったいなかったんですよ」
「そう言われるとなぁ……」
彼はポリポリ、と頭をかく。ついで、ふわりとあくびをしたあとは、リュックから出した問題集を開いていた。
私はイーゼルの前に置いた椅子に座る。
「……あの」
「ん? どうしたの?」
「いえ、……夏休みは、来ないんですか? 学校」
「いや、受験準備とかあるし、来る日はあると思うよ」
「そうですか」
いや、そうじゃないだろう、と心の中の自分が言う。聞きたいのは、そういうことじゃなくて。
「部活は来ないんですか?」
「うーん、僕元々幽霊部員だしね。そもそも活動日すら知らないや」
「なんだったら教えますけど」
「いやー良いかな。そもそも3年生はそろそろ引退だし」
「……そう、ですよね」
と言うことは、夏休みに入ったら彼とは確実に会えなくなるのか。
黙りこくった私を少し不思議そうに見て、彼は再び課題に取り掛かった。カチコチと音を立てて時計の針が進んでいく。そこに鉛筆の音はない。
「──ア、ノレア? どうしたの?」
「えっ、あ、なっ、なんですか?」
ぼーっとしていたところに彼に話しかけられたことに驚き、持っていた鉛筆を落としてしまう。
彼は足元の方に転がっていった鉛筆を拾って、丁寧に手渡してきた。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして。どうしたの、何か考え事?」
「え?」
「だって、絵描いてないみたいだし。なんかあった?」
「あ、いや、……その」
「うん」
あなたと夏休み期間会えないのが寂しいです。……なんて言えるわけがない。言ったらなんと揶揄われるか。というかきっと心の中で引かれて終わりだ。
なんて考えを巡らせていると、返事をしない私に不思議に思ったのか、彼がきょとんとした目でこちらを見てくる。
な、何か。なんでもいいから返さなければ。
──何か遊びに誘っちゃえば?
──花火にエラン・ケレスのこと誘えば?
頭の中で2人の言葉が繰り返される。いや、そんなリスクが高いことできるわけない。でもチャンスと言えばチャンスなんじゃない?
ぐるぐるぐるぐる。頭の中で色々な言葉が飛び交って、私は1人で余計に混乱していく。
そんなに悩むなら誘ったらどうなの? でも引かれたら終わりだよ。
じゃあ誘わなければいいでしょ? ……それはそうなんだけど。
「なんでもないなら別に」
「は、花火大会」
「うん?」
「花火大会、……い、一緒に行きませんか?」
「……え?」
彼が驚いた顔をする。迷いに迷った結果、私の口から出たのは誘いの言葉だった。
体温がぶわっと上がるのを感じる。ふと自分のふわっとしたボブカットに感謝した。きっと耳は真っ赤になっているだろうから。
「……花火大会?」
「は、はい」
「毎年海の方でやってるやつ?」
「そうです」
あ、無理かも。なんとなく直感的に思う。
彼は少しだけ考えるような素振りを見せたあと、口を開いた。
「良いよ。一緒に行こっか、花火大会」
身構えつつ聞こえてきた返答は、私が想像していたものの上を行っていた。
「……え?」
私は思わず目を丸くした。
彼はそんな私の反応をどう思ったのか、首を傾げて聞いてくる。
「なーにその反応。君から誘ったんでしょ?」
「そう、なんですけど。え? 行くんですか? 私と?」
承諾されたにも関わらず疑いの目を向ける私に彼はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ仮に嘘って言ったら?」
「こ……許さないです」
若干前世に引っ張られて「殺します」と言いかけたがなんとか修正する。
彼はなんだか満足そうに笑うと、リュックからスマホを取り出した。
「はは、じゃあ決まりだね。どうする? 来週の水曜ってもう夏休みだよね。なら今時間とかサラッと決めちゃおっか」
「あ、はい」
え? なんでこの人ちょっと乗り気なの?
自分で誘っておいてこんなことを言うのも変だけれど、断られるだろうと思っていたのでいくらか拍子抜けする。
彼がスマホで何かを調べ始めたので私もなんとなくカバンからスマホを取り出した。
「花火大会……あ、これだよね?」
「そうですね」
彼から見せられた画面を見る。綺麗な夜に咲く大輪の花火をバックに花火大会と筆で書かれたような文字が浮かんでいた。
「花火の打ち上げは8時からか。何時ぐらいに集まる?」
「6時に駅前、とかで良いんじゃないですか」
「オッケー、了解」
スルスルと予定が決まっていく。あまりのスムーズさに私は半ば夢なんじゃなかろうかという気さえしてきた。
「あ、そうだ。連絡先も交換しとこうよ、何があるか分からないし」
「へ?」
「ほら、スマホ出して」
言われるがままスマホを差し出し、通信で連絡先を交換する。もともと入っている人はソフィとニカと、施設の子が何人かと。美術部やクラスメイトも何人かいるけれど、男の人の連絡先はほぼ初めてな気がする。
……いや、何を考えているんだ、私は。
「ありがとう」
「……どうも」
ちょうどその時、キーンコーン……と最終下校時刻15分前のチャイムが鳴った。
「わ、私、イーゼル戻してくるので」
「あ、そう?」
なんだか急に恥ずかしくなって、私はガタガタと音を立ててイーゼルから画用紙を外す。そそくさと乾燥棚に放り込むと、机の上に出していたものをしまい終えた彼が声をかけてきた。
「ずっと気になってたんだけどさ、君、なんの絵描いてるの?」
「秘密です」
「えー、教えてくれても良いじゃん」
「……あなたに、教える必要が?」
「君時々すっごい毒舌だよね」
ちょっと続き→
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