ごめんねスレッタ・マーキュリー─現を呑む夢─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─現を呑む夢─


※作中において少し分かりづらい表現が多発します




 目を開くと、とても白くてふわふわしたものに囲まれていた。

 雲。羊。それとも毛布?

 記憶の中のどれとも違うのに、子供のころから知っているような、とても安心できる場所だと思える。

 そこから声が響いてくる。

 子どものように甲高く、呆れたような、怒ったような声が響いてくる。

 何度も。

 なんども。

 それはわたしに言い聞かせてくる。

 ───

 ────?

 ─────!

 乳白色の靄の中。

 幼くて、とても無邪気で、まるで甘い悪魔のような、そんな声が響いていた。



………

…………

……………



 スレッタ・マーキュリーは、明るい日差しの中を歩いていた。

 そこかしこに生えた草をぴょんと飛び越えて。これから大好きな学校に行くのだ。

 辺りを見渡せばむしゃむしゃと、大きな草を熱心に食べている動物たち。

 顔を上げればピカピカの最新鋭の船や、古ぼけて掠れたように見える小さな船が飛んでいる。

 そんな風景の中を、手を繋いだお母さんと笑いながら歩いていく。

 途中で船の一隻が近くに降りて、中から笑顔のお父さんが手を振りながら降りてきた。

 お父さんはゴドイの姿をしている。寡黙だけど優しくて、とても頼りになるお父さんだ。

 これからたくさんの人達と一緒に仕事をするらしい。きっと色々な計算をしたり、物を運んだりするんだろう。

 お母さんはお手伝いをしなくちゃと言いながら、弾むような足取りでお父さんの後について行った。

 船の中にいたメリッサがぺこりと頭を下げて、エルゴがガミガミと文句を言っているのが見える。

 横を見ると、代わりに手を繋いでいたのはミオリネだった。

 勝気そうな目が頼もしい。にこりと笑いかけると、苦笑しながら手を引いてくれる。

 白い髪に導かれるように、学校へ歩いていく。

 ミオリネと一緒に教室に入ると、そこには地球寮のみんなやエアリアルの他に、同年代の知り合いみんなが着席していた。

 ペトラ。フェルシー。ラウダ。セセリア。ロウジ。グエル。シャディク。ダーオルン。ラウティーアム。そして……。

『おはよう、スレッタ』

『おはようございます、エランさん』

 エラン・ケレスが、優しく微笑みながら待っていた。

 いつもの朝の挨拶をして、隣り合って授業を受ける。

 クヘイお爺さんが一生懸命植物に対しての授業をしていると、エランがさらに詳しく教えてくれる。

『プラムの種は、湿らせた土と一緒に冷蔵庫に入れておくと芽が早く出るらしいよ。冷蔵庫の冷たさを冬だと勘違いして、頑張って芽を出そうとするんだって』

『そうなんですね、エランさんは物知りです』

 さっそく教わった事を紙に書き写していく。

 小さなメモ用紙を何枚も贅沢に使って、種が成長して大きな木になる様子を描いていく。

 最初は種を、次は小さな芽を、描いた絵はぐんぐんとメモの中で成長して、ついには紙を突き破ってしまった。

 いつの間にか室内は草原になり、大きな森や小さな川がある綺麗な場所へと変わっていた。

 その中心に、立派になったプラムの木が誇らしげに立っている。

 ポンポンと次々に出来るプラムの実を、みんなが美味しそうに食べ始めた。

 みんながみんな、笑顔になっている。

 その光景を見て満足すると、今度は自分たちの番だとエランを誘う。

 一番上に生りているプラムが、きっと世界で一番おいしいプラムだ。

 背伸びしてそれを取ろうとして、でも成長して大きくなった木の上には、どうしても手が届かない。

『僕が取ってくるから、スレッタは待っていて』

 エランは代わりに自分が取ると言ってくれて、トンと跳ねると地上から離れてしまった。

 ぐんぐんとスピードを乗せて上昇して、遥か彼方に行ってしまう。

 地上でエランの帰りを待ったまま、目だけは彼をずっと追う。

 彼はずいぶん成長してしまった木の上まで飛んでいき、そうしてプラムの実を取って、そのまま帰って来なかった。

 太陽の近くまで飛び続け、光に呑まれてしまったのだ。

 地上の自分はそれを知らずに、ただ無邪気にエランが戻って来るのを待っている。

 彼の取ったプラムの実が、キラキラと輝きながら落ちてくる。

 周囲はいつの間にか真っ暗になり、プラムの実だけが星のように瞬いていた。




「ん……」

 体が重い。

 特に頭が重しを乗せたようにずっしりとしている。

 汗も随分とかいたのか、少し身じろぐと肌がすぅっと冷えていく。何だか体がベタベタして、気持ち悪い。

「起きた?スレッタ・マーキュリー」

 不快な状態を和らげるように、温かい声が降ってくる。

「………、…」

 名前を呼ぼうとして、かすれたような息が出る。口の中が渇いて、舌が喉に張り付いたようだ。

「痛い所はない?気持ち悪かったりは?」

 心配そうに聞いてくれるので、こくんと首を振って大丈夫だと答える。実際に汗をかいた体は気持ち悪いが、吐き気などはない。

 ツバをひそかに飲み込んで、何とか小さく声を出す。

「エランさん…」

「うん、スレッタ・マーキュリー」

 返事をしてくれたエランは、どうしてスレッタが眠っていたのかを簡単に説明してくれた。

 怪我が原因で、もともと熱が出やすい状態だったこと。

 迎えに行った先で、倒れるように眠ってしまったこと。

 まだ熱はありそうなので、無理はしない方がいいこと。

「大丈夫そうなら、薬を飲んでおこう」

 優しい声にまたこくんと頷き、エランに助けられながら薬を飲む。まるでこの土地に来たばかりの、暑さで倒れてしまった時のようだった。

 薬を飲んだついでに、コップの中の水をこくこくと飲み干す。常温の水だったが、乾いた体には心地よく感じる。

 ふぅ、と満足のため息を吐くと、辛抱強く待っていてくれたエランがもう一度横たわらせてくれた。

「エランさん…」

 それしか言えなくなったかのように、エランの名前を口に出す。何だかとても、心細かったのだ。

 不安な気持ちを分かっているかのように、エランは優しく微笑んでいる。

「大丈夫。眠るまでそばにいるよ」

 そうして、欲しかった言葉を言ってくれる。

 なら、もう少し起きていたい。出来るだけ長く。

 そう思うのに、ウトウトと眠気はやって来て、もう一度スレッタは夢の世界へと旅立っていった。




 夢の中で、スレッタは誕生日を祝われていた。

 ハッピバースデートゥーユー

 ハッピバースデートゥーユー

 ハッピバースデー ハッピバースデー

 ハッピバースデートゥーユー

 祝っている相手もスレッタだ。一生懸命、スレッタがスレッタに対して歌っている。

 幼いスレッタ、少女のスレッタ、大人のスレッタ。

 くるくると中心が入れ替わりながら、お互いに誕生日を祝いあう。

 やがて他の人の誕生日も祝おうと、大冒険が始まった。

 ハッピバースデートゥーユー

 お母さんに。

 ハッピバースデートゥーユー

 エアリアルに。

 ハッピバースデー ハッピバースデー

 ゴドイに。

 ハッピバースデートゥーユー

 ミオリネに。

 家族に、家族になるかもしれなかった人たちに、一生懸命誕生日を祝う歌を送っていく。

 幼いスレッタ。少女のスレッタ。大人のスレッタ。

 たくさんのスレッタから送られた歌を、みんなが笑顔で聞いてくれた。

 その様子をいつの間にか、エランがジッと見つめていた。

 彼に気付いたスレッタ達はにっこりと笑顔になって、今度は彼の為に歌を歌う。

 ハッピバースデートゥーユー

 エランさん。

 ハッピバースデートゥーユー

 わたしと結婚してください。

 ハッピバースデー ハッピバースデー

 家族になって。

 ハッピバースデートゥーユー

 ずっと一緒に生きましょう。

 願いを込めて歌うのに、彼は浮かない顔のままだ。

 どうしたのだろうと首を傾げて、もう一度歌を歌おうとする。

 すると。

『きみの申し出は受け入れられない』

 浮かない顔をしたまま、エランが歌を遮った。

『きみは一度、自分をよく考えてみたほうがいい』

 憂鬱そうな顔のまま、エランはこちらを諭してくる。

『僕は受け入れられない。こんなに酷い事』

 強張った顔になり、エランはもう一度拒否をして。

『好きだのなんだの───気持ち悪いんだよ』

 最後に軽蔑の表情を浮かべて、スレッタのことを断罪した。




「───ぁ…、………ッ」

 小さく呼気を荒げながら、スレッタは現実世界に帰って来た。

 はぁはぁと忙しない呼吸をそのままに、部屋の中を急いで見渡す。

 寝る直前とあまり変わったところはなく…。ただエランの姿だけがそこにない。

「………」

 夢の内容なんて忘れている事の方が多いものだが、先程の夢は覚えていた。

 ハッピーバースデーのメロディが、頭の片隅に流れていく。

 家族や、家族になれたかもしれない人に。…エランに、たくさんのバースデーソングを歌うスレッタ。

 最後に夢の中のエランに手酷く拒絶された事も思い出して、スレッタはスンと鼻を鳴らした。

 そういえば、以前に寮でバースデーソングを歌った時も彼ははっきりと拒絶していた。

『帰ってくれ。僕に誕生日はないって言ったはずだ』

 その時は考えないようにしていたけれど、事情を知った今なら酷い事をしていたのだと分かる。その前の『お母さんに教えてもらってないって事ですか?』という質問も、随分と無神経なものだった。

 彼は誕生日もお母さんも最初からなかったのではない。大切な記憶を奪われていただけだったのに…。

 その事を知らずに放った一言で、当時のエランはとても怒ってしまった。長い間ツンと冷たくされてしまい、決闘の最後にようやく仲直りをすることが出来た。

 決闘後のスレッタは、まだ彼の記憶がほとんど失われているという事実を知らなかった。

 だから誕生日がないという彼の言葉を額面通りに受け取って、新しい誕生日を作りましょうと、とても無邪気に提案していた。

 彼は怒るでもなくぱちりと目を瞬かせて、珍しく嬉しそうに微笑んでくれた。そして2人で相談して、彼の誕生日を決めたのだ。

 結局、色々とあってエランの誕生日は祝えていない。

 美味しいご馳走も、ケーキも、バースデーソングも、何もかもが素通りしてしまった。

 気付いたのは何日も日付が過ぎた後だった。慌てて謝るスレッタに対して、エランはそんな余裕はなかったから仕方ない、と笑って許してくれた。

 鬱陶しがられている時にはバースデーソングを歌い、きちんと祝おうと計画した時には歌わない。

 なんだそれは、と自分でも思う。

 まるでタチの悪い嘘つき人間だ。こんないい加減な人間が家族になろうなんて、最初から無理な話だったのかもしれない。

 スレッタははぁ…、とため息を吐いた。

 暗い気分の時には暗いものがよく見えてしまう。普段は仕方ないと割り切れている事でも、より大きく形を持ってスレッタの中に浮き出てしまう。

 とはいえスレッタは昔から切り替えが早い方だ。家族になる事を拒絶されて、人からの告白を拒絶する姿を見たとしても、スレッタ自身が拒絶された訳ではない。

 寝る直前の彼は、相変わらず優しく接してくれた。スレッタの事を心配して、慈しんでくれた。

 …ならそれでいい。

 彼は優しい。とても律儀で、誠実な人だ。

 恩人の娘であるスレッタは、その点で相当のアドバンテージがある。よほどエランに迷惑をかけたり裏切ったりしなければ、早々に見限られることはないはずだ。

 今回はスレッタの存在そのものが迷惑をかけてしまったが、次からは気を付ければ大丈夫。

 それにきっと日本に行けば、素敵な思い出がたくさん出来るはずだ。

 スレッタはクヘイに提案された日本行きの事を、前向きに考えている。

 ベネリットの支配している土地だからと真っ先に候補から外されていたが、あの優しい老人がいた所なのだ。きっとコミックに描かれた通り、素敵な所に違いない。

 もしかしたら日本にある不思議なパワーで、エランの頑なな気持ちも解けてくれるかもしれない。

 そう、スレッタの気持ちを真っすぐに受け止めて、そのまま受け入れてくれるかもしれない。…家族になってくれるかもしれない。

 思い込みでもよかった。スレッタは気持ちを立て直そうとして、それは半ば成功していた。

 この後のエランとクヘイの会話を聞くまでは。


 喉の渇きを解消するために、スレッタは台所へ行くことにした。先ほどからポツポツと話し声が聞こえているので、ついでにエランとクヘイに挨拶するつもりだった。

 起きてすぐの状態で、知っている誰かの生活音や声が聞こえるというのは安心するものだ。

 幼い頃はそばに居てくれていた母も、スレッタが成長してからは水星基地を留守にすることが多かった。そばにいてくれるエアリアルは、生活音も立てられず、物理的にお喋りできるわけでもない。

 学園の地球寮で生活を始めてから、改めて気付いた感覚だ。

 エランに連れられて学園から出た後も、彼が立てる音で安心しながら起きることはよくあった。

「───。───、───」

 部屋のドアを開けると、廊下越しに聞こえる声が少し大きくなる。

 クヘイが話している内容はよく聞き取れないが、なにやら説得しているような声音に聞こえる。

 もしかしたら、ベネリットが支配している土地である日本に行くのを、エランが渋っているのかもしれない。心配性な彼の事なので、きっとそうだ。

 あまり話の邪魔をする気になれず、そっと廊下を進んで行く。狭いアパートなのですぐそばだ。

 ダイニングの前まで行くと、ようやく明瞭に声が聞こえるようになった。こちらに背を向けて、話し込んでいる2人の様子が見える。

「お前らを日本に連れて行くことで、何だかいい事が起きる気がするんだ」

「それも、単なる勘ですか?」

「そうだ」

 やはり日本に行くための説得を行ってくれていたらしい。

 クヘイの誘いにエランは迷っているようで、いつものように即決することなく沈黙している。

 今のうちならまだ十分に説得できる余地はあるように思える。スレッタは少しだけ様子を見た後に、クヘイの手助けをしようと思っていた。

 すると少しの沈黙の後、言い聞かせるようにクヘイが言った。

「別にどうしても嫌だと言うなら来なくていい。とはいえお前ひとりならどこへなりとも行けるだろうが、お嬢さんもいるんだ。慎重に考えろよ」

 その言葉を聞いた時、スレッタは思わずハッとしていた。

 クヘイは何の含みもなく、ただスレッタとエランの事を案じてくれている。それは分かる。

 だが今の言葉は、スレッタが見ないフリをしていた真実を突いたもののような気がした。

 ───エランひとりならどこへでも行ける。だが、スレッタがいるのなら、慎重に考えろ。

 逆に言えば…スレッタが居ると、エランは自由にどこへでも行くことが出来ない、という事じゃないだろうか。

 考えすぎかもしれない。でも、恐らくそれは、真実だ。

「…返事は、後でもいいですか」

「おう」

「………」

 何だか急に恐ろしくなって、スレッタは廊下を引き返そうと足を動かした。ギシリと音が鳴り、部屋の中にいたエランが振り向く。

「スカーレット。起きたの、体調は?」

 エランはすぐにそばに来てくれて、こちらを心配してくれる。なのに咄嗟に返事が出来なくて俯いてしまう。

 自分が彼の負担になっている。

 心のどこかで思っていて、でも深く考えないようにしていた事だ。

 普段の自分なら、それでも彼の負担を軽くすればいいと、前向きに考えられていただろう。

 けれど。

「熱は下がっているようだけど。気分はどう?何か食べられる?」

『好きだのなんだの───気持ち悪いんだよ』

 今のスレッタは自分がどこまで彼に甘えていいのか、分からなくなっていた。


「………」

 数時間後、スレッタは自室として宛がわれた部屋で休んでいた。まだ体が本調子ではない為、食事をした後に休憩を勧められたのだ。

 あれから暫く話し合いをして、何とかエランに日本行きを納得してもらう事が出来た。

 結果的にはよかったと言えるが、その途中でスレッタがなんの相談もせず、勝手にクヘイに本名を教えた事をエランに知られてしまっていた。

 あらかじめ伝えていたら良かったのに、スレッタはずっと呑気に寝てばかりいた。だから彼にしてみたら思いもしない事だったに違いない。

 正面切って怒られた訳ではないが、目を丸くしたあと一瞬鋭い目つきになったエランの表情が忘れられない。彼は驚き、傷ついたような顔をしていた。

 無理もない。スレッタは旅の途中で散々注意されていた約束事を、破ってしまったのだから。

 クヘイは庇ってくれたしエランも結局は許してくれたが、とても不誠実な事をしてしまった。

 …それに、まだまだエランには黙っている事がある。ラウティーアムに直接会ったことや、大事な種を渡した事。そもそも、加害者であるダーオルンに勝手に親愛の情を感じて、悪く思えない事などだ。

 自分から話した方がいいと分かっているが、どうしても口は重くなる。

 いつ話そうかと悩んでいると、コンコンとノックの音がした。

 「はい」と返事をしながらドアを開ける。目の前に立っているのは悩みの中心にいるエランだった。

「休んでいるところなのに、ごめん」

「…どうしました?エランさん」

 先ほどまで色々と話し合っていたが、まだ何か相談事でもあるのだろうか。

「アパートの鍵を渡して貰えないかと思って。細々とした荷物がまだ置いたままになってるから、取りに行ってくる」

「あ…」

 確かに、アパートの鍵はスレッタが持っている。クヘイがわざわざ渡してくれたものだ。

 ナイトマーケットで買ったキーホルダーを付けたアパートの鍵。エランが居ない間のお守りのようなものだった。

 スレッタは慌ててポケットから鍵を取り出した。けれど渡す前に少し不安になり、思わず声をかけてしまう。

「あの、わたしも一緒に…」

「いや、ひとりで大丈夫。きみは無理せずに休んでいて」

「は…、はい…」

「じゃあ、行ってくる」

 申し出を断ったエランは、鍵を受け取るとすぐにでも出て行こうとしている。

 スレッタは置いて行かれる子供のような心地になり、追いすがるように声を掛けた。

「あ、あの…」

「うん?」

「……帰ってきますか?すぐに、ちゃんと…」

 重しになっているスレッタを捨てれば、きっとエランは自由にどこへでも行ける。その気になれば、今日にだって。

「帰って来るよ。…ちゃんと帰って来るから、安心して」

 でも彼は相変わらず優しくて、安心させることを言ってくれる。

「とりあえず、今日のところは寄り道せずに帰ることにするよ」

 そうして冗談めかしたように小さく笑って、エランは外に出かけて行った。

「………」

 このままでいいのだろうか。

 エランが戻って来てくれて嬉しいのに、素直に喜べない自分がいる。

 彼に負担を掛けているんじゃないかという疑惑は、それからのスレッタについて回った。




 スレッタはお菓子を食べていた。

 色とりどりのゼリーを、次々に口に入れていく。

 ぱくぱく、ぱくり。

 緑、ピンク、白、黄色、赤。

 法則も何もなく、ただ目についたモノを食べていく。

 やがてスレッタの他にゼリーを食べる人が現れた。

 細い指先、ミルクティーみたいな薄い褐色の肌、少しくせっ毛で長めの黒髪。

『美味しいですね!』

 スレッタが話しかけると、くりっとした大きな黒い目を丸くさせて。その人はにやりとイタズラっ子のように笑ってくれた。

『こんなので美味しいとか、スレッタってばほんと、×××だな~』

 よく分からない単語を混ぜながら、言葉とは裏腹にゼリーを食べる手は止まらない。

『もう!そんなこと言って!いっぱい食べてるじゃないですか!』

 プンプンと怒ってみせると、その人は『あははっ』と快活に笑ってみせた。そして『いいんだよ、あいつに全部用意させるから』と、ある方向を指さした。

 そちらを見ると、たくさんのゼリーを持った男の人が、やはり笑顔で立っていた。

 健康的な褐色肌に、短い黒髪。鋭い目だけど笑った顔は優しくて、どこか安心できるお兄さんだ。

『遠慮しないで。いっぱいあるから、ケンカしないで食べるっすよ!』

 そう言いながら、山のようにゼリーを追加してくれる。

 緑、ピンク、白、黄色、赤。

 食べても食べても無くならない。

 ぱくぱく、ぱくり。

 たくさん食べて、笑顔で食べて、これを誰かにも食べさせたくなる。

 共有するなら、エランがいい。

 そう言うと、2人も賛成してくれた。

 3人でゼリーを山ほど持って、えっちらおっちら。山を越え、谷を越え、宇宙を越えて、彼の元に届けに行く。

 やがて学園の第9戦術試験区域・岩石地帯にたどり着くと、彼はパイロットスーツを着て立っていた。

 背後にはエアリアルがいる。今まで操縦していたのだろう。

『エランさん!』

 2人を置いてそばに駆け寄り、色とりどりのゼリーを差し出す。

 ゼリーはいつの間にか、大きな大きなバースデーケーキになっていた。

『誕生日、おめで───』

 寿ぎの言葉を言い終わる前に。

『うそつき』

 エランがぽつりと呟いた。

『僕との約束、破ったんだ』

 彼はスレッタの背後を見ながら、驚き、傷ついたような顔をしていた。

 そこで初めて思い出した。彼との約束。スレッタを守るための約束を。

 エランのそばを離れない。

 人に話しかけず、また長く見つめない。

 人前で帽子や上着をとらず、女性らしい容姿を晒さない。

 すべて忘れて、破ってしまった。

 エランの背後にエアリアルがいるように、スレッタの背後には2人の青年がいる。その内のひとりは、エランが酷い目に合うきっかけになった人だ。

『エランさん、ごめんなさい』

 スレッタは謝った。約束を破ったこともそうだが、彼が嫌っているだろう青年を嫌いになれず、むしろ親近感を抱いていることを申し訳なく思った。

『エランさん』

 エランは背を向けて、エアリアルの方に歩き始める。

 このままじゃ追いつけなくなる。

 そう危惧したスレッタは追いすがろうとして。

『鬱陶しいよ、きみは』

 冷たい瞳で、拒絶された。

 バースデーケーキが地面に落ちていく。

 べちゃり。

 砂埃が舞い、クリームに張り付いて、もう二度と回収できなくなる。

『………』

 エランがエアリアルに乗ってどこかへ行ってしまった後も、スレッタは砂にまみれたバースデーケーキを見つめる事しか出来なかった。




 降り立った日本の空港は、どこか想像とは違っていた。

 そこかしこにモビルスーツが徘徊し、人々の顔もどこか緊張で強張っている。

「お嬢さん、ほら、先に行くぞ」

「は、はい。クヘイさん」

 クヘイの先導に従って、空港内を歩いていく。やがて空港のスタッフに案内された通路を歩き、いつの間にか外へと出てしまう。

 こんなものなのだろうか?

 知っている空港とは全然違う様子に目を白黒させていると、クヘイが得意げに笑っていた。

 釣られてスレッタも微かに笑う。よく分からないが、クヘイがすごい人なのだという事は分かった。

 そうして、半日ほどの旅が始まった。

 デコボコの道を、最初はバスを使って移動する。空港近くはまだ色々と建物が立っていたが、やがて閑散とした場所を走るようになった。

 無事な建物の方が少なくて、全体的にボロボロだ。道路の脇から草が生えていて、ごくまれにモビルスーツの姿が遠くから見える。

「………」

 その様子をジッと見る。

 子どもの頃から慣れ親しんだライブラリ作品とのあまりの違いに、気が沈み込むようだった。

「…これから行くところは、まだ整備されていて綺麗な所だ。安心しな」

「そ、そうなんですね。ありがとうございます」

 隣に座ったクヘイが話しかけてくれる。老人のアパートにお世話になっていた間も、よくこうやって落ち込むスレッタを慰めてくれた。

 笑顔を返しながらも、ちらりと後ろの座席に座っているエランの姿を盗み見る。

「………」

 彼は髪の毛が見えなくなるほど深く帽子を被り、頬杖をついて顔を隠しながら、きつい眼差しでモビルスーツの姿を見ていた。

 こちらからは遠目に見えても、あちらは数キロ先からでもピントを合わせることが出来る。

 スレッタも慌ててカツラの髪で顔を隠して、あまり窓の方を向かないように気を付けることにした。

 日本に来たことは、後悔していない。

 していないけれど…。スレッタが来たいと言わなければ、エランはこの場所に近づかったのだろう、そう思った。


 特に検問もされる事無くバスは走り続けて、小さな駅に到着した。

 ここから電車に揺られ、しばらくしたら乗り換えし、またバスに乗り…。そうして、ようやく目的地へ着くのだそうだ。

 大きな荷物を背負い直し、エランやクヘイと共に歩く。体力には自信があるし、毎日ストレッチもしていたのだが、やはり家に閉じこもっていると色々と鈍るらしい。少し息が上がってきた。

「お嬢さん、代わりに持つかい?」

 クヘイが気を使ってくれるが、首を振る。この中にはスレッタの宝物が詰まっている。

 エランが買ってくれた服、小物、装飾品。図鑑だって入っているし、何より…。

「大事な物なので、これくらいは自分で持ちます」

「そうか。そういや、アパートに荷物を取りに行った日も大事に持ってたなぁ」

 土の塊なんか持って何事かと思ったが、中に種が入っていたとはな。そう言ってクヘイが訳知り顔で頷いていると、様子を伺っていたエランが話しかけてきた。

「スカーレット、あんまり疲れたなら遠慮せずに言って。少しくらいの荷物ならまだ余裕はあるから」

「あ、ありがとうございます、エランさん」

「話を聞いていたのか?大事な物だから持っていたいって、お嬢さんは言ってただろ」

「とはいえ、体力には限界があるでしょう。行き先が同じなら、余裕がある人が荷物を多く持つほうが効率的だ。それにプラムの種は元々は僕が持っていました」

 だから問題はない、と言いたいらしい。

 エランらしい物言いに、スレッタは小さく笑う。それでもプラムの種を渡すつもりはなかった。

 種の数が減っていることに気付かれたくなかったのだ。

 スレッタは臆病になっていた。最初はいつか話そうと思っていたのに、ラウティーアムの事や、ダーオルンの事、プラムの種の所在の事。それらを知られて、失望されたくなかった。

 自分は嘘つきの卑怯者だ。

 エランに嫌われたくないあまり、エランが嫌いそうな悪い子になってしまっている。

 クヘイが優しく声を掛けてくれるが、その度に強がって、ますます心が曇っていくようだ。

 自分でもどうしようもない。

 スレッタは途方に暮れるあまり、誰でもいいから助けて欲しいと、情けなくもここには居ない誰かへと呼びかけていた。

 その声を正確に聞いている『誰か』がいるとは、思わずに。


 電車を乗り継ぎ、オンボロバスに乗り、スレッタはとうとう目的地へとたどり着いた。

 クヘイの持っている土地。小さい山で、レンガ道がとても可愛らしい。

 不思議な事に山自体が歓迎してくれているように思えて、スレッタはどこかホッとしていた。

 レンガ道を上りながら、クヘイが道についての話をしてくれる。自分たちで道の整備をした事、最後にレンガを敷き詰めた事、きちんと滑り止めを塗ってあるので雨の日も安心な事。

 最後に秋にかけて葉が落ちてくるので、掃除が必要な事を説明してくれた。

 それを聞いたエランは、はぁ…と憂鬱そうにため息を吐いた。掃除をするのはお前だと、クヘイに名指しされたからだろう。

 スレッタはすぐにでも『自分が代わりに掃除する』と言いたかったが、何故だか声が出せなかった。エランのため息が耳に響いて、まるで頭の芯が凍えたようになり身動きできなかったのだ。

「………」

 レンガ道の途中にある細い道を進み、立派な門をくぐり、大きいお庭を歩いていく。

 中心部分は踏み固められているが、端の部分はたくさんの植物が生えている。雑草の隙間から、何本かの木がすらりとした姿を覗かせていた。

「裏庭は元々は畑として使っていて、今は雑草だらけだが土を耕せばすぐに柔らかくなる。他にも果樹を植えてる場所もあるから、お嬢さんのプラムも好きな所に植えていいぞ」

「え」

 急に話を振られて、とっさに反応が出来なかった。

「せっかく芽が生えたんだ。いつまでも袋の中じゃ窮屈だろう。ここならそれなりに日も差すし、土地だって余ってる。遠慮せず使え」

「は、はい。ありがとうございます」

 答えながらスレッタは、プラムの種を地面に植える発想をしていなかった自分に気が付いた。

 パッケージされた袋の中で、ずっと土と一緒に眠っていた種。芽が生えて、大きくなり始めた種。

 種はいずれ成長し、大きな木になる。一生、自分の手のひらに収まってくれる存在ではないのだ。

「プラムの種が、芽吹いたの?」

 初耳だ、とエランが口を挟む。スレッタはドキリとしたが、「はい、実はそうなんです」と今度は何でもない風に返事をすることが出来た。

「じゃあ、ここへ来れたのは良かったのかもしれないね。旅をするのに植木鉢持参じゃ荷物になるし、重くて大変だ。……種が成長した後の事を考えてなかったな」

 エランがまいった、と言うように帽子に手をやっている。彼が自分と同じ失敗をするのは珍しい。

 けれど彼はすぐに具体的な問題点を指摘していた。確かにどんどん成長する植物を抱えて、自由な旅は難しい。

「………」

 種を持ち運ぶアイデアはエランのものだが、元々はスレッタがプラムの木を持っていきたいと言った事が始まりだ。

 自分の我が儘が原因で、彼はいずれは旅の邪魔になる荷物を抱え込んでしまっていた。

 そうして、今からこの土地に縛り付けられようとしている。

 どこにでも自由に行ける人が、自分のせいで。

 スレッタは罪悪感のあまり、心の中で悲鳴を上げた。ざぁっと血液が下に落ちたように、目の前が真っ暗になる。

 その後は呆然としながら体を動かした。

 クヘイが色々と気を使ってくれたのに、ショックのあまり気のない返事をしていたような気がする。随分と愛想がないと思われていた事だろう。

 その日の夜、掃除をしたばかりのベッドに倒れるように床に就いた。自分の情けなさにぐすんと一粒涙を流し、スレッタはゆっくりと夢の世界へ旅立っていく。

 そうして『誰か』は動き出した。




「………」

「…………」

「……………」

 目を開くと、とても白くてふわふわしたものに囲まれていた。

 雲。羊。それとも毛布?

 記憶の中のどれとも違うのに、子供のころから知っているような、とても安心できる場所だと思える。

 そこから声が響いてくる。

 ───すれった ばかなの?

 子どものように甲高く、呆れたような、怒ったような声が響いてくる。

 ───わがまま いったら いいのに

 何度も。

 ───どうして がまん するんだ

 なんども。

 ───あんなやつ こまらせちゃって いいんだよ?

 それはわたしに言い聞かせてくる。

『…でもね、今だって十分、エランさんを困らせてるんだよ』

 反論する。だって、我が儘なんて言ったらいけないし、困らせたら嫌われちゃうかもしれないから。

 ───じゅうぶんじゃ ないだろ? もっと こまらせてやれ!

 相手はますます呆れたような、怒ったような声になる。

『でも…』

 ───すれった

 乳白色の靄の中。

『でも…』

 ───んもう

 幼くて。

 ───しょうがないな

 とても無邪気で。

 ───さびしくて しかたないくせに

 まるで甘い悪魔のような。

 ───わがまま いえるように してあげるから

 そんな声が響いてくる。

 ───いっぱい いっぱい あまえてきなよ

 幼い頃から知っている、慣れ親しんだ声だった。




『───』

『────』

『─────』

 乳白色の霧が晴れる。

 後に残るのは、小さく、か弱く、何も出来ない───。


 ───ちいさいすれった ひさしぶりだね!


 大事な少女の記憶を呑み込んだ情報生命体は、彼女によく似た顔をほころばせて嬉しそうに笑った。






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