ごめんねスレッタ・マーキュリー─最後に残った希望─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─最後に残った希望─


※現実のものとはまったく違う腐敗した治安維持組織の表現が出てきますのでご注意ください




「───ッ」

 強制的に外から与えられた衝撃に、エラン・ケレスはぱちりと目を瞬かせた。

 ノイズが晴れ、まるで夢から覚めたように視界がクリアになる。

 見れば目の前に自分を殴ってきた人物がいた。

 小さい体を大きく怒らせ、顔を真っ赤にさせている。…落ち窪んだ目を吊り上げて、皺をさらに深くさせ、全身で怒りを表している老人だった。

「クーフェイさん…?」

「俺はこんな事のためにお前を帰したんじゃねぇ!!何だその有様は!鬼か修羅にでもなったつもりか!この阿呆ッ!!」

 大きい声で罵られる。相変わらず、クーフェイ老の口は悪い。エランは寝ぼけたようにパチパチと瞬きをしながら、だんだんと状況を把握してきた。

「…ぁ…」

 小さく声を漏らし、ゆっくりと周囲を見回す。

 スレッタが一生懸命掃除をして綺麗にしてくれていた廊下が血塗れになっていた。壁の所々にも無視できない傷ができている。まるで怪物が暴れた後のようだった。

 そうして少し目線をずらすと、痛みに呻きながら役員の彼が必死に男に呼びかけているのが見えた。男…上役は力なく倒れて動かないままだ。

 殺してしまったんだろうか。

 ぞっと怖気が忍び寄ってくる。ついさっきまで感じていた全能感はどこかへと消え去り、代わりに自分のしでかしたことの大きさが現実のものとして襲い掛かってくる。

 どこかから、特徴的なサイレンの音が聞こえてきた。

「…下の階の住人が警察を呼んだと言っていた。ここら辺だと、警備隊か。働いてるのはほとんどがアーシアンだが、組織自体はこの地域を牛耳ってるスペーシアンが作ったものだ。奴らにも相応の面子があるから、一旦は大人しく捕まっておけ」

「………」

 怒りを治めたクーフェイ老が、エランに忠告をしてくる。言い含めるような声音だった。

「多少の金は取られるかもしれんが、言う通りにしろ。俺が若の爺さんに掛け合ってやる。警備隊はしゃんとした公的機関とは違って規則は緩い。金さえ払えば何とかなる。…そうなるようにしてやる」

「………」

「そこの取り巻きも聞いとけ。若は大丈夫だ、若の雲はまだ生きて動いてる。酷い怪我だが、命に別状はねぇ。いいか、変に騒がず、大人しくしておけ」

「スレッタを…」

「あん?」

「スレッタ・マーキュリーを守らないと…」

「奥にいるのか?」

 クーフェイ老の言葉にこくんと頷く。意識を失った彼女を放置してしまった。

 敵を排除することばかりに気を取られていた。…彼女を助けたかったのに、もう男は反撃する元気すら無くしていたのに。執拗に攻撃して、甚振ることに夢中になっていた。

 なんて馬鹿なことをしたんだろう。

「そうだな、警備隊が来るまでもう少し時間はあるだろ。…おい取り巻き、すぐに救急隊も呼んでおけ。命に別状はねぇが若もお前も怪我が酷い。場合に寄っちゃ奥にいるお嬢さんや、このバカにも必要かもしれん」

 少し落ち着いた様子の役員の彼に指示をすると、クーフェイ老は廊下をさっさと歩いていった。

 エランも後に続こうとしたが、どうしても役員の彼が気になって足が止まってしまう。

 工場で働いている間、彼は何かとエランに構ってくれていた。押しつけがましいものではなく、ごく自然に接してくれた貴重な相手だった。

 明確に友人関係だったわけではない。けれど少なくとも、一緒にいる時間は楽しいものだった。

 彼はエランが自分を見ていることに気付いたのか、警戒しているようだ。あんなことをしたのだからこの反応は当然のことなのに、身勝手にも胸が詰まるような息苦しさを感じてしまう。

「───すみませんでした」

 謝罪の言葉は意外なほどするりとエランの喉を通っていった。

 上役の男を守って見構えていた彼が、ほんの少しだけ体から力を抜く。そうして、言葉の続きを待つようにこちらを真っすぐに見つめてきた。

 その様子に勇気づけられるように、エランは最後まで言葉を続けた。

「…頭に血が上っていました。あなたの大切な人にも、あなた自身にも暴力を加えてしまった。本当に、申し訳…ありませんでした」

 エランの謝罪に、彼はくしゃりと顔を歪めた。何か言葉を探しているようだったが、数秒ほど目を瞑った後、目を開いた彼は苦しみを逃がすように大きく息を吐いた。

「……許してとは言ったけど、謝れとは言った覚えはないっすよ。…妹さん、大丈夫だったんすか?」

「…目に見えた大きな怪我はありません。けれど憔悴して、意識を失っています」

 『妹』の状態を言った後、彼は息を呑んで一瞬沈黙した。次いで腕の中の男に目をやり、耐えきれないように顔をくしゃくしゃにしてしまった。

 ぽろぽろと涙を流して、腕の中の男のしでかしたことに胸を痛めているようだった。

「男の若でも、こんなに心配なのに。女の子なんて、きっともっと心配になる。ごめん、カリバン。……ごめんな」

「あなたが、謝る必要はありません」

 本当に、彼にはなんの落ち度もない。とても善良で、とても優しい人というだけだ。

 だからこそ、彼は自分たちの争いに巻き込まれ、今こんなにも胸を痛めてしまっている。

「いいや、若の暴走を止められなかった俺にも責任がある。…そうだ、妹さん。救急隊へは連絡しとくから、警備隊が来る前にそばに行ってあげて」

「…はい」

 本音を言えば少し恐ろしい。こんな風に我を忘れて暴れてしまった自分が、スレッタ・マーキュリーに近づいていいものか不安になる。

 けれど優しく強い彼の言葉に押されて、エランはダイニングへと足を進めた。

 一歩、また一歩と進むごとに、重しが取れたように足が先に進んでいく。我を忘れる前の自分は、彼女は無事だと判断していた。それは本当に正しいんだろうか。

 サイレンの音が大きくなっている。おそらくあと数分でアパートに踏み込んでくるだろう。

 エランは最後の一歩を大股で歩き、廊下からダイニングへと入っていった。スレッタは相変わらず横になっていて、すぐそばにクーフェイ老が屈み込み、容態を確認しているようだった。

「クーフェイさん、彼女は…っ」

「ん、体のほうは少し打ち身をしてるようだが、頭を強く打ったりはしてないようだな。…若にも変なことはされてねぇようだ。嫌な色の雲はかかってないから、大丈夫だ」

 クーフェイ老の見立てにエランはホッと息をついた。何故だかこの老人の言うことは素直に信じられる。

 相変わらず不思議な言い回しをしているようだが、聞いている内に慣れ始めていた。

「なんにせよ、床に直寝じゃあ体が痛いだろう。新入り、お嬢さんをそこのソファにでも移動させてやれ」

「はい」

 指示に従って彼女を移動させる。体に触る前に躊躇したが───なにせ、今の自分の手はボロボロの血だらけだ。

 しかしクーフェイ老に急かされたので、なるだけ血がつかないように注意しながら抱き上げた。

 柔らかいソファに寝かせると、先程よりも顔が安らかになったような気がする。

「それにしても、驚いた。お前もそうだが、このお嬢さんはそれ以上だ」

「何がですか」

「力のあるもんに守られてる。由緒ある家系の巫女さんか、もしくは空から降りて来た天女様って言われても信じたかもしれねぇな」

「………」

 オカルティックな話だろうか。スペーシアンの間では娯楽で消費されるだけのものだが、アーシアンの間ではまだ根付いている地域もあるのだろうか。

 突然そんなことを言い出したクーフェイ老に面食らいはしたが、エラン個人としては言うべきことは何もない。その手の話には詳しくないため、嫌悪も好感も特に感じなかったのだ。

「不思議そうな顔しとるが、お前さんの中にもいるぞ。ごくごく小さい、米粒みたいなもんだがな。ただ別のものと相殺して消えかかってる。気を付けろよ」

「…クーフェイさん」

「なんだ」

 話している間にも、警備隊とやらはこの部屋へ向かってくるだろう。下の住人から話を聞いて、今この瞬間に踏み込まれてもおかしくはない。

 多少変なことを言ってはいても、目の前の老人は今のエランが頼れる数少ない人間だ。

「僕はしばらく彼女のそばに居れなくなる」

「ふん、乗りかかった船だ。お前が戻ってくるまで面倒は見といてやる」

「僕に何かあった時のための連絡先を…」

「いらん。お前はただ帰ってくればいいんだ」

「でも…」

 食い下がろうとしたエランの声が、外から聞こえて来た物音で中断される。

 人が踏み込む音、廊下で誰かがしゃべっている声。一時的に静寂が戻ってきたアパートが、また騒がしくなる。

「いいか。馬鹿なことは考えずに戻ってこい」

 その老人の声を最後に、エランは部屋に踏み込んできた見知らぬ人々に拘束された。




「カリバン・エランス。20歳。最近までL1のエリアで議会連合職員の元に身を寄せていた。間違いないか?」

「…間違いありません」

 警備隊に連れられてきた武骨な建物の中、狭い室内の一室でエランは取り調べを受けていた。

 確認されているのはエランが持っていた市民ナンバーの情報と、エランがここに来るまでに供述していた情報だ。『カリバン・エランス』は架空の人物ではあるが、そのことを知らない警備隊によってエランの前歴として語られていた。

 訂正する必要はもちろんない。エランは問われた偽の経歴に間違いがない限りは、こちらから口出しをしないことにした。

「そこで働きつつ、昼は所属の学園で勉強。今年になって学園を卒業。…どうして地球に降りてきたんだ?」

「働き先の契約期間が終了したので、同じく契約期間が終了した同僚と一緒に帰ってきたんです」

 同僚とはスレッタのことだ。これは事前に彼女とも話し合いをして決めた『カリバン・エランス』と『スカーレット・マーティン』の設定だった。

「故郷はここじゃないようだが、どうして働きに出ようと思ったんだ」

「ようやく自由になれたので、同僚と相談してしばらく地球を旅していました。ここへは物見遊山のついでに立ち寄ったんです。本当はすぐに発つつもりでいたんですが、連れの体調が崩れてしまって、二ヵ月ほど家を借りることにしました。その間自分はやることもないので、短期でできる仕事を探したんです」

「ふん、後で泊まったホテルなどに確認を取るからな」

「はい」

 今語ったのはほとんどが本当のことだ。ホテルに問い合わせをされても、スレッタが体調を崩したのは間違いのないことだと証明されるだろう。探られても痛くはない。

「お前が殴った相手だが、この辺りの工場を一手に引き受けている一族の方だと分かっていたのか?」

「…話には聞いていました」

「先方も悪いところはあったかもしれないが、どうやら同僚…妹だと偽っていたようだな。その彼女は検査の結果精液などは検出されなかったそうだ。つまり、今回はまったくの過剰防衛だったということになる」

「………」

 改めて聞かされてホッとする。まだ純粋な暴力被害を受けていないと決まった訳ではないが、少なくとも最悪の事態は免れたのだ。

 傍目から見てまったく動きのない表情をどう思ったのか、相手は面白くなさそうに話を続けた。

「通常なら裁判にかける所だが、あまり公にするわけにもいかない。とはいえ事が事だ。先方の出方次第によっては最悪私刑になる可能性もある。…よければ、便宜を図ってやろうか?」

 そう言って、相手は嫌な笑みを浮かべてきた。賄賂を寄こせと、そういうことだろう。

 エランは沈黙によってそれに答えた。

「………」

「ふん、まぁいい。どちらにせよ金はたんまり取られるだろうな。スペーシアン様のところで働いていたんだ。おまけにその美貌、たっぷり金は溜め込んでいるんだろ?」

「………」

 下世話な詮索が始まったところでその日の取り調べは終了になった。

 随分と雑で私情の入ったものだったが、政府機関がまともに機能していた昔とは違い、今の時代はこんなものなのだろう。数百年前の物語とは違うのだ。

 エランは深く息を吐き、あの様子なら自分とスレッタの本当の身分までたどり着くことはないだろうと見当をつけた。

 この辺りを纏めているスペーシアンはベネリットとは違うグループで、明確なライバル企業になる。

 本社を置くラグランジュポイントすら別で、ちょうど議会連合が根城にしているL1を起点に、ベネリットとは反対方向に位置するL5に存在している。

 とはいってもベネリットと比べると規模の小さいグループだ。L5にはいくつかの企業グループが集まっているが、この地域を支配しているグループはその中の1つに過ぎない。L4のエリアすべてを独占しているベネリットグループと比べられるはずもなかった。

 しかしそれでも地球とは雲泥の力の差がある。

 上役の男が地元の工場を支えている一族の出だとしても、空の上にいるスペーシアンからしたらそれほど重要な位置にいる男とは思えない。わざわざL1まで行ってエランのことを嗅ぎまわることはしないだろう。

 その点は心配していなかったが、それでもエランの気が晴れることはなかった。

 このまま調査をやり過ごせたとしても、いままで通りにスレッタのそばに居ていいものか自分で自分を疑問視していたからだ。

 クーフェイ老や警備隊の言いようから、金銭を要求されるのはこの地域では珍しくないようだ。今回は特にそれが重くなるのだろう。場合によっては借金を背負うことになるのかもしれない。

 金を求めて働きに出たというのに、結果として一文無しになる可能性が出てくるなんて、笑い話にもならない。スレッタを助けるどころか、彼女の負担になっただけだ。

 本当に、馬鹿なことをしたものだと思う。考えなしな自分に乾いた笑いが出てしまう。

「………」

 ───約束の三日間のことを考える。

 今日で丸一日が過ぎた。明日、明後日もこの調子で閉じ込められれば、三日目の日没はすぐに過ぎるだろう。

 エランは目を閉じ、三日を過ぎた場合のことを考えてみた。

 いっそシャディク・ゼネリに連絡をして、彼女を匿ってもらったほうがいいのかもしれない、と。

 恐らく匿い先はL1…議会連合保護下になる。ベネリットグループでも迂闊に手が出せない場所だ。プロスペラ・マーキュリーの動向は気になるが、それでも今の自分のそばにいるよりは上等な生活が送れるはずだ。

 このまま賄賂を要求されても沈黙を貫き、そうしてわざと三日間を経過させる。自分は約束に従って命を落とし、彼女は宇宙で保護される。…それでいいように思える。

 エランはうっすらと目を開いて、おざなりに治療された両手を見つめた。

 今は鈍い痛みを感じるが、上役の男を殴った時はそれを感じなかった。我を忘れていたからだ。

 自分の中に眠っている狂暴な感情。それがスレッタに襲い掛かることはないと、自信を持って断言することはできそうになかった。

 すでにエランはあの暗い調整台の部屋で、男としての欲望の満たし方を教わっている。何かの拍子で彼女を襲うことは十分にあり得ることだと思えた。

『馬鹿なことは考えずに戻ってこい』

 老人の言葉を思い出す。これは馬鹿なことなんだろうか。スレッタにとって、とても良い事なのではないだろうか。

 だって、彼女がこの先エランを怖がらないという保証はどこにもないのだ。

 平和なひと時を過ごせていたあの場所、スレッタが大切に掃除をしていた2人のアパート。

 それを滅茶苦茶に汚してしまった自分を、傷つけて壊してしまった自分を、彼女が怖がらないという保証はない。

 もしも彼女から怯えた目で見られたら。…想像だけで気が狂いそうになる。

「………」

 だから、もういい。

 自分は何もしない。ここから出ようと努力することはない。そうして時間を無駄にして、約束だけは守って消える。

 最後の伝言くらいは許されるだろう。あのおかしな、けれどお人好しな老人に情報を託して、スレッタの幸せを願いながら消える。

 それでいい。…それでいいじゃないか。

 目を伏せて、自分がいなくなった後の世界を夢想する。

 エランはこの時、消えてしまいたいと思っていた。

 まだスレッタへの想いに肉欲だけではない綺麗なものが残っている内に、彼女の心に少しでも惜しい人物として自分が存在している内に、この世から消えて無くなってしまいたかった。

 スレッタの反応を勝手に想像して、勝手に逃げ出したくなっていたのだ。


 けれど、そうはならなかった。

「おい、もう出ていいぞ」

「───」

 決して賄賂のことには頷かず、ずっと拘束されたままでいたエランの元に、その知らせが来たのは3日目の朝のことだった。

「…どういうことですか?」

「お前の代わりに金を払った奴がいたんだよ。よかったな。多額の金銭だったが、これで裁判にかけられることもなくなった。まぁ、まだ被害者の親族からの報復がないとは言えないけどな」

 ニヤリと嫌な笑みを浮かべる男の様子を、呆然と見届ける。

 あと半日ほどですべてを終わらせられると思っていたのに…。

 自分ではない、誰かの払った多額の金銭と引き換えに、エランは自由の身となっていた。


「阿呆」

 開口一番、迎えに来てくれた老人はそう言った。

「お前、帰ってくる気を失くしていたな。顔を見りゃ分かるぞ」

「クーフェイさん、どうして…」

 おそらく自分の代わりに金銭を払ったと言うのはクーフェイ老のことだ。彼の顔を見て直感した。

「お嬢さんがな、3日目の日が沈む前に何とかしないとダメだと騒ぎだしてな、さすがに肝を冷やしたぞ。お前、トンチキな脅し付けをしていたそうじゃねぇか」

「…彼女が、喋ったんですか」

「ふん、お嬢さんを責めるんじゃねぇぞ。俺は人の秘密をなにかと暴きやすいタチなんでな、必要な部分だけを聞き出したってだけだ。お前さんがたの事情なんかは聞いちゃいねぇよ」

「………」

「こちらも高を括ってたところもある。時間は十分あると思ってたし、若の家族ももう少し聞き分けがいいと思っていた。だが蓋を開けてみりゃあ、お前をすぐに開放する代わりに法外な金を要求してきやがった。…まぁ、最初に提示されてた条件よりも大分マシにはなったがな」

 相場の数倍なんて金額で嫌がらせしやがって、あのバカ息子め。とクーフェイ老は悪態をつき始めた。

 話を聞くと、どうやら最初はエランを開放するために上役の男の祖父に話を持ち掛けたらしい。けれど上役の男の父親が間に割って入り、とても飲めない条件を要求してきたのだと言う。

 何とか交渉を続けて条件を撤廃してもらい、最後に残ったのが多額の金銭だったという事だ。

 スレッタの焦り具合から時間がないことを知り、クーフェイ老は最後の条件をそのまま受け入れ、一時的に肩代わりしてくれたのだ。

 放って置いてくれてよかったのに…。そう思ったが、さすがに口に出すことはやめておいた。彼の善意を踏みにじる事になる。

 それに何より…。

「スレッタは…」

「あん?」

「スレッタ・マーキュリーは、今どこにいますか?」

「ふん、1日ばかりは病院にいたがな。昨日から荷物を纏めて俺の貸し家に来てもらっとる。今だってどうしても心配だと言うからついて来てるぞ。ほれ、そこの車だ」

 老人の身振りの先を見ると、1台の古い車が道の隅に止まっているのが見えた。

 エランが見ていることに気付いたのか、車のドアが開き、中からひとりの女の子が外に出てくる。

 スレッタだ。

 彼女の姿が見えた途端に足が勝手に歩き出した。一歩、また一歩と進むごとに、重しが取れたように足が先に進んでいく。

 そのままスレッタに近づこうとすると、その前に彼女がこちらに歩き出していた。

 最初はゆっくりと、次に早足に。最後は小走りになって、こちらへとやってくる。

 近づくごとに彼女の顔が泣きだしそうに歪んでいく。十秒にも満たない時間のあと、彼女はエランの胸に勢いよく飛び込んできた。

 ぎゅう、と絶対に離れないというように強く抱きしめられる。

「───っ」

「えらんさんっ、よかった、まにあった…っ、こ、こわくて、あのやくそく、ほんとだったらどうしようって、こわ、こわくて…っ」

 そこまで言って、スレッタは声を上げて泣き出した。エランは胸の中にいる大切な少女にどうしていいか分からなくて、抱き返すこともできずにオロオロとしてしまう。

 すると、頭の中に懐かしい声が響いてきた。

 ───だいじょうぶ。

「だ、大丈夫」

 エランは言葉の意味も考えず、ただ復唱するように声を出してはスレッタを宥めようとした。

 ───だいじょうぶ。こわくないですよ。

「大丈夫、怖くないよ」

 エランの言葉を聞いて、スレッタはますます泣き出してしまう。酷く困って、混乱したまま恐る恐る抱き返してみる。

 彼女の体温が伝わってくる。『あの時』とは違う、物理的な温かさだ。

「大丈夫だから」

 馬鹿の一つ覚えのように繰り返しながら、エランは思い出していた。何もかもを飲み込もうとしていた暗闇の中。宇宙で溺れ死にそうになっていた、ちっぽけな自分のことを。

 ───しっぱいしても、なんとかなります。こわくないですよ

 掬い上げてくれた彼女の言葉を、思い出していた。

「───」

 そうだ。

 あの時に一生分の決意の源を貰っていた。

 エランは大丈夫なのだと、スレッタは言ってくれていた。

 たとえ彼女に嫌われても、進んで行けるだけの勇気を貰っていたのだ。

「スレッタ・マーキュリー…。僕は大丈夫。きみのお陰で、だいじょうぶになったんだ」

 どうして忘れていたんだろう。あの時の決意を。

 どうして不安になっていたんだろう。彼女は保証してくれていたのに。

 彼女を守る。この腕の中にいる彼女を最後まで守る。彼女の無事が確認できるまで、ずっと、ずっと。

 その為なら何でもできる。

 何でもすると誓っていたのだ。

「…ごめん」

 泣き続けるスレッタを隠すように、しっかりと腕の中に抱きしめる。

 小さくて暖かな体温に、不安で縮こまっていたエランの心が、だんだんと彼女で満たされていく。

 ───エランさんはしんせつでやさしくて、そばにいるとあんしんするから。だから、だいじょうぶなんです。

 彼女の言葉を思い出す。それはまっすぐ胸に届く、魔法の言葉のようだった。

 今度こそ忘れずに、覚えていよう。

「ごめんね、スレッタ・マーキュリー」


 そうすれば、彼女を欲しがる怪物とだって、自分は戦えるはずだから。






シーヴァの芽吹き 前編


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