ごめんねスレッタ・マーキュリー─シーヴァの芽吹き(中編)─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─シーヴァの芽吹き(中編)─





「日本…?」

 スレッタ・マーキュリーはオウム返しに呟いた。その名前には、心当たりがあった。

「あの、イロクモ・クヘイさん。日本と言うのは、大陸の東にある大きい島のことですか?その地域の、昔に使っていた『国名』…のことですよね?」

「そうだ。今はいくつかの地区に分断されて勝手に味気ない番号で呼ばれちゃあいるが、昔からその土地に住んでる奴らはみんな使っとる国号だ」

「そこに、行くんですか?わたしと、エランさんが…」

「どうしても嫌なら無理にとは言わんが、話の流れ的にそうなる可能性は高いだろう。それに日本の土地はあのバカやスレッタお嬢さんにとって相性が良いように思える。何となくな、長年の勘で分かるんだ」

 そう言って、老人はトントンとこめかみを指先で叩いた。理解する、分かる、という表現のようだ。

 スレッタは少し考えた。次に2人が行こうとしていた土地の候補に『日本』は入っていなかった。基本的には番号で呼ばれるため土地の名前は出てこないが、彼…エラン・ケレスが地図を見せながら説明してくれたのでよく覚えている。

 日本は確か、エランとスレッタが逃げ出して来たベネリットグループが統治している場所だ。大丈夫なんだろうか。

 少し不安になるが、続く老人の言葉にスレッタはそれどころではなくなってしまった。

「いずれにせよ、あのバカをどうにか出してやらなきゃいかん。若の爺さんに交渉するが、俺の手持ちの金で足りるかどうか分からんな」

「え!手持ちのお金…!?」

 何と老人は自分の懐からエランを開放する資金を出すつもりらしい。これにはスレッタも驚いて、先ほどまで考えていた懸念も頭から吹っ飛んでしまった。

「ちょっと待ってください、あの…。すごく今さらなんですけど、どうしてイロクモ・クヘイさんはわたし達を助けてくれるんですか?お金はとっても大事なはずです。もちろん後でお返ししますけど、でも…」

「九平でいいぞ。…そうだな、色々と理由はある。実は俺はな、最初はこんなに大事になるとは思っていなかったんだ。せいぜい若やあのバカが嫌な思いをするくらいだとな。だからあまり口を出さずに放って置いたんだが、事が起こる直前で読み間違えていたことに気が付いた。生死が関わる事態だったんだとな。…今のお節介はその罪滅ぼしと言ったところだ」

「はぁ…」

 老人はバツが悪そうにしているが、それは普通の事ではないだろうか。元々この老人はエランやスレッタ、泣き虫の彼の保護者というわけではない。職場の同僚が多少いざこざに巻き込まれていても、必ず助けなければいけないという訳ではないはずだ。

 それなのに自分の財産を投げうってでも助けてくれようとするなんて、少々お人よしが過ぎると思う。

 スレッタの戸惑いに気付いたのか、老人は少し考える仕草をした。

「俺は昔から『勘』が鋭い。そのお陰で周りがよく見えちまう。今までその力を使ってお節介を焼いて来たわけだが、今回はそれだけという訳でもないぞ。他にも色々と理由がある」

「他の理由…ですか?」

「例えばお前さん方を日本に連れて行くことで俺にも都合がいいことが起きる…とかな。具体的にどうとは言えないが、そんな予感がする。それと、個人的に頼みたい仕事もある」

「おしごと」

「おう。言っておくがそんなに難しいことでもないし、悪いことでもないぞ。…まぁ、最終的にはあのバカの判断に任せるがな」

 エランの意志を尊重してくれるという事だろう。

 スレッタは優しい老人の言葉に少しだけ笑みを浮かべて、プラムの種が入った袋をぎゅっと抱きしめた。

「喋りすぎて腹が減ってきた。俺の家で飯を食べて、それから交渉に行こう。すまないがその間は家にいてもらうことになるが、一人で大丈夫かね?」

「はい。あの、お掃除して、待ってます」

 車の中で言っていた老人の言葉を思い出す。体はだいぶ楽になってるので、重い物さえ持たなければ掃除くらいはできるはずだ。少しは恩返しをしなければいけない。

 老人はスレッタの言葉に目を丸くすると、頭を掻きながら気まずそうに「ほどほどでいいぞ」と言ってくれた。


 その後、老人の貸し家へとやってきた。こちらもアパートだが、スレッタが住んでいた所よりもこじんまりとしている。

 けれどよく見るとキッチンは広く作られていているし、なんとシャワーだけでなく浴槽もあった。

「風呂がなきゃ体が綺麗になった気にならんからな。家賃は少しばかり上がったが、全部若の爺さん持ちだから俺にとっちゃタダと同じだ」

 アイツはここでの俺のスポンサーみたいなものなんだ、と老人は笑っていた。

 『若のお爺さん』という人との関係性は友達だと言っていたが、それだけでは説明できないものを感じた。特別視されているというか、色々と優遇されているようだ。

 だからエランをどうにかできると自信を持っているのだろう。

 老人は大きめの冷蔵庫に入れていた鍋を取り出して温め始めた。その間に丸みを帯びた形の機械───あれはきっと炊飯器だ───の蓋を開けて中身のお米を器に盛って差し出してくれる。傍らにはスプーンも添えてある。

「簡単なもので悪いが、ひとまず腹が膨れりゃあいい。足りなきゃ何か買ってくるか」

「いえ、大丈夫です。いただきます」

 スレッタは食前の挨拶をしてスプーンを握った。

 老人はスレッタのそんな様子を見守ったあと、お箸を握ってどこか聞き覚えのある言葉を口にした。アニメでよく聞いた音の響きなので、たぶん本当の食前の挨拶の言葉だろう。

「『いただきます』。…スレッタお嬢さんも似たような挨拶するんだなぁ」

「えっと、アニメで聞いて、わたしも挨拶しようと思ったんです。食前の挨拶って素敵だなって思って。ピッタリなものがなかったので、自分で言葉を考えてみました」

「英語…公共語には同じ意味の言葉はないらしいからな。しかし『恵みを貰う』か。いい言葉だ」

 老人に褒められながら、温められたスープを口に含む。匂いは独特なものがあるが、味はとても良い。強い塩気が甘さを感じるお米とよく合う。スレッタはいつの間にか夢中になって食べ始めた。

 この時スレッタは楽観的になっていた。それは老人がリラックスしているのに釣られたからでもあるし、彼の友人であるお爺さんと思ったより強い繋がりがありそうな事に気付いたからでもある。

 老人に任せていればエランはすぐに帰って来る。スレッタはそう信じて疑わなかった。



「じゃあ行って来るぞ。疲れたら無理せずゆっくり休みな」

「はい、いってらっしゃい。クヘイさん」

 食事をし終わった後、数分ほど休憩を取った老人は慌ただしく外に出て行った。先ほどまで乗っていた可愛らしい車のエンジン音が鳴り、すぐに遠ざかっていく。

 その音を聞きながら、スレッタはさっそく水に浸けていた食器を洗い始めた。

 スポンジで泡を量産しながらも、スレッタは食後の少しぼんやりとした頭で想像する。生産性のあるものではなく、思い起こすのは事件が起きなかった『もしも』の世界だ。

 エランと2人でアパートの片づけを行い、業者を呼んでまだ価値のある品々を引き取ってもらう。そして諸々の手続きが終わった後に、新しい土地へと旅立つ。…数日前までは信じていた世界だ。

 彼は昼間のマーケットにも連れて行ってくれると言っていた。もしかしたら2人で並んで夜とは印象の違う明るい通りをお散歩できたのかもしれない。

 布巾で水気を拭きながら、本来なら起こっていただろう楽しいことを考える。妄想の翼を広げ、逃避の世界に漂っていたと言っていい。

 想像の中の自分たちは、朗らかに笑いながら旅を再開している。様々な珍しいもの(これまでの旅の焼き直しの風景)を頭の中の2人は体験しながら進んで行き、そうして最後はアニメでよく見た日本の風景の中に佇んでいた。

「………」

 そこまで想像すると、スレッタは現実の世界へと帰って来た。

 我ながらまったく生産性のない妄想だった。だって実際には自分は怪我をして、エランは捕まり、アパートは汚れたまま放置されているのだから。

 どうしてこんな事になったのだろう。何か回避する方法はなかったのだろうか。スレッタはまた新たに別の事を考え始めた。

 エランが出かけた後、ダイニングでぼうっとしていなければ…。

 扉が開いた時、自室へと戻って一目散にベランダから避難していれば…。

 泣き虫の侵入者と対峙した時、端末を自室に置き忘れずにエランに連絡できていれば…。

 何か変わったのかもしれない。でもターニングポイントはすべて過ぎ去ってしまった。

 現実は変わらない。スレッタは今ひとりきりだ。ずっとそばに居てくれた少年の姿はなく、老人が彼を連れて来てくれるまでこうして待っている事しかできない。

 はぁ、と大きなため息を吐く。…実はもう1つ気がかりな事があった。

 それは泣き虫の侵入者であるダーオルンのことだ。あの人はアパートに勝手に踏み入った非常識な人だが、心の底から悪い人ではなかったと思う。むしろ自分によく似ていた。

 酷い怪我を負ってしまったと聞いたが、元に戻るのか心配だ。出来ることなら謝りに行きたい。…けれど、彼は今どこにいるんだろう。

「………」

 そこまで考えて、自分が何も知らないし出来ない事に気が付いた。情報も伝手も、何もかもが足りていないのだ。

 スレッタは両手の水気を拭うと、自分の端末を取り出してみた。今から元いた病院に連絡して、泣き虫の彼がいる場所を教えてもらう事は出来るだろうか。

 加害者と被害者としてカテゴライズされてしまっている以上、難しい気がするが、聞くことぐらいは…。

 端末を手にしながらスレッタが悩んでいると、大きな音が聞こえて来た。ピンポン。インターホンの呼び出し音だ。

 最後にスレッタがこの音を聞いたのは、泣き虫の彼が連続で鳴らした時の事だ。あの時は異様な雰囲気で怖かったが、今回は力強く1回鳴らされただけですぐに沈黙した。

 台所で立ったまま何もしないでいると、ドアの前にいる人が直接呼びかけて来た。


『こんちはー、クーフェイ爺さん、いないっすかぁ?…ぁ、いてて』

 老人の知り合いだろう。若い男の人の声だ。一応スレッタは人目を忍ぶ立場なので、そのままやり過ごそうとジッとしていた。

 男の人の声は続く。

『カリバンの妹さん、どうなったか知りません?警備隊も病院関係者も、誰も教えてくれなくて』

「!!」

 カリバン───エランの偽名だ。

 スレッタは小さく息を呑むと、慌てて玄関まで歩いていった。

『怪我とかしてないかだけ知りたいんっすけどぉ。あと体がしんどいからちょっと休ませてー』

「!あ、あの…!」

『え?』

 勇気を出して話しかける。ドア越しにいる人は、若い女の子の声がしたからか驚いた様子だった。

「あの、わ、わたしは今日からクヘイさんにお世話になっている者ですが、あなたは、ど、どちら様、でしょうか?」

『……えーっと、若、ダーオルン様の使用人っす。クーフェイ老のいる工場で働いていて、昨日の騒動の現場にもいたんすけど、この説明で分かるっすかね。てか、もしかして、君…』

 朗らかで優しそうな声の人は、泣き虫の彼の関係者のようだ。わざわざ老人の家までスレッタの安否を気遣って来てくれたらしい。

 少し迷ったが、直接顔を合わせることにした。ほんの小さくドアを開けて、そっと訪ねて来た人物を見上げてみる。

「あ、あの…」

「え」

 その人はスレッタより少し背が高く、よく日に焼けていて黒髪をザックリと短くしていた。短い髪を後ろに流して額を丸ごと出している。目尻はつり上がっているが、表情自体は柔和で優しそうだ。

 小さく開けたドアはそのままに、スレッタはきちんと挨拶をした。

「こ、…こんにちは」

「こんにちは。カリバンの妹さん……っすか?」

 戸惑ったように問いかけられる。確かにスレッタとエランはまったく姿かたちが違うので、兄妹だと聞いていたらビックリするだろう。

 心配で様子を見に来てくれた人に嘘を付きたくなかったスレッタは、その情報だけは訂正することにした。

「そ、そうですけど…違います。えっと、本当は兄妹じゃ、ないんです」

「兄妹じゃない?でも、カリバンのアパートに居たのは君…っすよね?」

「はい。…あ、あの、兄妹だって事にすれば余計な詮索をされないだろうって、誤解されても訂正していなかったんです。ご、ごめんなさい…。本当の家族じゃないけど、エランさんはわたしを守るために、一緒にいてくれているんです」

「………」

 しばらくの沈黙。怒られるかもしれないと思ったが、すぐに彼は温かい声をかけてくれた。

「いや、血が繋がっていてもいなくても、カリバンの大事な人には違いないっす。無事でよかった」

「…ありがとう、ございます」

 ほっとして、同時に少し気まずい心地になる。エランがスレッタを大事にしてくれるのは、彼にとって自分は命の恩人の娘だからだ。

 けれど目の前の男の人にわざわざ訂正するのも憚られたので、何も言わないことにした。話が脱線してしまうだろうし、あまり自分たちの状況を説明しない方がいいと思えた。

「あの、わたしはスカーレット…と言います。あなたは?」

「俺はラウティーアムって名前のしがない使用人っす。カリバンとも何度か昼食を取って、それなりに仲良くしてたんすよ」

 そう言うと彼は眉を下げながらニカっと笑った。目をつぶると人の良さだけが前面に出て、旅の途中で見かけた人懐こい犬を思い起こさせた。

 目の前の彼は一旦病院で治療を行ったものの、どうしても『カリバンの妹』の事が気になり、老人の家に来たそうだ。

「ちょっとの間病院を抜け出して来たんすよ。若…、ダーオルン様の命に別状はないっていうし、今のうちに情報収集しようと思って。あの人、起きたらきっと色々と気にするはずだから。…信じられないかもしれないけど、本当は女の子に酷い事できるような性格の人じゃないんすよ」

「それは…何となく分かります。…あの時、とても苦しそうで、普段しない行動を取ってるんだなって、思いましたから」

 泣き虫の彼…ダーオルンは直接の暴力を振るわなかったし、暴言を吐いてもそれは最初だけで、最後には泣き出してしまっていた。

 むしろスレッタは自分とそっくりだと彼に共感を覚えていた。おかしい事かもしれないが、次に会ったら友達になれる人だとも感じていた。

 スレッタの返事に、ラウティーアムは少し目を潤ませている様子だった。

「ありがとう、優しいんすね。とはいえ、大の男が女の子の家に無理やり入り込むなんて、しちゃいけない事っす。そのうえ怪我まで…。───本当に、申し訳ありませんでした」

「い、いいんです。それより、ダーオルンさんは、大丈夫なんですか?」

「一度は目が覚めて、今は病院で寝てるっす。顔はちょっとボコボコになったけど、何度か手術をすれば元通りになるだろうし。……死ぬよりは、よっぽどマシっす」

 そう言って、ラウティーアムは目尻をぐいと拭いながら笑ってみせた。どこかホッとしたような笑みだった。

 スレッタはアパートの廊下を思い出した。傷が付き、所々血の跡があった廊下。目の前の人が、顔の変形した主人を前にして安堵するほどの事態が起こったのだ。

 ラウティーアムの体には包帯が巻いてある。シャツの裾から見えている範囲だと、肩から腕、もしかしたら上半身すべてに巻かれているのかもしれない。

「あの、その怪我は…」

「これは、カリバンと若の間に割り込んだ時にちょっと…。見た目は派手だけど骨に異常はないから、気にしなくて大丈夫っす」

 骨に異常はないといっても、痛いものは痛いだろう。そういえば休ませてくれと言っていたと、スレッタは思い出した。

「今さらですけど、あの、お家に上がりますか…?」

「いや、このままで大丈夫。女の子がひとりしかいない家に見ず知らずの男を上げるとかとんでもねー事だから。君はもっと警戒しなくちゃダメっす」

「は、はい…」

 叱られてしまった。確かにこんな調子でほいほい男の人を家に上げていたら、いつか悪い人を招いてしまうかもしれない。

 反省するスレッタを前に、ラウティーアムは壁に背をつけて寄りかかった。これで十分という事だろう。

「それより妹さん…じゃなくて、スカーレットさんの無事を確認出来て安心したっす。カリバンも喜ぶだろうな。あいつすごく心配してたから」

「そう、ですね。本当に、心配をかけてしまって…」

「早くカリバンが戻ってくればいいっすね。面会とかは、もうしたんすか?」

「それは…でも、もうすぐ戻って来るはずです」

「そうなんすか。まぁクーフェイ爺さんは大旦那様と仲が良いっていうし、色々と融通が利くんすかね」

「はい、きっと。クヘイさんもそう言っていました」

「じゃあ安心だ」

 そう言うと、ラウティーアムは寄りかかっていた壁から背を離した。スレッタを安心させる為か今まで朗らかな笑顔だったその顔が、少しキリっとしたものになる。

「聞きたい事も聞けたし、俺はそろそろ病院に戻るっす。…もしかしたらこれが最後になるかもしれないから、若に何か言いたいことがあるなら聞くっすけど」

「言いたい事、ですか?」

「罵詈雑言でも何でも、遠慮なくお好きにどうぞ。っす」

「………」

 覚悟を決めたような顔をする彼を前に、何を言おうか考える。

 ラウティーアムは警備隊も病院側も何も情報をくれなかったと言っていた。たぶん本来は接触を許されていない立場なのだ。こうして話ができるのは、単に彼が病院を抜け出して偶然スレッタに遭遇できたからだ。

 …きっと、もう泣き虫の彼に会う事はないのだろう。

 何だかスレッタは寂しい気持ちになった。けれど、自分のこの気持ちを正直に伝えていいのか分からなかった。余計に泣き虫の彼…ダーオルンを傷つけるかもしれないからだ。

 スレッタはこれからもエランと一緒にいるつもりだし、一緒に居られると思っている。…少なくとも、母と連絡が取れるまでは。そんな自分が、エランに手酷く拒絶された彼に何を言えるというのだろう。

「………」

「何もないなら、いいんすけど」

「いえ、待ってください」

 そう言うと、スレッタは一旦家の中に引っ込んだ。急いで冷蔵庫の扉を開け、中からずっしりした保存袋を引っ張り出す。

 その中には、いくつかのプラムの種が入っている。スレッタは一番大きな芽と根が出ている種を水で濡らした厚めの紙で包み、別の保存袋に入れて玄関へと急いだ。

「あの…よければこれを貰ってください」

「これは、何かの種っすか?」

 ラウティーアムは戸惑った様子だ。いきなり種を渡されてもどうしていいか分からないだろう。

「プラムの種です。エランさんとわたしにとっての宝物です。…これを、差し上げます。わたしはダーオルンさんを怒ってません、でも何を言えばいいのかも分かりません。だからこれを言葉の代わりにしてください」

「大事なものをわざわざ?だって若は君に酷い事をしたのに…」

 彼はプラムの種を見ながら、ますます戸惑っているようだ。

 スレッタはこれで受け取って貰えなければ諦めようと思いながら、口を開いた。

「あの人は泣いていました。あの人は、まるでもう一人の自分のようでした。うまく言葉に出来ないですけど、でも……。これをどうするかは自由にしてください。捨てても、育てても、放っておいても、どんな風に扱っても構いませんから」

「……分かったっす」

 そう言うと、ラウティーアムはスレッタからプラムの種が入った袋を受け取ると、しっかりと手に持った。

 それをどこかホッとしたように見守りながら、スレッタは息を吐く。

「じゃあ、俺はこれで帰るっすけど、戸締りはしっかりして用心して欲しいっす。誰か来ても、今度は顔出しちゃダメっすよ。あんたに何かあったら、カリバンも爺さんも……若も悲しむだろうから」

 優しい男の人は、そう言い残すと笑いながら帰って行った。

 ドキドキしながら彼を見送る。本当は、知らない人とお話して少し緊張していたのだ。

 けれどこれでスレッタの懸念は1つ晴れた。泣き虫の彼…ダーオルンはきっと大丈夫だ。顔も元に戻ると言うし、優しい人がそばにいてくれるのだから、大丈夫だ、きっと。

 もう一度、先程よりも大きくほうっと息を吐いて、スレッタは体の力を抜いていった。ふと時計を見ると老人が出て行ってから1時間近く経っている。

 まだ老人が帰って来るまで時間はあるだろうが、スレッタは慌てて掃除の続きをする為に家の中へと引き返した。

 きっと老人はエランを連れて帰ってくれる。だから彼らがゆっくりくつろげるようにしてあげよう。

 部屋の中から洗濯すべき衣類を拾い上げながら、スレッタは呑気に思っていた。


 ちょっとした情報の齟齬があることを、この時のスレッタは気付いていなかったのだ。






シーヴァの芽吹き 後編


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