地獄からの脱出RTA 9月9日/夜ー①

地獄からの脱出RTA 9月9日/夜ー①


「ほんとう良かったですね、糸師さん。そりゃリハビリとかこれからまた大変ですけど」

「そうね、ずっと眠ってたんだもの。でもほんとう良かったわ。息子さんたちもほんとうにずうっと…待っていたんだものね」

 ナースステーションでは消灯の時間になっても、数年ぶりに目を覚ました患者の話で持ち切りだった。病棟に務めて長い看護婦などは特に、見舞いに訪れていた兄弟の、まだ幼かった頃の姿を知っているだけに思いはひとしおだった。

「息子さん…上の、じゃなくて弟さんなんでしたっけ?あの黒髪の。お礼参り行ってお守り山のようにもらって来ちゃってましたね」

「ええ。大きいの首にかけて良いか聞かれたから、絡まると怖いから腕にしてあげてって私言ったもの」

 患者の眠りを妨げぬよう声量を落として話す声に、自然と笑みが滲む。

「あー…首は怖いですもんね。でも御礼言って回りたいって気持ちステキですよね。そういえば、事故の時の刑事さんにもお世話になったから連絡先知らないかって言ってましたよ」

「ああ…流石にそれはこっちじゃ無理ね…署のほうに伝言頼むぐらいしかできないわ」

異常なし、とパソコンにチェックが入る。

「はい。だから私も……あ。保険の人!保険会社の担当の人たまに来るから名刺の控えありましたよね。そっか明日そっちから調べて…よーし、今夜のうちにデータ探しておきますね」


「張り切るのはいいけど、仮眠はちゃんと取りなさいね」

 九月九日の夜はそんな苦笑とともに更けていく、優しい夜――――の、筈だった。



 ジリリリリリリリリリリ

 静寂を引き裂くように、夜の病院に鳴り響く大音響

「火事!?」

「いえ、消火栓の非常ベルは反応ありません!」

「火災報知じゃない、ナースコール…も違う、医療機器もグリーン…点滴の滴下とかこっちに制御来てないやつの故障かもしれないわね。すぐに向かうわ」

「わかりました。他の患者さんたちに声かけて回っておきます」「お願い」


 バタバタと、音の源へ向かった看護婦がたどり着いたのは、

「糸師さん!?」

 目を覚ましたばかりの患者の病室、明かりの無い暗い部屋。

 揉み合う気配と、ガシャンッ!と水の入った陶器の割れる音。足元に転がってきた、警報の『音源』は

(これは)

 看護婦は急いで病室の電気をつけた。浩々と廊下に漏れ出る明かりが大きなお守り袋を照らし出すが、それはそのままに室内へ駆け込む。

「先、生…!?」

 患者ともみ合いになっているのは、もう病棟を後にした筈の医師だった。その足元には割れた花瓶、踏みにじられたピンポンマムはこれが危急の事態だと高らかに知らせてくる。


「あ、ああ君か。いま妙なものを口に入れて、誤飲の可能性があるから止めていたんだ」

「え?は、はいすぐに処置を…」

 頭の中に浮かぶいくつもの疑問符を一度棚上げして、看護婦は患者に寄り添う。チラリと目を走らせた先、ナースコールはキャンセルされるよう設定されていた。


「……先生、こちらの処置は責任もって行いますので、先生はどうか他の患者さんに顔を見せて安心させてあげて下さい」

「っしかし」

「手術直後の方もいらっしゃいますから。お願いします」

 てい良く病室から医師を追い出した看護婦は、患者の口の中から出てきたものに眉をひそめた。それは防犯ブザーのピンだった…廊下でころがる守り袋の中の本体に挿せば、途端に病棟に静寂が戻った。



「…それって…」

 周囲の病室の患者を寝かしつけ、病棟そのものから医師を送り出し。そこでやっと交される声はどちらも覇気がなかった。

「ええ、いくつかのお守り袋をバラしてからホッチキスみたいなもので留めて、防犯ブザーを仕込んでいたみたいなのよ。…少なくともあの子は、それだけ糸師さんの身の危険を警戒していたことになるわ」

誰に対して、とは口に出せなかったがお互いに通じることがわかっていた。


「……。あの、」

ひとつ引っ掛かってたことがあって、と年若い看護婦は小さな声で言葉を紡ぐ。

「九月九日でしたよね、今日」

「?ええ」

「なんで目が覚めたこと、今日のうちに警察に知らせようとしなかったんでしょう」

「え…っと」

「患者さんの状態の安定を待たないと、っていうのはわかるんです。わかるんですけど…面会のタイミングはともかく先に知らせるんじゃないかなって。さっき調べたら、事故があったのも同じ九月九日だったんですよね?」

 その声は微かに震えていた。

「私バカだから、どんな犯罪が何年で時効とか知りません。けど、犯行からちょうど丸何年かの日に時効になるってことぐらいは知ってます」

「――っ」

 これまで深く信頼してきた医師への疑惑がドシリと胸に横たわったまま過ごす、長い長い夜の始まりだった。




 バタン、扉の閉じられる音に凛は身構えた。

 男が帰ってきたのだ。


 扉さえ閉めてしまえば、内側で多少大きな音を出そうと…泣き声や悲鳴を上げようと外にはほとんど漏れ聞こえない、ここは男のテリトリーの中だった。

 電話は男の持つ携帯電話を除けば、奥の書斎にあるFAXを兼ねた一台きり。その書斎と、いつも凛が兄の『映像』を見せつけられる隣のシアタールーム…卑猥なデータの収蔵されているそこは、どちらも窓のない造りでさも頑丈そうな鍵がかけられていた。

 証拠の持ち出しも通報も許さぬとばかりの、偏執的なまでの構造。

 凛たちを屋敷に引き取る際にインターホンもドアベルが鳴るだけの単純なものに付け直した男は、「事故の報せ以来、電話に出るのを怖がっているようなので」と近所の住人に説明して理解を得たらしい…得てしまえるだけのものを、男は持っていた。

 そう、男を腕の良い篤実な医師と慕い『先生』と呼ぶ近隣の善良な人々は、証言だけでは子供の訴えよりも男の言い分を信じるだろう。男の築いてきた声望は、凛や冴にとって檻に等しかった。



「…それでも、穴は開けられんだよ」


 小さく呟いた凛は、つかのま視線を木製のオーディオラックへ向けた。ラックの一番下、前板が格子状になっている大きめの引き出し。

 凜はその引き出しに入っていたスピーカーをバルコニーの隅へ放り出し、代わりにあるモノをしまい込んであった。

 凛はすぐにその視線を引き剝がすと、「出迎えるのは俺がいくから、兄ちゃんは台所の…包丁とか使えないように、内側から鍵かけといてよ」と冴を台所へ追いやる。

「持ち出されると危ないからさ。お願い、兄ちゃん」

 こてん、と子供のように首を傾げた冴がそれでも無表情なまま頷いて台所へ向かうのを確認して、凛は玄関へと向かった。



「おかえ」り、と言い終わる前に凛は左頬に平手打ちを食らって吹っ飛んだ。ガシャアン!と飾り棚のガラス戸が割れ、中にあった陶器の人形が音を立てて倒れる。

「あの細工は凛、おまえか」

 怒りを押し殺すような声に、凛は身を起こす。弾みでガシャン、と落ちた破片が床に砕けた。

「母さんに、母さんに何したの…?」

 凛は真っ直ぐに睨みつけて声を荒げた。

「母さんに何したんだ!?また一緒に、鎌倉のおうちで暮らせるって、ずっとずっと我慢してたのに!!」

「うるさい!!」

 ガッシャアン!!振り下ろされたのは、玄関に置いたままになっていた男のゴルフクラブだった。凛はすんでのところで転がって避けたため、犠牲になったのは飾り棚だ。

「うるさい…うるさいうるさい!そんな日は永遠に来ない、来やしない…来させるわけがないだろう!!」

 ガシャン、ガシャシャン、とタガが外れたように男は調度品を破壊する。凛が足止めするように押しやった椅子も、壁に吹っ飛ばされて崩れ落ちる。

 後ずさった凛を追うように、破壊の震源地はリビングに移動した。

「ずっと!」ドンッ「この家で暮らすんだ!」ガンッ「私と!」パリーン「永遠に!!」ガッシャーン!!!


 ハーッハーッハーッ、と荒い呼吸音がリビングに満ちる。


 そして男はスッと動きを止めて室内を見回した。

「うーん??なーんか気になるんだよなー…」


 凛の肩がピクリと揺れ、庇うように泳ぎかけた手のひらがグッと拳を握る。


「ここかな?この辺かな?」

 バサッバサバサッ!本棚から滝のように本が落とされる。凜は息を殺して、男の足がオーディオラックの前を通り過ぎるのを視界の端で窺っていた。

 そして

「あっここか!」

 男の手がオーディオラックの引き出しにかかる。

「みーつけた!」


「やめろ!!」

 組みついた凛を、男は容易く振り払う。ガチャン!と派手な音を立てて転がった凛の目の前で、男は引き出しから取り出したモノにゴルフクラブを思い切り振り下ろした。

 バキャン!とプラスチック特有の音を立てて壊れたその黒い物体から零れる、カセットテープの捩じ切れたテープに電子回路の残骸

「あ…」

 手を伸ばした凛を遮るように、男の足がテープを踏みにじる。

「残念だったねえ、凛」


「そういうのを子供の浅知恵って言うんだよ、一つ賢くなったね」

 優しい声音で告げられた言葉は、どこまでも残酷な響きを帯びていた。



 カチャ、と小さな音がして台所の扉が開かれる。

 そうして出てきた冴にかけられた「なあ冴、良い子のおまえはわかってくれるよな?」という、威圧の籠った猫なで声。

「……はい、わかってます」

「兄ちゃ?…ウグッ!!は…なせっ…」

 首を片手で絞めるように掴み上げられ、凜はもがく

「りーん、おまえも聞き分けような?大丈夫、邪魔なモノはちゃーんとおじさんが片付けてやるからな」

「と…さんと…か…さんは……」

「そうだね今度こそ、できるだけ早くアチラへ送ってしまうことにしようか。わたしたちがほんとうの家族になる為にね」

「…っ」

 ガタタン!!「ヒュッ…ゲホッゲホッ」床へ投げ出された凛のむせる姿に、男は悦に入った表情を浮かべる。



「……ここまで、か」

 凛の、涙の滲むような呟きが、小さく小さくこぼれた。そんな凛に、男は悠然と背を向ける。


 カーテンの縁から微かに覗く赤い光が、一つの終わりを告げているかのようだった。




地獄からの脱出RTA 9月9日/夜ー① 了


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