黒崎姉妹奪還大作戦
〜轢殺上等・単車特攻(ぶっこみ)編〜喧嘩、とは。その問いを投げかけられたときの答えは、人により様々であった。本気の遊び、暇潰し、気分転換、厄介事、腕試し、その他諸々───一護の知る限り、その返答が明確に重なる人間は、少なくとも彼の周りにはいなかった。
喧嘩、とは。そう問われたら、一護は迷いなく対話と答えるようにしている。相手の意図も、喧嘩への考えも、信念の有無も、とりあえず殴り合えばなんとなしに伝わる。先輩から「不気味なもんやなぁ」などと評されたこの性質が、いつ頃から一護と共にあるかは定かでない。しかし、顔を突き合わせて問答を繰り返すよりかは、相手がその気になってさえしまえばこれがなにより手っ取り早い。教師に苦言を呈されることも少なくはないが、そうであったとしても一護は喧嘩が嫌いではなかった。
「一兄、なんで来たんだよ……!」
「お兄ちゃん……!」
だからこそ、あまりに度し難い。喧嘩相手の、暴力に訴えかけるだけの腕っ節すら持たない身内を人質に取るなどという悪辣は、一護の知る喧嘩とはかけ離れた純然たる脅迫だった。揃って悪意を隠しもしない下卑た笑みを浮かべる男の群の中、太い麻縄で雑に手首を縛り上げられた二人の少女が、片や今にも泣き出しそうなほどに目元を潤ませ、片や左頬を薄ら赤く腫らして一護を見つめている。
「……来てやったぞ。遊子と夏梨を放せ」
妹たちの前では一度たりとも出したことのない、怒りに満ちた低い声が廃工場に響く。割れた窓から差し込む夕時の赤い光が、一護が一歩、また一歩と前に出るに合わせて巻き上げられる土埃に跳ね返った。
「来たら解放してやる、なんて誰も言ってねえよ」
男らのうち、一際上背のある者が歩み出て嗤った。性根の悪さを滲ませるその顔に見覚えはない。恐らくはかつて殴り倒した有象無象のひとりであろうが、それにしても廃工場には凄まじい人数が集っていた。改造こそ見受けられども同じ制服を纏った連中は、目算だけでも五十前後はいるように思われる。同じ学校の人間から、こんなに恨みを買うようなことはあったろうか。そう疑念を抱きこそすれ、それはすぐに解決した。
「テメェにゃかわいいかわいい妹ちゃんが二人もいるんだもんな。それが怖い目に遭うとなりゃあ、来ねぇわけにはいかねぇもんなァ!?」
都合がよかったのだ。護らねばならない小さな家族という弱みが存在する一護は、脅して鬱憤晴らしに呼びつけるのに、少なくとも尸魂界高校(ソルコー)の腕利き共の中では最も扱いやすかったのだろう。クソ野郎が、とついた悪態は相手に聞こえていたらしい。男たちはやはり下卑てゲラゲラと笑うと、うち一人が夏梨の襟首を掴み、その顔を一護に向けて晒した。少女らしく未だふっくらした夏梨の頬は片側だけ赤く腫れて、一撃、振るわれた暴力の痕を残している。
「暴れんなよ。妹ちゃんの顔に傷残したくねぇだろ?」
───大人しくしてりゃあいずれ終わるさ、俺達が満足するまで精々堪えてろ。
最早これは喧嘩ですらなかった。人質を取り、抵抗できない相手にただ暴行を加えるだけのリンチだ。それでも一護は受け入れるしかない。大切な家族を護るため、覚悟を決めるほかになかったのだ。
どのくらい、時間が経ったろうか。
そも、これから先も素手の暴力だけで済むのだろうか。幾度拳が打ち込まれたか、幾度蹴り付けられたかはもうだいぶ前に数えるのを諦めた。今のところ歯が欠けていないのは、この地獄のような状況においてただひとつの奇跡だった。
口角も口の中も切れ、鼻腔からぼたぼたと流れる血すらそのままに、ぐらつく頭を根性と自責とだけでなんとか支えながら立つ一護に、男たちは躊躇を欠片も見せないまま暴力を振るい続けた。容赦などない。する理由がなかったからだ。人の壁にさえぎられ、妹たちが兄への暴行を目視することはほぼなかったが、人体を殴り付ける鈍い音だけは嫌でも二人の耳に届いていた。
「悲鳴のひとつもねえとつまんねーな」
誰かがぼやく。その言葉に呼応して幾人かがポケットを探ったり、工場の壁際に寄っていったりと各々動き始めた。携帯されていたナイフが、壁に立てかけられていた廃パイプや角材が、男たちの手におさまっていく。
命は、助かるだろうか。
バチン、とバタフライナイフが開かれる音を聞きながら、一護は細く息をついた。近付いてくるのは刃物を持った男。両脇に腕を入れるかたちで抱えあげられ身動ぎすらできなくされた一護を眺めて、男が口を開く。
「まァ、死んだらそん時は山にでも────」
それより先の言葉は紡がれなかった。まず、その声を大型バイクの爆音がかき消した。鼓膜を破る勢いで吹き上がるエンジン音に、一護と対面する男のみならず、廃工場にいる全員の意識が一瞬そちらに向かう。
そして皆が目視したのは、錆びて脆くなった工場の扉を前輪で破壊しながら男目掛けて一直線に突っ込んでくる白い車体。僅かに車体を浮かせて半ば飛来してきたバイクは男の目前でハンドルを切り、今度は後輪側でもって男を盛大にはじき飛ばした。
それと同時に、前輪を軸として大きく振り回される形となったシートから、僅かに小柄な一人の男が勢いのまま投げ飛ばされるようなかたちで遊子と夏梨を囲む人の群れに突っ込んでいく。あまりに突然の闖入者に唖然とする連中を、彼は手脚でもって薙ぎ倒し、二人を捉えていた男の腕目掛けて容赦のない爪先が叩き込まれた。みしっ、という音からするに恐らく骨に罅程度は入ったであろうが、衝撃に思わず手を離した男の顎にとどめとばかりに続けて掌底が打ち込まれ、そして痛みに顰められていた顔は気絶というかたちで表情をなくした。
遊子と夏梨の視界で翻ったのは見なれた兄のそれとは違う真っ白な制服と、それに並ぶほどに色の抜けた肌、そして真っ黒な髪だった。
「誰……? お兄ちゃんのおともだち……?」
不安に揺れる遊子の目が、肩越しに振り返る男の、感情を滲ませない碧色のそれとかち合う。男は言葉を返すでもなく首を横に振ると、仕草ひとつのついでとばかりに近場にいた二三人の鳩尾やら顎やらを殴り、あるいは蹴り付ける。そしてようやく二人に向き直り軽く屈むと、細い手首を縛り付けていた麻縄をどこぞから抜きはなったバタフライナイフですぱりと割いて、右腕に遊子を、左腕に夏梨を抱えあげた。
「下手に動くな、落ちる」
男は二人を安心させるでもなく宥めるでもなく、そう一言添えるだけだった。正味な話、二人とも揃って腰は抜けていた。なんといっても眼前で人が轢かれたし、殴り飛ばされたし、気を失ったのである。この短時間で理解するにはあまりに暴力の密度が高すぎた。抱えて逃げてもらうぶんにはありがたかったのだが───ふ、と息をついた夏梨の視界に、男の後頭部目掛けて角材を振りかぶる不良の姿が飛び込んできた。
「おい、後ろ!」
そんなことしか言えなかった。助けてくれたことに違いはない、だったら傷ついてほしくない。兄譲りの口の悪さと性根から飛び出した声に応えたのは、己を抱える男ではなく、先程のバイクの乗り手でもなく。
ヴォン、と二度目の爆音がする。それもまた、廃工場の外から。留め具から外れてひしゃげた鉄の塊と化した扉だったものを踏みつけて突っ込んできた二台目のバイクが、急ブレーキと共に今度は前輪で人を撥ねた。もはや何が起きているのかの把握すら困難な領域に片足を突っ込みつつある現場に、夏梨はもちろん、小さく震えていた遊子もぱちぱちとまばたきをして自分らを抱える男を、次いでバイクの運転手を見やった。
「こういう荒事は僕の専門外なんだが……まあ早く乗りなよ、ウルキオラ」
本人の言が通り、眼鏡をかけた色白で細身の男という暴力沙汰まみれの空間に似つかわしくない人物が、タンデムシートを顎でしゃくる。
ウルキオラと呼ばれた男はやはり言葉を返すことなく両腕に抱えた二人を見比べると、遊子を運転手の前に乗せ、己は夏梨を抱えたままシートに乗り込んだ。そして最後に一護へと目配せをして────彼の表情がほんの少し安堵に和らいだのを見届けると、ことは済んだとばかりに視線を切った。
法を完全に無視したノーヘル四人乗りのバイクがエンジンを吹かすや否や車体を傾け、後輪が鋭く滑ってターンする。保護したばかりの少女を早々に振り落としかねない勢いに、遊子の喉からは「きゃあ!」と甲高い悲鳴が上がり、夏梨は慌ててウルキオラの肩口にしがみついた。そのまま何人轢こうが今更構うかと言わんばかりの速度で、バイクは廃工場の出口へ驀進する。最初に突っ込んできた単車とその運転手、そして遊子と夏梨の大切な兄を置いたまま。
「待ってください! お兄ちゃんが!」
遊子が運転手を振り返りながら声を上げる。それでも速度が落ちる気配はなく、寧ろ逃げを打つために加速すらしていた。抱えられたままの夏梨もまた遠ざかる人集りに向けて、一兄、と叫ぶ。耳元で大声を上げられたことをさして気にもとめず、ウルキオラは静かに話しかけた。
「俺の役割はお前たち二人の奪還と保護だ、あちらは他の連中に任せておけ」
「他の連中って───」
夏梨が問いかけようとした矢先、またも廃工場から凄まじい音がした。がしゃん、ぱりん、と明らかに何かが盛大に壊れる音と、男たちの悲鳴。そしてそれに混じって聞こえる、「情けねぇな黒崎ィ!」という怒号、と言い切るには妙に喜色の滲む声。
急速に遠ざかる騒動の現場において、戦況は移り変わりつつあるようだった。
「あの、お兄ちゃんのおともだちじゃないなら、なんでこんな、」
放棄された大型建造物ばかりが並ぶ区域は先の廃工場から少しでも離れてしまえば静かなもので、未だ不安の色を滲ませつつも先よりかは落ち着きを取り戻しつつあった遊子が、後ろの男に声をかける。男はほんの一瞬、顔を上げきれていない遊子のつむじを眼鏡のレンズ越しに見下ろして、気だるげに言葉を返した。
「尸魂界高校の奴らが態々頭を下げて頼み込みに来てね。どうやら君たちの兄は他の誰にも言わずにここまで来ていたらしいから、大変な騒ぎだったよ」
まあ、僕らとしては恩を売るいい機会だ。そう付け加えて、男はバイクのスピードを幾らか緩める、背後から誰かが追いかけてくるような気配はない。
「……仲、良いわけじゃないんですよね?」
「少なくとも僕はね。黒崎一護を気に入ってるウチの莫迦が煩かったし、学園長も理事長もさっさと行けって頭の螺子が飛んだようなことを仰るものだから仕方なく、さ」
ハンドルを握るゆえあまり動かせない肩をわずかに竦めながらぼやく男の言葉に、夏梨がぎょっとして目をむいた。遊子も驚きはしていたが、先んじて口に出し問うたのは妹の方だった。
「ちょっ、と、待って。学校の偉い人がよそに不良けしかけてんの?」
当然の疑問である。上体をひねって男の方を振り向けば、風に煽られてセットが崩れたらしい薄桃の髪が夏梨の頬をはたく。男は悪びれる様など欠片も見せず、いけしゃあしゃあと言葉を返した。
「心外だな、僕と後ろの彼は不良じゃなく風紀委員だ、献身と奉仕の精神に溢れる健全な学生と呼んでもらいたいね。あちらに残ってるのは軒並み暴力に脳髄を支配された阿呆だけど」
「やっぱり不良じゃねーか! つーかノーヘル四人乗りかましてる時点で健全も風紀もクソもあるかよ!」
夏梨は今度こそ声を上げて突っ込んだ。頭のネジが飛んでるのはあんたらも同じだろ、と続けようとしたが流石にやめた。視界の端でウルキオラが、僅か、眉間に皺を寄せたからだ。耳元近くで騒ぎ立てた挙句に目の前のピンク頭とまとめてくさすのは失礼だろうと思ったのだが、
「頬を打たれたわりには叫ぶ元気があるようでなにより。元気ついでに歩いて帰るかい?」
「あたしらの保護も仕事の内だって言ってたろーが! なにしれっと放棄しようとしてんだ!」
この通り、『献身と奉仕の精神』などと宣っておきながらピンク頭が平然と職務を投げ出そうとするものだから、喉奥に引っ込めたつもりの大音声はすぐに枷を失った。
「か、夏梨ちゃん、ダメだよ。助けてくれたんだからあんまりひどいこと言っちゃ……たしかに法律破ってるしなんだか悪いこと考えてそうだけど……」
ヒートアップし始めた夏梨の勢いにおずおずと遊子が口を挟んだが、その言い回しこそ諭すようであれ初対面にかけるにしては失礼極まる内容が含まれていた。失礼とはいえ、内容は概ね発言に基づく感想そのものだったが。
「フォローにしては些か棘がありすぎないか? 妙なところで図太いあたり実兄に似てるな、君たちは。そう思うと急に腹が立ってきた、本当にこの辺で降ろすか」
「ザエルアポロ、そこまでにしておけ」
「なんだ、こんな小娘二人に好き勝手言われて腹のひとつも立たないのか?」
「俺はお前と違って与えられた任務を放棄する気はないし、お前ほど献身だの奉仕だのうそ寒いことを謳うつもりもないし、そもそも今のところ罵倒されているのはほぼお前だけだ。お前ひとりが的確に貶されたところで俺が立腹する理由がどこにある」
「あたしらよりずっとひでぇこと言うじゃん」
「ところで黒崎遊子。今ここで僕が思いっきり後輪を振り回したら後ろの奴らは車体から投げ出される可能性があるんだが、ちょっと試してみたいなと思ったりはしないかい?」
「しません……」
…………