ごめんねスレッタ・マーキュリー─役割と願望(後編)─
※スレッタ視点です。最後に少しショッキングな描写があります
スレッタ・マーキュリーは最近ますます頑張って家事をするようになった。
今までよりも早起きして朝食を作り、同居人であるエラン・ケレスを送り出した後は、彼の部屋以外の掃除をして過ごす。
昼間になったら適当な昼食を作って食べ、何度目かの荷物の整理をした後、すぐに夕食の仕込みを始める。
そのうち暇な時間ができるので、今度は備え付けの家具などをせっせと拭きあげていく。
こちらに来たばかりの頃に買った雑巾は、もう黒ずんでボロボロになってしまった。来た時よりも確実にアパートの中は綺麗になっているのだが、スレッタはまだやれる事があるのではないかと思ってしまう。
本当はエランの部屋も掃除したいが、あまり入ってもらいたくないと言われているので、中に入ることだけは絶対にしなかった。彼の機嫌を、損ねたくはなかったのだ。
・・・気のせいならそれでいい。
実際のところ、彼は相変わらず優しくしてくれている。ご飯を作る度にお礼を言ってくれたり、労わってくれたりする。
それなのに、いつの間にかあまり自分の方を見てくれなくなった。以前は頻繁に目が合っていたのに、最近の彼はそっぽを向いてばかりいる。
どうしてなのか、原因は分からない。分からないから、考えてしまう。
自分が何かしてしまったのではないか、彼を傷つけ、怒らせることをしてしまったのではないか。…そんな事ばかりが頭に浮かんでしまう。
本当は直接聞けばいいと分かっているのに。あの学園で彼を怒らせてしまった時のように、冷たい眼差しで見られたらと思うとどうしても言い出せなかった。
スレッタは祈るような想いでひたすらに体を動かした。
こうやって仕事をしていれば、もしかしたらエランが元に戻ってくれるんじゃないか。まっすぐに自分を見てくれた、あの澄んだ目に戻ってくれるのではないかと期待していた。
「ただいま。…何だか、また綺麗になってるね」
「お、おかえりなさい、エランさん。もうすぐこのアパートともお別れなので、お掃除をしてたんです」
「…少し綺麗すぎるというか。こんなに頑張らなくてもいいと思う」
エランの物言いは少し呆れが混じっているようだった。自分の頑張りが喜ばれるどころか、迷惑に思われる可能性があることにスレッタは震えてしまう。
「いや、えと、え、と。時間が余ってるし、ただの、暇つぶし…ですっ」
「昼寝でもすればいいじゃないか。…そういえば、最近はしてないみたいだね」
「す、少しはしてますよ。エランさんが帰ってくる前に、お、起きてるだけ、です」
「………」
何とか自分は頑張っていないと訴える。
そう。たまたま時間が空いたから、暇な時間を潰すために家事を頑張っていただけなのだ。そういう事にしないと、彼に褒めてもらいたいとか…ずっと見てもらいたいとか、そんな邪な気持ちで掃除をしていた事がバレてしまうかもしれない。
スレッタが一生懸命ニコニコしていると、久しぶりにこちらを見たエランが、顔を伏せて辛そうな顔をした。
「───ごめん」
「え」
いきなりの謝罪にびっくりする。スレッタの下心には気付いていないようだが、どういう事だろう。
「最近、外に連れて行くことをしていないから」
「あ…」
言われて気が付いた。そういえば、前回外出した時から何日経っているのだろう。1週間は経っているはずだ。
以前は数日おきに外出していて、スレッタはそれを楽しみにしていた。彼と手を繋ぐたびに心が浮き立っていた。
前回の外出も久しぶりに連れて行ってもらったものだ。よく考えれば、ここ半月で1回しか出かけていない気がする。
「少し気になる事があって…。でも、きみの気が塞ぐことは本意じゃない。明日でよければ、出掛けようか」
「い、いいんですか?」
確認の言葉に、エランはこくりと頷いてくれる。
その様子を見たスレッタは、だんだんと胸がどきどきしてきた。
お出かけ、という事は…。
また彼と手を繋げる。地球に降りてしばらく旅をしていた時のように、彼を身近に感じることができるのだ。
「…え、えへへっ」
スレッタは嬉しくなって、今度こそ本当の笑顔になった。心なしかエランもホッとしているようだ。
それを見て、まだ彼に気遣われている───彼の優しさを元にした愛情はまだ自分に向けられている、と気付いたスレッタもまた心の底からホッとしていた。
『気になる事』とは何なのか、エランに聞くことも考えたが、今はまだこの喜びに浸っていたいと思ったスレッタは口に出すことはしなかった。
いつになく晴れやかな気持ちで就寝し、穏やかな気持ちで過ごした次の日の夜。
スレッタは自分に向けられる手のひらを見て目を見開いていた。
「エラン…さん。その手袋はどうしたんですか?」
エランの手のひらは、ここに来てから買った薄い材質の手袋に覆われていた。ひとりで外出する時には付けていないので、最初の外出の時以来・・・まだ1回しか見ていない白い手袋だ。
「仕事中に手のひらを擦ってしまって。少しヒリヒリするから保護の為に付けたんだ」
「え…でも、帰った時には怪我なんて」
「血が出るような怪我はしてないよ。でも素手よりこちらの方が楽だから」
「そう…ですか」
少し腑に落ちないものはあるが、エランが言うのならそうなのだろう。スレッタはできるだけ手のひらを触らないように、白い手袋に覆われた指先をそっと握ってみた。
「痛くないですか?」
心配になって聞くと、エランは意外な事を言われたようにぱちりと瞬きをした。次いで、ゆっくりと微笑んでくれる。
「…うん、痛くない。ありがとう、スレッタ・マーキュリー」
ごめんね、と小さく聞こえた気がしたが、気のせいだったのかもしれない。
久しぶりの外は、とても蒸し暑く感じる。いつもより少し早い時間だというのもあるのだろうか。
さぁっと見えない薄いベールが肌を撫でるように、歩くごとに水を含んだ重たい空気が纏わりついてくる。けれどスレッタはそんな不快感よりも、久しぶりに外に出た解放感に夢中になっていた。
エランの手袋の感触を意識しながら、目線をあげて空を見る。久しぶりの肉眼で見る地球の空は、やっぱりとても綺麗だった。
日が暮れ始めてからすぐに家を出たので、まだ少し日の残滓が残っているようだ。空の一方の端は星が瞬いているが、もう一方の端はまだそれほど暗くならず、青い色を残している。
きっと、少し前の時間なら真っ赤な夕焼けが見られたのだろう。
スレッタは初めて地球に降りた日の事を思い出していた。広すぎて途中から線を引いたように見える大地の境目。そこにゆっくりと溶け込むように沈んでいく太陽の姿を。
あの時のような光景を、また見られる日は来るのだろうか。
「スカーレット、今日は何を食べようか?」
珍しく、エランの方から話しかけて来た。自分がぼんやりと空を見上げてばかりいるので、心配になったのかもしれない。
一瞬、ここで黙っていたらもっと心配してくれるのだろうかと思ったが、そんな事をして嫌われてしまったら元も子もない。スレッタは悪い事を考える自分を頭の中で叱りながら、エランに笑顔で返事をした。
「今日は麺類を食べたいです。やっぱり、屋台で食べると美味しさが全然違いますから」
「トッピングもたくさんつけよう。確かライスを炒めたものとセットにも出来るよね」
「『チャーハン』ですよね。あれ、美味しいから好きです」
「ライスはあんまり食べた事はなかったけど、僕も嫌いじゃないな」
2人で何でもない話をしながら、ゆっくりと道を歩いていく。
空を見上げると、いつのまにかナイトマーケットの明かりが空に溢れている。人工的で賑やかな光に追われて、空にあった小さな星がどこかに隠れてしまっていた。
けれどスレッタはこの光景も嫌いではなかった。エランと2人で見た景色に、嫌いなものなんて1つもなかった。
これからもエランと一緒に、色々な景色を見ていきたい。
スレッタは改めて、もう少しだけ頑張ってみようと決意していた。
「そういえば、明日でお仕事終わりですよね」
お腹もいっぱいになり、ふぅ、と息をつきながらエランに話しかける。今は食後の小休止中だ。簡素な椅子が並べられた休憩所に2人で移動して、少しの間だけ休んでいる。
スレッタはフルーツたっぷりのスムージーを、エランはあらかじめ持ち込んでいた無糖の紅茶を、それぞれ手に持っていた。
「……まぁ、そうだね。ようやく明日で終わる」
エランが返事をしてくれるが、何だか少し疲れたものを感じ取ったスレッタは首を傾げた。
そういえば、最近は仕事の話を聞いていなかったような気がする。もしかして何かあったのだろうか。
「どうしたんですか、エランさん。本当はお仕事、辛かったんですか?」
もしそうなら次に住むところが見つかったとしても、しばらくはゆっくりしてもらった方がいいかもしれない。
あらゆる意味で切羽詰まっていた水星でのレスキューと違って、地球でのお仕事は生活費を得るためのものだ。今はまだ余裕があるという話だから、そんなに無理して働かなくてもいいのではとスレッタは思う。
「…仕事自体は辛くないんだ。運転作業は簡単だったし、機械操作も面白かった。けど少し気になる事があって…」
それは昨日言っていた事と関係があるのだろうか。確かその『気になる事』が原因でスレッタを外に連れ出せないというような事を言っていた。
「気になる事って何ですか?」
昨日は後回しにしてしまったが、エランが困っているなら話を聞いてあげたい。それが自分に関係するモノなら猶更だ。
エランは少し戸惑っているようだった。自分に聞かせてもいいか迷っているのかもしれない。
いつもはスレッタが驚くほど判断が早い人なので、彼がこうやって迷いを前面に出すのは珍しいことのように思える。
「エランさん」
話を促すように名前を呼ぶと、彼はふぅーっと息を吐いて、こちらに顔を向けて来た。ただ、目が合うほどではない。目線は少しだけズレていて、スレッタの首元を見つめている。
それに少し残念な気持ちになりながらも、エランが口を開くのを静かに待った。
「…きみに興味を持った人がいるんだ」
「え?」
エランの話は、思っても見ないような言葉から始まった。
「きみを間接的に助けてくれた人の話はしたと思うんだけど」
「あ、工作機械のお爺さんですね。買い物のアドバイスをくれた…」
血を流してしまった時の事だ。今思い出してもとても恥ずかしいのだが、たぶん必要な話の流れなので我慢して会話を続けてみる。
「そう。その人との会話を会社の人に聞かれてしまって。ごく一部ではあるけど、『僕の妹』として、きみの存在を知られてしまったんだ」
「エランさんの、妹としてのわたし…?」
初耳だった。自分の存在は、彼にとって妹のようなものだったのだろうか。
「………」
お嫁さんも、妹も、どちらも同じ家族であるはずなのに…。何だか少し、悲しい気持ちになってしまった。
沈んだ顔をした自覚はあったが、それを見たエランが少し慌てたように言葉を重ねた。
「僕は誓ってきみの事を吹聴していない。けどクーフェイ老にはきみの存在は知られているから、話を合わせる必要があった」
「それで、妹ってことにしたんですか…?」
「…特に何の関係もない男女が暮らすよりは説得力もあるし、説明が一言で済むから都合がいい。たとえ事実とは違っていても、向こうの勘違いを訂正する理由がない」
エランらしい簡潔さだ。スレッタは『特に何の関係もない男女』という言葉にもやもやする気持ちを抱えつつも、理屈としては分かりやすかったのでこくりと頷いておいた。
「…話を戻すけど、きみに興味を持ったのは僕が今通っている工場の上役だ。彼は珍しいものと女性が好きな男で、この辺り一帯を治める工場主の子息になる」
「会ってもいないのに、わたしに興味を…?」
「僕の血縁者だと思われているからだろう。…彼は僕の容姿がお好みらしい。その妹なら、もっと好みに合うと考えたんじゃないかな」
・・・そんな人物、いやしないけどね。
そう言って皮肉気にエランが笑う。今の彼の容姿は作られたものらしいので、実際に彼と血がつながっている人物が存在していても、姿かたちは似ていないはずだ。
「エランさん…」
なんだか彼が傷ついているような気がしたスレッタは、慰める言葉をかけようと口を開いた。けれど何て言えばいいのか分からず、結局は違う言葉を吐き出してしまった。
「えと、えっと…。あ、その人がわたしを見ても、その、きっとガッカリするでしょうね。だってわたし、そんなに美人さんじゃないですもん」
スムージーの容器をモジモジといじりながら、ちょっとおどけたような声を出してみる。
いまいち容姿の判断に自信がないスレッタだが、それでも分かる事はある。それは女の子は小さくて華奢な子か、小さくてふわふわした子が好まれるという事だ。
スレッタはどちらにも該当しない。背は高いし、体つきはしっかりしているし、筋肉だってある。
学園では自分より背が小さい子ばかりで驚いたものだ。
おまけに田舎者とか、くしゃくしゃ頭とか、そんな事はよく言われるが、容姿を褒められたことはない。…お母さん以外には。
なので『上役さん』と実際に会ったら、その人はすぐに興味を無くすものだと思われた。
エランは優しいのでスレッタの事をとても心配してくれているが、それは杞憂なのだと安心させてあげたかった。
「だからそんなに心配しなくても……ぴゃッ」
顔を上げてびっくりした。彼がジッと見ていたからだ。
久しぶりに彼の視線とまともにかち合ってしまって、スレッタは動けなくなった。頬が熱くなるのが自分でも分かる。
「きみは…」
「は、はい…」
「………」
「………」
そのまま長い沈黙に入る。言葉は途切れたが、エランの視線はずっとスレッタに注がれている。彼の強い眼差しに耐えきれずに、だんだんと目線を下げてしまった。
暫くの沈黙のあと、スッと手袋をした手が差し出された。
「…そろそろ行こう。人が増えて来た」
「あ、は、はい…」
見れば確かに人が増えていた。あまり人の目に晒されるのはよくない立場ではあるし、話している内容も聞かれたくはないものだ。スレッタは素直に手を取って立ち上がった。
「…きみの容姿は、きみが言うほど悪いものじゃないよ。絶対に」
「え」
ともすれば聞き逃してしまいそうなタイミングでそう言うと、エランはすぐに歩き出した。
直接的な物言いじゃない、けれど…。
スレッタは胸がぎゅうっとなって、何だか堪らない気持ちになった。
2人で歩く。
今日は久しぶりの外出だからか、エランは少し遠回りをしていつもより長く散歩をしてくれている。
「足は痛くない?」
「はい、大丈夫です。エランさん」
フワフワとした心地で歩いていく。もうすぐこの散歩も終わってしまう。けれどあと数日経てば、また2人で旅の続きができるはずだ。
今度は暑さで倒れないようにしよう。そうすればきっと、もっと長く2人で一緒に居られるだろう。
そうして少し疲れたら、また短期で家を借りて、そして…。
「………」
スレッタはここ最近の出来事を思い返してみた。
2人でアパートを借りてから幸せな気持ちで過ごした1月半ほどの生活。その後、なぜかエランが余所余所しくなった1週間ほどの苦しい生活。
続いて先ほど分かった出来事を考えてみた。
仕事先の人たちにエランの妹だと思われている自分の状況。それによって上役の人に目を付けられ、彼が何かと気を揉んでいる今の状況。
スレッタの容姿はそう悪いものではないとエランは慰めてくれた。彼は相変わらず親切で、相変わらず自分に優しくしてくれている。少なくても嫌われてはいないはずだ。
スレッタの頭の中で、急速にある考えが形作られていった。
色々な事を思い返して、考えて。自分の願望と彼の合理性をきちんと計算して。そして、とうとう1つの結論が形を持ってスレッタの中に現れた。
「エラン、さん。て、提案が、あるんですけど…」
振り返るエランの顔を、祈るような気持ちで見つめる。
今から言うことは、眉を潜められることかもしれない。けれどもう一度だけ、勇気を出してみようと思えた。
「提案って、なに?」
軽く首を傾げるエランに、スレッタは緊張しながら口を開いた。
「さっきの、上役さんの話ですけど…。その人はわたしに興味があって、だからエランさんを困らせていたんですよね?」
「あぁ、そういえば話が途中だったね。うん、もう仕事を辞めるから自動的に解決しそうだけど、少し困っていたのは事実だ」
「何もない男女が一緒にいるって、あまり人にお話しできない事なんですよね?」
「体裁は勿論よくない。むしろ、僕はきみの安全の為に存在自体を第三者に知られたくないと考えている」
「わたしの存在をすでに知っている人がいて、でも詳しい事情を堂々とお話しできないから、妹だってことにしたんですよね?」
「…向こうが勝手にした勘違いに便乗した形ではあるけど、結果的には間違いないよ」
「エランさんの生活を見ていたら、隠そうとしていても、家に誰か女の子がいるってたぶん分かってしまいますよね?」
「…確かに。ランドリーや買い物の内容で、分かる人には分かると思う」
「な、なら…」
───こくり、と喉を鳴らす。ここが勝負どころだ。
「なら、ほ、本当の、家族…になれば、いいんじゃない、でしょうか…」
「……どういうこと?」
「ほ、本当の兄弟にはなれませんけど。家族には、今からなれるじゃないですか。お、お、お嫁…さんと、旦那さんって形で、本当の家族に、なるんです」
「………」
「妹だと、嘘のままですけど。お嫁さんなら、本当になれます。それに、お嫁さんの方が一緒に住んでて、違和感がないです。だって、夫婦って、いつも一緒にいるものだから、です」
「………」
「あの、そうすればっ、…そうすれば、他の人がちょっかいをかけて来たりもしないはずです。だって、浮気は駄目…だからです。周りもきっと、そっとしておいてくれるはずです」
「………」
「ど、ど、どうですか。とってもいいアイディアだと、思うんです」
「…スカーレット・マーティン」
「は…い」
「それは、仮面夫婦ということ?」
「…え?」
パチリと目を瞬かせる。仮面夫婦って何だろう。
スレッタが言葉の意味をよく理解していないことに気付いたのか、エランは分かりやすく補足をしてくれた。
「偽りの夫婦ってこと。夫婦なのは書類上だけで、実際はただの同居人とか、友人とか、別の関係だってことだよ」
「夫婦なのに、別の関係なんですか…?」
せっかく、家族になったのに…?
それは何だかとても、勿体ないことのように思えた。
戸惑っているスレッタを見て何を思ったのか、エランは長い溜息を吐いた。そして、道理の分からない子供を説き伏せるように、ことさら穏やかな声で話しかけて来た。
「こんな事をしでかしておいて何を言うのかと思われるかもしれないけど、僕はきみに出来る限り無理強いはしたくないと思っている。必要なこと以外、きみに負担を掛けたくないんだ」
「分かってます。エランさんは、いつも優しいです」
「…分かってない。僕は犯罪者で、きみは被害者だ。ここ数か月はずっと、僕の脅しによってきみは縛り付けられている状態なんだ。精神的負荷は相当なはず。…本来、きみは僕を許しちゃいけない立場なんだ」
「違います。エランさんは、わたしを助けてくれたんです」
「……違わない。危険なところから連れ出したのは事実だけど、無理矢理きみを攫ったのもまた事実だ。それを混同しちゃいけない」
「だって、必要だからそうしたんですよね?最初は混乱したけど、今は納得してます」
「……違う。きみは勘違いをしているだけだ。本当なら、僕は取れる手段はいくらでもあった。でも、そうしなかった。僕の子供みたいな我が儘が、そうさせたんだ」
「エランさんなら、少しくらい我が儘でも大丈夫です。それに、わたしは今の状態に満足してます」
「……家族や友達と、引き離されたのに?」
「今はエランさんが一緒にいます。わたしはそれだけで、十分幸せです」
───あなたと家族になれたなら、もっと幸せになれると思います。
にこりと笑って、彼の目をまっすぐ見つめる。我ながら綺麗に笑えたと思う。すると、彼はショックを受けたように、目を見開いた。
「…エランさん?」
「……きみの申し出は、受け入れられない」
「どうしてですか、エランさん」
「きみは一度、自分の気持ちをよく考えてみたほうがいい」
「わたしは家族になりたいって言いました」
「僕は…僕は受け入れられない。こんな、こんなに酷い事・・・」
「………」
何が、酷いっていうんだろう。
ふと気づくと、手袋をした大きな手が震えていた。いつも頼りになるエランの手が、何かに怖がっているかのように、カタカタ、カタカタ、と震えている。
その震えが、繋がっている手を通じて伝搬したように、スレッタの体にも伝わって来る。
カタカタ、カタカタ、何かを揺り動かすように震えていく。
「………」
自分がエランを怖がらせているんだ、と気付いたのと、水源を掘り起こされたようにジワリと涙が滲んできたのは同時だった。
鼻の奥がツンとする。目の前がよく見えない。スレッタはポロポロと涙を零しながら、幼子のようにエランに手を引かれて歩いていった。
今、スレッタは振られてしまった。プロポーズの言葉を、拒否されてしまったのだ。
「僕はきみを攫った責任がある。きみが何もしなくても、きみの安全が確保できるまで僕がそばにいる。だから、自分を犠牲になんて考えなくていい…」
犠牲って、何のことですか…?
彼の言葉の意味を聞きたいのに、声を出すと情けない嗚咽が出てきそうで、とてもじゃないが口を開けそうになかった。
…その日は、言葉少なげに解散になった。
エランはしきりに『何もしなくても見捨てない』とスレッタに対して言ってくれていた。
少し前ならとても欲しかった言葉なのに、今は聞いても虚しくなるばかりだった。
スレッタは夜遅くまで泣き明かして、次の日の朝は起きられず寝過ごしてしまった。昼前にようやく目が覚めた時には、彼はもう最後の仕事に行ってしまっていた。
「………」
仕事に行く、と書かれたメモがテーブルに置いてある。メモの下の方には、ゆっくり休んでいて、と別のメッセージが書かれている。
テーブルに頭を乗せながら、ぼんやりとそのメモを眺め続ける。相変わらず、彼は優しい。そして夫婦にはなれないが、ずっと一緒にいてくれると約束をしてくれた。
なら、それでいいじゃないかと思う自分もいる。
多少はよそよそしくても、夫婦にはなれなくても、彼とずっと一緒にいられるならそれで良しとすべきじゃないだろうか、と。
頭の中には、お互いを抱きしめ合うエルゴとメリッサの姿がある。
お互いがお互いだけの役割を持っていた2人。強い絆で結ばれていた唯一無二の夫婦の姿。
彼らのようにはなれなくても、きっと仕方がないことだ。厄介者だったスレッタには、過ぎた願望だったのだ。
でも、さすがにエランが自分の気持ちを分かってくれなかった事には堪えてしまった。
こんなに好きで、夫婦になりたいとも言ったのに、どうして彼はスレッタの思いが間違っているような事を言っていたのだろう。
ぼんやりとしながら考え続けていると、玄関からピンポン…、という音が聞こえて来た。
基本的にスレッタは表に出ないように言われているので、この時も息を潜めてやり過ごすつもりだった。
けれど、音は何度も鳴らされていく。
ピンポン。
ピンポン。
ピンポン。
さすがにおかしいと眉を潜めていると、ふいに音がしなくなった。
誰だか分からないが、諦めて帰ったんだろう。そうホッと胸を撫で下ろしていると、ドアノブがガチャリと回る音がした。
ギぃ、とドアそのものが開く音も聞こえる。
エランが帰って来たのだろうか。でも、声掛けもせず、こんな時間に…?
どこか不穏な気配を感じたスレッタは、音をさせないようにそっとテーブルから立ち上がった。
ゆっくりと後退して、自分の部屋に逃げ込もうかと思ったその時。
ダイニングの入り口に、知らない男の姿が見えた。
「………っ」
息を呑む。
見覚えのないその人は、まるで幽鬼のように生気の無い顔をしていた。
不穏な雲行き 前編
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