ごめんねスレッタ・マーキュリー─シーヴァの芽吹き(前編)─
※スレッタ視点です。オリキャラが多数出てきます
ある日の朝。
目覚めた時には、違う世界が待っていた。
学園での生活。明日、明後日と、ずっと続くと思っていた日々。
失ったものを思って泣いていると、一人の少年が寄り添ってくれた。
彼に手を引かれながら、新しい世界を目に焼き付ける。
時間が経つごとに未知のものが既知となり、新たな日常となっていく。
彼が隣にいる生活。明日、明後日と、ずっと続いて欲しいと願っていた日々。
けれどある日。
目覚めた時には、また違う世界が待っていた。
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夢の中で、もがき苦しむ自分がいた。
頭が重く、体のあちこちが鈍く痛む。
どうしてこんなに辛いのか分からず、ただひたすらに苦しみ続ける。
いたい。
くるしい。
だれか…、───。
助けを呼ぶための言葉は途中で止める。自分の声さえ不明瞭なのに、誰かに届くとは思えなかった。
いつものように膝を抱え、ぎゅうっと縮こまることを選択する。
こうしてやり過ごしていれば大丈夫。痛みも苦しみもいずれは慣れて、小さくなって消えていく。
ずっと耐えていれば大丈夫。…だって、今までもそうだったから。
膝を抱えて、あらゆるものから身を守る。種のように、卵のように…中にある柔らかい心を守るように。
思った通りにゆっくりと、意識は浮上していった。
「………」
目を開く。
天井を見つめる。
「ここ…は…」
スレッタ・マーキュリーは、自分の状況をすぐに理解することができなかった。
出した声は掠れていて、舌が喉に張り付くような感覚を覚える。水が欲しくて、同時にお手洗いにも行きたいような気がした。
寝起き特有の症状を解消するために、ベッドから起き上がろうとする。けれど体が異様にだるく、何より至るところに痛みが走って、スレッタはその場にぐったりと体を沈み込ませてしまった。
「……?」
この痛みは何だろう。寝ている間におかしな体勢にでもなっていたんだろうか。
戸惑いつつも、仕方ないので天井を見上げることにする。少し休んで、回復したら動き始めるつもりだった。
不規則な黒い模様が付いた白色を見つめる。
ジッと見つめるその内に、訳もなく不安な気持ちになってくる。
あの天井の模様は何だろう。
アパートとも、地球寮とも、水星基地とも違っている。
スレッタは暫くの間、旅の間でも見た事がない、不思議な模様の付いた天井を見上げた。
ぼんやりと瞬きしていると、寝ぼけた頭が覚醒し始める。
スレッタはジワジワと、意識を失う前の記憶を思い出してきた。
落ち込んでいた朝。
突然の訪問者。
大泣きをした、名前も知らない彼と自分。
スレッタはきょろりと辺りを見回した。清潔そうな室内に、スライド式のドア。よく見れば備え付きの小さい冷蔵庫に、何かを吊るすだろうスタンドも見える。
きっとここは病院だ。
酷く体を打ち付けてしまったから、心配した同居人…エラン・ケレスが連れて来てくれたのだろう。
窓の外を見れば夕暮れになっている。病院に担ぎ込んで一息ついて、今は買い物にでも出かけているのかもしれない。
きっとこのまま待っていれば、エランがすぐに来てくれるはずだ。
今すぐにでもあのドアを開けて。
きっと。
…けれど彼が現れることはなかった。
しばらくの後、見回りに来た女性にやはりここは病院だと知らされて、色々と検査をすることになった。
簡単な検査や治療はすでに行ってくれたらしい。けれど本人の同意が必要なものもあり、スレッタが起きるまで待ってくれていたようだ。
スレッタはお医者さん───母と同じくらいの年の女医さんだった───の質問に答え、意識を失う前の状況を説明した。
アパートに突然人が訪ねてきた事。
その人がアパートに勝手に侵入してきた事。
興奮したその人に体を掴まれて、床に盛大に倒れた事。
その後のことは…特に必要とも思えないので黙っていることにした。恥ずかしいというのもあったし、喚いたり大泣きをした事自体には、今の体のダメージと直接の関係はないように思えたからだ。
検査は少し時間が掛かった。機械を使って体をスキャンしたりサンプルを提供したりと、検査項目自体が多かった。中には恥ずかしいものもあり、戸惑ったスレッタによってすぐに検査を始められないものもあった。
女医さんは面倒がらずに理由を丁寧に説明してくれた。スレッタを納得させてから検査を受けてさせてくれたのだ。
相手が優しい女医さんだったので我慢できたのだと思う。なんとか夜になる頃にはすべて終わらせることができた。
スレッタは再びベッドに横たわっていた。
体を打ち付けた場所には湿布薬を貼ってもらったし、内服薬も処方してもらった。内臓には何のダメージもなかったので、夕飯もきちんと食べることができた。
起きた時より格段に体の具合は良くなっている。けれどスレッタの気が晴れることはなかった。
…待ち望んだ人に会えなかったからだ。
世話をしてくれる看護師さんに聞いてみても、何も分からないとのことだった。落ち込むスレッタを見て可哀そうになったのか、必要な物があればその人の代わりに買い物に行くから大丈夫と優しく声をかけてくれた。
それはとても嬉しくて有難い言葉だったが、望んでいた情報は何も手に入らなかった。
スレッタは体を横にしたまま、奇妙な模様の入った天井を見上げた。
…夜だからだろうか。色々と考え込んでしまう。
意識を失う前、確かにエランは来てくれたと思う。でもその後は…どうしたんだろう。
あの泣き虫の侵入者は大丈夫だったのだろうか。エランに怒られてしまっただろうか。
「………」
一歩間違えれば恐ろしい目に合った可能性もある。病院に担ぎ込まれたり、結構な大事になってしまった事も分かっている。
でも何だか実感が湧かなかった。
だって泣いていた彼の気持ちが分かるからだ。エランが大好きだと言う彼の言葉を聞いて、まるでもう一人の自分のようにスレッタは共感してしまっていた。
けれど。
意識を失う前の、鋭いカミソリのようだったエランの言葉を思い出す。
『好きだのなんだの、気持ち悪いんだよ』
「………」
自分の気持ちも拒否された気分になって、スレッタはグスリと鼻をすすった。
どうして来てくれないのか分からないまま、その日は寝る前まで待ち続けていた。
次の日には体も大分楽になり、自分一人でトイレにも行けるようになった。
看護師さんも相変わらず優しくて、女医さんも朝から小まめに様子を見に来てくれている。
けれどやっぱりその間、待ち望んだ人の姿は見えなかった。
昼近くになりだんだんと焦れてきたところで、女医さんがスレッタを訪ねて来た人がいると教えてくれた。
一瞬喜んだが、話を聞くと相手はエランではないようだ。
この辺りの治安維持を担当する『警備隊』の人がスレッタに話を聞きに来たらしい。拒否もできるということだったが、わざわざ来てくれたのだからとそのまま通してもらう事にした。
女医さんもその場で見守る為に残ってくれる事になった。知らない人と二人きりは緊張してしまうので、とても心強いと思う。
「彼女は軽度とはいえケガ人です。どうか考慮をお願いします」
「分かっていますよ。彼女は明確な被害者だ。ではスカーレット・マーティンさん。いくつか聞きたいことあるので、焦らずゆっくりと答えてください」
「は、はい…」
女医さん立会の元で、質問されたことに答えていく。警備隊の人は大きくて少し強面の男性だったが、母をサポートしてくれるゴドイを思い出して懐かしい気持ちになった。
最初はスレッタの境遇について聞かれた。予めエランと相談して決めていたスカーレット・マーティンの前歴を語ると、警備隊の人は頷きながらメモを取っていた。
話している内に緊張も薄れ、だんだんと会話がスムーズになっていく。
そうして話の内容は、気が付けば昨日の出来事に及んでいた。
女医さんに話したものよりも少し詳しく説明することにする。具体的には、彼の行動や言動についてだ。
泣きながらエラン…カリバンの事が好きだと言っていたこと、自分をズルいと言っていたこと。…色々と言われたが、その間は直接的な暴力は受けなかったことを話した。
彼の言っていた言葉の内容は一部分理解できないところがあったが、一生懸命思い出して伝えてみた。女医さんと警備隊の人が眉を潜めたので、あまり良くない言葉だったのかもしれない。言わない方が良かっただろうか。
気まずくなったスレッタは、自分は酷い怪我もなかったからあまり彼の罪を重くしないで欲しいと頼んでみた。すると、警備隊の人は眉を下げて複雑そうな顔をしてしまった。
そんな顔をするとますますゴドイのようだ。小さい頃のスレッタがお父さんになって!と言った時、こんな風に眉を下げて困ったような悲しそうな顔をしていたのを覚えている。
子供の頃と何ら変わりない我が儘を言ってしまった事に気付き、スレッタは恥ずかしくなってしまった。
被害者が加害者を庇うなんておかしな事だ。ましてやきちんと仕事をしようとしている人に素人が口を出すなんて、言われた方はとても困ってしまうだろう。
スレッタは出しゃばったことをすぐに警備隊の人に謝ると、肩を落としてそれ以上は勝手に発言しないように口を閉じた。
するとしばらく眉を下げていた警備隊の人が、何か質問はありますか、と気を取り直したように聞いてきてくれた。スレッタの発言を咎めることも無く流してくれたのだ。優しい人だ。
何かあるだろうか…。頭の中で質問内容を考える前に、スレッタは反射的に声を出していた。
「あの…エランさん。カリバンさんが今どこにいるか分かりますか?」
言いながら気が付いた。
こんなにもエランが自分の前に姿を現さないなんて、とてもおかしなことなのだ。
もしかしたら彼も自分と同じように、別の警備隊の人にお話をしているのかもしれない。きっとそうに違いないと思えた。
「わたしが気を失う前に助けに来てくれたんです。でも姿がどこにも見えなくて…」
一生懸命訴える。
これほど長い間エランが離れることになるなんて、本来はあり得ない。それには愛とか恋とか言う理由ではない。もっと切実な事情がある。
彼に何度も脅し付けられた内容だ。あの恐ろしい3日間の約束を、スレッタは忘れることなど出来なかった。
話を聞いている警備隊の人は戸惑っていた。もしかしたら警備隊は全く関係なく、ただ単に、エランが会いに来てくれていないだけなのかもしれない…。
そんな風に思って話終わった後に俯いていると、警備隊の人が女医さんに目配せして、2人で病室の外に出てしまった。
すぐに戻ると言っていたので大人しく待つ。何だか変な雰囲気に、スレッタの胸は嫌な具合にドキドキしていた。
言葉通りそれほど時間をかける事無く2人は戻って来たが、女医さんが手を握ってきたことで嫌な予感はますます大きくなった。まるでスレッタを慰めるような手の温かさだったからだ。
警備隊の人が口を開く。
「あなたの同居人であるカリバン・エランスは、現在警備隊の留置場に勾留されています。あなたに怪我を負わせた『ダーオルン・ダウルーロウ』氏への過度な暴行───過剰防衛の罪で、捕まっているんです」
スレッタは、目を見開いたままそれを聞いていた。女医さんがぎゅうっと手を強く握ってくれる。
頭でよく理解できないまま、スレッタは口を開いた。
「あの…エランさんは、大丈夫なんですか。…その、ダー…、えっと、侵入して来た人の怪我の具合も、どうなんですか」
「……エランス氏の方は、見た限り大きな怪我はありません。相手を殴った時に出来た軽度の擦過傷や挫傷くらいです。ダウルーロウ氏の方は…。命に別状はありませんが、場合によっては手術が必要になります」
強い力で殴られ続けたので、顔の一部が変形しているんです。
警備隊の人の言葉に、スレッタはくらりと眩暈を起こした。そのまま力が抜けてしまい、女医さんに支えてもらう。
「もう聞きたい事は聞かれたでしょう。これ以上は…」
「そうですね、彼女には少し酷だったようです。でも最後にこれだけは。…エランス氏との面会は4日間は許可されませんが、その後なら可能になります。最終的に刑務所に入れられることになっても、数か月で出所できるはずです。気を落とさずに、待っていてあげてください」
「───」
警備隊の人の気遣いに反応することもできず、スレッタは呆然とその言葉を聞いていた。
4日間と言っていた。
それでは遅い。3日を過ぎてしまう。
今日はもう2日目だ。猶予はあと1日と数時間しかない。
スレッタは天井を見上げて考え続けた。彼の無罪を主張しても、すでに勾留されている人物を即日解放はできないだろう。
ならどうするか。…ここにエアリアルが居れば、強行突破もできるのに。
眉間に皺を寄せながら頭の中で物騒なことを考えていると、誰かが病室のドアをノックしてきた。また看護師さんか女医さんがやって来たのだろうか。
とりあえず出来ることをしなければいけない。
スレッタは次に入って来た人物に警備隊の人をもう一度呼んでもらおうと思っていた。泣き落としでも何でもして、エランとの面会を一瞬だけでもさせてもらおうと思ったのだ。
「はい、どうぞ」
スレッタが覚悟を決めながら返事をすると、何故か見知らぬ老人が部屋に入って来た。
予想外のことにびっくりして、眉間の皺が一瞬で取れる。
入院患者が部屋を間違えてしまったのかと思ったが、彼はしっかりとスレッタに視線を合わせると、意外とハリのある声で呼びかけた。
「天女さん。迎えに来たぞ」
「へ…?」
背は小さい。けれど存在感がある老人だ。
影が出来るほどの深い皺をたくさん顔に刻んでいて、何だか気難しそうな印象を受ける。
その印象に反して、とても優しそうな眼差しをスレッタに向けていた。
「えっと、あなたは…?」
「おぉ、出会い頭に不躾だったな。俺は工場で技師をしているモンだ。あのバカに工作機械の使い方を教えていた」
「え…」
『バカ』というのは誰のことか思い当たらないが、『工作機械の使い方を教える老人』なら心当たりがある。
「あ、えっと、『クーフェイ』…さん。ですか?」
エランから聞いている。彼に何故かとても厳しく指導している老人だ。話に聞いていたよりも遥かに優しそうな人だが、おそらく間違いないだろう。
「一応はそう呼ばれとる。本名は別にあるがな」
「はぁ…」
偽名と言うことだろうか。エランやスレッタも使っているが、案外別の名前を名乗っている人は多いのかもしれない。
「この辺りの人間じゃあ俺の名前は発音が難しいらしい。本名を名乗っても必ず間違われる。キリがないから最初から『クーフェイ』と名乗っとる」
「そうなんですか」
世間話のような会話をしながら、スレッタは何故この老人が訪ねて来たのか気になっていた。あっさりと流されてしまったが、彼は迎えに来たと言わなかっただろうか。
頭の中が疑問符でいっぱいになる。聞き返したくて仕方ないが、スレッタはとりあえず自分も名乗る事にした。
「あの、わたしはスレ……。す、スカーレット・マーティン…です」
偽名に対して偽名を名乗るなんて変な感じだ。すると老人はカラカラと笑った。
「よせよせ、あんたは嘘を付くのに慣れてない。無理をすると曇っちまうだろう。本名を教えてもいいと思うまで、天女さんと呼ばせてもらうよ」
「は、はい…」
『テンニョサン』という呼び方がどういう意味かはしらないが、随分と綺麗な音の響きだと思う。
戸惑うスレッタを相手に、偽名を見破った老人は続けて驚くべき事を言ってきた。
「さて、突然の事で驚くかもしれんが、あのバカに頼まれたんでな。単刀直入に言わせてもらう。天女さんさえ良ければしばらくは俺の家を提供する。そのうえで、あのバカがすぐに出て来られるようにしてやろう」
「は?」
「俺には色々と伝手があってな。特に襲撃した男の爺さんとは友人だ。交渉はこれからするが、まぁ大丈夫だろう。多少の金子さえ払えば大抵は何とかなるもんだ」
「え、えと…」
「このまま病院に居てもいいが、いちいち来るのにも手間が掛かる。俺の家に来てくれりゃあすぐに交渉結果を伝えられるが、どうだ?」
「ま、待ってください。ちょっと考えさせてください」
「おぅ」
老人はピタリと口を閉じた。
「………」
混乱した頭のまま、話を整理しようとする。
とりあえず、老人の話の中の人物は三人いる。
『襲撃した男』というのは泣き虫の彼のことだろう。『襲撃した男の爺さん』…泣き虫の彼のお爺さんと目の前の老人は友人同士で、上手く交渉できれば捕まっている『バカ』な人物を開放できる…。
『バカ』というのは、もしかしなくてもエランの事だ。老人はエランをすぐに解放できると言っているのだ。
「行きます」
即答した。
何かの罠だとしても構わない。今はとにかくエランに関しての情報が欲しい。
警備隊の人に頼み込むよりも老人に賭けた方が勝率が高いように思えた。
老人の車に乗り込む。小さな可愛らしい車は年代物で、スレッタが中に入ると大きく揺れた。
慌ただしく支度して退院手続きをしたが、看護師さんと女医さんにはきちんとお礼を言ってきた。僅か1日ばかりの付き合いだが、彼女たちが居てくれたおかげでとても心強かった。
お金の入った端末は家に置いたままになっているので、スレッタは今のところ一文無しだ。そこで入院費は一旦老人が払ってくれることになった。後できちんと返さなければいけない。
「さて、まずはアパートに戻って荷物を纏めよう。もう警備隊も引き上げた後だからゆっくり荷造りできるぞ」
老人の言葉に首を振る。
「いえ、それよりもエランさんを解放するための交渉を先に行いませんか?わたしの荷物なんて後で構いません」
「…天女さん。焦れるのは分かるが、今はまだ交渉はできんのだ。先方の家もハチの巣をつついたような騒ぎでな。連絡したんだが、昼を少し過ぎた時間まで待てと言ってきた」
「そ、そんな…」
「これでも十分以上に優遇されとる。心配しなくても、爺さんの方は話の分かる奴だ」
「……はい」
「時間に余裕はあるから、ゆっくり支度して大丈夫だ」
「ありがとうございます。でも、もう荷物はほとんど纏めているので、多分10分もかかりません」
「お、そうかい。じゃあ荷物を持ったらすぐに俺の家に来てもらおう。俺はその後に交渉に行ってくるから、天女さんは家で待っていてくれ」
「わたしも一緒に行くのは駄目ですか?」
「ダメだ。多分面白くないことになる。下手をしたら交渉そのものがお釈迦になる可能性があるから、大人しく待っていてくれ」
「……はい」
「天女さんが悪いって訳じゃない。あんたはこの土地とすこぶる相性が悪いように見える。あのバカよりはマシだろうがな。……良いことをしようとしても、それがグルリと回って牙を向いてくる事があるかもしれない。大人しくしていた方が良い」
「分かりました…」
彼の危機に何もできないなんて…。スレッタは自分が情けなくて、肩を落として俯いた。
バックミラー越しにその様子を見た老人は、少し大袈裟に声を出した。
「…俺の家は少々汚れていてな。そろそろ元居た場所に帰るから綺麗にしたいんだが、掃除はなんとも苦手で困る。悪いんだが天女さん、俺の家に行ったら少し片づけをしておいてくれないか」
「………」
「駄目かね?」
「いえ、やります。…やらせて下さい」
老人の気遣いが身に沁みる。微かなものだが、スレッタは今日初めての笑顔を見せていた。
アパートに着くと、老人も運転席から降りていた。どうやら一緒について来てくれるらしい。
「クーフェイさん、わたしひとりでも大丈夫ですよ」
「ケガ人が何を言う。老人でも少しは戦力になる。本格的な荷造りは後にするとして、あのバカの荷物も少しは持って行った方がいいだろう。その方が後の手間も少なくなる」
エランが戻って来れたらすぐに出ていけるようにという配慮だろうか。忘れていたが、本来ならそろそろ業者を呼んで荷物を引き取ってもらうつもりだったのだ。
「そういえば、契約がそろそろ切れるんでした…」
「ふん、アパート契約か?そんなもんいくらでも伸ばせるぞ」
「そうなんですか?でもお金が掛かってしまうのは…」
「今回は大丈夫だ」
自信ありげな様子に首を傾げていると、老人が訳を説明してくれた。
「どうして若の阿呆が部屋に入って来られたと思う。このアパートを管理する会社の誰かがカギを持ち出して若に渡したんだ。単に若に騙されただけか、ダウルーロウ家への考えなしの忖度か…まぁ後者だろうが。公になれば入居者も減るだろう」
「ぇ…」
そういえば昨日、あの泣き虫の人は鍵を開けて入ってきたのだ。
今更ながらにぞっとして、スレッタはぶるりと震えてしまう。だってこの二ヵ月ほどのエランとの生活中に、まったく見知らぬ誰かに侵入されることがあったかもしれないのだ。
スレッタが怖がっていると、老人が元気づけるように少し茶目っ気のある笑い方をした。
「つまり、このアパートをずーっと借りたままでも文句は言わせんってことだ」
心強い笑みに、スレッタの震えは収まった。
外付けの階段を上がり、アパートのドアの前まで行く。カギは開けられたままのようだった。
「杜撰すぎる」
と老人はプリプリと怒って、鍵をポケットにしまっていた。とても見覚えのある鍵で、スレッタは思わず目で追ってしまう。
「クーフェイさん、そのカギは?」
「ああ、警備隊にしょっ引かれる前にこっそりとバカから預かったモンだ。そうだな、渡しておこう」
老人はポケットからもう一度鍵を取り出してスレッタに渡してくれた。見覚えのあるキーホルダーが手の中で揺れる。これは昨日までのエランが持っていたものだ。
わずかな繋がりを持てたようで、スレッタはぎゅっと鍵を両手で握った。同時に今日何度目かも分からない老人の気遣いに改めて感謝をした。
顔を上げるとドアを開けた老人が中を覗き込んでいる。
「少し汚れているな、靴のまま入ろう。掃除は管理会社にでもやらせとけばいい」
そう言ってズンズンと中に入ってしまう。スレッタはそっと中を覗き込んで、傷やへこみのある廊下に小さく息を呑んだ。
昨日の朝まではピカピカだったはずの…スレッタが何度も磨いた廊下が薄汚れている。所々変色しただろう血の跡もあり、一旦は収まった震えがまた外に出てくる。
「…無理はしなくていいぞ」
「いえ、大丈夫です」
老人の言葉に気合を入れ直し、靴のままスレッタは部屋に上がっていった。
廊下は酷いがダイニングはまだ綺麗だ。
見回していると棚に置いてある図鑑に気が付き、スレッタは慌てて飛びついた。これはエランの故郷の花が描かれた大事な図鑑なのだ。どうやら触られなかったようで傷も汚れもなく、ホッと息をついた。
少し落ち着いたスレッタは自分の部屋も覗いてみた。こちらは昨日の朝のまま変わっていない。部屋に置きっぱなしの端末もそのままで、まったく手が付けられていないことが分かる。
端末も回収し、バックパックの中に図鑑を入れてきちんと背負う。あとはまだ残っている生ものやゴミを処分すればいい。
もう一度ダイニングに戻り、シンクの下に備え付けてある棚の中を整理する。ごくわずかだが粉物が残っていたので、少し勿体ないがゴミ袋に入れる。
元からこの部屋から出て行く予定でいたのだから、処分するもの自体は少ない。スレッタは冷蔵庫の中を覗き込んで、食べかけの果物もすべてゴミ袋に入れた。最後に冷蔵庫の奥に手を差し入れる。
そこにはファスナー付きの保存袋が置いてあった。ここに来た時からずっと冷やしていたもので、中には水で湿らせた土と───大事な種が入っている。
毎日見ては定期的に水で湿らせていたが、二ヵ月の間はなんの変化もなかったものだ。
スレッタは大事なそれをバックパックに入れようとして、ふと土と種以外の色を見つけた。
小さな小さな緑色が、種の隙間からちょこんと顔を出していた。
新芽だ。
「あ…」
彼の瞳のような色を見て、スレッタは呆然と目を見開いた。
緑豊かな草原。
遠くには大きな森が、近くには小さな川が。
視線を向ければ彼の故郷の村があり、2人でプラムを一緒に食べた。
スレッタには酸っぱいと感じる果物を、彼は美味しそうに食べていた。
だから自分もとても美味しいと思ったのだ。
───種…これが木に育つんですか?……すごい。
あの日の無邪気な自分の言葉を思い出す。
優しい目で見てくれていた、あの日のエランの瞳の色も。
「………」
スレッタは手の中のものを見る。
土にまみれたプラムの種。
今まで何の変化もなかったのに、芽吹いてくれた特別な種。
───どうして、今この場にエランさんが居ないんだろう…。
一緒に喜んでくれるはずだった彼の不在を強く感じてしまい、スレッタはポロポロと涙を流した。
「…天女さん。もう暫くここに居るかい?」
いつの間にか近くに来ていた老人が、優しい声で聞いてくる。
スレッタは涙をごしごしと拭いて、「いいえ」と返事をした。
そうして、無力さを嚙みしめた。
自分は泣くだけで何も出来ない役立たずだ。
けれど、足を引っ張る事だけはしたくない。
「クーフェイさん。お名前を教えて下さい。わたしはあなたを信じます。…わたしの名前はスレッタ。───スレッタ・マーキュリーです」
信じよう。目の前の老人を。心の底から。
彼がエランを救ってくれることを信じるのだ。
自分には今それしか出来ないのだから。
スレッタの突然の告白に、老人は虚を突かれたような顔になった。
やがて彼はニヤリと笑って、任せろ、と言ってきた。
「あいよ、スレッタお嬢さん。この色雲 九平(いろくも くへい)にすべて任せな。あのバカを牢から連れ出して、こんなケチの付いた場所からも連れ出して、もっと縁起のいいところに連れてってやるよ」
───イロクモ・クヘイ。
それが彼の本名らしい。聞き覚えの無い不思議な名前のはずなのに、妙な親しみと魅力があった。
「イロクモ・クヘイさん?この場所から、どこに行くつもりなんですか」
老人の名前を言ってみる。
スレッタの発音は満足のいくものだったのか。彼は一瞬だけ目を見開くと、ニヤリと笑って頷いた。
そうして、自信たっぷりに断言した。
「決まっとる。俺の故郷───日本だよ」
シーヴァの芽吹き 中編
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