ナイトスノウ・1

ナイトスノウ・1



 雪が降っている。

 あたたかい鎌倉の街には、珍しい雪が。


 しんしんと降る雪の中、二人の兄弟が向き合いサッカーをしている。

 黒髪の弟が必死で喰らい付こうとするも、圧倒的な実力の差で勝利したのは赤髪の兄の方だった。


 雪が降っている。

 膝をつき蹲った弟の、グラウンドに爪を食いこませている手の甲に。

 弟へと伸ばした手をパシンッと撥ねつけられ、逡巡の後に独りカートを引き歩き出した兄の頬に。

 ひとひらの雪が降って、音もなく融けて落ちていった。



side凛


 バスンッ…

 弓なりの軌道を描いたボールが、ゴールの隅へと吸い込まれていく。


 バスンッ

 クラブでの練習を終えてからのシュート練習を、糸師凛がひとりでやるようになって四年。兄がスペインに渡って四年。

 ようやくチームを日本一に導くことのできた凛の胸には、常に兄のサッカーが…二人で交わした約束があった。

(明日、兄ちゃんが帰ってくる。久々に会える…!)

 世界一のストライカーになった兄の隣で、世界で二番目のストライカーになって二人で世界一になる。それは大切な夢で、約束で…、一つまた一つと大切なものが失われゆくような奈落の底でも必死で握りしめ続けていた支えだった。

 練習後の腹ごしらえをしていたチームメイトたちの「おつかれー」「寒みーしほどほどにしとけよー」という声に「おー」と応じると、ざわざわとした賑やかさが遠ざかっていく。

 バスンッ…トンットトン…

 ゴールネットに突き刺さったボールが、力なく落ちて転がる音までも聞こえるほどの静寂がグラウンドには降りていた。

 車のエンジン音が海沿いの大通りのほうからブオォンと響き渡って消えていく。吐く息が白く浮かび上がり、格段に冷えた空気が足元から忍び寄っていることを教える。


————『ずぶ濡れで冬の庭にいるのは、しにそうになるから』

 脳裏に蘇る少し掠れた文字列に、凛はブレかけた足を一度止めてボールを地面に圧しつけた。そして肺の中身を吐き切るように息を吐き出すと、再びゴールを見据える。


 あの頃の兄の日記を、凛が見つけたのは大会の始まる少し前のことだった。

 別の物を取り出そうとして偶然ひっくり返してしまった中、目に飛び込んできた『りん』と『ストライカー』という単語に凛は思わずそのノートを手に取った。開き癖がついていたのかもしれない、開いたページに書かれていたのは凛が初めて兄のパスを…試合に乱入して受け取り、シュートした日の分の日記だった。

 そうして盗み読んでしまった日記は、サッカーに関わる部分を除く大半は痛みと苦しみと…そして凛の身を守らなければという悲壮なまでの強い思いに満ちていた。


 途切れた集中を再び研ぎ澄まし、凛はシュート練習を再開する。


————『いたいくるしいきもちわるい』 『たすけて』


 バスンッ…トンットトン…

 バスンッ…トンットトン…


 何も知らずただ庇われ続け、兄がずぶ濡れで裸のまま冬の庭にいたという雪の夜もぬくぬくとあたたかい布団の中で眠っていた自分———

 足を止めそうになるその自責を無理やりねじ伏せるようにして、凛は先の大会ピッチを駆け抜け勝利を掴み取った。

 兄の身は既にスペインの、レ・アール下部組織という大樹のもとこの上なく安全に守られている以上、『今』の糸師凛が『あの頃』の必死で悲鳴を押し殺して心を壊した兄に一欠片でも報い得る手段があるとすれば、ただ一つ。

 ちゃんと寝てちゃんと食べて身体を育てた己が、世界で二番目のストライカーとして、世界一のストライカーとなった兄の隣に堂々と立つことだけなのだから。


(そうして兄ちゃんと好きなだけピッチ駆け巡って、そうしたら)(いつか兄ちゃんも)


 バスンッ…トンットトン…

 パシィッ…


(ちょっとズレたな…ん?)

「…雪、か」

 夜空から、白い雪が舞い降りてくる。


 寒さで手も足も凍えてきている…ならば凍えているなりの動かし方で、と修正してもう一度。

 バスンッ…トンットトン…


「ナイスシュート」


 後ろから聞こえた懐かしい声に凛は振り返る。

 空港から直接来たのか、カートを引いたままの兄の姿がそこにはあった。


「兄ちゃ…」ん、と言いかけた声は夜に溶けた。

(なんで)

 スペインで憂いなく思い切りサッカーをしている筈の兄は、口元に笑みこそ浮かべているものの明らかに疲れやつれた様子だった。

(…なんで)


「     」

 兄の言葉が意識の表層を滑り落ちていく。

「     」


 ねえなんで。凛の喉は寒さではない理由でひりついて、声が出なかった。

 世界一のMF、『ミッドフィルダー』と紡いだ声音は

(『ストライカー』って言う時の、誇らしそうな声と全然違う)

 なんで、なんであの頃重ねた『大丈夫』の哀しい嘘と同じ色をしている?

(にいちゃん)


「俺がミッドフィルダーになるから、だから凛が世界一のストライカーに———」

(俺の、足りてないところ補うため…?)

 世界がゆっくりと傾ぐのを感じた。『おれがかわるからぜんぶひきうけるから』乱れた文字が脳裏で点滅する。『りんだけは』


「日本は狭すぎるから、凛も早く———」

(独りじゃ井戸から出れない俺が、にいちゃんの夢まで殺すの)


「にい、ちゃん…。夢捨てて…MFになった兄ちゃんの隣で、俺にサッカーしろっていうの?」

 耳鳴りがする。震える自分の声が、どこか遠く聞こえた。

 兄の願いを折り取り、意に沿まないことを行わせて搾取の上に築かれたプレーで楽しみを追うなど、あの日まだ幼い兄を組み伏せていた男と何が違うのか。

「嫌だ」

「り「やだからね!そんなの俺は絶対にいやだ!」

 呼ぶ声を遮るように拒絶する。


「そんぐらいなら」雪の中響いた凛の声は悲鳴じみていた。

「俺はサッカーなんていらない!」


「俺は!世界一のストライカーの弟だ!!」


 雪が降っている

 雪が降っている

 傍目にはいっそ幻想的にも見えたかもしれない、全霊で向き合いぶつかり合う二つの影、その刹那のやり取り。


 そうして、雪が


 1on1を挑み、勝てずとも『ストライカーとしての糸師冴』の本音を揺り起こせれば嘘を突き崩せるかもしれない———そんな一筋の望みすらついえるほどの圧倒的な敗北を喫して。無力な己への憤りに身を灼く糸師凛の上にも、ただしんしんと雪が降っていたのだった。




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