ジェターク家の回想 1

ジェターク家の回想 1



 その日、僕は母さんに手を引かれながら、フロントのビジネス街を歩いてた。

怒りも露わに、ぎゅうぎゅうと僕の手を握りしめ、強く引いて少し前を歩く母さんはいつも以上に怖かった。僕の左肩にはいつもの小さなトートバッグ。見飽きる位ページをめくった、どの項に何が書いてあるか、そらで言えるほど大好きな僕の定番の本が幾つか、安心出来るおまじないみたいに入ってる。

着いた先は、ジャンクションの程近く、商業施設と併設された高級ホテルの高層階。その角部屋の一室だった。

ジャンクションでタクシーを降りてから、それほど距離はなかったから、鬱血した指先が放られるように解放されると、指先はジンジンしてるけど、今回は痺れを感じる前にすぐに血が通った。


広めのホテルには部屋が3つあった。中央の大きなリビングルームには来客用のような綺麗な装飾が施された大きなガラステーブルと大きなソファ、卓上には綺麗な花が活けてある。その奥に位置する全面窓からは。高層のビル街と人口彩色の青空が一望出来て、壮観な景色が広がっていた。

隣の大きなベッドが置いてある寝室とは開放的に部屋が繋がっていて扉や仕切りがない。

リビングルームから振り返った通路側の左隣は洗面、キッチン、バスルームなどの水回りが纏めてあり、通路を挟んで右隣の扉を開けると、他よりは小ぶりなその部屋は書斎のようで、大きな本棚に重厚な作りの厚手の本が、床から天井近くまでぎっしり詰まってた。その横には装飾が控えめなシンプルな作りの机と椅子が置いてある。


母さんと暮らすマンションはこれほど高い階層の建物ではないから、リビングからの眺望に僕は少しばかり驚いて、バッグを肩に掛けたままゆっくりと窓辺に近付くと、半分口を開けて窓の外を眺めてた。

母さんは備え付けの冷蔵庫から何かドリンクを取り出したようで、背後で栓を開けて喉を鳴らして一気に飲み干す音がした。突如頬に冷たい物が当てられる。横を見上げるとお茶のボトルが差し出されてた。僕はドリンク周りの雫で少し濡れた頬を袖口でそっと拭った。


「母さんね、これから大事な話があるの」

僕はこくりと頷いて、差し出されたボトルを受け取る。

「奥のお部屋で大人しくしてて。あなたが好きな書籍も沢山あるわ。出来るわよね?」

小さく頷いたところで、インターホンの呼び鈴が控えめな音でポーンと鳴った。


__あの女だ。


そう呟いて小さく舌打ちした母さんは、ずかずかと足音も荒く玄関ドアの方へ歩いていく。僕はその後姿を見ながら小さく身体を震わせた。仁王立ちで勢い良く引いた扉の向こうに、人の姿が母さんの背中越しにちらりと見えた。つばの広い帽子が俯き加減で被られたその下で、薄桃色の長い髪が覗いていた。母さんより少しばかり小柄な女の人のようだった。

その姿を目にした母さんは一瞬動きを止めて、面食らった、ように見えた。


「随分と早いじゃない、箱庭育ちのお嬢様は時間の約束も満足に守れないの?」

「申し訳ありません……お気に障るようでしたら一度出直し致します」

「いいわよ、遅れるよりはマシだから__。入ってちょうだい」


母さんの声は言葉の刺々しさに反して、思ったより柔らかだった。

対して相手の人は、抑え気味の慎重な口調で。何だろう、何だか不思議な響きがした。

透き通った綺麗な声。でも何だか抑揚が無い。感情が分からない。誰かの喋り方に似てるような__。

そうか、僕の喋り方に少しだけど似てるんだ。声の主はどんな人だろう、ちょっとだけ気になってつま先立ちをする。

「ラウダ!! 何ぼんやりしてるのよ!早く部屋へ行ってなさい!!!」


急に振り返った母さんと目が合った。振り向きざまにいつもの調子で怒鳴られて、僕はそそくさとその場を離れて本棚のある隅の部屋へと向かった。素っ気ない感じの机にバッグとボトルを置くと無意識に耳を澄ます。

母さんの足音に続く静かな足音。横の通路を通り過ぎて広いリビングのテーブル前に着席したようだった。話し声はあまりよく聞こえない。

仕方が無いので部屋をぐるりと一周してみる。この部屋に一つだけある腰高窓から見える景色は、リビングの全面窓からの眺望に比べると面白味のないものだった。

背の高い本棚から、目の高さにある重たい本を一つ両手で取り出して机の上で開いてみる。字が小さくて、難しくて、何が書いてあるのか分からなかった。興味もさっぱり湧かなかった。

持ってきたバッグから本を取り出して椅子に座る。いつものお気に入り、サイエンスや世界の謎に迫るクイズ本。だけど、その日は気が散ってしまって集中出来ない。ちっとも面白いと思えなかった。

なので、ただ時計の音を聞きながら、母さん達の話が早く終わらないかと待っていた。




ドアを引いて開けた先、盗聴や盗撮等を避けるため、こちらが面会用に指定したホテルの部屋の前に現れたのは、私の想像したような人物ではなかったし、表情でもなかった。


その女を一目見るなり私は分かってしまった。

私から幸せを横取りし、将来の展望の全てを奪った女が、していい顔ではなかった。


彼女を一瞥した途端、戦意が萎えたのが自分でも分かった。心の奥で真っ赤に燃え盛っていた怨嗟の炎は、水を打ったかの如く消失した。

自分の感情の急激な落差に困惑しながら、それを誤魔化すため、強い言葉を選び、強い口調を使って前後の辻褄を合わせたが、それでも少しばかり言葉の端が揺らいだ。隠しきれたかは分からない。


私は本社のMS開発部門のメカニックの一人だった。私はヴィムに惹かれた、と言うよりはその仕事に打ち込む熱意に惹かれた。彼は、アイディアの引き出しの多さも然ることながら思考の柔軟さやそれを即行動に移すスピード感、手先も器用で、技術者でもないのにちょっとしたメンテナンスもそつなくこなし、小さなトラブルなら自分一人で解決してしまう。試験運用には自ら操縦桿を握り、改善点を指摘、提案し、方法を探る事まで自分でやった。

いずれは次期社長と言う立場でありながら、徹底的な現場主義の男だった。


しかし、全てにおいて完璧な人間などこの世にいない。彼の場合、人間関係の円滑性については、他が突出して秀でている分絶望的な様相だった。他人に対する気遣いは皆無に近く、人格的な評判はすこぶる悪かった。

そこまでリソースが割けないのか、ただ単に興味や関心が向かないのかは分からない。

一々言葉の端に要らぬ一言を添え、他人を苛立たせる。意識的にやってる事ではないのだろうが、徒に人を傷付けるような言動も多く、多方面にガサツと評されるのも尤もな人間で、その評価に関しては直近の秘書や部下達までが揃って迷わず首肯するものだった。

熱くなりやすく、直情的で自分の目的の為には手段を選ばない、障害は直接手を下してまで排除して回る無法者。業界内ではそんな風に恐れられてた。

あの社の製品は質実剛健、丈夫で扱いやすい良品だ。しかし、現在音頭を取ってる次期社長候補の筆頭は中々の曲者、敵に回せば厄介で、かと言って味方に置けば扱いに困る危険人物、出来れば関わり合いになりたくないもんだ、と陰で言われるような男。それがヴィムだった。


そんな一癖も二癖もあるヴィムだが、学生時代からの顔見知りでもありその癖を知る私は、ヴィムの会社にメカニックの腕を買われて入社した後、仕事を通し時間を共有する中で距離を縮める事になった。意図的だった訳ではない。純粋にその仕事に対する熱意と真剣さに惚れたのだ。エネルギッシュな彼と仕事をするのはとても楽しかったし、充実していた。その期待に応えようと、支えになろうとこちらも熱意を大いに傾けた。その気迫が伝わったのか、数年後にはチーフを任される事になり、順風満帆だった。

その翌年の春、突然支社へ異動の辞令が下りるまでは__。


私は彼に詰め寄った。

彼は平然とこう言った。

新設される支社を重要拠点と位置付けており、信用のおける人物を配置したい。

だからこそ君なのだ。耳元でそう囁いた。どの口が言う。そうやって遠ざけられては、辞めて行った社員を数多く横目に見ながら、ひたすら溜息を吐いてきた私は、彼の話を端から信用しなかった。

間違いなく、何かがある__。

悶々としながら日々を送って数月後、既にライバルを蹴落とし、CEOへの道筋をつけ始めた彼の会社と、新たに提携を決めた会社の娘が結婚するとの噂を耳にした。

ほら、やっぱりだ。


婚約が決まったのは私に支社行きの辞令が下りた春先だったらしい。遠方に飛ばせば時間稼ぎが出来るとでも思ったのだろう。彼が私を一人の人間として本当に愛しているのかどうかは兎も角として、腕を買っているのだけは確かだ。手放したくないから、場を濁して適当にやり過ごす、そんな意図が透けて見える。

彼はこの後、きっとこう言ってくる筈だ。

これはビジネス婚だ、仕方がなかった。しかし、本当に愛しているのは君だ、と。

既成事実を先に作って、なし崩し的に承諾させる。彼のいつものやり方だ。


プライドは高い方だ。仕事に対しての意気込みは社内で一番強いと思っている。負けん気が強いから、ヴィムの指揮権が絶対の、部署によっては風通しが良いとは言い難いこの会社でここまで続けて来れたとの自負もある。

だから私はギリギリまで知らない振りを続けた。関係を断つこともしなかった。元々常識的な倫理観が大いに欠けている男の事だ。別に気に留めている風でも無かった。

玉の輿を狙って逃した愚か者と、後ろ指を差されて揶揄される事もあっただろうが、素知らぬふりをして、努めて平静を装った。

そして結婚を目前に、彼は予想通りの言葉を吐いてきた。


私は、私を愚弄したこの男と相手の女、その家庭を派手に壊してやろう、とその時すでに決めていた。


だから、柄にもなく、しなを作ってその腕に縋りつき、『私も愛している』とささやいた。

一番でなくて構わないから傍にいたいと、うそぶいた。

したり顔で笑顔を向けるヴィムをうっとりと見つめる素振りをしながら、私は口元を歪めてほくそ笑む。


浅はかな女だとでも思っているのだろう? 浅はかなのは__お前だよ、ヴィム。


そして、あの子を産んだ。相手の女の子供の年齢に合うように、わざわざ合わせて産んだのだ。

幸いラウダは顔の造りも藍色の髪色も私にそっくりだった。ただその瞳の色は私と同じ色では無く、ヴィムそっくりな金色掛かった明るい鳶色で、その目を見る度に私は苛々させられた。

もう少しの辛抱だ。この子をヴィムに認知させ、あいつの家庭に送り込めば__。

毎日毎日、その顔を見る度ヴィムは私を思い出すことになるだろう。

自分のした行いを、この私を、忘れさせてなどやるものか。


その一方で支社での仕事には本気で取り組んだ。メカニックとしての仕事だけではなく出入りの業者や他企業との協力関係や営業方面にも力を入れた。手広く人脈を作り、強固な提携関係を結ぶと、懸命に信用を培った。傍目には愛社精神に溢れる熱心な幹部と映っていただろう。

だが、違う。

それらの日々は、培ってきた全ての一切合切を搔っ攫い、ここから飛び立つ日の為だ。思い切り水を濁し、泥水をぶっ掛け、手痛い爪痕を残して飛び立ってやる。

私はひたすらその機会を待った。予定よりもだいぶ月日が掛かってしまった事は誤算だったが、着々と独立する為の準備が整う中で、その電話は唐突に掛かってきた。


ヴィムからだった。子供が出来てからは上記の事情で公私ともに忙しく、プライベートでは勿論の事、仕事の上でも画面越しはあれど、直接的には暫く顔も合わせてはいなかった。子供は8つになっていた。

話によると、長年勤めていた教育係も担うベテランの女性バトラーが体調を崩して入院し、家事育児に手を焼いているとの事だった。私も子供も纏めて養い、面倒も見る。認知もするので、屋敷に入って妻と手を取って共に協力して欲しいとの話だった。

正妻にも話はつけてあると、相変わらず人の気持ちを逆撫でするような勝手な事を一方的に喋るばかりの彼に私は内心ブチ切れた。コイツは私を女中か何かの代わりにするつもりらしい。冗談じゃない。私が仕事一筋に生きてきた事は、お前が一番見てきただろうに__。

こいつはこういう男なのだ。


ただ、彼の家庭をぶち壊すにはまたとない、最高の舞台ではあると感じた。きっとヴィムにとっても最高のサプライズになるだろう。だから、今にも喉から飛び出そうになる罵倒の数々を無理やりに飲み込んで、その話に乗ってみた。

私はきわめて穏やかな声でヴィムに言う。


『そうね__。まずは、話を聞きましょうか』


元からそのつもりなど毛頭無い。が、話だけは聞いておいて損はない。私から全てを奪い、取り上げた相手の女がどのような人物なのか、興味が惹かれる部分もあった。確かな情報は多ければ多い方が良い。これから壊す人間関係や家庭の空気を、その雰囲気を知っておきたい。

幸せそうであればあるほど好都合だ、落差が際立つ。己の汚れた感情とその背徳感に背筋がゾクゾクした。



それなのに__。

扉の前に立つ、目の前の女に改めて目を向ける。

目深に被ったつば広帽子の下で、伏し目がちに時折こちらを上目遣いに見つめる瞳は、地球の空や海の青を映したような、綺麗なターコイズに似た青色だった。

右目の下の泣き黒子と相まってその眼差しはどこか哀いを感じさせる。

育ちの良さが伺える、悪く言えば世間を知らずに育った無垢な者にありがちな、少し幼さの残る顔立ちをしているが、年の頃はたぶん、私とそう大きくは変わらないだろう。

私も目の前の女も、同じようなやや細身よりの体型ではあるが、柔らかそうな目の前の女に比べ、日々メカニックとして働き力仕事も多い私の方が、幾分全体に引き締まり筋張っている。

ヴィムの好みなのだろうか、私と同じ褐色に近い浅黒の肌。それに薄桃色の髪色がよく映えている。が、何度も梳いてオイルで艶を与えたらしい、一見綺麗に手入れされた風の長い髪は、毛先が明らかに痛んでいた。

顔を隠すような大きな帽子は、おそらく日除けの為でもお洒落の為でもないだろう。左の頬だけやけに厚塗りのファンデーション。ピンクの口紅は、真横に引き結ばれた乾いた唇を隠すように何度も重ねて塗られている。

俯く表情に明るさは微塵も感じられず、どちらかと言えば決死の表情、と言った方がしっくりくる。

予想外の光景に思わず息を呑んだが、背後でまだのんびりと佇んでいるらしいラウダの気配に気付いて私は我に返る。何をぐずぐずしているの!!叱りつけるようにして書斎の小部屋に追い払うと、気を引き締めて女と対峙する。が、どうにも気持ちが嚙み合わない。


私からヴィムを奪っておいて。私から天職と自負する元の職場を奪っておいて。

こいつは、どうしてそんな顔をしている__。


困惑した。

こういう場面では大概、互いの値踏みから始まるものだろう?

お互いに表面的には丁寧な口調で慇懃無礼に挨拶を交わす一方で、視線で剣先をぶつけ合い、言葉の端で矛先を向け合うのが普通だろう。

ドアを開けた瞬間から、あくまで同じ土俵に乗るつもりはありません、と言った面持ちで立つ女。

こいつ__。何を考えている?正妻の余裕を見せつけるつもりか?上から目線のつもりなのか?イラっとして口を開きかけた瞬間、彼女は帽子を両手で取ると深々と腰を折って頭を下げた。


「この度は突然にご連絡を差し上げまして、驚かせてしまったかと思います。ヴィムの非礼と不躾な物言い、主人に代わり心よりお詫び申し上げます」

いやに長く感じられた沈黙が続いた後で、ゆっくりと上げられた顔は、まるで捨てられた子犬のようなそれだった。


何なのだ、この女は__。


何のつもりだ。分からない。こいつの意図が分からない。

「……兎に角入って。ここで押し問答しても、仕方がないでしょ?」

女はこくりと頷くと静々と私の後に続いた。ガラステーブル前のソファの片方に促す。全面窓の眺望を背景に左と右で対峙する。


「それで__? あんたは、ヴィムの提案に同意はしてないと、そう言う事__?」

じっとこちらを見つめる青い瞳は、窓から差し込む淡い日差しを受けてその深い色が余計に美しい。

「そうよね、家庭に愛人とその子が入り込んで、四六時中ウロチョロするなんて考えられない。一夫多妻のライオンの群れじゃあるまいし、同居なんてどうかしてるわ」

彼女が口を開く前に私はそう言った。

「いえ…」

「ならどういうつもりでここへ来たのよ。だいたい卑怯じゃないの、あんた一人に任せてヴィムは雲隠れ?」

「あの人は、仕事が毎日忙しくて__」

「は__?それが人に物を頼む態度?何年経っても相変わらず無神経ね、何様なのかしらアイツ」

鼻で笑って窓の外を見遣る。フロントの青い空にうっすら映るグリッド線。デジタル時計の表示は午後2時を過ぎていた。


「あの……」

ふと視線を戻すと、女の膝の上に乗せられたつば広帽とその下の小ぶりなバックが小さく震えている。それを握る両手の指先は、短く切り揃えられた爪先が鬱血するぐらいに固く握られていた。ゆっくりと視線を上げると青い瞳とかち合った。


「私からも……ご無礼を承知の上でお願い申し上げます。どうか、ご協力戴けませんでしょうか?」

「何故__?どうしてあんたがそんな事言うの?さっきも言ったでしょ、お互い気分が悪いなんてもんじゃない。あんただって針の筵でしょ、上手く行く筈ないじゃない」

「ジェターク家の__ひいては会社の為です」

「ヴィムにそういう風に言えと言われたの?」

「…違います」

「本当に__?」


私はテーブルに肘をついて中腰になると、ついっと右腕を伸ばす。瞳に警戒の色を乗せた女は、咄嗟に身を硬くして顎を引いた。その顎先を指先で掴むと、親指を左の頬にスライドさせる。指の腹で強く擦ると、まだ腫れが引ききらない赤い肌が顔を出した。


「やられたんでしょ、ヴィムに。そんなに前じゃない、昨日とか一昨日とかそんなとこ」

「……やめてください」

俯いた彼女は、私の右手をそっと押して払いのける。

「今日お伺いしたのは、あくまで私の意志です。主人が無理強いした訳ではありません」

「状況証拠からすれば限りなく疑わしいけど?その面みりゃ分かるわよ、他にも色々隠してるのが、同じ女だもの。何故?どうしてそこまでするの」

「…………。」

「第一お手伝いさんなら幾らでも雇えば良いじゃない、そのくらいの資金はあるでしょうに」

「主人は…ああいう人ですから。気難しいところがあって、使用人の皆さんとも折り合いが悪くて__」

「あいつらしいわね。社内外でも有名だけど、家の中まで誰彼構わず粗暴なの?おおかた雇い人も、彼らの方から辞めてったんでしょ?」

「………」

「それで私にお鉢が回ってきたと……冗談じゃないわ。私、ヴィムに遠ざけられてからこの10年近く、仕事一筋に生きて来たの」

「存じております。あなたが優秀な技術者であられるとの事、ジェタークに無くてはならない貴重な戦力であられると……本当に申し訳ありません……私が割り込まなければ、本来はあなたが__」


そうよ。その通り。私がヴィムの正妻になる筈だった。それをお前は___。


「ジェターク家に入って改めて肌身で感じました。必要なのは私ではなかった、と。私の拙い半生で習得して来たものは、少なくとも当家においては何の役にも立ちませんでした。ヴィムには、ジェタークにとっても、本当に必要なのはあなただった。それを私は藪から棒に。知らなかったとは言え…横から突然出てきて奪ってしまった__本当に……本当に御免なさい」

「今更謝られても、この十年は取り返しがつかないわ。それに家庭に入って大人しくしてるなんて性にも合わないし。到底受け入れられない提案ね」


唇を噛んで俯いたまま、彼女はまた両手の拳を握った。

「私と主人は__いわゆる政略婚の関係です。私の実家はジェターク社との取引を主とするフライトユニット内のパーツを主に納めている中小企業です。婚約が決まった数年前に大量の欠陥リコールが発生した際に資金繰りが悪化し、グループ内の融資の方も厳しくなってしまって。その時長年の付き合いだからと、各所に口添えして下さったのが先代のCEOでした」

「そう…。私も先代に腕を買われて拾われたのよ…。ヴィムとは学生時代からの付き合いだけど、雇ってくれたのは先代だった」

だから今まで苦節と恥辱に晒されながら、ここまでジェタークにしがみついてきた部分も少なからずある。まあ、それももうあと数日で終わるけど。先代への義理は十分果たしたと思う。

そしてヴィムへの恨みは、それとは別にキッチリとケリをつけたい。人の気持ちなどこれっぽっちも慮る事のない、身勝手なあいつでも、嫌でも分かるような形にして果たしたい。そう思っている。


「そうでしたか。主人もMS開発に対しての情熱は並々ならぬものがあります。果敢な性格なので__」

「獰猛って言うんじゃないの?」

「__周囲との衝突も多いと聞きます。先代がお亡くなりになってからは諫めてくれる人もおらず、私では重石にもなれず、人心が離れてゆくのを見ているばかりで。知識も無いので会社の事に口を挟むことも儘ならず、そちらの方面でも何の役にも立てません。あなたのような、知見も技術も彼の横に並び立ち、時にブレーキも掛けて下さる方が傍に居て下されば、会社にとっても、ジェターク家にとっても、どんなに心強いか……」


あの子にとっても、きっと__。


呟かれたその言葉に私は一瞬眉をしかめる。あの子?正妻の子ってことか。

「ですから、私は__」

真っ直ぐ正面から私の瞳を見つめた彼女は言う。

「私も…私からも、お願いしたいのです。どうか、ヴィムの傍に、あの子の傍に、あなたのお子様の傍に、そしてジェタークの、会社の支えになっては頂けないでしょうか?」


唖然として一瞬言葉を失った。

想定外の展開だ。要するに、こいつは正妻の地位を捨て、私に譲ると言っているのだろうか。

本当に今更ではあるが。

だが、そう易々と積年の恨みが氷解するはずも無い。こっちはヴィムやお前が死ぬほど憎いんだ。

「あんた、一体何なのよ!今更そんな都合の良いこと言って__私を小馬鹿にしてるわけ!?」

それでも少しばかり語気の勢いが削がれる自分に腹が立つ。

「いえ、そのようなつもりでは……」

暫く無言の時が続いた。


「……さっきの物言いからすると、仕事は続けろと__そう言う意味?」

「はい、家事の一切は私が致します。むしろ、お願いしたいのは主人の補佐や制御の方です。そして…もしも叶うことでしたら息子の夢を__」

「あんたに何が出来んのよ!箸より重たい物持ったことない、みたいなそんな細腕で__」

よく見ると荒れて割れたりささくれが出来ている指先が目に入り、私は言葉を中途でやめた。

「もし…私が視界に入るのが目障りであれば、姿を消します。あなた様なら使用人を主人から守りながら雇用する事も叶うはずです」

「あんたの子に私が辛く当たったりするかも知れない、なんて事は想定しないわけ?」

「あの子は良い子です、辛く当たらねばならないような事態は起こしません。きっとお会いになればお分かり頂けるかと__」


そういう問題じゃないと思う。どこまで愚直で純粋なのだろう、この女。子供の環境など、全ては大人側の都合次第だ。こちらの気持ち如何で親子関係はどうにでもなってしまう。事実、私はラウダを半分道具として見ていたし、そんな風に扱ってきた。考え方の齟齬は余りに大きく、自分の汚れた思考の在り方に少しだけ胸が痛んだ。


「でも、そうですね、やはり主人の子ゆえでしょうか…MSが大好きで。将来はパイロットだって、毎日のように言ってます。私は関する知識を何も持ち合わせておりませんので、何一つ教えてあげられない、助けてあげられない……それがまた心苦しかったんです。造詣が深いあなたの傍に居た方が、無能な私の傍にいるよりきっと、ずっと__」

伏せた目元が少し緩んで揺れたように見えた。

「私に出来る事は、これくらいしか__」

「…………」

「ですから、どうか__前向きにご検討下さいませんか。当代のヴィムには気難しい面がありますが、これは先代CEOの残された、ジェターク社の為でもございます、どうぞ…何卒宜しくお願い致します」

深々と腰を折った女は中々顔を上げない。それを私は半分口を開けたまま、呆然として見守っている。


ああ、ヴィムには勿体ない女だ。


思いも寄らない感想がポンと胸から湧いて出た。

おい、ちょっと待て。自分の頭に慌ててストップを掛ける。

__私は、今一体何を考えてる?


私なら、彼女にこんな顔をさせない。

打たれた頬を隠して、乾燥して切れた口の端を隠して、痛んだ髪も隠して、

目の下の隈も隠して、指先爪先も、全身ボロボロで。

ちっとも、なんにも、隠しきれていない癖に__。


一体何なのだ、気高さを失わないその瞳の正体は、一体何だというのだ。


わたしには分からない、どうしてそんなに綺麗でいられる?

どうにもならない境遇で、私からも憎まれて、

傷付いても、唾棄されても、なおも自ら泥水に飛び込もうとするこの女は

神か何かか?

高潔で傲慢で…__最高に苛々する。

こんなおかしな女、危なっかしくて放っておけない。


私なら、固く引き結ばれたその口を綻ばせてみせる。

私なら、哀しげなその表情を、晴れた空のような笑顔にしてみせる。

こんなに綺麗な青い瞳、曇らせたりしない。

もっと綺麗な光りを灯す事が出来るのに__。


何なんだ、何を言っているんだ、この私は。

お前はこの日の為に全てを傾けて来たのだろう?

私は__着々と準備してきたのは、全てこの日の為だろう?

ヴィムもこの女も家庭も、全部を今から切り裂いて、滅茶苦茶に壊してやるんだろう?

それなのに__。

私はこの青い瞳が、このまま澱んで沈んで、色を失っていくのを惜しいと思ってしまっている。

輝かせたいと思ってしまっている。映像でしか見た事のない、あの地球の空の色、海の色のように。


ああそうか、今、分かった。

綺麗なのは、心の方で__。

この青い瞳がこんなにも綺麗なのは、それが映るからなんだ。

だからこそ、この瞳はこんなにも美しいのか__。


私の半生において、全く縁のなかった、宝石みたいにキラキラしたそれ。

持ち合わせたことが無かった、眩しいくらいに輝くそれ。

私は今、それが欲しくなってるのだ。急速に。急激に。

自信はある、少なくともヴィムよりは上手くやれる。

そんな覚悟を決めた哀しい顔ではなく、幸せな笑顔を浮かべて欲しい。

それが見たい。どうしようもなく、見たいのだ。

だから、私は__。


「それで……ヴィムの家を出るとして、あなた、行く宛てはあるの__?」

喉が張り付いて掠れた声が出た。

頭の中がぐるぐる巡る。自分で分かる、混乱している。

彼女は何も言わない。でもその目を見れば分かった。

これは何も考えていない。と言うよりも、後の事など考える必要もないと思っている。

このまま幕を閉じても構わないと思っている。

思い詰めたままにそれしか頭にない、考えられない、そんな顔だ。

思考が基本他罰傾向なヴィムや、人が良いとは決して言えない性格の私にはとても出来ない、しない表情。

そんな事させるものか__。

こんなに綺麗な人が、あんな男の為に人生の全てを失うなんて、許せない。

私は、ほんのちょっと前まで自分がしようとしていた事をしめやかに棚に上げて、波打つ鼓動と共に心の声を大きく上げた。


それなら__私が掬い上げる。この人を救ってみせる。


ヴィムへの恨みも、10年越しに準備してきた計画も、それらの形が多少変わったっていい。厭わない、いや何なら全てを投げ出しても構わない。

目の前のこの綺麗な瞳を、この人を。どうしても救いたい。

そう思ってしまっている。


「あなたの言葉をそのまま受け取るなら、妻の座を私に譲った後は、一人ででもやっていこうと言う事よね。社会常識も経験も皆無なあなたが、あの家を出て、この先一人で生きていけると__?そんな甘い考えをしているの?」

「それに、あなたは政略結婚だとか言ってたけれど。話を聞く限りあなたのご実家の方が立場は圧倒的に弱い。あなたの一存であなたが抜けた後、ジェタークの傘下にそのまま残されたご実家の立場はどうなるの?その先はきちんと考えてらっしゃるの?」


畳み掛けるように語気を強めてそう言った私は、一瞬言葉を止めて躊躇った後、覚悟を決めた。

これからやろうとしていた事、進めようとしていた計画の全てを洗いざらい彼女に暴露した。ヴィムにも彼女にも恨みを募らせ、その家庭を壊すためにこの10年を生きて来たこと。当然ジェタークに家になど入るつもりはなく、今から壊す相手を知ってやろうと興味本位でここへ来たこと。あと数日でジェタークから独立し、引き抜いた多くの人材と、関連会社を引き連れて別グループで新規参入の新会社を立ち上げる手筈になっていると。

彼女は大きく目を見張ったまま、瞳の色を揺らして目を泳がせた。


「何故…それを…私に……?」

膝の上で揃えられたままの拳は、多分驚きからであろう力の抜けた状態で鎮座している。私はソファから立ち上がると、それを恭しく取って自分の胸元に引き寄せ、細い肩ごと抱きしめた。

そして自分にも言い聞かせるように、彼女の耳元ではっきりと言葉にした。


あなたを救いたい。

攫いたくなったのだ、と。


彼女が息を呑んだのが分かった。振り向きざまにこちらを見つめる青い瞳は瞬きを忘れている。

私は、その耳元で更に追い打ちを掛ける。

ジェタークから独立すると言う事に関しては変更するつもりはない。

あなたは自分に知識が無いとか、出来る事は一つもないだとか言ってるけれど、知識がなければ身に付ければいい、何も出来ないと嘆くのなら、これから出来るようになれば良い。私の元に来ればそれが可能だ。

弟子入りなさいよ、この私に__。遅い事なんて何もない。私はヴィムや先代に目を掛けられた技術者でもある、腕には自信がある。息子の為になりたいと言うのなら尚更の事__。

その細腕が筋骨隆々になるまで、しっかりみっちり仕込んでやるから。

実家の会社の事も心配ない。こちらが優先的に仕事を回す。所属グループ自体を変えての起業だから、後追いで嫌がらせを受ける事も無い。取引先を私の方に徐々に切り替えてくれれば良い。数年間は少し厳しい状況が続くだろうが、それを乗り越えれば必ず軌道に乗る。声を掛けた者達はヴィムの独断専行や、そのやり方に納得出来ない、嫌気が差した面子ばかりだ。皆一丸にやる気になってる。

安心して__。何の心配もいらないわ。


それを聞いた彼女の瞳は、驚きで大きく揺らいだのち、一瞬強い光を宿したように見えた。

その後、考え込むように下を向いて唇を噛みしめ、ひたすらに黙りこくった。

色々一気に捲し立て過ぎたか? 情報を与え過ぎてキャパオーバーでも起こしたか?

様子を観察しながら息を詰めて事態を見守る。

暫くすると華奢な背中が小さく震え出した。最初は泣いているのかと思った。会う前は想像もしていなかった彼女の家庭生活、それはそれ程辛いものだったのかとそう思った。

だが、次の瞬間彼女は小さく笑い声を上げたのだ。その声は次第に大きくなって、腹を押さえて、それは息が詰まって苦しげになる程にお腹を抱えて笑っている。


「ふふふふ、あははははっ……ごめんなさい、ふふっ」

「何がおかしいのよ!!こっちは至極真剣なんだけど!!?」

「そうなんです、あまりに真剣で__。こんなにひたむきな言葉だとか、眼差しだとか、向けられた事なんてないもので……まるでプロポーズみたいだなって__。そんな風に感じた自分がおかしくて、つい……御免なさい……」

「そのつもり、だけど__?」

「__え?」

「言ったでしょう、私はヴィムから攫うつもりなの、あなたと言う花嫁を」


今度はわたしが、奪うのよ。


頭を寄せてもう一度耳元で囁くと、見開かれた瞳に今度は大粒の涙が溜まった。

その雫を優しく親指で拭って私は言う。


あなたは、ヴィムには勿体ない。


一粒ころりと落ちた後は決壊するばかりだった。

「私はあなたの笑顔がみたいだけ。信じて。悪いようには絶対しない」


その言葉を聞いた彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、無理やり笑顔を作ろうとして顔を歪ませる。そして、次々溢れて落ちる雫を両手の甲で拭いながら、何度も無言で頷いた。

気が付けばフロントの空模様は夕刻の風景に切り替わっている。その赤みを帯びた光の中で、私は泣きじゃくる彼女の頭を、夕暮れ色に染まったその髪を、安心させるようにゆっくりと撫で続けた。


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僕らの大切なもの – Telegraph


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