ごめんねスレッタ・マーキュリー─不穏な雲行き(前編)─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─不穏な雲行き(前編)─


※センシティブな表現、犯罪行為ともとれる描写があります




 恐ろしい夢を見た日から、エラン・ケレスの行動は少し変化をすることになった。

 なるべくスレッタ・マーキュリーという存在に近づかないように、細心の注意を払うことにする。

 彼女の方を見ないように。

 彼女の体に触れないように。

 彼女に言葉を掛けないように。

 もちろん、完全には無理だ。そんな事をすれば、きっと、寂しがりやの彼女の気持ちが沈んでしまう。

 だから、表面上はなるべく前と変わらないようにして、少しずつ距離を取る必要があった。

 彼女を見る時には、なるべく視線を逸らすことにする。

 彼女に触れる時には、なるべく直接触らないようにする。

 彼女に話かける時には、なるべく事務的に喋ることにする。


 彼女に、劣情を抱かないように。…汚い汚い肉欲から、彼女をできるだけ遠ざけるように。

 それは必要なことだった。




・・・・・・・・・

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 朝起きる。エランはむくりと起き上がると、まずは自分の体の状態を確認した。

 憂鬱なことに、腰に少し違和感がある。案の定下着をめくるとそこは少し大きくなっていた。

「………」

 こんなものはただの生理現象だ。少し時間が経てば元に戻る。そう思っても、どうにも気分が滅入ってしまう。

 はぁ…、とため息を1つ吐いてから、朝の行動を開始した。

 ダイニングに行き湯を沸かしている間に、冷房のスイッチを入れる。毎朝のルーチンワークだ。

 動き出した冷房が鈍い音を発するのを耳にしつつ、手早くコーヒーを作って自室へと引き上げる。

 コーヒーを片手にニュースを読む。今日も特に大きな出来事はないことを確認すると、ホッと息をついた。端末の端に表示されている時計を見る。もうそろそろ次の行動をするべきだ。


 エランはベッドヘッドに置いてある小物入れから形状の違うチューブ入りの薬剤を2つ掴み、もう一度部屋を出るとシャワー室へと向かった。

 服を脱いで全裸になると、おもむろに片方のチューブの中身を手のひらに取り出す。両手で捏ねて体温になじませてから、備え付けの鏡で確認しつつ手足や顔に塗りこめていった。

 非常に伸びが良い為、使用する薬剤はほんの少しでいい。色が薄くなった肌がみるみる褐色に戻っていく。

 とはいっても2、3日に1回はこうやって塗っている為、違いはほとんど分からないだろう。

 手のひらまで褐色になってしまうのが唯一の難点だが、乾く前に拭き取ればある程度の色は薄くなるし、仕事中は手袋をしていることが多いので特に問題はない。むしろ少しくらい色が付いていた方がいいのかもしれないとも思う。

 いくら手のひらは日焼けをあまりしないからといって、エランの元々の手のひらの色では違和感がある。肌の色とまったく一緒ではまずいし、逆に元の色のままでもまずい。結局は隠した方が安全だった。

 乾いた薬剤が肌に馴染んだことを確認すると、今度は別のチューブを手に取る。あらかじめ溜めていた洗面器のお湯の中に適量の薬剤を入れてかき混ぜると、真っ黒な湯が出来上がった。

 そこに頭を突っ込んで、ジャブジャブと髪に黒い湯をかけていく。全体的に髪が濡れたら、今度は頭皮にしみ込ませるように丁寧に揉みこむ。時間にしたら5分も掛からない。

 最後に髪を手で絞って、シャワーで洗い流せば染め直し完了だ。こちらは大体4日か5日ごとに行っている。

 頭髪の染料はスペーシアンが開発したもので、材料にはごく少数だがパーメットが使われている。毛髪だけに反応するよう調整されていて、不器用な人間でも簡単に染めることが出来る代物だ。

 スペーシアンの中にはバスタブいっぱいに溜めた染料入りのお湯に浸かり、体毛ごと一瞬で染め直す人も居るのだという。面白い事に1週間ほど何もせずにいると一気に色が抜けていくので、週ごとに色を変えられるよう様々な色の種類を揃えるスペーシアンもいるようだ。

 ベネリットグループ傘下の…確かラングランズ社が開発したという髪形すら自由自在な新商品には及ばないが、手頃な価格で買えるロングセラー商品だった。

 ただフロントではともかく地球では中々お目にかかれない代物ではある。

 まだ中身はあるが、無くなってしまったら地球産の染料に切り替えたほうがいいだろう。

 染めたばかりの頃はスレッタも『エラン・ケレスの髪色』を惜しがっていたが、最近は黒髪に慣れたのかあまり言及しなくなっていた。ならすぐに色が戻るこれらの染料を使わなくても大丈夫ではないかと思える。

「………」

 エランは自分自身がどういった姿かたちをしていたか覚えていない。けれど少しずつ色や形を変えて、本来の自分に戻れたらいいのに、と最近はまた思うようになってきた。

 本来の姿が少々不格好でも、スレッタはあまり気にしないだろう。そうして自分だけの姿を覚えてもらえれば、もし今のエランにそっくりな人物が現れても、騙されることはないはずだ。

 エアリアルの見せた夢の中。自分以外のエラン・ケレスと交流を重ねた彼女の姿を思い浮かべる。

 少しの違和感、不安、不審、けれど最後まで彼女は自分と彼らの違いに気付かず、そうして心を壊されていった。

 あんな彼女をみるのはもうたくさんだ。

 だから、彼女を守らなければいけない。彼女を害する可能性のあるもの───自分自身からも。

 スレッタは将来、誰かの花嫁になりたいのだと言う。

 せっかく彼女自らが魔女へとならない道を提示してくれたのだ。その夢を、叶えてあげなければならなかった。

「………」

 鏡に映った自分は、落ち着いた暗い色彩を纏っている。けれど薄い緑の目だけは、どこか浮ついた、不穏な光を放っているように見えた。



「なぁカリバン、給料倍にするからこの仕事を続けて欲しいって言ったら、どうする?」

「…え」

 突然そんな事を言われたのは、昼間の食堂でのことだった。

 目の前には珍しくひとりでいる役員の男。そういえば、最近は上役の男の姿は見ていないような気がした。

「そう言われましても、最初からこの月の終わりまでという話でしたし、断るしかありません」

 定住するなら考えたが、もう少しでこの地を離れる予定でいる自分には頷けない話だ。

 エランが素直にそう答えると、役員の男はハァ…とため息を吐いた。

「だよなー。いや、言ってみただけっすから、気にしないで」

「もしかして、モビルクラフトの乗員が補充できなくなったんですか?」

 現在モビルクラフトの運転はエランが行っているが、それはあくまでイレギュラーな事だ。暴走事故を起こした当時の担当者は戻ってこれないが、代わりの人間を雇う予定にはなっているはずだ。

 けれどもしその交代要員が何らかの理由で来れなくなったとしたら、またモビルクラフトの操縦者は空白となってしまう。エランはその可能性を考えていた。

「いや、そこは大丈夫。他の工場から回してもらう事になってるっすから」

「では何故?」

「あー、カリバンは優秀だから、もっと仕事を教えたいなぁ…なんて」

「………」

 エランは単なる工員として雇ってもらっている立場なので、基本的に上役に付いている役員の男とは仕事が重なる事はない。

 彼なりの冗談なんだろうかと思っていると、エランの困った空気を感じたのかすぐに「ごめん、苦しい言い訳だったっす」と撤回してくれた。

「でも残って欲しいのは本当。若ってあんなだから仲良くできる男って貴重で…。まぁ、カリバンは迷惑してたんだろうけど」

「………」

 そんな事はない…とも言えず黙っていると、役員の男は苦笑した。

「そういう正直なところも貴重なんすよ。若の周りにわざわざ来るのは、俺も含めておべっか使う奴ばっかりだから。でもあんまりしつこくして若ごと嫌われるのもアレなんで、ここら辺にしとくっすよ」

 役員の男はそれだけ言うと残していたデザートをパクパクと食べ、「そんじゃあまた。午後の仕事も頑張るんっすよ」と言ってトレーを片づけてさっさと食堂を出て行った。

「………」

 本音を言うと、若とやらはどうでもいいが、役員の男と昼食を取れなくなるのは少し寂しいような気もした。



「ただいま、スカーレット」

 午後からも仕事をして、何故かまだ続くクーフェイ老からの指導も終わり、最後に買い物をしてからアパートに帰宅する。

 エランは挨拶をしながらいつもの癖で玄関を見回して、ふとそこがとても綺麗になっていることに気が付いた。

「………」

 掃除はこまめにやっている。エランも休日には掃除をするし、ゴミやほこりが目に見えて溜まっていることはない。

 でも備え付けの靴置き台も、壁も、廊下も、こんなに艶やかに光を弾いていただろうか…?

「お、おかえりなさい、エランさんっ!」

 廊下の奥から慌てたようにスレッタがやってくる。今日はもうシャワーを浴びたようで、まだ濡れている髪が一房だけぺたりと首筋に張り付いていた。

 服も少し大きめのTシャツと丈の短いショートパンツで、最近あまり見なくなった無防備な部屋着だった。

「お掃除で少し汚れちゃって…、その、シャワーを浴びてました」

 まだ髪も乾かしていないのに、エランが帰って来たことに気付いて出迎えてくれたらしい。

 スレッタの体が纏う温かく湿った空気がこちらに届いてきそうで、エランはどうにも落ち着かなくなった。視線をどこにやっていいか分からず、つい綺麗になった玄関を見回してしまう。

「き、気付きました?今日は玄関をお掃除、したんです」

 スレッタが嬉しそうに教えてくれる。

「…家具や廊下に艶が出てる。ワックスでも使った?」

 その割には特有の匂いはせず、逆に嗅ぎ覚えのあるいい匂いが広がっている気がする。なにより、掃除用のワックスなんてあっただろうか。

 エランが首を傾げていると、「こ、コンディショナーを使いましたっ」と更に詳しく教えてくれた。

「コンディショナー?」

「水で薄めたものを雑巾で絞って拭くと、ワックスの代わりになるみたいです。埃も付きにくくなるとか…。使い切れないと思ったんで、た、試してみました」

「そうなんだ」

「は、はい…」

「………」

 ───それも『お嫁さん』になる為に蓄えた知識?

 エランはそう言おうとして、まるで当てつけのようだと気付いて結局は口を閉ざした。

「…え、えと…」

 スレッタはちらちらとこちらを伺っている。早く髪を乾かしに部屋へ戻ればいいと思うのだが、きっと褒めてほしいんだろう。

「……がんばったね」

「は、はい…っ」

「買い物した分は冷蔵庫に入れておくから、髪を乾かしておいで」

 それだけ言うとエランはスレッタを置いてダイニングへと向かった。すれ違いざまに彼女の髪から甘く柔らかな匂いがして、何だか堪らない気持ちになる。

 手早く冷蔵庫へ買ったものを仕舞うと、エランもすぐに部屋へと引っ込んだ。

 以前夕飯づくりの手伝いを断られてから、スレッタに呼ばれるまで部屋で待つことが多くなった。一時期は少し不満に思ったものだが、今となっては助かっている。自然と彼女に近づく機会が少なくなるからだ。

 エランは自室へと戻るとすぐに部屋全体を見回した。特に出た時と変わったところはない。スレッタは言いつけを守り、今日も部屋には入らなかったらしい。

 ふっと息をつくと、端末を取り出して何度か操作をする。それほど時間はかからずに4分割された荒い映像が画面に出てきた。

 高い所から向かいの建物と道を見下ろす映像が2つ、階段の手すりが映った外廊下の映像が1つ、見覚えのある玄関の映像が1つ。

 どれもエランが隠しカメラを設置して、毎日のように確認しているこのアパートの景色だった。

 大勢で急に押しかけられたら意味はないのだが…。もし偵察などでこちらを伺っている者がいたらすぐに分かるよう、アパートに越して来る前に設置したものだ。

 自分とスレッタの部屋の外の様子と、玄関の内外の様子を同時に見れるように配置してある。…もちろん、彼女には内緒だ。

 玄関を念入りに掃除されたと知って少しひやりとしたが、スレッタは特に気にした様子はなかった。高い所に設置してあるし、インテリアに紛れるように偽装したので、まだ気付いていないのだろう。

 最後まで気付いてくれなければいいけど…。そう思いながら、監視映像を確認していく。再生時間は短縮しているがそれなりに時間はかかる。部屋で過ごす大半の時間はこの作業で潰れていた。

 全体を見るようにワザと焦点をぼやかせて確認していると、ふと1つの映像に目が引き寄せられた。

 4つの映像の中で、一番動きが少ない筈の玄関に人が入り込んでいる。スレッタだ。

 掃除用具を持った彼女は高い所から埃を払い、床を掃き、雑巾で家具を拭いていった。

 彼女の格好は動きやすいようにか、先程と似たような服を着ている。ぶかぶかのTシャツに、丈の短いショートパンツ。ちょうど玄関にバケツを移動した時に、大きく空いた襟口から彼女の胸の谷間が見えた。

「………」

 ハッと気づいて、すぐに映像を停止する。いつの間にか食い入るように見てしまっていた。

 こんな事は彼女に不誠実だ。よく考えれば帰って来た時の彼女は元気だったし、特に何か大きな出来事が起こったという風でもなかった。

 エランは4つの映像の内、玄関の中のものだけ停止して、他の3つのデータを確認することにした。

 けれど、集中できない。頭の中には先ほどのスレッタの姿が残像のようにチラついている。

 ドクドクと忙しなく鳴る鼓動。体は熱っぽく、心なしか呼吸が早くなっている。

「………」

 そうして、足の間にあるものが反応していた。最初は無視しようとしていたが、駄目だ。どうしても気が散ってしまう。

 このままでは効率が悪いと判断した4号は、さっさと処理をすることにした。スレッタが夕飯の支度をしている間にシャワーでも浴びれば、気付かれることもないだろう。

 情けない気持ちになりながら数年ぶりの自慰をする。何も考えずにいようと思えば思うほど、彼女の存在が自分の中で増すようだった。

「………ッ」

 あっさりと終わったのは溜まっていたからか、先ほどの映像が脳裏に過ぎっていたからか。

 エランは深く考えようとはせず、大きく息を吐くと雑な手つきで後処理をした。


「あ、エランさん、もうすぐご飯ができますよ」

 シャワーを浴び、部屋に戻ろうとしていたエランはすぐに呼び止められた。

 髪を乾かしながら先ほどの映像の続きを確認しようと思ったのだが、思いのほか時間が掛かっていたらしい。何度も体を洗っていたので、そのせいだろう。

「わかった。髪を乾かしたらすぐに行く」

 スレッタから微妙に視線を外して返事をすると、逃げるように部屋へ引き返す。

 そうしてその後の食事中も、彼女の方を見ることが出来なかった。何だか視線で穢してしまいそうな気がしたからだ。

 本当はそろそろまた気晴らしに外へと誘った方がいいと思っていたが、そうすると彼女と手を繋ぐことになる。

 自分の汚れた手で触れるなんて恐ろしくて、できそうになかった。だから何も言わずに黙って食べることにした。

 食事の間中、彼女がどこか悲しそうにこちらを見ていたが、エランは気付かないフリをしていた。


「ごちそうさま」

「は、はい」

 簡素な挨拶だけして、食器を洗ってすぐに部屋へと避難する。このままではいけないと分かっていたが、今日だけは許して欲しかった。

 ばたん、とベッドに俯けになって大きく息を吐く。このままふて寝してしまいたかったが、まだ仕事が残っている。

 エランは先ほどまで見ていたアパートの映像をもう一度見始めた。もちろん内玄関の映像抜きでだ。

 時間的には昼を回った辺りだろうか。この時間帯は暑いので、だいたいの人は建物の奥に引っ込んでいる。

 案の定午前中に見えていた人影も少し静まり、あまり見るべきものはなかった。

「……ん」

 …と、アパートの外の映像に人影が見えた。

 この辺りは珍しくゴチャゴチャとしていない場所で、向かいには小さい個人商店の他に別のアパートがあるくらいだ。それもアパートの方は入り口が反対方面にあるため人の出入りは少なかった。

 その唯一と言ってもいいほど人の出入りがある場所。個人商店の軒先に、いつのまにか立っている人物がいた。

 軒先といっても外なので、日陰でも暑いはずだ。それでもその人物はじっと立って───こちらを見ているような気がした。

 とてつもなく嫌な予感がして、映像を拡大してみる。その途端、ゾワリと背筋が凍ってしまった。

 …見覚えのある顔。見覚えのない表情。


 それは最近姿を見せなかった、上役の男のようだった。






不穏な雲行き 後編


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