1334年3月 子鬼と菩薩

1334年3月 子鬼と菩薩


TSHパロ ※R15 ※公式NLあり ※尊直前提の憲直?

主要人物:直義・斯波孫次郎・関東庇番メンバー・鶴子ちゃん

~1334年3月 子鬼と菩薩~


1331年9月5日、何十年も前から発狂し、病の床についていた、当主の足利貞氏が、58歳で亡くなった。

そのしばらくあとに開かれたのは、その庶長子である、26歳の新当主の、家督相続祝いの宴だった。

その宴の主役は、正面に座す、新当主と、その隣にしとやかに座った北条氏の美しい正妻(赤橋登子)と、その膝に抱かれた1歳の嫡男(足利千寿王)だった。

そして、来賓の先頭には、正妻の11歳年上の兄であり、父がわりの、当時の鎌倉の名目上の執権の赤橋守時が、上機嫌に、相好をくずして、座っていた。たのもしい妹婿をえた、と安心する顔だった。そして、最愛の妹の将来、その安泰を疑ってもいない顔だった。

北条氏の分家のなかでも毛並みがよく、得宗家にぴたりとつくことで勢威を誇り、最大派閥の一味として、いままで生き延びている赤橋家の正妻をもつ、陽気でかがやかしい、新当主。

そして、この新当主は、父の死を見届けるか見届けないかのうちに、足利一門の大軍を率いて上洛し、さきの後醍醐のみかどがたてこもっていた、天然の要害である笠置山を、わずか2週間たらずで陥落させたのだ。(1331年9月の元弘の乱)

3代前の当主(足利頼氏)の没後、長らく停滞していた、足利一族の家運が、おおきな名声と武勲をえた新当主のもとで、上昇していくであろうことを、一門の誰もが疑っていなかった。

そして、足利一族の所領は、九州をのぞく、日の本の各地に散る。それらすべてを合わせれば、日の本の過半数の所領をもつ北条氏に次ぐほどだった。

むろん、北条氏も愚かではない。

最大の敵対勢力になりうるものの所領を、みすみす、1か所に集めさせるようなことはしない。それが、足利の飛び地だらけの所領の現状にあらわれていた。

その日は、多くの分家が、日の本の各地から、うちそろって、鎌倉の宗家の足利邸に集まり、宴に列席した。

そんななか、斯波氏は、分家として、随一の家格の高さを誇る。ゆえに、新当主の前に並ぶ一門衆の先頭に座していた。

(足利泰氏の長男 家氏が、斯波氏の祖。家氏の母は、北条家の分家の名越朝時(北条泰時の異母弟)の娘。得宗家になにかと敵対的な行動をとる名越家は、さいごまで、とうとう執権職をだすことはなかった。そして、父の泰氏が、北条 得宗家の正妻との間に三男の頼氏をもうけたことで、それまで嫡子だった家氏は、庶子となった。)

だが、まだ10歳になったばかりで、元服もしておらぬ斯波孫次郎(のちの家長)は、父の高経のうしろで、父とおない年である新当主に挨拶だけはしたものの、その後の宴に参加する資格は、ない。

そして、その夜のことを、孫次郎は、7年後に、奇(く)しくも、おなじ鎌倉の地で、死をむかえたその日まで、忘れたことはない。


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孫次郎は、宴の席にいる父と別れ、にぎやかなその場を立ち去った。

同年代の男子は、全国から集まった一門のなかにも数多くいたが、何年も前から、あれが足利の麒麟児(きりんじ。ずば抜けて才能のある少年、という意味)よ、とたたえられている、孫次郎の話あいてになるような、才気あふれたものは、ひとりとしていなかった。

退屈だ。飽きた。もう、ここに長居はしたくない。と、夜の闇のなか、秋の白い萩の花が群れ咲く、足利邸の広い庭先を、孫次郎は、ひとりでそぞろ歩く。

そして、いつの間にか、庭の奥へ踏み込み、ひっそりとした、まるで音のしない苑(えん)へと、いつしか、孫次郎は、足を踏み入れてしまっていた。

とおくに、小柄な、細い、白い人影がかすかにみえる。だが、おなごにしては背が高い。まわりに、供らしき者は、いなかった。

近づいた孫次郎の目にうつったのは、髪も結っていない、単衣(ひとえ)だけのすがただ。その目には、白い絹布がまかれている。だが、花にその白い顔を近づけ、そのかおりを楽しんでいたようだった。花に、つややかな黒髪がおちかかる。


こちらの気配にきづいたのか、あいてが、白い顔をあげる。

おいで、と、白い手が、孫次郎をさし招いた。

白い指が、孫次郎の、まだ少年らしいほそい肩に、顎先に、そっと、ふれる。それだけで、こちらの年齢がわかったようだった。


そのひとは、孫次郎に、しずかにほほ笑む。


「これは小鬼(こおに)。こどもの、鬼。なにゆえに、この修羅の世に、いできたったか」


それは、ほそいが、よくとおる、玲瓏な、玉のような声だった。そして、そのひとの体からは、たとえようもない芳香がした。苑にみちる、花のかおりとは、またちがう。

常の孫次郎に似ず、息をのんだ。あいてに、圧倒された。あの、かがやかしい、新当主の前ですら、怖気づくこともなかった、孫次郎が、だ。

その孫次郎の耳に、かすかな足音が響いた。おおきな猫科のけものを思わせるような、足どりだった。

ふりむいた孫次郎の目にうつったのは、きわめて秀麗な容貌をそなえた男だった。さきほどの宴の席で、新当主の、母方のいとこである、と紹介されていた、公家の男だ。

その足音だけで、目の前のそのひとは、だれがやってきたのか、わかったようだった。


いとこどの。と、そのひとは、男に、やさしくほほ笑む。


男は、そのひとの、その白い手を優雅にすくいとり、くちづける。

そして、孫次郎に目をやり、どなたのお許しで、奥深くに入ってきたのか。ことと、しだいによっては、許されませんぞ。孫次郎どの。と、かるく叱ってきた。

孫次郎は、(そのときはまだ少年だったこともあり)おもわず、むっとしたが、非は、迷い込んだこちらにある。また、元服前の自分が、ひとまわり年上の、身分や地位のあるらしいふたりにさからうことは得策ではない。と、すばやく判断し、その場にひざまずいた。

「お許しください。闇に方角をうしない、道に迷ってしまいました」

ならば、いまは見逃しましょう。こよいのことは、他言は無用に。そうそうに立ち去られるがよい。と、男は、しずかに促した。

その忠告に従い、その場を去ろうとした孫次郎だったが、ちらり、と振り向いたその目に、ふたりの姿がうつる。


さきほどのひとは、背の高い、秀麗な男の、正式な公家装束のひろい胸に、その白い頬をすりよせていた。

そのほそい肩を抱く男は、「いまは、殿がおられぬのだから、その布もおはずしになればよいものを」と、感情をみせない声で言ったが、そのひとは、かすかに微笑する。

ここにいない、殿、とよばれたものが、いとおしくてならぬ、という、慈愛にあふれたほほ笑みだった。

秋の天(そら)に棲む菩薩の微笑だ、と、どうしてか、孫次郎は、おもった。この世のものではないほほ笑みだ。


「なにゆえかはわからぬが、兄上のわがままなのだ。ききいれてさしあげねば」


そのあと、孫次郎は、馬の背中に揺られながら、割り当てられた宿舎に戻った。

その道中のさなか、さきほどの、夢かうつつか、それとも幻なのかわからぬできごとを、思い返した。


…なんだったのだろうか。さきほどのかたは。この世のものとはおもえなかった。

そして、あのなぞかけのようなことば。


たしか、あの秀麗な男を、いとこどの、と呼んでいなかったか。

くわえて、この鎌倉の、足利宗家の邸に住まいするもの。


それだけで、孫次郎の鋭敏な頭脳は、あいての正体を看破する。

では、あのかたが、いままで、公け(おおやけ)の場にほとんど出たことのない、先代当主の庶子の三男にして、新当主の同母弟なのか。


―――――――――


孫次郎が、親王将軍の執権として、鎌倉将軍府に下向してきた、そのひとにふたたび会ったのは、2年後の、1333年12月のことだった。

そして、年があけた、1334年1月。孫次郎は、そのひとに、はじめて、勝長寿院によばれた。

案内された一室では、上杉の若い(若くみえるだけ、とあとで知ったが)怜人たちが、政務に忙殺される、そのひとのこころを、やわらげ、なぐさめるために、楽を奏でていた。

妙(たえ)なる楽が鳴り響くなか、孫次郎は、まずは、両手をつき、斯波孫次郎にございます。と、尋常に挨拶した。

そのひとは、訴訟の案件を流れるようにさばきつつ、孫次郎に、しずかにほほ笑む。

「おまえは、足利一門の少年たちのなかでも、ひときわすぐれているときいた。して、おまえには、なにができるのか」

3年も前のことなのだ。それに、あのときは、目に、布をまかれていたのだから、ぼくのことを、覚えておられずとも、しかたない。と、どこかがっかりした孫次郎だったが、それでも、その下問にこたえた。

「ぼくは、弓馬の道は、ひととおりできますが、きわだってすぐれたものはありません。学問については、四書五経をたしなみますが、それよりも、魏武注の注釈を参考に、『孫子』(古代中国の軍学書)をよみこむほうを、このみます」

(『四書』とは『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書物。『五経』とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つの書物のこと)

(『魏武注孫子』とは、中国の『三国志』の激戦を戦い抜いた英雄の曹操が、自らの軍事思想をもとに『孫子』のテキストに注釈をいれたもの)

そのひとは、どこか、孫次郎に、興味をひかれたまなざしになった。

「それで、おまえは、その学問をもとに、なにをしたいのだ」

「足利の軍師になりたいとおもっています」

「それで、軍師になって、おまえは、どうするのだ」


昨年(1333年)の討幕戦では、まだ12歳だったため、初陣もならず、名をあげる機会にもめぐまれなかった孫次郎は、顔をあげ、あいての白い顔を、ひたとみすえた。

「ぼくは、ひとを、ひとの運命を、この掌(たなごごろ)に、にぎり、あやつりたい」

そのひとは、おもしろい。といい、かるく声をあげて笑った。鈴が鳴るような声だった。


あとからおもえば、絵に描いたような名軍師のすがたに、無邪気にあこがれているような孫次郎をみて、すでにいくさのなんたるかを知っていたはずのそのひとは、孫次郎の、ある意味での単純さが、おもわず、おかしくなったのだろう。


そのあと、孫次郎は、そのひとといくつかやりとりをかわした。

学問や文学だけではない。音楽、書法、囲碁についてもだった。

孫次郎が、どれだけのひろい興味をもっているか。その能力はいかほどか。幼いうちに、身につけるべき素養を、きちんと教え込まれているか。

それを、このひとから、ためされている、と孫次郎はおもった。むろん、孫次郎に、その方面で欠けたところがあろうはずもなかった。


だが、孫次郎の個性は、その型におさまりきらない。いわゆる、優等生の枠からはずれている。

規範におとなしく従うより、それを踏みやぶり、創造したいのだ。と、ことばにはできないものの、孫次郎はすでにそれを自覚していた。


いったん、話が終わったあと、そのひとは、白い手をあげた。怜人の奏でる楽が、ぴたりとやむ。

そして、政務を中断して、とつぜん立ち上がり、孫次郎に、白い手をさしのべる。あの、3年前の秋の夜のように。

「まいれ。庭を案内(あない)してやろう」

その指先からすら、芳香がただようあいての白い手に、孫次郎は、おのれの、少年の手をかさねる。


勝長寿院の庭は、梅の花が盛りだった。紅梅、白梅、蠟梅(ろうばい。黄色い花をつける梅のこと)。色とりどりの梅が、水仙が、香り高く咲き誇っていた。

いまだ鎌倉は、戦災でひどく荒廃していたが、上杉の菊慈童(きくじどう。周の穆王(ぼくおう)に愛されたが、菊の露を飲んで不老不死になったといわれる伝説の少年のこと)の庭師たちが手入れする、この苑(えん)だけは、夢まぼろしの世界のようだった。

「これはみごとな。ぼくは、こんなうつくしい苑をみたことがありません。まるで、修羅の界(かい)より、天上界へとまよいこんだようです」

感嘆した孫次郎に、そのひとは、かすかな微笑を、そのうすいくちびるにうかべた。

「…うつくしい、か。おまえには、この苑中(えんちゅう)に、この世にうごめく、鬼たちが、鬼のあるじが、みえぬか」

そのなぞかけのようなことばに、とまどった孫次郎に、そのひとは、そら、ごらん。と、やさしく、苑中の、木下闇(このしたやみ)を、花陰を、白い指で、さししめす。

だが、孫次郎がいくら目をこらしてみても、どこにも、なにも、あやしい影ひとつ、みあたらない。

そんな孫次郎に、そのひとは、冗談だ。なんという顔をするのか。と言い、しずかにほほ笑んだ。

あとからおもえば、それは、目にみえる、うつつのものをしか、みていない、みえていない、みようともしていない、孫次郎の若さ、いや、幼さを、いとおしむほほ笑みだった。


「それで、おまえの年齢(とし)はいくつになるのだったか」

やっと、なぞかけのような問答は終わったようだった。孫次郎は、ほっとした。

「13歳にあいなります」

「―――――まだ若い。おまえは、まだ、修羅のなんたるかを、しらぬ。なにが、まことの鬼たるかを、しらぬ」


そのことばを、透明なかなしみと、菩薩の慈愛をやどした、そのひとの白い顔を、生涯、孫次郎は、忘れることはなかった。そのことばの意味を、やっと理解できたのは、多くの仲間を失ったあとだったが。


それほどに、当時の孫次郎は、あまのじゃくで、ひとのこころをわかりもせず、おのれのこころもしらず、ひとを、その運命をもてあそび、おもしろがっているだけの、ただの、少年だったのだ。


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少年が退出したあと、うつくしい苑のなかで、ひとり立ち尽くす直義は、しずかにためいきをつく。

そして、優美だが獰猛なけものが、木下闇(このしたやみ)からぬけでるように、年上のいとこが、すがたをあらわし、声をかけてきた。

「昔、お会いになった、あの、麒麟児は、いかがですかな」

うすいくちびるに白い指をあて、しばらく考え込んだあと、直義は、こたえた。

「―――――あの少年は、若い。若すぎる。まだ、なにも、わかっていない」

だが、そんな年若い少年ですら、足利のために、北条氏の残党の乱をおさめるために、その才を生かし、役に立ってもらわなければならぬ。


直義は、男の、狩衣の大きな袖に包まれた。男が狩衣に薫きこめさせた沈香の香りが、直義をつつみこむ。

「なにもわかっていない、とは」

直義は、男の秀麗な顔をみあげる。

「あの少年は、修羅にあこがれるだけの、子鬼。ただの、無邪気なこどもだ」


男は、直義の白い手をすくいとり、おおきな手でもてあそび、その白い指さきに、優雅にくちづけた。

さくら色の爪が、男の口にふくまれ、その長い舌が、指の股にまで、ちろちろと這う。

「ですが、それでも、相州どのは、あの麒麟児を、お育てになるおつもりでしょう」と、指から口をはなした男は、直義の耳もとにささやく。


直義は、そっと、目をとじる。

「…そうだ。わたしが、この地位を退いたあとに、新しく親王将軍の執権となる義季(直義の妻、本光院の弟の渋川義季のこと)を、連署(副執権)として、支えてもらわねばならぬ」


親王将軍を戴いた、義弟(おとうと)と、あの麒麟児が、執権と連署として並びたち、東国の二柱(ふたはしら)の護り神となる。かれらが、手を携えて、甥の千寿王を支える。そして、かがやかしく強い兄が、その頂点に立ち、この日の本を統べる。


それが、直義の描く構想だった。


そのために、この北条氏の残党の乱を足かがりとして、義弟(おとうと)とあの少年の、名と実力を、関東一円の武士たちに知らしめねばならぬ。

だからこそ、あの、少年の智謀と奸智の才が、いま、必要なのだ。

ほんとうは、あの少年の、頭脳(あたま)ではなく、そのこころが、つくべき地位にみあうほど成熟するまで、何年でも、待ってやりたかった。

だが、迫るいくさが、それを許してくれない。

あのようなこどもに、ひとの運命を左右する、手にあまる力を、まだ、持たせたくないのに。


秀麗な男の唇が、直義の白い頬に、とざされたままのまぶたに、いくつもおちてきた。

そして、直義のうすいくちびるに、男のそれが、しずかに重ねられる。

直義は目をとじたまま、男の咥内に、ちいさな舌さきを、そっと、差し入れた。

そのちいさな舌は、男の長い舌にからめとられ、吸われる。

直義は、喉奥につたいおちてくる男の唾液をすすり、のみこんだ。兄とはちがう味だ、とおもう。


色とりどりの梅が咲き誇る苑中で、直義は、男に身をゆだね、そのなすがままにされながら、そのたくみな愛撫を、素直にうけいれた。


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そのひとの同母兄である、当主は、みやこにおり、逐一、その許しをえる必要はなくなったためか。または、孫次郎の才気をかってくださっているのか。

関東庇番集の寄騎(よりき)に加えられた孫次郎は、勝長寿院に、たびたび呼ばれるようになった。


そのひとは、公家の上杉の血をひくものらしく、みやこびとのうつくしさをそなえている。だが、みやこのもつ、爛熟や、腐敗とはまるで縁遠い。

すでに、二十もなかばをこえていたが、どこか少女めいた雰囲気をもつ、清廉な容貌だった。

たが、それにもまして、孫次郎が感心するのは、その聡明さだった。

衣通姫とは、このようなひとをいうのだろうか。

(そとおりひめ。絶世の美女で、艷色が衣を通して光り輝いたという皇女。同母兄と近親相姦の罪をおかし、さいごは、四国の伊予松山で、兄と心中したといわれる。『古事記』より)

しかし、衣通姫とはちがい、その衣を通してかがやくのは、色香ではなく、その才智だったが。

それが、そのひとと、ことばをかわすたびに、伝わってくる。

孫次郎は、はじめて、語るにたるあいてを、この世にみいだした。そのひとは、うてば響くような賢さをもっていた。そのひとと、話すのが、ほんとうにたのしみで、たまらなかった。実の父母にさえも、感じなかったほどに。


こまっしゃくれた口調で、法令の不備を突く孫次郎に、眠り込んだ若君をその胸に抱き、やさしくあやしていたそのひとは、よく気が付いた、孫次郎。と褒めてくれた。

ただ、それは、慣習(ならわし)として、あえて、そうしているのだよ、と、じっさいの判例をだして、説明してくれる。

それに、男らしい眉をよせ、執権どのに、ことばが過ぎないか。孫次郎。と、心配し、たしなめてきた一番組筆頭。

かたわらに、後家の美女を抱き寄せ、酒瓶にじかに口をつけながら、おうおう、またやっている、という目で、年のはなれた生意気な弟のように、孫次郎をみていた二番組筆頭。

それを、秀麗な公家の男が、脇息にもたれ、おだやかな微笑をうかべ、優雅に扇をあおいで見守る。

足利の分家でも、随一の家格を誇る斯波家の嫡男として育てられてきたものの、兄をもたない孫次郎にとって、うまれてはじめて得る、兄のような、仲間たち。


そして、孫次郎たちを、慈愛にみちたまなざしでみつめ、しずかにほほ笑むひと。

―――――仲間たちとともに、この命をかけて、お護りする、ただひとりのかた。


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そして、3月に入ったばかりのある日。勝長寿院によびだされた13歳の孫次郎は、すでに、慕わしくおもうようになった、そのひとの目の前にひざまずく。

「まもなく、鎌倉に、北条の残党の軍が、攻め入ってくる」

正式な執権として、その名のもと、そのひとに、しずかに、孫次郎は、命令をくだされる。

「おまえは、軍師として、かれらを、一網打尽にする策を練るように。復興の端緒についたばかりの、鎌倉の地を、けして、荒らさせるな。そして、さいごに、一番組筆頭(渋川義季)に、花をもたせてやるがよい」

やっと、ほんのこどもの日からの、夢を実現することができるのだ。血なまぐさい、絵図をえがき、ひとを、ひとの運命をあやつることで、それをこの世に現出させ、つくりあげるという夢を。

孫次郎は、高揚する感情のままに、夢をかなえてくれる機会を与えてくれた、そのひとに、こたえた。


1334年3月9日、北条氏の残党の本間氏・渋谷氏が、執権のひざ元である相模で決起した。

しかし、このことは、すでに、六番組筆頭(吉良満義)が動かす密偵に探知されていた。

吉良軍に、情報を操作され、釣りだされた、本間氏・渋谷氏の残党が、昼なお暗い、極楽寺切通しに殺到してきた。

その敵軍の真ん中めがけて、正面から、今川範満が乗る馬が、人馬一体となって一直線に駆け抜けた。馬の上から、槍が振られ、突きおろされる。その騎兵の異次元の速度に、敵は威圧され、隊列を乱し、崩れたった。

それでもふたたび、なんとか隊列をまとめあげ、正面に殺到するが、二番組筆頭(岩松経家)が率いる岩松軍に、先頭の隊を粉砕される。

形勢不利だ、とみた残党は、ひけ、ひけ、と後ろにしりぞこうとする。だが、入ってきた切通しの入り口には、すでに、五番組筆頭(石塔範家)が率いる、石塔軍が待ち構えていた。

五番組筆頭の理想のおなごたる、白拍子天女が前面に描かれた、数多くの持楯(もつたて)が、蟻の這い出る隙間もないほど、並べられる。

斬新な絵におもわずひるみ、足を止めるものの、それを乗り越えようとするものは、持楯の間から鋭く突きだされる槍に、倒れていく。

前に進むもならず、後ろにしりぞくもならず。

袋の鼠になった残党は、切通しの中心でひとかたまりになる。

その瞬間、断崖の上で、一番組筆頭(渋川義季)の、武人らしく大きな手が、一気にふりおろされる。

残党の頭上に、巨岩、太い丸太、矢の雨がいっせいにふりそそいだ。

残りの敵は、本陣をおいた聖福寺に、命からがら逃れ入ったが、態勢をととのえる余裕もなく、追撃してきた渋川軍に殲滅された。

それから間をおかず、五番組筆頭の「鶴子ちゃんはきれいずきだ。そうそうに取り片づけよ」という号令のもと、あとにのこった多くの遺体や武器は、とりまとめられた。白拍子天女の斬新な絵が描かれた持楯にのせられた遺体は、さいごは天女に抱かれるようにして、切通しから撤収される。切通しは、石塔軍によって、いっせいに、箒で掃き清められ、砂をまかれる。そこにあったはずの多くの血痕は、一刻後にはあとかたもなくなった。


結果として、本間・渋谷の残党勢は、鎌倉の中に、一歩も足を踏み入れることすらできずに、完敗したのだった。


あとは、鎌倉のなかにひそみ、もぐりこんだ、残党の生き残りを摘発するだけだ。

それには、執権の身をえさにして、彼らをおびきよせればよい。

それを、目を残酷にかがやかせ、提案した孫次郎に、そのひとは、とくに何の感情もその白い顔にうかべることなく、文書を決裁しつつ、「よかろう。ひとりも逃さぬように」と言っただけだった。

大声を出すこともなく、まして、目立つこともしたがらないひとだったが、その日は、それをこなし、囮の役割を、じゅうぶんすぎるほどに、はたしてくれた。

そのあとは、孫次郎にとって、あまりにも、かんたんなことだった。おさないこどもが、蝶の羽をむしるよりもだ。


本間氏と渋谷氏の乱で、13歳の孫次郎は、智謀と機転、奸智の酷薄さにとんだ名軍師ぶりをいかんなく発揮したのだった。

だが、その戦果にうぬぼれ、いくさを甘くみた孫次郎は、翌年(1335年)の『中先代の乱』で、だいじな、多くの仲間を死なせることになる。


ーーーーーーーーー


そして、1334年の、本間氏と渋谷氏の乱から、4年がすぎた。


はじめてお会いしたときの、しずかな微笑をたたえた、あのかたのことば。

「これは小鬼。こどもの、鬼。なにゆえに、この修羅の世に、いできたったか」


だが、かつての孫次郎。17歳になった、家長は、もはや、子鬼ではない。

いまの家長は、奥州総大将(のちの奥州管領の前身の職)にして、関東執事(のちの関東管領の前身の職)であった。


あの日々こそが、あまりに短くはあったが、なにものにもかえがたい、青春の日々。

血なまぐさくはあったが、人生で、いちばんかがやいていた日。


…ああ、あの日々は、鎌倉の海がみせる、魚の銀の鱗のように、なぜ、一日一日が、陽(ひ)にきらめいていたのだろうか。

なぜ、あのように、なにもかもが、あかるく、かがやいていたのだろうか。

いまとなっては、夢。だが、いかな財も、金縷玉衣(きんるぎょくい)もおよばぬ、日々であった。


そして、あのかたの、なぞかけのようなことば。

「―――――まだ若い。おまえは、まだ、修羅のなんたるかを、しらぬ。なにが、まことの鬼たるかを、しらぬ」


仏と修羅。


この、相反するふたつのこころが、ひとりの人間の中に、矛盾なく同居し、ひとつのものとして、在(あ)るのだ。と、あのかたは、言いたかったのだ。


―――――それをしり、修羅の界に身を投じるものこそが、まことの、鬼。


おわり。

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