地獄のファンファーレ

地獄のファンファーレ

スレ主

目次


男は俗に言う普通の人生を歩んできた。人並みの学力、人並みに家族にも友人にも恵まれた。

大学に進んだ後は一人暮らしを許される程度には親に自立していると認めら1人の時間が増え、このまま大学を卒業後は中小企業に就職して普通の女性と結婚し家庭を築いていくのだと考えていた。

しかしその普通も、ある女に目を付けられるまでの尊い幸福であったと思い知らされたのはあの夜の事だろう。

最初は普通の少女の様に振る舞い相手を油断させてから言葉巧みに心の隙間に入り込みそれを相手に気づかせない。

──女は心の弱さを利用する悪魔だった。それに気づかずに騙され利用され、そして男は1ヶ月前ある罪を犯した。

口にするのも悍ましい人間が避忌するべき事象を、この女は目の前で最も簡単に実行した。未だに残る鉄臭い匂いに水よりどろっとした血の感触。そしてそれを遥かに凌駕する最後の瞬間は絶望の中で死んでいったであろう肉塊の表情、最初は手伝って欲しいとそれを見せられた時は勿論できないと断った。

自首しようとも言って必ず罪を償った後は側にいるとも、でも女はその直前まで男に見せていた仮面を脱ぎ捨てて別人だと断言できるほどの表情が無くなった顔、それは今までの男に見せていた顔が全て偽りであると言うことを物語っていた。


「手伝ってくれないんですか?」


恐怖感から口からよだれが出るのも気にせず何度も頷く。過呼吸で口から息が何度も漏れ出す。


「ふーんじゃあもう帰って良いですよ」


無理やりにでも脅されて共犯者にさせられるか、あるいはこの転がっている肉塊と同じ道を辿るかのどちらかだと思っていた男にとって女の言葉は慈悲そのものだった。舌が震えて言葉を噛みながらもやっと口から出た言葉は何ともお粗末だったが聞き返さなければ自分が何か都合のいい幻覚を見ているとしか思えなかっただ。男は藁にもすがる思いで女の言葉を飲み込み、頭の中で何度も復唱し聞き返した。


「ええ勿論です。貴方を繋ぎ止める武力も権力も私にはないので、抵抗されればそれまでですし。ではさようなら」


そのまま言われた通り何の言葉も女にかけず真っ直ぐと家に帰れば良かったのだ。そうすればいつもの日常に戻れる。この記憶は一生忘れることはないだろうが大学も休んでカウンセリングにでもいけば周りはいい人たちばかりだ。きっとすぐに傷は癒える。この件はいわば自身の人生に通りかかった通り魔の様なもの。これさえ乗り越えれば───




「コレを1人でどうするのか、ですか?あぁそれなら他の人に手伝ってもらうだけですよ」


だれに、口にはしなかったが男の目は恐怖の他にもう一つの感情が湧き上がる。

それを見た女は床に情けなく突っ伏したままの男に近づく事なく男を見下ろした。下から見えた少女の顔はいつも通りの笑顔のままだった。


「貴方以外の誰かに」











***


結果だけで言えば男は女から逃げられなかった。

あの日以降大学にも行けず両親からの連絡も取れずに布団にくるまって震え恐怖をかき消すために酒に溺れた。

テレビや有名人の伝記ではよくやらずに後悔するするよりやって後悔した方がいいと言うがそんなことはやった後にどん底を見なかった奴の成功論に過ぎない。あの後どれほど後悔を重ねてもあの時の自身選択を許すことはできないだろう。

今はまだこうして生きているがいつ女の気まぐれであの肉塊と同じ道を辿るのか分からない。安心感を得るために、これからの人生のためにも。

荒れた自室にけたたましいアラームの音が鳴り響く。

壁に立てかけられている時計はもうすぐ女が指定した時刻を指し示した。男は台所からよく研いである新品の包丁を取り出すと布に包んで布団の中に隠した。

準備が整ったと同時に玄関のチャイムは鳴らされず扉をコンコンと誰かが叩いた。

──来た


男は扉の前でゆっくりと息を吐くと立て付けの悪い扉の施錠を解除して女を招き入れた。年季が入っているせいか鈍い音を立てて扉が開く。


「こんばんは、あんまり遅いので中に入ろうと思っていた所でした」


”嘘を言っている〟男はそう思った。部屋に自力で入ることなど不可能だ。ここは2階、壁は薄いので階段の上り下りの音は響くし窓の鍵はしっかりと施錠しカーテンもちゃんと閉めていた。盗聴器が付けられていないのも確認し家に誰も入れずここ一週間はコンビニにも行かず部屋は完全な密室。扉の施錠を解いたのは最近ではさっきの一回のみ。

自分が何をしようとしているかについての皮肉か?いやこの女と言えど普通の生活がある。

その合間で密室状態の仮に男を監視し尚且つ部屋へ侵入後素早く合鍵など作れるものなのか?自身が安全だと思っていた場所は束の間の平穏だったのか?そんな本来ありえないご都合主義の推理トリックの様な仕掛けもこの悪魔にならばできてしまうのではないか。


「あら、顔の血色が随分と良くないですね。大丈夫ですか?」

「だれのせいだと」

「私ですよね」


落ち着いて、深呼吸をしよう。まずはこの女を人間だと思うことから始めるのだ。自分は恐怖から潜在的にこの女を超常的な存在にしようとしている。それがこの震えの理由に他ならないと男は考えた。

自身の一挙一動で勝手に疲弊していく男の顔を見た璃鷹はすこし考えると「さっき女の子にあげちゃって残り一つなんです」と言って手からピンクの包装紙に入った可愛らしい飴玉差し出してきた。


「良かったらどうぞ」

「‥いらない」


男は一度女の着用している制服を見て息を整えた。

男はこの一ヶ月女の弱みになる事象をその疲弊し睡眠不足のためか中々働かない頭で必死に考えていた。そうしてまず目につけたのは鳶栖璃鷹の隠すことなく晒された個人特定に繋がる制服だ。あれはこの近くの空座第一高等学校の制服、つまりそれを着ている女も質然的にそこの生徒ということが分かる。そしてそれがもし仕留め損なった場合の自分の保険になるだろう事も理解した。


「そうですか?」


女が此方に背を向けた本棚の方に目を向けながら何やらゴソゴソとしている。恐らく飴の包装紙をとっているのだろう。

──態と誘っているのか、はたまた男には何もできないと高を括っているのか

しかしもう覚悟は決めた。もうこんなチャンスは二度とないかもしれない。そして布団から布に絡まった包丁を取り出しそれを思いっきり女の腹に突き立てた。

「あ、」そんな母音が聞こえたが気にせず何度も突き立てた。何度も何度も。

倒れた女を見て思わず声が出た。


「や、た。やったんだ。勝ったんだ‥あの悪魔に俺は、!‥‥え、」


歓喜のままゆっくりと再び下を見る。そこには男の予想通り血が滴って「楽しかったですか?」声が、聞こえた。

立っていた、女がそこに。制服は刺したことが分かるように穴が空いていたがそこからは傷口どころか擦り傷だってついてない。

包丁を見ると血はついていなかった。いや、それどころか刃物は折れて床に転がっていた。


「楽しめそうなのでまだいいかなと思ったのですが‥やめました」

「やめ、た?」


「えぇ」女は口の端を上げて少女のように笑いながら答えた。その顔がまるで普通で、今のこの状況に似つかわしくなくてそれが恐ろしかった。


「一護を見ていたらつい、抑えられなくて」


逃げた、台所に走った。まだ予備の包丁は残ってる。それを素早く構え女に突き立てようとした。男が狂気な叫び声を上げながら再び包丁を女の体に振り下ろした。

女の破れた制服の隙間から青い模様が光っていた。傷は出来ていない。制服に傷を付けただけだった。


「な、なんで死なな」


やられる、そう思ったが女は何故かピタリと動きを止め自分の方には目もくれず窓の方向を凝視していた。


「この感じは一護の家の近くから‥へぇむしろよく今まで襲われなかったとは思っていたけれど、今までは偶然だったんだ」


もし、仮に黒崎一護がその霊力の高さゆえになんらかの力に覚醒でもすれば状況は変わるだろうが、正直五分五分だろうなと鳶栖璃鷹は考えていた。


「まあ私は関係ないし行かないけど」


そしてそれは今行かずとも次の日学校でわかる事だ。それに労力に反して大したものは見られそうにないのだから態々ここから一護の家まで出向く必要はない。

そのまま鳶栖璃鷹は目の前の獲物に集中した。


「なんのはなしを」

「あぁお気になさらず、独り言ですから」


男は自身の生命の危機を感じ取り必死に悪魔と罵った女に縋り付く。


「ま、まてもう反抗しない言う通りにする」


璃鷹は男の制止を聞かずゆっくりと歩み寄る。歯をカチカチと言わせながら喉を震わせる。


「悪いけどもう貴方に対して興味がないの、だから」


「せ、せい、ふ、ひゅ、」

必死に言葉を叫んだ。叫ぼうとした。しかし恐怖からか喉が引き攣り意味のない言葉へと変換される。

何をしたいのか理解した鳶栖璃鷹はそれを敢えて無視した。


「ごめんね」


璃鷹は床に落ちた包丁の残骸を拾いそれを男の首に突き立てた。首から血が滴りすごい勢いで男は痛みと息ができない苦痛に悶絶した。


「か゛ッ゛」

「あ、制服穴空いちゃってる」


鏡に映った体には制服のブレザー服の後ろがパックリと裂けている。しかしまたそこから血は滴っていない。まるで今気付いたかの様に服を摘むとスカートをはためかせた。

璃鷹は穴だらけになった制服を見てため息をついた。



「明日も学校あるのになぁ。それにさっきの包み紙床に落としちゃった」


まだ息があるようで血を吐きながらもごもごと何かを言っている。璃鷹は本棚の近くに倒れたときに誤って落としてしまった包み紙を拾った。

喉がパクっくりと裂けているせいで血の泡が口から溢れ声も出せず息の出来ない苦しさからもごもごと母音しか出せない男の口を大きく開かせ男の口に包装紙を押し込んだ。


「美味しいですか?この間ここの下の大家さんに貰ったんです。世間話してたら盛り上がっちゃって部屋に上げていただいて…聞いてますか?」


もうもごもごと母音を出す気力もない正気のない顔をした男を見ると璃鷹は窓が完全に鍵がかかっているのを確認しそのまま鞄を持ってハンガーに掛けてあった男物のブカブカとしたパーカーを着た。

「これお借りしますね」

そしてそのまま玄関に向かうと靴を履いて施錠されていない扉を開けると部屋の奥にあるソレに振り返って先程の笑みが消え無関心な顔で其処に座っている肉塊を見た。


「さようなら。楽しかったですよ」


男の目の光が消えたのを確認して外に出るとまず鞄から出した鍵できっちりと施錠した。


「人の家に来といて施錠もなしに出ていくのは駄目だよね。泥棒でも来たら危ないし、持ってきて良かった」


そのまま階段を降りるとそのまま道路を歩いて脇道に出た。1メートル程進んだ先で「あ」と何かを思い出した様に声を出した。


「返しておかないと」


璃鷹は近くの水たまりに鍵を投げた。雨は降っていなかったが一護を送っていた時に近くで水撒きをしていた人がいたので恐らくそれが理由だろう。


「近いしきっと誰かが届けてくれるよね」



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