ナイトスノウ・2

ナイトスノウ・2



 雪が降っていた。

 しんしんと、雪が降っていた。


「雪がとけたからって、雪の重みで折れてしまった幹が戻るわけじゃありません」

 雪深い地で育ったあるひとは言う。

 やがて雪解けが訪れたとしても、それはリセットではないのだと。


「…ですが、」

 続けられた言葉は、どこまでも優しく力強い。

「ですが折れた樹から新しいひこばえが生えることだって、重みに曲がり続けた樹が…ただ真っ直ぐ育ってきた樹にはない特別な強靭さを持つことだってあるんです」



 凍えるような雪が、降って『いた』そして



side 冴


「にい、ちゃん…。夢捨てて…MFになった兄ちゃんの隣で、俺にサッカーしろっていうの?」

 震える声が、夜に沈みかけたグラウンドに吸い込まれていく。降り出したばかりの雪がちらちらと、冷たい風に乗って舞うその背景の空は真っ暗だった。


 鎌倉ユナイテッドユースのチームグラウンド。そこは糸師冴が、かつて晴れ渡った青空の下、初めまだよちよち歩きだった幼い凛の きらきらした眼差しを受け取りながら幾度もシュートを決めた場所だった。

 陽射しを受けやわらかな指がつかまり立ちのように握っていたフェンスも、街灯のあかりに黒く影を落とすばかり。


「嫌だ」

凛、そう呼ぼうとした冴の声は

「やだからね!そんなの俺は絶対にいやだ!」激しい拒絶の声に遮られた。

「そんぐらいなら、俺はサッカーなんていらない!」


「俺は!世界一のストライカーの弟だ!!」


 冴と共に・兄去りし後も弛むことなく練習に励みピッチを駆け…鎌倉へ帰って来て以来の『糸師凛のサッカー』の堆積したグラウンドに、傷抉られる悲鳴のような声が響き渡った。



 ヴー、と鈍い音をたてて震える端末。表示された父からの返信に糸師冴は視線を落とす、凛のことは任せて大丈夫とのことだった。

 己の身勝手さを胸に刃を立てるように刻み込みながら、冴は目を上げて歩いていく。雪夜とはいえもともと温暖な街、路面の雪は降ったそばからぐしゃりと融けかけていて、カートの車輪はズジジジと鈍い音を立てていた。

 海岸べりの道へ向かう坂道は『あの頃』焦がれるほどに帰りたかった優しい時間の舞台で、庭木の陰影にも思い出の気配が宿っている筈なのに、それを目にしながらも心はどこまでも空っぽだった。


 両親の事故からの数年間、糸師冴というモノをかろうじて人間に留めてくれていたのは、弟の凛だった。守るべき存在という以上に、『兄ちゃん』と呼ぶ声や向けられる表情、大事なのだと不甲斐ない兄のためにほろほろと流してくれた涙がずっと、闇の中でも冴にヒトとしての輪郭を与え続けていたのだ。

 それなのに。

 冴の伸ばした手をパシンッと撥ねつけた凛の、グラウンドに膝をつき蹲っていたその姿、「うそつき」と涙が滲むような小さな声————

 夢を書き換えた自分を拒絶された痛み、弟を傷つけてしまった自責は鋭く突き刺さっていた。

 そして同時に見せつけられたもの。大切なはずの弟をどれほど傷つけ拒絶を受けようとも、踏み出そうとしている高みへの道を妥協してやろうなどとは思えない、自らの醜悪なまでの欲深さ。

 『ぬるま湯の日本サッカー』レベルのストライカーで満足できてしまえる自分なら弟を苦しめることもなかったのかもしれない、けれどそんな『もしも』を冴は選べなかった。世界を知り刻一刻と進化し続ける第一線のサッカーを目の当たりにした冴は、突き付けられる『MFとしてならば』という残酷な可能性にしがみつく以外の答えを、焼き捨ててしまっていた。


 サッカーをけっして譲ることのできない自分。

 そうして。

 片や凜は—————。あの頃ずっと見ないようにしてきたけれども凛は、凛にとってのサッカーは。たとえば誕生日に握ってくれたあの世界一優しいおにぎりとたとえば編んでくれたマフラーと同列の、労りの発露だったとしたなら———冴は深淵を覗く心地だった。

 浮かび上がりそうになる疑念はまだ、心の奥底で凍り付いて眠ったままわだかまっている。


 冴自身の手足も、世界も、冷え切っていて、引き摺るように自分とカートとを運んでいく。

 薄く微笑みを張り付けたままの口元。頬にあたった雪がひとつ、またひとつと、涙と似た軌跡でこぼれ落ちていった。


 踏切をちょうど渡り終えたところで、ティンティンティン…と背後で聞きなれた音が鳴りだし赤い光の上下する中、ゆっくりと降りていく遮断機。


 車内の柔らかい光を投げかけながらカタタン、コトトンと列車がやってきて、グラウンドからの道を隔てるように通り過ぎていく。


 雪が降っていた。

 マフラーは荷物の中に持っていたが、巻く資格は失くしてしまった。

 父もそろそろグラウンドに着く頃合い、冴は心の遠い隅でぼんやりと思った。無事に帰宅して欲しいと願ったり、家族の輪にこっそり紛れ込んで名前を伏せ贈りものをしたり、そんな贅沢が———人でなしの自分にも許されたらいいなあと。


 母からの、冴の身を案じる言葉や駅近くまで来ているというメッセージに、短く返事を返せたのは街を既に発った電車の中からだった。




【サッカーだけを見つめる糸師冴には、笑顔の下ずっと目を背け続けている疑念があった】


 糸師冴は、糸師凛のサッカーが好きだった。

【能動的に地獄を終わらせたのは糸師凛だった。片や冴は】

 糸師冴は、糸師凛とのサッカーが好きだった。

【もし、糸師凛のサッカーが冴への労りの発露であり。冴も無意識のうちにそれに気付いてたとしたなら、ば】

 糸師冴は、糸師凛とのサッカーがとても好きだった…


【冴が、やり過ごそうとするばかりで終わらせなかった地獄が、幼い凛をどれだけ傷つけ笑顔をコロシ続け、タ??】


 糸師冴は、糸師凛を傷つけ続ける『糸師冴』の姿を全て、凛に見えないように消してしまいたかった

 よく笑っていた昔の『凛』を返してやって、そして願わくば一欠片でも『良きもの』をもたらせたな ら———



 やがて、ただただサッカーひと筋に没入していく冴のもとへ「消えてしまわないで」と袖を掴んで訴えるように、誕生日には凛からのプレゼントがスペインまで届くことになる。

 朝夕に秋の気配漂い出す頃。鎌倉の小さな路地の小さな雑貨屋の前でふと足を止めた黒髪の少年は、木目調のショーウィンドウに惹き込まれた視線を一度剥がしてしばし彷徨わせる。そうしてほどなくしてドアベルの、カランカラランという軽やかな音が…緑に彩られた路地に世界一優しく響くのだから。




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