幽明に跳ねる星

幽明に跳ねる星


おじいさま、と遠くから軽やかな鈴めいた声が聞こえて、伊織は顔を上げた。

「みつけたわ!」

廊下と部屋を隔てる障子に影が差し、つやつやとした黒髪をおかっぱに切りそろえた子どもが勢いよく障子戸を開け放った。

得意げな顔の向こう、廊下に面した庭に植えられた楓がゆるやかに赤みを帯びている。

「ああ、来たのか。息災であったか?」

「うん! おじいさまも元気だった?」

満面の笑みで胸へ飛びついてきた己の孫が不用意に触れないよう、机の上をさりげなく片づける。手慰みに彫っていた仏像はまだ輪郭をつけた程度だから、たとえ急に子どもが癇癪を起こして壊そうと問題はない。

とはいえ小刀だけはさっさと道具箱へとしまい込んでいると、子どもは膝の上に寝転び勝手に今日あったことを喋っていた。伊織の住まう屋敷へ来る前に、どうも野良犬にまとわりつかれたらしい。

「それでね、なでてあげたらおなかを見せてくれてね、もっとわしゃわしゃしようとしたらかあさまたちに来るのがおそいって怒られたの」

「そうか。儂のところに来る時は遅れても構わないと、おまえの母親と従者に言付ておこう。犬は可愛らしいからな」

「うん! おじいさまは飼ったりしないの?」

無邪気な子の目がきらきらと光っている。そこに少し、青みがかった色を見つけて伊織は知らず微笑んだ。己の、そして彼女の血は確かに先へと繋がっている。

「……そうだな。飼わんな。儂だけでは世話を十全にしきれないし、あれで犬と云う生き物は飼ってしまうとあれをしろこれをしろと煩いのだ」

へー、と子どもは生返事を寄越した。既に興味は過去ではなく、現在の伊織が片手を置いてさりげなく子どもの視線から遮っていた机上へと移っている。

「それなに?」

「ああ、像を彫っていた」

「ううん、ちがうの。そっちよ」

指差したものは伊織が先程まで手を入れていた木の固まりではなかった。子どもの目線が向かった先には兎の彫り物がひとつ。そして隣には小さな桐箱が置かれている。

兎は常良く工芸品で見るような香箱座りではなく、すっと背を伸ばしている姿を象っているのは子どもから見ても少し珍しかったらしい。単純化した丸い線ではなく、仏像の袈裟や裳、宝冠と同じように造形を、具体的にはふさふさとした毛までこまごま彫ったのは伊織自身でも作り終わった後にまあ凝りすぎだと思ったものだ。

「儂が彫った。箱は……見るか?」

「みせてくれるの? ええと、みせてくださいますか、おじいさま」

「……急に畏まったな」

「だって、それおじいさまがいつも持ちあるいているでしょう? おかあさまが云ってたもん。だいじなものだって」

よく見ている、と今は離れて暮らす彼女の母を思い、伊織は苦笑した。赤い紐をほどき、蓋を開ける。首を伸ばして中身を覗きこんだ子どもは「……白い……おぐし?」と呟いた。

紺地の絹の上に、まとめられた一房の白い髪が乗っている。秋の日を浴びてきらきらと光るそれは、透明感があって銀色にも見紛う。絹の糸だと言っても騙されてしまいそうだった。

「妻の髪だ。おまえにとっては祖母にあたるな」

「どんなひと?」

「……ふむ。そうだな」

記憶を手繰り寄せようとして、ふと机上に目をやった。鑢(やすり)をかけて白さを増し、手に馴染むなめらかな感触になった兎がじっと伊織を見ている。木の丸こい目玉としばし視線を交わして、伊織は穏やかに笑んだ。

「兎のような、人だったかな」

子どもはきょとんと目を丸める。同時に子どもを呼ぶ女の声がした。聞き覚えがある声であるから、おそらくここまで彼女を連れてきた乳母だろう。

「そら、呼んでいるぞ。あまり心配させてはいけないから、まずは姿を見せに行ってこい」

「ぶ~。まだおじいさまと遊ぶぅ……」

「慌てずとも爺はずっとここにいるから、ちゃんとやるべきことを終えてから来るのだ。いいな」

「はぁ~い……」

乳母の声が徐々に大きくなるのを知って、子どもは嫌々体を伊織の膝から起こした。ぱたぱたと裸足の足音が廊下を遠ざかっていって、伊織は先刻自分が開いた箱の縁を指で撫でる。もう少しと指先を伸ばして髪束に触れた。さらさらとした感触に普段開くことのない追憶が呼び覚まされる。

「兎、か。……我ながらうまく喩えられたと思うが、どうだろうか」

深き巣穴でじっと我が身の不幸を知らずに耐えるのも、その大きな瞳で想いを込めて見つめてくるのも、怒る時は無言で感情を乗せていた背中も、その様のひとつひとつを何に似ているかと問われれば、やはり己は兎であると答えるだろう。

もっともそれを当の本人に云ってみればそんな可愛らしいものには似ていないぞ、と謙遜するかもしれない。

その笑顔を、老いた伊織はもう思い出すことができない。

銀糸にも似た髪の一房を記憶の縁(よすが)にしても、思い出すのは茫漠とした輪郭のかつてあった出来事だけだ。

「月の光に儂を――俺を喩えたおまえであれば、もっと巧い物云いもあるかもしれん。俺は終ぞそういう機微はわからぬ男だったが、おまえは美しいものを殊更良く好んでいたからそういうことは得意だろう」

こんな男を月光なぞに喩えた理由は確かに聞いたはずだが、彼女が何を云ったかは思い出せなかった。

手元に残り手繰りよせられたのは、はっきりとした記憶ではなく、彼女は大層楽しげであった――その実感のみ。

伊織の生涯唯一の妻たる女が身罷ったのは、もう随分、干支を数えても足りない程の前のことだ。

妻を失った後も伊織は息災に生きた。仕えたお家を家老として滞りなく運営したのち宮本家の家督を恙無く息子に譲り、隠居の身として周囲の苦難を取り除けるよう暇さえあれば動いてきた。

そして、伸ばした髪や髭が残らず白く出ずるようになって暫く、体の至るところに不調が出てきたのだった。今の宮本家当主をはじめ、家の面々は壮健だった爺の体を案じ、やれ医者だの薬師だのと慌てていたが、そんなものはいらぬと跳ねのけたのは去年の春先であったと記憶している。

伊織としては、ようやくかと云う思いが強かった。

もはや己が現し世で成すべきことは全て成し終えた。

故に、心持ちは穏やかだった。

「師匠、いや、父もこのような気持ちであったのか。否、違うか。あの人は剣に生きた。霊厳洞でも暇さえ在れば剣を持とうとし、眠気などいらぬと気を吐いていた。……剣を置き、人の世に身を置いた俺では解らぬ境地だ」

それでもいいと今は思う。

剣の代わりに筆を、言葉と行動を持って戦った。

己は充分に生きた。やるべきと定めし物事は全てあるべき場所へ収めた。

だからだろうか、最近は手を動かしながらも意識を過去に向けることが多くなった。確かに在ったが既に失われたもの、忘れていたもの、手にも残らぬ記憶の欠片――そういったものを、思う。

すると気づくのだ。

身の裡に空隙がある。

心の一部分がすっぽりと抜け落ちて、虚ろが口を開けている。

気づかないでいたのは、単にその在り処を伊織が良く知っていて、故に見つける必要もないからであった。

「正雪、おまえに渡した心の一部分が、ここにはいないおまえの心を温める縁(よすが)であればいいと俺は思う」

彼女が傍にいた時は必然埋まり、いなくなったことで触れることさえ忘れていた空虚な孔が、最近少し痛む。


春の花咲く様を見て、それを殊の外喜んだ妹を思い出す。

夏の大地から立ち昇る熱に、ひたすらに剣を振った幼少の頃が陽炎として浮かぶ。

秋の夜空、虫の鳴く声に今は遠い街の明かりに集まる人々の喧騒を重ねる。

冬の空気に満ちた、きんとした冷えを纏う朝に凛と佇む妻の立ち姿を思い、誰もいない隣を探る。


胸を開けば、そこには記憶が降り積もっている。

歳を重ねるとは、忘れていくことだ。

けれど、全てを忘れる訳ではない。

思い返してみれば、そこには歳を経て角を失い、それでも輝いたままの思い出がいくつも見える。

己が一心に駆け抜けてきた道は険しくはあったが、けして悪くはなかったのだ。

いつのまにか日が動き、机上を日の光が一条差し込み照らしていた。彼女の遺した体の一欠片と己の手指をとろりと染める日溜まりに目を細め、老人は顔を上げる。

視線の先、刀掛には手入れをよく施した刀が二本置かれている。

ふと思い立ち、体に力を入れた。

最近はもう、思い立ってすぐ動くと云うことができない。目は霞み、耳は遠くなり、腰こそまだ曲がっていないが膝や節々が季節を問わず鈍く軋む。

それでも伊織は老境において穏やかに日々を過ごしていた。手慰みに彫る仏像はすべて人にくれてやってしまうから、手に残っているのは仏ではなく小さくか弱い生き物の形代がひとつと二振りの刀のみ。財産などすべて後継に譲ってしまった。

成すべきことを成した暁には疾く死ぬが候、ともどこぞで聞いたこともあったが、伊織はすべて流れに任せていた。命は徒に捨てるものではない。

何より、そんなことをすれば生きたくても生きられなかった彼女に顔向けなぞできまい。

痛む膝を曲げ、それから折り目正しく正座をすると刀を手に取って抜き放つ。抜き身の白刃をしばらく持てば鉄の重みに負けて震えだす腕に嘆息を一つ零し、目を閉じる。

頭の中でなら、刀は軽く、体は意のままに動く。武蔵の、師の拓いた型は最後まで極められなかったが、死んだ後ならもしやがあるのかもしれぬ。

「地獄の路はこの通りの老爺で歩くのか、仏の情けで多少は融通を利かせてくれるのか。貴殿、一体どちらだと思う」

振り向いて問うても兎はくるりとした目で伊織を見ているのみ。

近いうち、必ず来たる己の終焉を諸手で迎える用意は既に出来ていた。

死に際し、伊織は天も魔も、神も仏も呼ばうことはない。もうこの世に未練はない。

死んだ後、鬼に問うことはあるかもしれない。――ひとり、先に逝かせた彼女に幸福はあるかと。

是と応えあらば、己は笑ってこれまで生きた上での罪を閻魔の法廷にて裁かれよう。

そうでなければ、……そうでなければ。

「――やれやれ。未だ生きているのに死んだ後のことばかり気が向かうとは。儂も呆けたものだ」

賑やかに子どもたちの騒ぐ声がする。

徐々に近づいてくる孫の遠慮のない足音は仔馬の駆け足のようだ。せめて散らかった木屑くらいは片づけておかねばうっかり子どもが口に運んでしまうかもしれない。

苦笑と共に刀を鞘に収め、伊織は何事もなかったように机へと歩み寄った。

あとには外から伸びた日溜まりが変わらずゆるやかに、男が去った場所を温めている。


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