かすがい。(前) #早瀬ユウカ&天童アリス
──どうして、こんなことになってしまったのだろう。
時刻はすでに深夜零時過ぎ。私こと早瀬ユウカは困惑と動揺の最中にあった。
今、私は連邦捜査部シャーレの建物内の遊戯室にいた。床には何枚ものお布団がところせましと敷かれていて、私はそのうちの一枚の上にパジャマ姿で横になっていた。
そして、そんな私の隣には……
“あはは……今夜はよろしくね、ユウカ”
「せ、先生っ! そういう言い方はなんだかいやらしいです!」
不意打ち気味に囁かれた甘い言葉がいきなり耳元に飛び込んできて。思わず声が上ずってしまう。
心臓がばくばくする。顔が火照っているのを感じる。平静でいられるはずもない。
だって、私のすぐ傍、ほんの一メートルと離れていない距離には……他ならないシャーレの先生が寝そべっているんだから。
(なっ、ななななっ、なんで、どうして……本当にどうしてこうなったのよぉ!?)
困惑、動揺、それから頭を蕩かすような高揚感……言語化できない感情がごちゃまぜになって、ぐるぐると目が回りそうだった。
……え、これ、いいの!? だって私と先生はなんだかんだ言っても生徒と教師なわけで、まだ付き合ってすらいないのにこんなことするのは流石に一線超えてない!? こんなのが倫理的に許されちゃうの!?
べ、別に先生が相手だったら私もイヤってわけじゃないけど……って何考えてるの私ぃ!?
「えへへ! アリス、ユウカと先生といっしょに寝るの、とっても楽しみです!」
ふいに耳に届いた無邪気な声に、妄想に耽っていた私の意識は急速に現実へと引き戻される。
その幼げな声の主……1メートル弱の距離を空けて添い寝する私と先生の間にすっぽりと身を収めた、長い黒髪を持つ可愛らしい女の子──アリスちゃんは、普段と少しも変わらない純真な笑みを浮かべていた。
天童アリスちゃん。いつも天真爛漫な笑顔でみんなの心を和ませてくれる、私たちミレニアムのみんなのアイドルみたいな存在。
当然、私や先生だって彼女のことが大好きだ。それこそ彼女の一挙手一投足を自分の娘みたいな気持ちで見守っているくらいには。
だけど……私、アリスちゃん、先生と、川の字に並んで布団に横たわっている今の私たちの姿は、まるで本当に娘を寝かしつけている両親みたいで。
それってつまり、私と先生が……その、夫婦で、パパとママって、ことで。
(あああああ!? ま、待って待って無理! トラウマとかそういうの関係なしに、まだ心の準備ができてないんだってばっ!)
は、恥ずかしい! だって私と先生は今はまだそういう関係じゃないしっ!
そもそも段階いろいろすっ飛ばしていきなり子持ちだなんて、いくらなんでも急展開すぎるわよっ! まだ先生とキスだってしてないのに!
あああ、自分でも頭が混乱してヘンなこと考えてるって分かってる! いまさら情けないけど、今すぐ飛び起きてこの場から逃げ出してしまいたい!
……でも、それは無理なのだ。物理的に。
なぜなら──満面の笑みを浮かべるアリスちゃんは私と先生の手を片方ずつがっちりと握りしめていて、朝まで絶対離さないと言って聞いてくれないのだから。
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そもそも、どうしてこんなことになったのか。
事の始まりは……ほんの数時間前まで遡る。
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シャーレオフィスの休憩室。私はソファに腰掛け、無言のまま先生と見つめ合っていた。
傍から見ればロマンチックな光景に見えたかもしれないけど、その時の私にはそんな浮ついた気持ちを抱く余裕なんかなくて。
先生の手をぎゅっと握りしめたまま、息を吸って、吐いて……深く、呼吸を繰り返していた。
「五十四、五十五、五十六……」
傍らでは、トリニティ救護騎士団の鷲見セリナさんがストップウォッチを片手に時を数え続けている。
そう。これは──"あの日"から続く、私の男性恐怖症を克服するための治療の一環。
毎日ほんの少しだけ先生と直に触れ合うことで、少しずつ私の心を異性と触れ合うという刺激に慣らして、あの日の恐怖心を取り除いていく。そういうアプローチだ。
一時期はほとんど毎日のようにシャーレに通い詰めていたけど、事件直後と比べて私の精神状態もだいぶマシになってきたし、セミナーの会計としての仕事も放ったらかしにはできない。
"あの日"から数か月が過ぎた今では、シャーレに通う頻度も週に一、二回程度に落ち着いていた。
先生やセリナさんの協力もあって、私と先生が触れ合っていられる時間はほんの少しずつだけど伸びてきている。
それでも先生の手を握っていられるのはせいぜい二、三分くらいが限界で、私の男性恐怖症を劇的に改善するまでには至っていなかった。もどかしくはあるけど、こればかりは根気よく慣らしていくしかない。
──というのが昨日までの話。
今日に限っては、いつもとはちょっとだけ違っていて。
嫌悪感は、ある。だけど、いつもより全然耐えられる。
呼吸は、相変わらず荒い。それでも息ができなくなるほどじゃない。
寒気は、する。だからって、心の底から凍えて何も考えられなくなったりはしない。むしろ今は心がぽかぽかと温かった。
普段の治療よりも、全然調子が良い。
理由は分かってる。
先生の手を握っている方とは逆の手に、そして体中に感じる、暖かなぬくもり。心地よい安心感が私の全身を包み込んで、癒してくれている。
「五十七、五十八、五十九……六十!」
ストップウォッチの液晶画面を眺めていたセリナさんが、ぱあっと花のような笑顔を私へと向ける。
「やりましたねユウカさん! これで十五分間、ずっと先生と手をつないだままでいられました! 今までで一番の記録ですよ!」
「……うん。ありがとう、セリナさん!」
まるで自分のことのように喜んでくれるセリナさんを見ると、なんだか私まで嬉しくなってしまう。
……ミレニアムの生徒じゃないにも関わらず、セリナさんはこの数か月間、本当に親身になって私のことを気遣ってくれていた。
もちろん彼女にとっては救護騎士団としての仕事の一環でしかなかったのかもしれないけど、それでも今まで彼女にして貰ってきたことを思うと頭が上がらない。
そんな彼女の献身に少しでも報いることができて、本当に良かったって思う。
“本当にすごいよ! よく頑張ったね、ユウカ!”
そう嬉しそうに声を弾ませるのは、さっきまで私の手を握ってくれていた先生だ。
セリナさんだけじゃない。先生だって、"あの日"から今までずっと……本当にずっと、私のことを気づかってくれていた。
あんな目に遭った後も、私が自暴自棄にならずにここまでやってこれたのは、間違いなく先生のおかげで。
“ユウカがここまで立ち直ってくれて、本当に……本当に、よかった……ぐすっ、ううっ……”
「も、もう先生っ! 大人なんですから、何も泣くことなんてないじゃないですか!」
感極まって涙ぐんでしまう先生を慌てて宥める。まったくもう、この人は大袈裟なんだから。
でも……私だって思わず先生に抱き着いちゃいそうになってたから、人のことは言えない、かも。
じ、実際にやるのは恥ずかしいし! それに……流石にまだちょっと、そこまでのスキンシップは怖いっていうか……完全に心の傷が癒えたわけじゃないけど。
それでも、先生と触れ合うことにさえびくびく怯えていた今までと比べたら、本当に大きな進歩だって思う。
「それに、私がここまで来れたのは私一人だけの力じゃないから。……ありがとう、ノア。みんなも」
すぐ隣に座っていた親友のノアに……そして私の体のいたるところにぎゅうっとまとわりついていたゲーム開発部の後輩たちに、私は心からの感謝を込めて微笑んだ。
今日の「治療」の最中、ノアはずっと私の手を握ってくれていた。
ノアだけじゃなくて、モモイやミドリ、ユズ、アリスちゃん──ゲーム開発部のみんなだって、私の二の腕や背中、ふとももなんかに抱き着いて、私のことを励まし続けてくれていた。
触れ合った体温からみんなの気持ちが伝わってきて。みんながいてくれたから、私はいつもより安心できた。
……先生と手を繋いでも平気だって、大丈夫だって、そう心から思えたんだ。
「いいえ。私たちはほんの少しだけ力を貸しただけです。ユウカちゃんがここまで立ち直るれたのは、ユウカちゃん自身の頑張りの結果ですよ」
「えへへっ、やったねユウカ!」
私の二の腕に抱き着いたままモモイが無邪気に笑う。
ノアはといえばいつも通りの穏やかな口調だったけれど……その声色からは隠しきれないほどの喜びと安堵の色が伝わってきて。
ノアやみんなが今まで、どれだけ私のことを心配してくれていたのかを改めて実感する。
「よーしっ! それじゃあユウカが先生と手を繋げた記念! 今夜は一晩中シャーレでぱーっとお祝い会だー!」
「ちょ、ちょっと! いきなり何を言い出すのよモモイ!?」
しんみりとした空気を打ち破るようにモモイが元気な声を上げ、そのままとてとてとどこかへ走り去っていく。
と思いきや、今度は両手いっぱいに抱えきれないくらいのたくさんのお菓子やゲーム、パーティーグッズを抱えて戻ってきた。……まったく、どこに隠していたんだか。
「もう! 先生からも何とか言ってやってください!」
“……あはは。いいんじゃないかな、今日一日くらいなら”
「先生まで!?」
どうやら先生までモモイの思い付きに全力で乗っかるつもりらしい。ああもう、時々こういうことに全力で悪ノリする人だってこと忘れてた!
「だいたいもう夜も遅いし、このままシャーレに泊まって朝帰りなんていろいろと問題が……」
「大丈夫ですよ。明日は休日ですし、セミナーにはあらかじめ外泊届を出していますから。今夜一晩はシャーレに泊まっていっても差し支えありません。……ああ、もちろん先生にも予めお話は通してありましたよ?」
「何よその無駄な手回しの良さ!?」
ノアはくすくすと悪戯っぽく笑う。親友とはいえ、ノアのこういう如才のないところは時々怖くなる。
というか……さてはあなたたち、私に隠れてずっとこの時のために示し合わせていたわね!
「えへへ、いいじゃんいいじゃんー! ユウカだっていつまでも辛気臭いムードでいたくないでしょ? それよりもさ、ぱーっとみんなで遊んで賑やかにしてる方が楽しいし、ぜったいいつもの私達らしいよ!」
無邪気に笑うモモイを見ていると、なんだか毒気を抜かれてしまう。まあ……それはそう、かも。
モモイのくせに一理ある。けど、それはそれとして。
「……というかあなたたち、本当は私にかこつけてシャーレで遊びたいだけなんじゃないの?」
「てへへ、バレたか!」
「あ・な・た・はぁ!!!」
わざとらしくペロっと舌を出して笑うモモイ。
……なんだかムカついたので、背後からモモイの両こめかみに拳を押し当てて、ぐりぐりっとしてやる。
「うぎゃあああ!? 何するのさユウカっ!?」
「……そんなにお泊り会がやりたいんだったらちょうどいいわ。私も常々あなたたちの日頃の行いについては言いたいことがたっぷりあったし、この機会に全員、明日の朝までたっぷりお説教してやるんだから!」
「うえぇぇ!? そ、そんなのってないじゃんユウカのオニ! 冷酷な算術使いー!!」
「ああもうお姉ちゃんのバカ! だからユウカを怒らせるなって言ったのに……」
「うわーん! ユウカが魔王になってしまいました! 闇堕ちフラグ回避失敗です!」
「み、みんな、おちついてぇ……」
じたばたとオーバーに手を振り回しながら私の手から逃れようとするモモイだけど、もちろん逃がしてなんかあげない。
ミドリやアリスちゃんも釣られてわちゃわちゃと騒ぎ出すし、ユズは気まずそうにあわあわしている。そんな皆をノアと先生は微笑ましく見守っていて……
私たちにとってはありふれた、だけど私にとっては懐かしい、いつもの日常風景。
……本当は、もちろん分かってる。
この子たちが「ただシャーレで遊びたいだけ」ってだけの理由で、このお泊り会を計画したんじゃないってことくらい。
そして、私が分かってるってことをこの子たちだって分かってる。わざわざ口にしなくたって、それくらいには気心も知れている仲だもの。
だったらどうしてこんな茶番をやってるのかっていうと……さっきモモイが言ってた通り、あんまりしんみりした気分のままでいるのも私たちらしくないって思ったから。
この子たちがふざけて突拍子もないことをしでかして、私がそれを叱って。だけど、お互いに本気で相手のことが憎いわけじゃない。いつも通りのコントみたいなじゃれ合い。私たちなりのスキンシップ。
"あの日"からずっと、ゲーム開発部のみんなはこの子たちなりに私のことを気にかけてくれていた。
少しでも私を元気づけようと暇を見つけては遊びやゲームに誘ってくれたし、私が心細くないように一緒に添い寝してくれたことだってあった。
もちろん嬉しくはあったけど……この子たちにずっと気を遣わせてしまったことを申し訳なく思う気持ちも同時に感じていて。
だから、こんな風に何の気遣いも遠慮もなく、ただ純粋にこの子たちとおバカなことをしてじゃれ合うのなんて、ずいぶん久しぶりな気がして。
なんていうか──ようやく「いつもの私たち」に戻れたって思えたんだ。
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴
それからは、本当に楽しい時間だった。
シャーレの遊戯室を借り切って、みんなでパジャマに着替えて床に布団を敷いてのパジャマパーティー。
私とノア、モモイやミドリたちゲーム開発部、先生、それにセリナさんも交えて、いっしょにゲームをしたりお菓子を食べたり、めいっぱい遊んで。
途中からは「たまたま近くを通りかかった」なんて言うネル先輩やアスナ先輩も来てくれて。なんだかんだで一緒に対戦ゲームで盛り上がったりもして。
久しぶりに、みんなと心の底から笑い合って、「楽しいな」って思えた。
「ふわぁぁぁ~……うぅ、なんだか眠くなってきちゃった」
時計の針がそろそろ日付も変わりそうな時刻を示した頃。モモイが大きなあくびをして、ゴシゴシと目をこする。
奇しくもそれが、楽しい宴の終わりを告げる合図になった。
「……そうね。名残惜しいけど、もうそろそろ寝ましょうか。いくら明日がお休みだからって徹夜は体にも悪いしね」
「えー! やだー、もっと遊びたいー!」
「ワガママ言わないの。あなただって目がしょぼついてるじゃない。……それに、これからもこういうことは幾らでもできるんだから」
駄々をこねるモモイに諭すように口にする。モモイは不満げにしていたけど、最後には「はーい」って納得してくれたみたい。
それに、まだまだ夜は長い。このままみんなで枕を並べながら眠りにつくまで女子トークするのも楽しそうだし。
“あはは。それじゃあ私はそろそろお暇しようかな……”
ただ一人の例外は、この場で唯一の男性である先生だった。名残惜しいけれどこればっかりは仕方ない。年頃の女の子ばっかり集まった空間の中で、大人の男の人が一人きりっていうのも何かと気まずいだろうし。
何より……先生を信頼していないわけじゃないけど、流石にこのまま私たちと一緒に寝るっていうのも問題があるだろう。
……って、思ってたんだけど。
「ダメです、先生!」
そう言って先生を引き留めたのは誰あろう、アリスちゃんだった。アリスちゃんは先生の手をがっしりと掴んだまま、真剣な目を先生の顔へと向けていた。
“えっと、アリス……?”
「先生だけ仲間外れだなんて、そんなのはダメです! 先生もアリスたちといっしょに寝ましょう! パジャマでパーティーです!」
笑顔でとんでもないことを言い出すアリスちゃんに先生は目を丸くする。冷静でいられなかったのは私も同じだ。
「ま、待ってちょうだいアリスちゃん! その……私、そういうのはまだ……」
だって……まだ、心の準備ができてない。そんな覚悟なんて決まってない。
いくら先生と少しの間なら手を繋いでいられるようになったとはいえ、そこから一足飛びに添い寝なんてするのは、その……やっぱり、ちょっとだけ、怖い。
「はい、大丈夫ですユウカ! アリスに名案があります!」
それでもアリスちゃんの笑顔は少しも曇ることはなくって。
片手で先生の手を握ったまま、今度はもう片方の手で私の手を握って……戦々恐々とする私たちの前で、彼女は更なる爆弾発言をぶちかます。
「──アリス、ユウカと先生と一緒に寝ます! ユウカが先生のことが怖いなら、アリスが勇者としてユウカのことを守ってあげます! アリスが先生とユウカとずっと手を繋いで、朝まで絶対に離しません!」
「ちょ、ちょっとアリスちゃん!?」
キラキラとした純粋な瞳でそう言うアリスちゃんは、もう何を言っても引き下がってはくれなさそうで。
そんな彼女を前にして、私はひきつった笑みを浮かべるしかないのだった。
……本当、どうしてこうなっちゃったんだろ。
つづく!