ごめんねスレッタ・マーキュリー─ほうき星の消えた日(後編)─
経緯はともかく、行き先や仕事先は決めることが出来た。これは今のエラン・ケレスにとって、先の見えない暗雲から光が差し込んだに等しいものだ。
話を聞いた限りでは、スレッタ・マーキュリーの安全もある程度は確保できるだろう。
よかったと、そう喜ぶべきだった。
心の奥底に苦いものを感じながら、エランは努めて冷静に納得をしようとしていた。
クーフェイ老に対する反発心はまだあるが、自分たちを一方的に利用することはないはずだ。…これで裏切られたら本当に人間不信になってしまう。
むすりと押し黙るエランに対して、クーフェイ老は面白がるような表情をしている。だがスレッタの方を見ると、途端に心配そうな顔つきに変わった。
「ん、スレッタお嬢さん。大丈夫か」
老人の言葉にハッとする。そういえば、スレッタは具合が悪そうだったのだ。
「スカ───スレッタ・マーキュリー。ごめん、話し込んでしまって。あまり気分が悪いようなら病院に行こう」
一瞬偽名を呼ぼうか迷ったが、ここに居るのはスレッタの名前を知っている者ばかりだ。大体クーフェイ老が彼女の名前を呼んでいるのに、自分だけが偽名を呼んでいるなんてバカみたいだ。
エランは早々に切り替えて、殊更丁寧にスレッタの名前を呼びながら彼女の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫です。少し夢見が悪くて…。あと、エランさんに申し訳なくて…」
辛そうに目線を下げたスレッタが、ごめんなさいと謝ってくる。
「どうして謝るの?」
本気で分からなくて、首を傾げる。
警備隊に捕まった自分が早々に諦めてしまった一方、彼女は出来ることを精一杯してくれていた。少しばかり、無茶が過ぎるというほどに。
感謝こそすれ、謝られる謂れはない。けれど彼女自身はそう思っていないようだった。
「エランさんに言われてたのに、名前、勝手にクヘイさんに喋っちゃいました。さっきは日本に行きたいって、我が儘も言っちゃいましたし…。そ、それに、今回は私のせいでエランさんが大変な事になって…」
だんだんと小さな声になって、スレッタは顔を俯かせてしまった。赤い髪が視界一杯に広がって、彼女の顔が見えなくなってしまう。いつもは飛び跳ねている毛先も心なしか元気がないようだ。
「………」
スレッタのつむじを見ながら、言われた言葉を思い返してみる。
確かにクーフェイ老が彼女の名前を呼んでいるのに気付いた時は驚いたし、少しショックを受けたのも事実だった。
地球で会う人々には本名を教えずに偽名でやり過ごす。これは地球に降下する前に取り決めたスレッタとの約束だ。
それから数か月、彼女は自分から本名を名乗る事はしなかった。いつも誰かに自己紹介する時は『スカーレット・マーティン』の名前を使っていた。
約束を守り続けていた彼女が自らの名前を明かす。それはクーフェイ老が言ったように、相手への強い信頼の表れだ。
エランは自分が居ない場所でそんな決断をしたスレッタに、言いようのない焦燥感を覚えていた。
…だがよく考えてみれば、彼女の事をクーフェイ老に頼むと言ったのはエランの方なのだ。彼の事を信用してもいいと自分からお墨付きを与えたに等しい。
そのうえで老人は何くれと面倒を見てくれていたのだから、むしろ信用しない方が難しい。だからスレッタを責めるなんて恥知らずな事はしたくなかった。
日本に行きたいと言ったのも無理はない。先が見えない自分たちの状況下で、彼女はさぞかし不安に思っていたことだろう。
そんな状態で信頼した老人が手を差し伸べてくれたのだから、飛びついてしまうのは当然の事だった。
そもそもエランはスレッタのせいで大変な目に合ったとは思っていない。
今回の事件で悪いのは上役の男であり、その次に悪いのは暴れまわった自分である。
スレッタはただ巻き込まれただけの被害者で、巻き込んだのはエラン達の方なのだ。
「………」
けれどそう主張しても、自罰的な彼女は納得しないかもしれない。
エランは少し考えて、何でもない事のように軽口をたたく事にした。
「確かにクーフェイさんがきみの名前を呼んだのは驚いたけど、どうせ何か訳の分からない事を言って、名前を言うように仕向けたんでしょう。だから全然怒ってないよ」
「こら、どういう言い草だ」
クーフェイ老が横から文句を言ってくるが、ツンと無視をする。
「今回は誰のせいでもない。めぐり合わせや運が悪かっただけだ」
エランは殊更に穏やかな声を出すように努めて、縮こまったままのスレッタを慰めた。
「だからスレッタ・マーキュリー、きみが謝る必要はない。お願いだから顔を上げて欲しい」
「……はい、ありがとうございます。エランさん」
やがて、スレッタがゆっくりと顔を上げた。大きな碧い瞳は何かの感情で揺らめいていたが、表情は先ほどよりもほどけているようだった。
エランはホッとしながら、改めてお礼を言った。
「僕の方こそ。色々と頑張ってくれて、ありがとうスレッタ・マーキュリー」
スレッタも小さく笑い返してくれる。どうやら仲直りができたようだと、エランは安堵の息をついた。
クーフェイ老がこちらをジッと見ていたが、今度は何も言ってはこなかった。
気がかりが消えたからか、スレッタの顔色もだいぶ良くなってきたようだ。どうやら食事が出来そうだったので、そのまま皆で遅い昼食を取る事にする。
温め直したスープや粥を食べながら、具体的なこれからの事を話し合う。
クーフェイ老は半月ほど休みを取って、自分たちを『にほん』まで送り届けてくれるつもりのようだ。
とは言ってもすぐには出発しない。荷物を纏めなければいけないし、何よりスレッタには休息が必要だ。
数日程は様子を見て、大丈夫そうなら移動する。そういう事になった。
スレッタは恐縮していたが、エランも少し休みたいと言ったら納得してもらえた。
移動には飛行機を使う。ここから空港までの道のりは数時間で済むが、『にほん』の空港から目的地の山までは半日は優にかかるそうだ。
クーフェイ老の私有地はかなり辺鄙な場所にあるらしい。それに『にほん』は分断統治されている都合上、まっすぐのルートは取りづらい事が予想される。時間が掛かるのも無理はなかった。
「途中で検問があったりはしないんですか?そもそも空港のチェックを通れるんでしょうか」
「西はともかく東だからな。統治がわりかし緩いから、滅多な事じゃ検問なんてされん。あとは空港の方も大丈夫だ。心配しなくていい」
「…そうなんですか」
西と東で違うらしい。すべての土地が同じように統治されていると考えていたが、実際はけっこうな違いがありそうだ。ついでに空港のチェックも甘いのかもしれない。
考え込んだエランをよそに、クーフェイ老は粥の入った器に口をつけ、箸を使って器用に中身を掻き込んでいる。
何口か食べて満足したのか、話に補足を入れてきた。
「…西には軌道エレベーターがある。スペーシアンの連中は、それをアーシアンに使わせたくないようだ。近づけない為にワザと周辺を荒廃させていたりする」
あいつらメチャクチャやりやがる。クーフェイ老は器を片手に持ちながら憤慨し始めた。
エランとしては『にほん』に思い入れはないので、これから行く場所が安全ならばそれでいい。けれど地元民である老人にとっては色々と言いたい事があるのだろう。
「軌道エレベーターと飛行機を両方使えれば移動はもっと早くなるんだ。けどな、アーシアンが施設を使うとなると、法外な税金がかかる。荷物も人も、宇宙を経由するには大金を払えと来たもんだ」
がめつい奴らめ、とまた老人は文句を言っている。それでいて食べる手は止まらないのだから器用なものだ。今度はピクルスのような漬物をポリポリと食べている。
「スレッタ・マーキュリー、ちょっといい?」
「はい、何ですかエランさん」
怒りながら飯を食う老人は暫く放って置くことにして、スレッタとも今後の事を話すことにする。
エランとしてはアパートの引き払いもそうだが、クーフェイ老が払った金を出来るだけ早くに返した方がいいだろうと思っている。
ただでさえこれからは雇用主と雇い人という関係になる。ずっと借りっぱなしというのも気分が悪いし、出来るだけフラットな状態で契約したい。
そんな内容の話をすると、スレッタはエランの言葉に大きく頷いてくれた。どうやら彼女も賛成のようだ。
「そんなもん後でいいぞ。何なら家の管理費と相殺でも…」
クーフェイ老が口を挟んで来ようとする。どう考えても金額が釣り合わないだろう提案にエランは半目になり、同時にスレッタが慌てて口を開いた。
「だ、駄目ですよクヘイさん。お金の問題は色々と怖いって聞きますし、一旦清算すべきです。わ、わたしは、エランさんの意見に賛成です」
「…だ、そうです。後で警備隊に貰った金額を教えてください」
「ふん」
窘められた老人は何故だか不服そうにしているが、結局はこちらの意向に従ってくれる事になった。
具体的な支払い金額は後でスレッタと相談して決めることにする。さすがに本人を目の前にしてお金の話をするつもりはないので、この件は一旦後回しだ。
残りの相談は借りているアパートにある荷物の引き払いについてになる。すでにアパート側で処分されているかと思ったが、変わらず荷物は置いてあるらしい。
「荷物をどうにかしないと。今から業者に連絡して来てくれるかな」
仕事を辞める日に業者に連絡をするつもりだったので、まだ予約すらしていなかった。場合によってはキャンセルになっていた可能性もあるので、ある意味良かったのかもしれない。
「予約してもたぶん数日はかかるだろうな。その間はゆっくり休んでおけばいい」
「そうします」
エランは今度は反発せず、素直にクーフェイ老の言葉に頷いた。
元々スレッタを休ませるつもりだったし、待ち時間の間に休息すると言うのは至って合理的だ。
問題は待っている間にどこに泊まるのかだが、それもすぐに解決した。
「狭い所だが暫くここにいていいぞ。スレッタお嬢さんはともかく、お前の寝床はソファになるが」
「では、お言葉に甘えて」
世話になりっぱなしで正直気が引けるが、お互いにとっても下手に離れているよりは都合が良いように思える。
『にほん』に行くまでの数日の間は、クーフェイ老のアパートに居候させてもらう事になった。
それからの数日間は、思っていたよりも穏やかに共同生活を送ることが出来た。
自然と役割分担も出来上がり、料理はクーフェイ老とスレッタが、掃除はスレッタとエランが、買い物はクーフェイ老とエランが、主に交代して担当していた。
たまにクーフェイ老が口うるさくなる時もあるが、スレッタがそばにいると存外大人しくしてくれる。
更にエランも遠慮なく言い返していたので、工場で働いていた時のようなストレスも感じる事はない。傍から見たらまるでじゃれ合っているように見えたかもしれない。
ただエランが髪と肌を染めようとした時だけは、やたらと真剣な顔をして止めてきた。
「それは使うな。今のお前にパーメットは毒になる」
言われた瞬間、エランは驚いて目をぱちりと瞬かせた。
まともに品物も見せていないのに、クーフェイ老はエランが持っているものがパーメットを使った製品だと看破した。その事に驚いたのだ。
「確かにこの製品にはパーメットが使われてますが…。ごく少量ですよ」
エランはいくつかの疑問を浮かべつつも、一応の弁明をしてみせた。
ガンダムの操縦時、パーメットスコアを上げた事で明確に体を壊した自覚のあるエランは、パーメットの怖さをよく知っている。
度を過ぎたパーメットの流入は体に毒なのだ。とは言えそれはあくまで体の中に直接入ったものだけになる。
体の表面。髪の毛を染めるくらいなら影響はないし、肌染めに至ってはパーメットが入っていない製品なのでなおさら大丈夫のはずだった。
けれどクーフェイ老は頑として引こうとしなかった。
「駄目だ。両方使うな」
「…理由を聞いても?」
「お前の体は限界までパーメットに漬かっているように見える。これ以上は肌に触れるだけでも危険だ」
「…見ただけで、分かるんですか」
エランはガンダムに乗っていた事をスレッタ以外には秘密にしている。故に高濃度のパーメットに浸された事をクーフェイ老は知っているはずもなかった。
改めて驚いていると、老人は「最初から知ってたぞ」と事も無げに言い放った。
「一目見りゃ分かる。こそこそと肌と髪色を変えている事もな。これまでは事情があるんだろうと黙っていたが、知り合いになった今なら遠慮なく口出しするぞ」
「はぁ…。でも肌色くらいは変えても」
「駄目だ。その染め粉にもほんの少しだがパーメットが混じってる」
老人の言葉を受けて思わず成分表示を見るが、特にパーメットの名前は入っていない。
「本当にごくごく少量だ。たぶん工場で作ってる別の商品の原料が混ざったんだ」
「はぁ…」
クーフェイ老は自信ありげに断言している。証拠はないのだが、恐らくは老人の話の通りなのだろうと思った。そうでないとエランの体のパーメット濃度の話にはならないだろう。
曖昧に頷いていたエランだが、ふと気になって質問してみた。
「あなたの目にはどんな風にパーメットが見えているんですか?」
人の感情や未来が見えると言っていたが、それらは本来目には見えないものだ。けれどパーメットは物質である。
最初から形があるパーメットがどんな風に見えているか、なんて。我ながら不思議な問い掛けをしてしまった。
けれどクーフェイ老はエランの問いに困るでもなく、ただそれが事実だとばかりにハッキリと断言した。
「あれは生き物の卵だ。人の記憶と感情を吸って羽化する…、そうだな、言い方は悪いが寄生虫みたいなもんだ」
「───」
具体的にどう見えているかの発言はなかった。だが、そのあまりの言い様に、エランは手に持ったものを使おうとは二度と思えなくなっていた。
クーフェイ老から出た衝撃の言葉から数日、エラン達は最寄りの空港へと足を運んでいた。
荷物の処理も退去手続きも終わり、ついでにクーフェイ老に世話になった分の対価も渡し終えた。
やるべき事をやり終えたエラン達は、これからいよいよ『にほん』へと向かう飛行機に乗ることになる。
スレッタがジッとエランを見上げてくる。最近の彼女は部屋で休んでいることが多かったので、こうして顔を合わせるのは久しぶりの気がした。
「ずっと黒髪のエランさんを見ていたので、何だか不思議な感じがします」
エランの髪と肌の色はすっかり学園時代の色を取り戻していた。
肌の方は徐々に色が薄くなっていったのだが、髪の方は昨日の時点ではまだ黒々とした色をしていた。
スペーシアン御用達の特殊な薬剤は、ある一定の時間を過ぎると一気に色が抜けてしまう。
今朝いきなり髪の色が戻ってしまったので、慌てて帽子を準備する羽目になってしまった。
「僕としては黒髪のままで良かったんだけど…。地球産のもので染め直そうかな」
ドラッグストアに行けば多分お目当てのモノはある。けれど時間がなかったので、そのままの姿で来るしかなかった。
「髪の毛が黒だろうが白だろうが変わらんわ。さっさと行くぞ」
せっかちなクーフェイ老はさっそく搭乗口に向かおうとしている。出発時刻まで30分以上はあるが、あとは手荷物検査も終えて乗り込むだけになっている。
この地でトラブルに巻き込まれなければ、今頃はスレッタと一緒にいくつかある店を覗いていたのかもしれない。けれど今のエラン達はあまり目立ちたくなかったので、素直に老人の後についていった。
空を飛んでいる間も特筆すべきことは何も起こらなかった。3人掛けの座席にスレッタ、エラン、クーフェイ老の順番で乗り、ただ普通に離陸から着陸までの時間を大人しく待っていただけだ。
クーフェイ老が見覚えのあるお菓子をスレッタにあげた時に、少し会話が発生したくらいだろうか。
スレッタは色とりどりのお菓子を、美味しそうに食べていた。
「このゼリー美味しいです。色んなフルーツの味がします!」
「そうだろう。お嬢さん宛ての菓子だ」
「?わたし宛てですか…?」
エランの横で、スレッタが不思議そうな顔で首を傾げている。
「会社に忘れたままになってたからな。せっかくなので持ってきた」
言われてエランには思い当たったものがあった。
「あの時の…」
見覚えがあるのも当然だ。スレッタが美味しそうに食べているお菓子は、あの事件が起きた当日に役員の彼…、ラウティーアム氏が持ってきてくれたものだった。
本当はその日のうちに渡すはずだったのに、色々あってすっかり忘れていたのだ。
貰った時にも女の子が好きそうなお菓子だと思っていたが、やはりスレッタの好みに合致していたらしい。流石のリサーチ力だった。
そういえば、あの人の怪我は大丈夫だったんだろうか…。
薄情な事にいまさら彼の怪我の状態が気になっていると、思わぬところから言及があった。
「あ、もしかしてラウティーアムさんからのお菓子ですか…?」
思い返していた人の名を、スレッタがはっきりと発音している。
エランは思わず問いかけていた。
「スカーレット。ラウティーアムさんの事を知ってるの?」
「あ……。…エランさんと離れている時、一度アパートに尋ねに来てくれた事があったんです」
「そうなんだ。彼の怪我の具合はどうだったか分かる?」
「えっと…。扉、そう、扉越しにお話ししただけなので、よく、分かりませんでした…。あ、でで、でも、そんなに酷い怪我じゃなさそう、でした」
スレッタが焦ったように報告する。
あまり外の人と接触しないように言っていたので、会話をしたことで約束を破ったと思っているのかもしれない。
けれどラウティーアム氏は色々と迷惑をかけてしまった人だし、今回もクーフェイ老を尋ねに来て、そこに偶然スレッタが居合わせただけだろうと推測できた。
扉越しの会話だということなので、それほど強く接触した訳でもなさそうだ。恐らくクーフェイ老が気を使って、適度な距離を測ってくれたに違いない。
「大丈夫。上司はとても問題のある人だけど、彼自身はとても良い人だと分かっているから。それに、扉越しの会話だったんでしょう。なら目くじらは立てないよ」
「………。ありがとう、ございます…。あ、あ、あの…。クヘイさん」
「…ん。まぁ概ねお嬢さんの言った通りだ。その時の会話のお陰でお前への理不尽な罰が軽くなったんだから、大いに感謝しとけ」
「そうだったんだ。ありがとう」
「い、い、いえ…。お礼を言われるような事は、ぜんぜん、その……。して…ません…」
スレッタは照れているのか謙遜しているのか、困ったように俯いてしまった。そうしてあれだけパクパクと食べていたお菓子に手を伸ばさなくなった。
人からの貰い物だと分かったから、大事に食べるつもりなんだろう。
エランはスレッタのそんな所も、好ましい気質だと思っていた。
数時間のフライトの後、エラン達は『にほん』へとたどり着いた。古びてはいるが、よく掃除もされている空港だ。
クーフェイ老の私有地がある『別のスペーシアン組織』が支配する地域とは違って、ここはまだベネリットの統治下になる。
現に滑走路の隅には、威嚇するように数世代前のモビルスーツが闊歩していた。
「やっぱり、今からでも変装した方が…」
「そのままで大丈夫だと言っただろう。ほら、行くぞ」
心配になるエラン達を余所に、クーフェイ老はスタスタと先に行ってしまう。
飛行機に乗る前もそうだった。対策を考ようとするエランに、老人は妙に自信ありげにそのままで問題ないと言っていた。
本当にそのままでいいのかと疑う気持ちがよぎるが、事実、そのままでまったく問題がない事が分かった。
何故なら空港のスタッフがクーフェイ老の市民カード(驚くべきことに彼はスペース居住権を持っていた)を確認した途端、すぐにエラン達を別の通路に案内し始めたからだ。それも明らかに通常は使用できないスタッフ用の出入り口だ。
思わぬ展開に目を白黒させながら通路を歩き続け、スタッフに案内されるがまま空港の敷地外へと出てしまった。
「どういう事なんですか」
途中でわざわざスタッフが持って来てくれた荷物を確認し、クーフェイ老へと問いただす。けれど彼は「コネがある」としか言ってくれなかった。
非常に怪しいのだが、老人の表情は含みがあるものではなく、してやったりという悪戯めいたものだった。
…何かのカラクリがあったとしても、それは悪いものではないのだろう。
エランは何だか追及するのが馬鹿らしくなって、それ以上は何も言わないことにした。
怒りっぽくてせっかちな老人だが、クーフェイ老の善性はもはや疑いようもない。
それに元々が怪しい人物だったのだ。いまさら怪しいところが追加されたとして、それが何だと言うんだろう。
多少投げやりな気分でそう思っていると、老人は「まぁ、いつかは話してやる」と言って笑っていた。
空港から出たエラン達は、バスや電車を乗り継いでゆっくりと移動することになった。
アド・ステラ暦になる前。まだここが『にほんこく』という1つの巨大な島国だった頃は、色々と便利な交通機関が発達していたそうだ。
けれど今はわざと各所交通網が遮断されているらしく、短い路線を乗り継いで目的地へと向かうしかないらしい。
「距離的にはものすごく遠いって訳じゃないが、色々と待ち時間が多くなる。大体半日はかかるし、下手したら日を跨ぐこともある」
クーフェイ老の言葉の通り、乗り込んだバスや電車はすぐに出発しないことが多かった。時刻表を見ると大体1時間に1本の路線が多いようだ。
自然と休憩を小まめに取る事になるが、途中からスレッタが妙に大人しい事に気が付いた。
地球から降りた後、旅をしている間の彼女ははしゃいでいる事が多かった。今回もてっきり元気な彼女の姿が見れると思ったのだが、あまり興奮することもなく、どこか口数も少ないようだ。
「スカーレット、具合が悪くなったりはしてない?」
「だ、だいじょぶですっ!」
聞くたびに大丈夫だと答えてくれるが、本当だろうか。
心配になったエランは、トイレ休憩でスレッタと離れた際に、クーフェイ老にこっそりと相談をしてみた。
「クーフェイさん。スカーレットが無理してないか分かりますか?」
「はぁ?お前、俺の能力を当てにしてるな。…いやらしい奴め。絶対喋らんぞ」
「な、何ですかその言い方。彼女が心配なだけです」
「ふん。まぁお嬢さんは無理しがちだからな、気持ちはわかる。でも勝手に心の内を喋る訳にはいかん」
「それは…そうですけど」
「様子が変だと思うなら、よく見てよく気遣ってやれ。そんで、ちゃんと話し合え。大体はそれで解決する」
「……はい」
話し合い。
そういえば最近は、あまり2人で話をしていなかったように思う。
エランが考え込んでいると、クーフェイ老は少し迷っているような素振りをした。そうして、秘密を打ち明けるようにそっと口を開いた。
「……心の内を喋る訳にはいかんが、気になってる事はある。お嬢さんの中にいるものだ」
「中にいるもの?」
「力のあるモノがお嬢さんを守ってると言っただろう?どうもその内のひとりが動き出そうとしているように見える」
クーフェイ老の物言いにエランは驚いた。
「複数いるんですか?」
「きちんと数えてはいないが、10以上はいるな。大きいのと、小さいの…。まぁそれはいいんだが、少し注意した方がいいかもしれん」
「彼女に悪い影響が?」
「結果的にそうなる可能性はある。直接お嬢さんに危害を加えるつもりはないだろうが、人と人外では認識のズレがあるからな」
「良かれと思って、災いを起こすという事ですか?」
「あくまで可能性だ。だが近々お嬢さんの身に何かが起こるかもしれん。注意してよく見といてやれ」
「───」
その時、なぜかエランの頭にクーフェイ老の言葉がよぎった。
───流れ星。
───ほうき星。
───空の端から落ちてくる光。
どうしてこの言葉を思い出したのか分からない。けれどエランは宇宙空間に放り出された時のように。ぞぅっと、胃の腑から恐怖が迫り上がってくるのを感じていた。
───希望を乗せてやってくるが、同時に燃え尽きそうな光だった。
そういえばあの言葉の元になった未来視のイメージは、今では払拭されているのだろうか。エランは聞こうか迷ったが、微かに恐怖する心が舌を凍らせていた。
クーフェイ老はもう一度だけ、ただ注意しろと言い、それからこの話題が表に出ることはなかった。
スレッタの様子を気にかけつつ、エラン達は目的地へと近づいていた。
どこか精彩を欠いた人々や町の様子が、徐々に活気づいていく。とある橋を越えた辺りから、明らかに周辺の空気が変わったのを感じた。
「この辺りから俺も世話になってる組織の支配地域になる。地図上じゃ狭いが、実際はけっこう広い範囲だ。昔で言う小さい都道府県くらいはあるな」
「広い範囲の支配をベネリットから許される組織と言うことですか」
「そうなる。まぁお前なら見当くらいは付いてるだろう」
「………」
確かに思い当たる組織はある。もしこの考えが合っていたら、エランは何度もその組織に救われていることになる。
「───宇宙議会連合」
エランの呟きにクーフェイ老は何も言わず、次に向かうバス停へと足を進めていた。
少しサビの浮いたオンボロバスに揺られながら、とうとうエラン達は目的地である場所に到着することになった。
周囲にはポツポツと一軒家があるくらいで、あとは畑と放置された空き地が広がっている。そして周辺をぐるりと取り囲むように山々が連なっていた。
クーフェイ老の私有地は、その内にある小さな山の1つのようだ。
車も通れるような幅広の砂利道を歩き、途中から分かれた道を歩いて山に入っていく。
最初は分かれた道も砂利道だったが、傾斜が出始めた辺りから道にはレンガが使われるようになった。ちょうどこの辺りからクーフェイ老の土地になるらしい。
「歩きやすいだろう。何年もかけて整備したんだ」
クーフェイ老が得意げに自慢してくる。驚いたことに彼が中心になって、ただの土だった山道にレンガを敷き詰めたのだと言う。
「家の先にもこの道は続いてる。道に葉っぱが降り積もったら掃除するのもお前の仕事だ」
今のところは綺麗なものだが、秋から冬にかけては葉が落ちてくるそうだ。これは意外と大変な仕事かもしれないとエランは内心で冷汗をかいていた。
レンガ道の途中から更に細い道が伸びる。まだまだ道は続いているが、クーフェイ老は細い道の方に足を進めた。
「この先が家だ」
レンガの道は見通しがよかったが、新しい細い道は曲がりくねって先がよく見えない。下にはきっちりしたレンガではなく等間隔に大きな石が埋められていて、初見ではあまり進みたいとは思えなかった。
距離にしたら50メートルもない程だろうか。傾斜もあるので体感時間は長く感じたが、ようやく家のようなものが見えてきた。
とは言っても家そのものではなく、目の前にあるのは長い塀と丈夫そうな門扉だけだ。クーフェイ老が鍵を刺して門扉を開けても、まだ先がありそうだ。
「まるで隠れ家のようですね」
少なくとも誰にでも解放されている家の作りではない。
エランの言葉にクーフェイ老は「後で話してやる」と言い、広い庭を更に歩いてようやく目的地の中心である家に着くことができた。
これだけ広い敷地なのだからさぞ大豪邸なのだろうと思っていたが、意外にこじんまりと纏まっている。この家で暫くの間、エランとスレッタの2人は生活することになる。
以前家の管理の話をした際に、クーフェイ老はお互いにとって都合がいいと言っていたが…。なるほどこれはエラン達にとっても都合が良かった。この家でならスレッタの存在を容易に人々から隠し通せる。
そのスレッタは暫く前からずっと黙ってついてきている。何度か心配して声をかけたのだが、その度に心配ないと笑って返されてしまっていた。
目的地に着くのを優先してしまったが、これからはゆっくりとスレッタに向き合わなければいけないだろう。
クーフェイ老に管理の仕方を教わって、生活の基盤を整えて、そうしてスレッタとたくさん話し合おう。
そう思っていた。
エランの決意は、思わぬ形で反故にされ、また違う形で叶えられる事になる。
その日は移動で疲れていたのですぐに休憩し、簡単に掃除をした部屋でそれぞれが眠る事になった。
クーフェイ老は元々の自分の部屋で眠り、スレッタは前の管理人の部屋で眠る。そしてエランは適当に居間のソファで横になっていた。
後できちんとすべての部屋を掃除して、自分用の部屋を貰うつもりでいる。
とにかく旅の疲れを睡眠で癒し、新しい生活を始めようとしていた。
…その日の朝に、泣き声が聞こえてきた。
若い女性の声だ。大声で泣き喚いている。
それがスレッタの声だと気付いた瞬間、エランはソファの上から飛び起きて、何を考えるでもなく一目散に彼女の元に向かっていた。
「スレッタ・マーキュリー!」
鍵がかかっていないドアを、壊すような勢いで開け放つ。
スレッタはベッドの上で小さく縮こまり、シーツに顔を押し付けて泣いているようだった。
「スレッタ・マーキュリー、だいじょうぶ?」
どうしたと言うんだろう。やはり体調が悪いんだろうか。それとも男に襲われた事が心の傷になってしまったんだろうか。
オロオロとしながら手を伸ばして、肩に触れた瞬間に振り払われる。
「やーっ!!やっ!」
嫌々をするように暴れ出すスレッタに驚き、どうにか宥めようとするが一向に大人しくなってくれない。
「スレッタ・マーキュリー、おちついて。どうしたの」
言葉でも駄目だ。むしろ声を掛けるごとにスレッタは動揺しているようだった。
おかぁさん。おかぁさん。
エアリアル、どこにいるの。
そんな言葉を、繰り返している。
自分ではどうしようもできなくて、ただ呆然と半狂乱になっているスレッタの姿を見る事しかできない。
「───やられた」
そんな時、苦々しい声が聞こえてきた。
いつの間にかやって来ていたクーフェイ老が、スレッタを厳しい眼差しで睨んでいる。
いや、正確には、スレッタ自身ではない何か別のものを見ているようだった。
「く、くーふぇいさん…」
情けない声が出る。老人はそんなエランの姿を一瞥すると、鋭い口調で断定した。
「中の奴だ。お嬢さんの頭に細工をしやがった」
同時に、泣き喚くばかりだったスレッタが声を上げた。
「おじいさん、だれぇ…?」
それはあどけなく、まるで小さな子どものような声に聞こえた。
現を呑む夢
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