ごめんねスレッタ・マーキュリー─解き放たれた厄災─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─解き放たれた厄災─


※児童性的搾取の表現、暴力的な表現があります。




 映像にノイズが走る。

 薄暗い部屋の中、色々な物が散乱している。

 横たわる男がいる。隅で震える男がいる。

 不機嫌そうな、楽しそうな、不可思議な表情で笑っている男がいる。

 自分はぼんやりとそれを見ている。

 先ほどまで暴力の中心にいたはずなのに、いつのまにかそこから外され、今は別の自分が暴力を振るっている。

 その光景をただぼんやりと見ている。

 両手をかざす。

 誰かに褒められたその両手は、ところどころ皮膚が破れ、血が滲み、手の甲が腫れあがっている。

 薄暗い部屋の中。色々な物が散乱して、そのどれもに赤い色が散らばっている。

 ノイズが走る。

 今見ている映像は、まるで嘘のようだった。



………

…………

……………



 エラン・ケレスは元々、暴力とは縁遠い子供だったと思う。

 まだ本来の名前で呼ばれていた頃のことだ。遊び、学び、家の手伝いをし、そんなありふれた毎日に溢れていた。

 ペイル社で教育されてしばらくの間も、暴力とは縁遠い子供だったと思う。

 基礎的な勉強、運動、似たような子供たちと過ごす無機質な集団生活。たまに恐ろしい目にもあったが、あの頃はまだ平和だった。

 手足が伸び、周りにいる子供たちが少なくなってから、少しずつそれは忍び寄って来た。

 基礎的な勉強、運動、検査、実験、いつの間にかそこに重火器の使用訓練や、モビルスーツの操縦訓練も加わっていた。

 まるで何かのパーツを作るかのように、何かの商品を作るかのように、自分たちの体が作り変えられる。そんな毎日を過ごしていた。




 エランは端末を片手に持ち、出来る限りのスピードで狭い裏道を歩いていた。

 アパートへはまだ大分時間がかかる。その間にエランは家で待っているはずのスレッタ・マーキュリーの端末に連絡をしていた。

 耳元で、焦れるほどにゆっくりとした音が繰り返される。

 コールは数回。…まだ彼女は出てくれない。

 焦燥に駆られながらも、エランの足は目的地に向かう。

 あらかじめ調べ上げた周辺の情報を頭の中に叩き込んでいたおかげで、今のところ時間のロスもなく進めている。

 大通りはなるだけ使うつもりはなく、裏道を中心にしたルートを選択している。この時間の大通りは昼食を求める人々で混んでいて、かえって足が鈍ってしまうからだ。

 はやる気持ちを抑えながら、最短距離のルートを進む。それでも、このままだと20分以上はかかるだろう。

 コールは七回。…まだ、出ない。

 いつの間にか早歩きではなく小走りになっている。横道から出て来た車や人にぶつからないよう注意しながら、耳だけは端末に集中する。

 だが、いつまで経っても変化はなかった。

 コールはもう、十回をとうに超えている。こんなことは初めてだ。

 エランは鳴りやまないコール音に見切りをつけ、本格的に走り始めた。

 碌に着替えることもなく工場から飛び出したので、足元は鉄板入りの重い靴を履いている。けれどアパートへの距離くらいならさほど遅れること無く到着できるはずだ。

 基本的な体の動かし方はペイルで散々に叩き込まれている。危険物を予測しながら動くことも、遮蔽物を避けながらスピードを維持する方法も、自然と選択し行う事ができる。鉄板入りのセーフティシューズを履いていてもそれは変わることはない。

 まるで戦うための兵士を作るような訓練を受けていたが、今この瞬間にはありがたかった。

 このままのスピードなら10分かからずに家に戻れる。

 けれど嫌な予感はますますひどくなる。常に無いほど呼吸が乱れ、まるで心臓が引き絞られるようになる。

 エランは全力で走る。

 走る。ひたすらにアパートへと向かう。

 エランの頭に、何故か数年前の情景が思い浮かんだ。




 当時のエランは、体が小さかった。

 あまり肉が付いていない少年らしい未成熟な姿をしていた。

 ある日学園へ行けと命令され、商品を加工するような気安さで顔を作り変えられた。

 鏡を見ると、見慣れない人形のような誰かが自分を見つめている。

 これはどうやら、ペイル社の後継者の顔らしい。

 強化人士の中から自分が選ばれたのは、おそらく背格好が似ていて、モビルスーツの操縦が必要水準域に達していたからだろう。

 特に詳しい事情は聞かされていなかったが、学園での生活について説明を受けた時にある程度推察をすることはできた。

 強化人士としてのナンバリングはNО.4。けれど偽物の『エラン・ケレス』としては自分がきっと初代になる。

 学園へは来年の新入生としてではなく、今年に1年生の途中で編入すると聞いた。他の御三家との兼ね合いだそうだが、何にしてもいずれはペイルの後継者となる『エラン・ケレス』として相応しい成績を治めなければならない。

 厳しくなるだろう訓練。厳しくなるだろう学習。強化人士として施される数々の実験だってすべて免除されるわけではない。

 けれど選ばれたのならやるしかなかった。使い物にならなくなったらすぐに廃棄されてしまうからだ。

 決意を固めながらも、まったくの見知らぬ顔を鏡越しにジッと見つめる。

 近い将来に訪れるだろう、様々な苦労、様々な試練。

 けれど、想像していたこととはまったく別の、地獄のような時間が繰り返されることを…『エラン・ケレス』になったばかりの自分はまだ知らなかった。




「は…ッは…、…ッハ…ッ」

 どうして…何故そんな昔のことを考えるのか分からないままに、エランは裏路地を走り続けた。たまにすれ違った人が驚いたようにこちらを見るが、気にしている余裕はない。

 確信にも似た胸騒ぎがする。乱れた呼吸でおぼれ死にそうになる。

 荒い画像の中でこちらを暗く見上げて来る男。

 話しているとどこかホッとした気分になる男。

 常にない荒げた声でこちらに忠告をする老人。

 散々追い詰めて泣かせてしまった大切な少女。

 一歩進むごとに頭の中に流れ去り、こちらを急かしてくる様々な記憶たち。

 でもやはり、一番に思い出すのは暗い暗いペイルの調整台の部屋だった。

 嫌な記憶を振り切るように、裏通りから大通りに出る。この辺りからは店も少なく、アパートまでほぼ直線で行ける。

 この道は何度も彼女と一緒に歩いた。多くは夜だったけれど、一番最初、アパートに越してきた日は朝だった。

 明るい光に照らされながら歩く彼女が、楽しそうにアパートのことを話しながら笑っていた。

 その幻影を追い抜くように全力で走り抜け、ようやくたどり着いた外付けの階段を一段飛ばしで上がっていく。なるべく音をさせないように気を使うだけの理性はあったが、それでも少しは辺りに響いたかもしれない。

 はぁ、はぁ、といつになく息を荒げながら、ドアノブに手を掛ける。


 ギィ…っ。


 鍵が掛かっていない。

 エランは一瞬ピクリと動きを止めると、すぐに頭の中での切り替えを完了させた。呼吸を出来る限り静かにさせ、扉を小さく開けるとその隙間に体を滑り込ませる。

 玄関に見慣れない靴が見える。…男物の靴だ。

 一瞬最悪のことが頭に過ぎったが、誰かの話し声が聞こえたのでそちらに耳を集中させる。

 音がなるべく出ないようにしながらも、素早く靴のまま廊下を進む。手元には防犯用かつ擬装用のペンを握り締める。モビルクラフトを緊急停止させる時に使ったものだ。

 尋ね人は一人。おそらく喋っている人物だ。悠長に靴を脱いでいることから襲撃が目的ではない可能性がある。反して彼女の…スレッタの声は聞こえてこない。

 だが、話し声が聞こえるということは無事なはずだ。

 …無事でいてくれ。

 穏やかに話しているのなら警告を、緊迫した状況ならば彼女の援護を、とにかく尋ね人を拘束するところから始めなければいけない。

 この時のエランはまだ冷静に考えられていた。

 緊急時にはそうするように訓練されていたし、騒いでスレッタの不利になるようなことは避けるべきだと思っていた。

 けれど、それはダイニングに入るまでだった。

 その光景を見た瞬間、今まで考えていた何もかもが吹き飛んだ。

 男がスレッタの上に跨っている。

 下にいるスレッタは意識がないのか、力なく投げ出された素足だけがエランの目に映る。

 気付けば全力で男の服を掴み、近くの壁へと叩きつけていた。




 数年前の事だ。

 とはいってもそれほど昔ではなく、2年ほど前のことだろうか。

 エランは成長が遅い子供だった。

 体の大きさもそうだが、男としての成長も遅く、また欲求は薄かった。

 だから自分の体を執拗に触って来る男のことが、最初は理解できなかった。

 あの頃は散々に体や脳を酷使されたあと、最後に一日の仕上げとして調整台の上でパーメットを流されていた。

 調整が終わると、いつもぐったりと脱力して台の上に凭れ掛かってしまう。後に残るのは体をすぐには動かせないほどの深い倦怠感だけだ。

 そんなエランの体にいつも覆いかぶさって来る男がいた。当時のエランの体を調整していた男の一人だ。荒く上擦った息を吐きかけながら、エランの顔をよく見つめていた。

『綺麗な顔だなぁ。可愛いなぁ。ああ、『   』だなぁ』

 言われる言葉はいつも不愉快になるものだった。

 綺麗だとか可愛いだとか、エランの人生で言われたことはない。だから、これは自分ではなく『エラン・ケレス』に対しての言葉だ。

 偽物の顔を褒められたところで、それが何だと言うのだろう。

 気怠さを感じつつも反応を示さずにいると、男はなんの前触れもなくベロリと頬を舐めてきた。さすがに驚いて目を見開くと、狙い通りだと言うようにニヤニヤと笑みを浮かべている。

 反応したことで、男を喜ばせてしまったのだ。

 しまったと思ったが、もう遅かった。調子に乗った男によって、ベロリ、ベロリと、何度も頬とこめかみを舐められる。

 至近距離から嗅ぐ男の口の臭さは最悪だった。相手の舌の感触も、自分の肌や髪が唾液で濡れる感覚も、気持ちが悪くて吐きそうだ。

 卒倒してしまうかと思ったが、こんな暴挙を行う相手の前で意識を失うなんてしたくはない。

 必死に我慢していると、次第に大胆になった男は口元に狙いを定めて来た。

 いくら幼くてもこれは分かる。親密な愛情表現。極めて大切な人にしか許してはいけないもの。

 キス、口付け、そう言われるものを男はエランにしようとしていた。

 力の入らない体を精一杯使って抵抗するが、ガッシリと両手で顔を固定されて逃げられない。男の汚い口が自分の口につきそうになる。

『おい、粘膜を接触させるのはマズイ。実験結果にデータが残る可能性がある。触るだけにしておけよ』

 もう一人の男の静止がかかった。

 男は邪魔されて少し不満げだったが、結局はエランを開放した。心底ホッとしたが、それで男の行い自体が無くなるわけではない。

 舐められないのならその代わりに、とでもいうように、体を触られる時間が増えていった。

 今度はもう一人の男も何も言わなかった。

 時間が経つと共にだんだんと男の手は無遠慮になり、最後の方はエランの男の印にまで手が伸ばされるようになった。

『何の反応もないなぁ。まだ子供なんだ、可愛いなぁ』

 興奮で震えた男の声が頭上から聞こえてくる。

 反応自体はしたことがある。起きた時に精を吐き出していたことだって経験はある。けれど目の前の男にどんなに触られても、ただ気持ち悪いだけだった。

 強いストレスに晒された結果、エランの成績は伸び悩むことになった。

 既定の成績に達していない間は、当然学園への編入許可が下りることはない。心に絶望が押し寄せてくる。

 頭を酷使し、体を酷使し、最後にはパーメットを流されて、碌に抵抗できない地獄の時間が続いていく。

 それでもエランは諦めずに学習を続け、予定より少し遅れて学園への編入許可が下りることになった。

 一度外へと出てしまえば調整の時間はぐっと減る。本社に来るのも週に1回か2回だけで済む。男に触られる時間もそれだけ少なくなるだろう。

 エランはかつてないほどの安堵の気持ちに包まれた。

『なぁ、粘膜の接触がなければ、いくらでも触っていいんだよな?』

 男がそう言って、見た事がない薄く小さなパッケージを取り出すまでは。




 エランは衝動的に侵入者に手を出していた。

 力いっぱい引っ張ったからか、掴まれた侵入者は勢いよく後ろへと吹っ飛んでいく。壁に激突して、大きい音が響き渡った。

 入れ代わりでスレッタのそばに立ち、振り向いて様子を確認する。そうして、息を呑んだ。

 彼女は朦朧として、意識がはっきりしていないようだった。服は乱れ、髪はぐしゃぐしゃになり、顔のすべてが涙で濡れていた。

 下半身には手を出されてはいないようだが、胸の辺りは何かの液体で濡れそぼっていた。

「うぐぅ…、あ…。か、カリバン。突然家に来てごめん。あの…」

 一時的な痛みから復帰したのか、侵入者───工場の上役が馴れ馴れしく話しかけてくる。

 やはりこいつが犯人だった。怒りがふつふつと沸いてくる。

「彼女に、何をしたんですか…」

 エランはすぐにでも殴りたい気持ちを抑えながらも、まだ冷静に声を出すだけの理性があった。倒れたままのスレッタが、朦朧としながらもこちらをジッと見ていたからだ。

「な、何もしてないっ!カリバンが心配するようなことは、何も…」

 男はそんな見え透いた嘘を言う。

「じゃあなぜ彼女はこんなにボロボロになっているんです」

 怒鳴りつけたい気持ちを我慢しながら、疑問を投げかける。

「それは、さっきまで泣いてたからで…。少し乱暴なことはしたけど、誓ってそういう意味で彼女に手を出してない」

 馬乗りになって、彼女に顔を近づけて。そんなことまでしたというのに、この男は何を言っているのだろう。

 ……もういい。すぐに制圧する。気絶でもさせて、そうして、彼女の手当てをしてあげなければ。

 見切りをつけてすぐにでも行動しようとしていたエランは、続く言葉に目を見開いて硬直した。

「カリバン、きみのことが好きなんだ」

「───」

 その言葉は、エランのすぐそばまで迫っていた…恐ろしい過去の記憶を呼び覚ました。


 ───綺麗な顔だなぁ。可愛いなぁ。ああ、『好き』だなぁ。


 ぐらり。

 視界が揺れる。

 吐き気が込み上げてくる。

 自分が今どこにいるのかすら分からなくなる。

「だから、彼女に手を出していない。彼女に教えられたんだ…スカーレットに、ちゃんと言えって」

「………ッ」

 それでも、男が口に出した名前が辛うじてエランを立ち直らせた。

 スカーレット。

 スカーレット。

 それは、エランの大事なスレッタ・マーキュリーのことだ。

 彼女の姿を見る。ぼんやりとしているが、まだ意識は保っている。目に見えて殴られた後もない。けれど、彼女は憔悴している。とても弱っている。

 弱るようなことを、この男はしたのだ。

 だというのに、この男は馴れ馴れしくスレッタのことを呼んでいる。とても気軽に、友人のように───自分が何をしたのか、まったく理解していないかのように。

 ぐつぐつと腸が煮えくり返る。まるで灼熱の炎が腹の内から生まれ出たようだ。

 今まさに、この場にスレッタ・マーキュリーを傷つけた者がいる。なら、エランがするべきことは一つだけだった。

「か、カリ…」

「黙れ」

 男の口から何も聞きたくない。早急にその口を閉じさせなければならなかった。

 そうして、ずっと胸に秘めていた一言を言い放った。

「もう一言も喋るな。好きだのなんだの───気持ち悪いんだよ」

「───、……、…」

 その時、視界の端でスレッタが小さく口を動かしたかと思うと、スゥ…と意識を落としていった。

 もう一度彼女の方を見て、痛々しい涙の後を拭っていく。髪も梳いて彼女の姿を整えながら、エランは小さく笑っていた。

 よかった。さすがに彼女の見ている前で、暴力を振るう訳にはいかなかった。


 でも。これで大丈夫。

 思う存分あいつを排除することができる。


 エランはゆらりと立ち上がった。相手はなぜか、震えている。あの日の男のようだった。

 ノイズが走る。

 映像が乱れる。

 記憶が混濁する。

 エランはあの日の自分のように、排除すべき対象に全力の拳を叩きつけた。


「ギゃッ!!…!…ッ、…ッ…」

 耳障りな音がする。

 このままではスレッタが起きてしまうだろうが。エランはのたうち回っている男の襟足を掴むと、ずるずると廊下に引き摺って行った。

 男はなんの抵抗もなくダイニングから引き離される。

 なんだ。とても簡単だ。最初からこうすればよかった。

 エランは掴んでいた襟足を離すと、まだ混乱から立ち直っていない男の顔を覗き込んだ。

「ひッ…カリバ…」

 男が何かを言おうとしたので、もう一発鼻に叩き込む。パッと赤色が飛び散った。

 ますますあの日にそっくりで、エランは楽しくなってきた。

「や゛、やめで…っ」

 あの日とは、男が避妊具を持ち出して、自分を犯そうとした日のことだ。

 エランは最初、それが何に使うものなのか分からなかった。けれど男が下半身を露出させ、パッケージから取り出した薄いゴム状のものを見せつけるように付けたことで意味を悟った。

 次いで男がエランの術着だけでなく下着まで脱がそうとしたので、死に物狂いで暴れたのだ。それまでの倦怠感が嘘のように、すさまじいまでの力が出た。

「ごめ゛…ッごべ…なさ…っ」

 あの時の男もこんな風に情けない有様になっていた。…いや、もう少しマシだっただろうか。当時の自分は体も小さく、一瞬はすごい力が出たものの、ここまで継続して殴れはしなかった。

 あの日の男を完膚なきまでに破壊したのは、もう一人の自分だった。

 どこから騒ぎを聞きつけて来たのか、初めて会ったオリジナルのエラン・ケレスは、エランが暴れまわった直後にやってきた。

 彼は面白いものを見たような顔をした後に、ボロボロになった両手を楽しそうに褒めてきた。

『初めまして、『俺』。俺とは違ってゴツイ手だなぁ。格好いいじゃないか』

 当時のオリジナルは自分よりも随分と背が高かった。学園へ無理なく編入するために、年齢を若く偽ったデータを提出していたのだと後で知った。

 とうに終わった成長期をもう一度迎えるためにも、影武者は必要だったのだ。

 機嫌が良さそうにオリジナルとは違う形のエランの手を褒めた後、彼はほんの少しだけ笑みを歪めて下半身をむき出しにした男を見やった。

『ようやく『俺』の学園生活が始まるってのに、随分とケチをつけてくれたじゃないか。足を引っ張る奴なんて、消えちまったほうがいいよなぁ?』

 そうして排除は始まった。

 成人した健康体の男性であるオリジナルの暴力は、容易に男を壊していった。

 いつの間にかエランは蚊帳の外に追いやられ、代わりに中心となったもう一人の自分によって、今まで恐怖の対象だった男がボロボロになっていく。

 オリジナルは容赦がなく、男の体を思いきり上から踏み抜いていた。わざわざ殴るのが嫌だったのか、的確に男の急所を捉えていく攻撃だった。

 思考にノイズが走る。映像が乱れるような感覚を覚える。エランはどこか遠い世界のような、他人事のような気持ちでその様子を眺めている。

 けれどその光景は、いつまでもエランの心に残っていた。

「ゆ゛る゛じ…でぇ…、ヒィ、ぃ…」

 今の自分はまるであの時のオリジナルのようだった。違うのはいちいち手で殴っていることだろうか。

 制圧するのに使おうと思っていた防犯用のペンは、いつのまにかどこかへと消えてしまった。けれどあれはあくまで防犯用なので、今この時には似つかわしくない。

 エランは男を完全に排除しようとしていた。あの時のオリジナルのように、恐怖の元は摘んでしまわなければならない。

 そうしなければ、スレッタの安全は保障されない。

 男の欲望には底がない。自分ですら肉欲に振り回されている。そんなあらゆる危険から、彼女を守らなければいけない。

 男を殴る。顔面はもう膨れ上がっている。けれど男はまだ生きている。動いて逃げようとしている。ならば危険があるということだ。

 エランは殴りながら、ぶつぶつと声を出している自分に気が付いた。

 消えろ。消えろ。消えてしまえ。

 そう言っていた。

 目の前にいる男と、自分の欲望に対して言っているのだと分かった。

 何もかもが消えてしまえばいい。いらない。自分すらも。

 あの男のようにスレッタを怯えさせる未来の自分を幻視して、いまこの瞬間にすべてを消し去ってしまいたかった。

 殴った拍子に皮膚が破ける。赤色が飛ぶ。指の骨が見えるまで殴り続けてやろうかと思ったが、ふと意識を失ったスレッタのことが頭に浮かんだ。

 辺りに散らばる色を見て、彼女の綺麗な赤髪を連想したのかもしれない。

 そうだ、早く彼女を手当てしなければ。こんな八つ当たりめいた暴力はおしまいにしよう。

 もっと殴っていたかったが、スレッタのほうが遥かに大事だ。だからエランはすぐに終わりにすることにした。

 あの時のオリジナルのように、足で踏みつければすぐ終わる。

 オリジナルは容赦がなく、男を思いきり足で蹴りつけていた。最後の方は顔面や喉を踏み抜いてすらいた。それまでは生きていた男も、痙攣したのを最後に動かなくなった。

 そうして、当時のエランに平穏が訪れた。

 きっと今の自分ならできる。あの時のオリジナルのように、今度はエランがスレッタに平穏をプレゼントしてあげられる。

 汚れた廊下を這いずって逃げようとする男の上で、エランは足を大きく上げた。鉄板入りの靴ならばよほど狙いが甘くなければ一発で終わるだろう。

 そうして力を加えようとしたタイミングで。


「やめろぉッ!!」


 聞き覚えのある声が割り込んできた。

 直後に体に衝撃を感じる。玄関から入って来た第三者が、エランに突進してきたのだ。

 さすがに片足を上げたままでいられなかったエランは、両足で床を踏みしめてバランスを取った。直後に自分の横腹にしがみつく第三者を力任せに壁際に叩きつける。

 邪魔が入ったが、関係ない。まずは目の前の男を排除することを優先する。

 再び男の上で足を振り上げ、今度こそ何の躊躇もなく振り下ろす。

 けれどすぐに起き上がっていた第三者が、男とエランの間に滑り込んできた。

「ギャアッ!!」

 スピードが完全に乗る前にエランの足が第三者の背に叩きつけられる。肩にほど近い位置だったので脊髄は損傷していないだろうが、鉄板入りの靴だ。ただでは済まないだろう。

「ッ、カリバン!カリバン!!許してくれ!若を許してくれ!!」

 第三者は悲鳴を上げた後、呻くこともせずに命乞いをして来た。ズタボロの男を庇うように覆いかぶさり、エランから必死に隠そうとしている。

 邪魔だと思って、第三者を男の上からどけようとする。肩に手を掛けて無理矢理に引き離そうとするが、痛いだろうに、頑として上から動こうとしない。

「頼むぅッ!カリバン!若はバカだ!大バカだ!でも俺にとっては弟なんだ!許してくれ!」

 不思議な事に、エランは男を庇う第三者にはそれほど狂暴な気持ちが湧かなかった。彼はエランに何もしない。ただひたすら許しを請うだけだ。

 けれど男を排除するための障害ではある。仕方なしにエランは第三者も排除しようとして。

「こらあぁーッ!お前!新入り!!なんて事をしてんだッ!!」


場違いとも思える、どこか聞き覚えのある言葉と共に、横面を思いきり殴られた。






最後に残った希望


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