ごめんねスレッタ・マーキュリー─シーヴァの芽吹き(後編)─
思いがけない訪問者が来てから数時間が経った。
スレッタ・マーキュリーは時々休憩を挟みながらも、一生懸命アパートの掃除を続けていた。おかげでそれなりに散らかっていた部屋の中は片付き、水回りも光を反射するほどに綺麗にすることができた。
あとは乾燥機に放り込んでいた洗濯物を取り込むだけだ。スレッタが籠を持って温かく乾いた洗濯物を取り出していると、どこか聞き覚えのある音が近づいてくるのに気がついた。
車のエンジン音だろうか。
「…クヘイさん?」
時計を見るともう夕方に近くなっている。老人が帰って来てもおかしくない時間だ。
スレッタはあわてて残りの洗濯物を取り込むと、玄関の近くに足音を忍ばせて近づいていった。
優しい青年の忠告通りに迂闊に声掛けなどをせず、そのままジッと耳を澄ませてみる。すると鍵を回すガチャガチャという音がして、待ち望んでいた老人が姿を現した。
「ただいま、ひとまず交渉を終えて来たぞ」
「おかえりなさいっ!クヘイさん。エランさんも…」
スレッタは笑顔になり、期待の眼差しと共に老人の後ろを見た。きっと少しバツの悪そうな顔をした同居人…エラン・ケレスが、老人のすぐそばについてきていると思ったのだ。
けれど老人ひとりを入れたドアはすぐにバタンと閉じてしまった。
え、という呼吸音のような小さい声は、老人が内側からカギを掛けた音にかき消される。それをスレッタは、固まった笑顔のまま見つめる事しかできなかった。
「すまんな、少し交渉が難航しとる。向こうが変に過保護を発揮して、ごねとるんだ」
「そ、そうですか…」
すっかりエランも帰ってくる気でいたスレッタは、老人に返事をしながらも動揺していた。…今日は2日目だ。明日の日暮れまでに間に合うのだろうか。
廊下に腰かけて靴を脱いでいる老人からは、スレッタの不安そうな姿は見えないのだろう。ただ腹立たしい事があったと報告するように交渉先の様子を話している。
「先方の爺さんと俺との間に若の親父が割り込んで来てな。普段は若を放って置いているというのに怒り心頭で、とてもじゃないがそのままじゃ飲めん要求をしてきた。まぁ途中からマトモな話し合いにならなかった」
「よ、要求…ですか?具体的にはどういう…」
自分に関係することで誰かが怒っているという話を聞くのは怖いことだ。けれどスレッタは少しだけ勇気を出して聞いてみた。
少しくらいの負担なら構わない、そう思ったのだ。靴を脱いだ老人は廊下に腰かけたまま出された条件を教えてくれた。
「まずは膨大な慰謝料だ。真面目に働いて一生で稼げるかどうかの額だから、これは俺でも払いきれん。次に監視だ。これは1年ほどはダウルーロウ家の監視役が張り付くことになる。最後に身分証の没収だ。…これはさすがにいくら何でも度を過ぎてる。まるで奴隷契約だ」
「………」
法外な慰謝料、監視、身分証の没収。スレッタは冗談かと思ったが、老人の顔は真剣だ。
では、嘘ではないのだ。
「それが嫌なら一生牢生活だと息巻いていた。バカ親は頭に血がのぼって何を言っているのか分からん状態になっていた。爺さんが宥めても無駄だった」
「………」
警備隊の人は数か月の辛抱だと言っていたのに、話がまったく違っている。こんな風に怒っている人がいる中で、すぐにエランが戻ってくれることなどあり得るのだろうか。
呆然とするスレッタの様子に気まずくなったのか、老人はしかめっ面を解いて安心させるように笑いかけてくれた。
「なに、ひどい要求だが大丈夫だ。しばらく間を置けば頭も冷える。また明日交渉に行ってくるさ」
随分と余裕がある老人の態度に、スレッタは違和感を覚えていた。まるでいくらでも交渉の時間があると思っているようだ。
約束の3日間はもう目前なのに。
「───」
そこまで考えて、スレッタは、恐ろしい可能性に気が付いた。
やくそく。
エランとスレッタの。
───それを、他人に共有したことがあっただろうか?
「………」
そもそも、老人は3日間の約束らしきものを何も口にしていない。ただ、エランを開放してくれると言ってくれているだけだ。
そこに期限の言及は、ない。
こくん、と唾を飲み込む。緊張で喉が渇いていた。
確認するのが恐ろしい。けれど自分が何も言わなければ、致命的なすれ違いが起きたまま事態が進行するだけだ。
「べらべらと玄関先で喋る内容でもなかったな。だが相手の要求は子供のワガママみたいなもんだ。先の要求は全部突っぱねてみせるから、心配しなくても───」
「あの、それは、ど…どれくらい、時間が掛かりそうですか…?明日…には間に合うんでしょうか」
スレッタは恐る恐る問いかけてみた。致命的な傷口を避けるように、それは傷の近くの肌を撫でるような遠回しな質問だった。
けれどこの質問に対する答えで知りたかったものが分かるはずだ。老人の返事は、はたして予想通りのものだった。
「んん、明日か。それはちょっと難しいかもしれんな。穏やかに交渉を済ませるとするなら、早くても1週間はかかるだろう」
「───」
少し困ったような、物覚えの悪い生徒に辛抱強く教えるような、そんな風に聞こえる声音だった。
スレッタはまるで奈落の底に落ちてしまったように、目の前が暗くなるのが分かった。
やはり、最初から老人は3日間でエランを開放させようとは思っていなかったのだ。
「ぁ…そんな」
「スレッタお嬢さん?おい、どうした」
体から力が抜けて、へなへなと床に座り込む。
老人が焦ったように呼び掛けるが、返事をするだけの余裕はなかった。
「ど、どうしよう、わたし、どうしよう…」
簡単な思い違いをしていた事に気付かず、スレッタはこの数時間を何もせずに過ごしてしまった。
呑気に、ただ人の言う事を鵜呑みにして待っていただけだった。何かやれる事があったかもしれないのに、何もせずに。
動揺して震えるスレッタに、訝し気な顔を向けていた老人が改めて話しかけてきた。
「どうやら、俺の言葉が悪かったらしいな。また雲が悪い具合に流れている。スレッタお嬢さん、何か急がなきゃならない理由でもあるのか?」
「や、約束…が」
「約束?あのバカとのか?」
「………」
一瞬、話していいのか不安になった。あの約束はごく個人的なもので、エランとスレッタ以外には訳の分からない内容でしかないからだ。
最初から理解されないのも、理解された上で馬鹿にされるのも、どちらも怖くてスレッタはすぐに口に出せなかった。
大体……そうだ。エランも単なる脅しで言っていただけかもしれない。そうしなければスレッタが言う事を聞かないと思って、怖がらせる為だけに言っていただけかもしれない。
あるいは今回は不慮の事態で離れてしまったのだから、この数日の事は数に入らない可能性だってある。スレッタは自分の意志でエランから離れたわけではないと、きっと分かってくれるはずだ。
だから。
だからこのままでも…。
「な、何でもな───」
自分の心がそのまま楽な方向に流れようとしているのが分かった。
幼い時からこうやって心を守ってきた。縮こまって、怖いものを見ないフリをして、そうしていればいつか優しいエアリアルや母が助けに来てくれる。
今回だってそうだ。大人しく待っていればエランは帰って来てくれるはずだ。だって彼はいつもスレッタに優しくしてくれて、いつも怖いものから助けてくれるのだから。
スレッタは思い込みを補強するようにエランの事を思い出そうとした。彼はいつも優しかった。いつも助けてくれた。一緒にいれば怖い事なんて何もしなかった。
そう、こわいことなんて、なにも。
───ぼくを覚えていて。
「───ぁ」
いつかの言葉が、怯えたまま逃げようとするスレッタの心を押し留めた。
───ぼくだけを殺して、ぼくだけを覚えていて。…ぼくを、忘れないで欲しい。
強く光る緑色の目で、こちらをジッと見つめていた。あの時の彼を思い出した。
「あぁ…。エランさん」
違う。
スレッタは自身の記憶を覗き込んだ。
エランはいつも優しかった。いつも助けてくれた。でも、いつも怖くなかったわけではない。
見知らぬ宇宙船で、自分の命を平気で投げ捨てようとしていた時だってあったのだ。
あの時の首の感触をよく覚えている。何の抵抗もなく、肉にずぶずぶと沈み込んでいく、あの恐ろしい感覚を覚えている。
スレッタは自分の手のひらに視線を向けた。そんな選択をしたエランが、約束を違えるなんてするはずがない。
「………」
偽りの希望から再び心を取り戻しても、現状は何も変わらない。ただエランが明日命を落とすだろう確信を深めただけだ。
けれど。
「クヘイさん…」
顔を上げる。老人はすぐそばに居た。スレッタが黙っている間、ずっと近くで見守っていてくれたのだ。
「スレッタお嬢さん、話してみろ。俺を信じるんだろう?」
「───」
老人は不思議な人だった。何もかも分かっているように振舞うが、何もかも分かっている訳ではない。
けれど、何とかしてくれるのではと思えてしまう不思議な魅力があった。スレッタは縮こまろうとする心を叱咤して、まっすぐに老人の顔を見た。
皺くちゃの顔だ。相変わらず気難しそうな印象を受ける。それに反してとても…とても優しそうな目をしていた。
「はい、クヘイさん。…聞いてください。わたしとエランさんの約束を」
スレッタはすべて話すことに決めた。笑われてもいい。信じてもらえなくてもいい。
ここで逃げたら自分ひとりだけしか助からない。怖くても進まなければ、エランの命が零れてしまう。
「…3日間です」
あの人が居なくなるなんて、きっと自分は耐えられない。たとえ見ないフリをしても、そのまま狂って壊れてしまう。
「わたしと離れたまま、3日目の夕暮れを迎えた時、彼は自殺するんです」
老人はその言葉を聞いた時、「あのバカ…」と一言呟いた。
怖がっていた自分が馬鹿に思えるほどに、老人はスレッタの言葉をすんなりと信じてくれた。
そうして一言エランに文句を言った後、すぐに老人は動き出した。端末をさっと取り出し、確認を取ってくる。
「スレッタお嬢さん、ちょっと夕飯が遅くなるがいいかね?」
「構いません。むしろわたしにお夕食を作らせて下さい。…またお出かけするんですか?」
「いいや、直接の面会は今日はもう難しい。だから口約束だけでも先に取り付ける。料理は任せる、材料は好きに使ってくれ」
その言って、老人はたどたどしい手つきで端末を操作し出した。
書類のやり取りはできないが、この方が時間も掛からないし、ダーオルンの父親の邪魔も入らずむしろ好都合なのだという。
もちろんスレッタに否やはない。食材は何でも好きに使っていいと許可を貰ったので、さっそく台所へと引き返した。老人も後に続いて、どうやら会話をスレッタに聞かせてくれるつもりのようだ。
まずは老人に冷蔵庫の中に入っていたミネラルウォーターを出してから、台所を一通り見回した。相変わらず自分は交渉では役に立たないが、だからこそ老人のサポートくらいはしなくてはいけなかった。
見慣れない食材が多いが、それでも近くの店で売っている食材もある。小麦粉もある事も確認すると、よく朝食で食べるような簡単なパンケーキといくつかのおかずを作る事にした。
その間も耳だけは集中して老人の声を拾っている。
「───おいパロウ、俺だ。九平だ。さっきの今で何だが、すぐにあのバカを牢から出してやる必要ができた。お前のバカ息子の言う事なんかまるっと無視して、今日中にさっさと条件を緩和しろ」
「………」
少し不安になるが、今度こそ老人を信じようと決めてスレッタは料理に集中する事にした。
「何を言う、こっちは急いでるんだ。はぁ?隠居した身だぁ?おい、バカを言うな!まだまだ俺より現役だろうが!」
「………」
「…それは言えん。だが確実に悪い方向に転がるだろう。だからさっさと出せと言ってる」
「………」
「何をか弱い老人から搾り取ろうとしとるんだ!お前、こっちはいい加減な報告をしてもいいんだぞ!そうしたら困るのはお前だけじゃなくて周りの奴ら全員困ることになるだろう!いいのかお前、家族が路頭に迷うことになっても」
「………」
「お前の家庭内の地位なんて知らんわ。今まで強権振りかざして来たろう、死ぬまでそうしとけ。とにかくあのふざけた条件はすべて撤廃だ。むしろタダにしろ。お前の所の袖の下文化はどうにも馴染めん」
「………」
「悪いのはお前の孫だろう。俺は散々若を𠮟ったし、お前にも報告していただろうが。怪我と言ったらこっちだってそうだ。若い娘さんが被害を受けたんだからな。あのバカは半殺し程度で止まったが、これがもし俺と娘の立場だったら、俺は相手を殺してるところだ。いや、冗談じゃなくて本気だ」
「………」
「何を呑気なことを、夕飯なんて後にしろ。なに、息子に見つかった?もしかして歩きながら喋ってたのか!」
「………」
「……むぅ、確かにな。また1時間したら掛け直す。それまでお前の息子を宥めておけ。それが出来なかったら俺はこの件から手を引く。じゃあな!」
端末なので音はしないはずだが、スレッタの耳にはガチャンッ!と受話器を叩きつけるような幻聴が聞こえた。
会話の大体を怒鳴るような大きな声でしゃべっていた老人は、いくらか残っていた水を一気飲みしている。
けれど到底興奮は収まらないようで、先ほどまで会話していた相手を毒づき始めた。
「くそっあのタヌキ爺めッ、のらりくらりと…」
「あの…大丈夫ですか?」
顔を真っ赤にして憤死しそうになっている老人が心配で、スレッタは久しぶりに声を掛けてみた。ついでに水のお代わりをコップに注ぐと、老人はぐびぐびと2杯目の水を飲み干した。
「…っはぁ。…すまんなスレッタお嬢さん。あいつは昔からこうなんだ。なかなか本心を出さんし、こちらを試すような話運びをする」
「いいえ、むしろ無茶を言っているのはこちらです。…あの、やはり難しいでしょうか」
こちら側の会話しか聞こえなかったが、何だか終始相手のペースに飲まれているようだった。
老人は恐らく交渉に慣れていない。けれど何となく相手側も心を許しているような、そんな気安さを感じた。
はっきりとした手ごたえはないが、可能性はある。スレッタは会話を聞きながらそんな印象を受けていた。
「…何とも言えん。声音が面白がっていたから、俺が本気だと分かればどうにかなる可能性は高い。ただ何かを狙っているような節もある。食えない爺さんだから、どうせ何らかの二兎を得ようとしているんだろうが…」
「もしどうしても難しいようでしたら、面会だけでもさせて貰えれば…」
「明日の夕方までにだったな。最悪それだけは出来るようにしよう。奴が何を狙っているのか分かればどうにかなる気はするが、今のところは見当が付かんな」
むう、と難しい顔をしている老人に申し訳なくて、スレッタは落ち込んだ。
本当なら休んでいる頃だろうに、むりやり老人を働かせている。お年寄りは大事にしなくてはいけないのに…。
「どちらにしろしばらくは休憩だ。さっきから旨そうな匂いがしているが、もう食べていいのか?喋り通しで腹が減った」
「!は、はい!お口に合うか分かりませんが、どうぞ!」
お腹を手のひらで擦る老人を前に、スレッタはすぐに出来上がった料理を盛りつけた。
サラダ、炒め物、スープ。よく分からない材料もあったので、自然と品数は少なくなる。あとは昼に食べた残りのご飯と、一応パンケーキも作ってみた。
老人も立ち上がって、冷蔵庫の中から小さいお皿を出している。お昼にも出たそれはピクルスのような漬物だ。昼間に食べさせてもらったが、コリコリとして美味しかった。
とにかく少しばかりの補給と休憩をしなくてはいけない。まだまだ大丈夫と思っていると、いざという時に動けなくなってしまう。水星で、そんな老人をたくさん見てきた。
「「いただきます」」
2人でそれぞれの食前の挨拶をして食べ始める。
老人はかなり早いペースで食べ進めていた。昼間もそうだったから、どうやら無理をして早食いをしている訳ではないようだ。
お箸を器用に使ってどんどん料理を口に放り込んでいる。どうやらそれなりに口に合ったものを作れたようなので、スレッタは安心した。
「スレッタお嬢さんは中々料理上手だな。シンプルだが塩加減がいい」
しばらく黙々と食べていた老人だったが、不意にスレッタの料理を褒めてくれた。
気分が落ち込んでいるのに気付いて、慰めようとしてくれているのだろうか。スレッタは嬉しさを感じながらも、慌てて返事をした。
「あ、ありがとうございます。まだ作り始めて間もないですけど、お料理って楽しいです」
「何事も楽しめるのが一番だ。そういえば家の中も見違えるほど綺麗になっているな。もっと休んでいてもよかったんだぞ」
「そ、そういう訳にはいきません。クヘイさんが頑張っているのに、わたしだけ楽をしているなんて…」
「ケガ人が何を言う。だが助かったのも事実だ。ありがとうよ」
「は、はい。あの、わたしこそ、ありがとうございます」
そのまま会話は一区切りつき、また黙々と料理を食べ始める。ご飯を食べた老人は、今度はパンケーキに挑戦してみるようだ。
スレッタもふわふわにしたパンケーキを口に入れる。じわりと生地に沁みたバターが舌に溶けるのを感じながら、心が先ほどよりほどけているのを感じていた。
いつの間にか少しはリラックスできたようだ。老人の試みは、成功したらしい。
「ふぅ、ごちそうさん。あんまり甘くないホットケーキもあるんだな。おかずにもよく合ってた」
「ごちそうさまでした。お口に合ったようで何よりです。お風呂はどうしますか?」
浴槽を洗った後にあらかじめお湯を張っていたので、少しの間追い焚きをすればすぐに熱い湯に入れる。
ただ入浴時間は少々慌ただしくなるかもしれない。
「後でゆっくりと入らせてもらうよ。まさか一晩中要求を躱されることもないだろうからな。時間まで茶でも飲んでいよう」
「そうですね、ゆっくりしてください」
老人に教えられて入れた緑茶を2人で飲む。渋みが舌を刺すが、食後のおやつとして出された甘いお菓子とよく合った。
これを食べたらまたすぐに片づけを始めようと思っていると、唐突に老人が口を開いた。
「2人でずっとダンマリしているのも何だかな。だが俺の口は少々疲れたから、よければスレッタお嬢さんの話を聞かせてくれ」
「わたしのお話…ですか?」
スレッタをジィっと見ながら、何かに納得するように老人は頷いた。
「そうだ。何となくだが、俺が不在の間に良いことが起こったんじゃないかと思ってな」
「良いこと…」
そう言われると、思い当たるのは1つしかなかった。あの優しい青年が訪ねて来てくれたことだ。
「はい。実はクヘイさんが出かけている間に、わたしの事を心配して訪ねて来てくれた人がいるんです」
色々あって報告を忘れていたスレッタは、改めて青年の事を話すことにした。
ダーオルンの使用人で、老人の知り合いでもあるラウティーアムという青年がこの家に来たこと。
エランの知り合いでもある彼は、妹だと思っていたスレッタの身を案じてくれていたこと。
ダーオルンの怪我の状況を教えてくれて、伝言役をしてくれたこと。
…今思い出しても本当に優しい人だったと思う。
「それで…わたしは何て言えばいいか分からなかったので、言葉の代わりになる物を贈りました」
あまり時間をかける訳にはいかないので省略したところもあるが、何とか全部話し終えることができた。
「ほう…だからか」
「?病院でダーオルンさんが顔に酷い怪我をしていると聞いていたので、心配だったんです。でもラウティーアムさんの話では元に戻るらしいので、それを聞いて安心しました」
最後に笑顔で締めくくった。
エランの事は依然として不安に思っているが、ダーオルンの事は単純に良かったと思える出来事だ。
「スレッタお嬢さんはお人よしだ。だがいい話を聞けた。ありがとうよ」
「いいえ。では洗い物をしていますね」
「おう、こっちはまたタヌキ爺と話しておくぞ。気になるだろうから話は聞いていてもいいが、疲れたら気にせず休みな」
「そんな訳には…」
「ま、スレッタお嬢さんならそう言うわな。はは、流石の天女さんだ」
老人はおかしそうに笑うと、また辿々しい手つきで端末を操作し出した。
よく分からないがどうやらお許しが出たようだ。スレッタは気のすむまで老人のそばに付きそう事にした。
洗い物も終わり、洗濯物も畳み…。やる事がなくなると、スレッタは気合を入れてテーブルの椅子に座った。出来ることは少ないが、老人のサポートをするつもりでいた。
お茶が冷めればお代わりを、くしゃみをすればティッシュを渡す。出来ることの少なさに泣きたくなったが、かといって離れることは出来そうになかった。
多分すごく邪魔な存在だったと思う。けれど老人は何も言わないでいてくれた。
老人は最初の会話とは違い、何だか余裕ある朗らかな感じの喋り方をしていた。
友人とただお喋りしているような印象だ。時にはまったくエランとは関係のない話もあった。
疑問には思ったが、今は老人を信じようと決めていたので、スレッタはひたすら役に立っているのか分からないサポートをし続けた。
やがて時間は深夜になり、日付が変わっていた。
スレッタはがくんと落ちる頭に驚いて目が覚めた。いつの間にか眠っていたのだ。気付かないうちに大ぶりのタオルが肩にかけられてる。
辺りを見回すまでもなく、目の前で老人がまだ会話をしていた。
「───お嬢さんの…思え…」
本来自分たちに関係のない立場の老人がこんなに頑張っているのに、自分は呑気に眠っているなんて…。
「───を抜け…無理…」
自分自身に腹が立って、今度こそずっと老人の会話を聞いていようと決意する。けれどいくら耳をそばだてても、なかなか喋っている内容が理解できなかった。
「───一筆…」
頭はぐらぐらと揺れ、体のあちこちが怠くて熱い。そういえば夜は熱が出ると言っていたなと、ふいに女医さんの言葉を思い出した。
「───情け…格好…」
お薬を追加で飲んだ方がいいだろうか。そうぼんやりと思うのに、体がまったく言う事を聞かない。
「───そうだ、一本筋の通ったところを見せてやれ」
「───、───」
「───」
気が付けば、スレッタは学園で生活を送っていた。
優しい地球寮のみんな、婚約者のミオリネさん、頼りになるエアリアル。
よく分からないグエルさん、優しい笑顔のシャディクさん、頭の良さそうなセセリアさん、物静かなロウジさん。
他にも友達になれそうなペトラさんやフェルシーさんに、いつも一歩引いたところにいるラウダさん。
学園は人がいっぱいいた。水星基地ではひとりもいなかった同世代の若者が、こんなにたくさん。
仲のいい人、悪い人、どちらでもない人、ただ通り過ぎる人。
目が回るほどに鮮やかで、忙しい日々。
けれど、何かが足りなかった。誰かが足りなかった。
スレッタはそれが何か分からずに、ただ日々を過ごしていた。きっと待っていればいつか分かる。そう思っていた。
やがて学園にひとりの男の子がやって来た。
緑色の目と柔らかい髪色をしたその男の子は、スレッタの目の前でニコリと笑った。
「お前のせいで4号が処分された。お前なんか、いなければよかったのに」
「───ッ!!」
はっ、とスレッタは悲鳴になる前の息を呑み込んだ。ドクドクと鳴る心臓がうるさい。
暴れ出す心臓をそのままに、混乱したまま目を開ける。
テーブルに座っていたはずのスレッタは、いつの間にか床に寝そべっていた。
大きいクッションのような、薄くて柔らかいマットレスのような、そんな寝具の上に寝かされていた。
窓を見るともう日が差している。光の具合から、普段ならとっくに起きている時間だと分かった。
呆然とするスレッタの耳に、ガタンという音が聞こえて来た。老人が話し合いをしていた場所…ダイニングだ。
スレッタは何の身支度もしないまま、慌ててそちらへと駆け込んだ。ボサボサの髪が視界を邪魔するが、構わずに入り口に手を掛ける。
「クヘイさん、お話は…!」
「おぉ、おはようスレッタお嬢さん。具合は大丈夫か」
そこにいたのは朝の食事をテーブルに並べている老人の姿だった。どことなく機嫌がいいようで、いつもより顔の皺が薄くなっている。
「昨日は無理をさせたな。ちょっと目を離した隙に赤い顔で机に突っ伏しているから、泡を喰ったぞ」
「あの…あの…」
朗らかに話しかけられるが、それどころではない。普通なら挨拶や移動させてくれたお礼などを言うべきだったが、そんな事は頭からすっぽり抜け落ちていた。
焦るあまり言葉が出てこなくて泣きそうになっていると、老人はニヤッと力強い笑顔になった。
「あのバカを開放する許可が出た。諸々の手続きは済んでいるから、飯を食ったら行ってくる」
「……!」
スレッタは大きく息を呑んだ。それは、それはもしかして…。
「え、え、エランさん、自由になれるんですか…?」
「さすがにタダとはならなかったが、十分払える額にはなった。他の条件もすべてなしだ。もう金は立て替えておいたから、後は迎えに行くだけだ」
聞いた言葉を反芻し、きちんと意味を理解した時、スレッタは体の力が抜けて床にへたり込んでいた。
「………」
「お、おいスレッタお嬢さん」
「うぅ~~っ」
狼狽える老人の声を聞きながら、スレッタは唸った。恐怖と、心配と、安心と、そんな気持ちが入り混じってうまく消化できなかった。
「あぁ、怖かったな。すまんな気が利かなくて。ほら、もう大丈夫だ。ゆっくり飯を食べて、ゆっくり支度して、それから迎えに行っても大丈夫だ。もうすぐ会えるぞ」
もうすぐ会えるぞ。
老人の言葉が胸に響く。
もうずっと会っていない気がしたあの人に…スレッタのエランに、もうすぐ会えるのだ。
胸に響いた言葉が染み入ったように、スレッタはポロリと一粒だけ涙をこぼした。
「落ち着いたかね?」
「はい、すいません。クヘイさん」
恥ずかしそうな笑顔になるスレッタに、老人はホッとしたようだ。肩を優しくポンポンと叩くと、食事の支度を再開した。
それを手伝いながら、今更ながらに挨拶とお礼を言う。そうして、スレッタが寝てしまった後の話を聞いてみた。
昨日の段階ではそれほど話は動いていなかったはずだ。何か世間話をしていたような、そんな記憶がある。
「昨日スレッタお嬢さんの話を聞いてから、閃いたことがあってな」
「わたしの話…ですか?」
「ああ、スレッタお嬢さんの紡いだ…そうだな、キラキラした蜘蛛の糸のようなものだ。それを辿って繋げたらな、するりと上手くいったんだ。パロウの企みも可愛いものだった。ホントに家庭の悩みだったとはな…」
「…?よく、分かりませんが。お役に立てたなら何よりです」
「おう。誰とは言わんが、発破を掛けたら予想以上に動いてくれてな。心配していたが、あの様子ならもう大丈夫だろう」
「?」
老人が誰の事を言っているのかよく分からなかったが、老人も老人で、何か心配していた事があったらしい。それも一緒に解消できたというなら喜ばしい事だ。
「そういえばスレッタお嬢さん。入院している相手に植木鉢に植わった植物を贈っちゃいけないとは知っているか?」
唐突に変わった話題に面食らいながら、スレッタは素直に答えた。
「いいえ、初めて聞きました」
「まぁそうだろうな」
うんうんと老人は頷いている。入院している相手に送るのは、果物とかお花だろうか。
植木鉢だってお花が植わっているだろうに、贈ってはダメらしい。もしかして、お世話が大変だからだろうか。
「元よりフラフラしていたからな、ちょっとばかり根を張った方がシャンと立てるだろうよ」
「えっと、植物のお話ですか?」
首を傾げるスレッタを、老人は優しい眼差しで見つめていた。
すべてが変わる朝
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