黄金樹外伝 -氷華の湖-
その事実に気がついたのは、いつだったのだろう
少なくとも、気がついた時には既にそれは当たり前の事実として受け入れていたのは確かだった
周囲の声、周りが大層に話す内容も自己にとっては何一つ大した事がない様に聞こえてしまう。話の内容を理解できている。その筈なのにその内容に驚きが無いばかりか「その程度」としてか認識できなかったのだ
一番古い記憶だと……ああ
幼少の頃、書物を開いて学びを得ている彼の後ろから見た時、その本の内容に大した事が書いていない様に思った事だったと思う
私は、天才と言うものだったらしいと
時刻は昼下がり。先程昼食を終えてた休日の一時に私は自室で本を読んでいた。外はよく晴れており、日差しが部屋を明るく照らしている。直射日光を避ける様にして座り読書に耽るのが最近の楽しみなのだ
読んでいる本はヴォルスング・サガーーー北欧に伝わる神話、英雄譚を綴った一冊である。兄がロンドンから帰ってきた時にお土産にと私にくれた本の中の一冊。海外で購入したものなので、当然日本語で書かれた本では無いが、私にとっては何も問題ではなかった
古い日本家屋にこうした英書が置かれるのは些か不似合いだが、どうせ誰に見られるものでも無いし、折角の兄からのプレゼントなのだ。私にとっては大事な物だし、英雄譚と言うお話は心が惹かれる物だ
周囲から天才、神童などと持て囃される私。赤の他人が集まる学校でも、血を分けた家族の人達、その親戚筋も何もかも、自分の周りの人達は自分を讃える現実。己にそれ程の素質があるのはもう今更だし、その称賛を浴びてもなお足りなほどの才覚がある己と言う存在
それ自体は今更過ぎて特にそれに何か思う事はないけれど、それ故だろうか。現実に、変わり映えのない周りと己に飽きてしまっていた
言うなれば、何度も何度も読み返した本の内容の様に、初めから終わりまでどんな展開になるのかがもう分かりきってしまって感動も何も無い。そんな感覚を私は覚えていた。何をしても周りより上手くやってしまう、出来てしまう。まるで初めからこうなる事が決まっていたかの様に
だから私にとって、現実では無い架空の神話は私にとっては都合のいい娯楽であった。私にですら到底叶わないだろう荒唐無稽な偉業、物語。魔術的には実在していたであろうとしても、物語の中の話は、私を強烈に惹き込んだ
兄からのプレゼントと言うこともあって、今の私はすっかり英雄単の虜だと言える
開け放した窓から風が入る。虫は結界に阻まれて入る事はないから遠慮なく開け放していられるから楽でいい
「……?」
本を読み耽る最中、屋敷の敷地内で感じ取れた魔力の乱れ。小さな物ではあるが、湖面に落ちた雫が広がる波紋の様に美しい魔力の流動が心地良く感覚を揺らす
場所は、庭園
思わず口角が上がってしまうのは仕方がない。この屋敷にいる魔術師は自身を含めて5人。その中で私を除いてこれ程細密なガラス工芸の様に丁寧で精巧な魔力操作を行える人物は一人しかいない
栞を挟む。本を閉じて棚に仕舞い、自室を後にする。手入れが行き届いているとは言え、それなり以上に古い家屋の廊下は所々軋みを上げる
階段を降りて庭園の方向へ向かう。魔力の波紋はそれこそ積み木細工を組み立てる様な繊細さを維持したまま魔術式を組み立てている。廊下を歩き、庭園を望む縁側へ辿り着く
視界に映るのは庭園の中心に立つ一人の男。男を中心に水が、まるで生きているかの様に渦を巻きながら揺らめいている
水の渦はやがて形を変えて徐々に不定形からはっきりとした輪郭をとり、螺旋を描きながら1匹の大蛇へ変わる。大蛇は透き通った水故に透き通った姿をしながらもガラス細工の様に鱗の一枚一枚までもがはっきりと浮き上がって見える程精密に形作られていた
「ーーー象形、流動……」
男は小さく呟く様に、自ら作り出した水の蟒蛇を操作する。形作られた蛇はそれだけでも精密な魔力操作にやって余人には真似できない程に生物の様にしなやかにうねる。蛇は螺旋を描きながらゆっくりと上へ昇って降るを繰り返す
「ーーー変容、昇華……」
やがて、螺旋描く水の大蛇。その体表面が震え出す。全身から振動を変わらられた様に細かい波紋が互いにぶつかり合い大きな波となって輪郭をぼかしてゆく。そして、次第にボヤけた輪郭から蛇の姿が二重にブレ始め……
「んーーー」
それは、二岐の蛇と形を変えた
「ーーー脈動、分岐」
それに留まらず、男の言葉に従う様に大蛇は二岐から、三岐、四岐へとその首の数が脱皮するかの如くに増えていく。やがてはついにその身体は、まるで神話の再現の様に8本の首をもたげた、八岐へとその姿を変貌させた
「ああ……」
その一部始終を眺めていた私の眼には、その様は生粋の職人が一意専心を以て作り上げた芸術の様に写っていた
ーーーああ、やっぱり
あの人は本当に凄い人
真っ直ぐに己自身と向き合い、ただ自分に出来ること、したい事に突き進んでいく。努力と才能の一つというのなら、彼もまたある種の天才と言えるのかもしれない。ただ真っ直ぐに努力を一つ一つ積み重ねていく
言葉にすると簡単だけれど、それを実践することのなんと難しい事か。特に、すぐ側に己の力を鼻で笑えてしまえる程に隔絶した才覚があっても尚、押し潰されず腐らずに、努力を惜しむ事なく積み上げ続けるなんて、誰にでもできる様な事じゃない
だって、ホラーーー
「こうして、こう……」
今目の前で彼が組み上げる術式。当然それは彼が一から手探りで組み上げた新しい物。当然、一から作るのと既に出来ている物を見てから作るのとでは難易度は違うけれど、それでもこうして、私の手には全く同じ、否
彼の作るものよりもさらに精度の高い術式として片手で組み上げられているのだから、笑ってしまうだろう
私、神水流凪の才能は彼ーーー神水流凌我のそれを遥かに置き去りにしていた
「ーーーっ」
彼ーーー凌我の作り上げた水の大蛇は魔力の綻びと共に構成する水ごと蒸発して消えていく。まだ魔術式の完成には至っていなかったが、術式の組み上げがまだ甘く、魔術回路への負荷が大きかったのが術式を中断した要因だろう。凌我、兄様の魔術回路では、アレ以上の構築には耐えられない
逆に、私の持つ魔術回路は、まだまだ余裕があった。これもまた厳然たる素質の差である。それでも、ああだからこそーーー
「ーーー兄様は飽きませんね」
私は貴方を尊敬します。愛おしく思うのです
「凪か」
私の声を聞いて振り返った兄。私と同じ濡羽色の髪と、私よりも深い藍色の瞳。顔立ちは似たもの同士で、髪型と背丈さえ寄せて仕舞えば瓜二つとなるだろう私達
私の、ただ一人の兄様
「あいも変わらず、兄様の発想には驚かされるばかりです」
手のひらでより小さく、精密な八岐の蛇を弄びながら縁側にて兄様へ声を掛ける
「何故当主の座を降りたのか、今でも不思議なくらい」
「俺達は魔術師だ。上に立つものはより高みに至るものが相応しい。俺よりも、お前の方が、な」
言いながら、兄様もまた縁側へと歩いてくる。ああ、いじらしい兄様。父上が逝去し、崩れかけた神水流の家を貴方が建て直すためにどれ程に奔走したのか。私は知っています
そして、今も尚何を為そうとしているのか、私は知っています
だからこそ、当主には兄様こそが相応しいと、そう思っていますのにーーー
「凪」
「はい、兄様」
「悪いな」
お前に、面倒を押し付けるかもしれない。そう口にした兄様だが、いいえ。そんなもの
「兄様と比べれば、こんなものは重さにすらなりません。ですけど……」
悪いと思っているのなら、多少はわがままを聞いてください。と、頭を兄様の肩に乗せる
「……仕方ない奴だ」
と、言いながらも兄様は私の髪を梳く様にして撫でてくれる
「おいおい、兄妹揃って仲睦まじいのはいいけど良いけどよ。客人の待遇酷すぎやしねえか?」
「勝手に入ってきて客人も何もあるかよ、顕景」
後ろから聞こえてきた声に、兄様の呆れた様な声。互いの声色は口調に反して互いに親しみのこもった、優しい音色
「顕景様。ようこそいらっしゃいました」
「凪ちゃん……歓迎の言葉はせめて兄にべったりした状態から離れて言ってくれ」
「フフ……失礼しました」
御神火顕景。神水流と同じ古い魔術師。兄様の幼馴染で竹馬の友とは兄様達のためにある様な、強い信頼と友情で結ばれたお二人
そして、私の婚約者
「では、私はお茶を汲んで来ますので……」
「頼む」
「ありがとう、凪ちゃん」
素早く立ち上がり、2人にお辞儀をして台所へと向かう。その背後で、楽しそうに談笑する2人の声が、私の耳をくすぐっていた
ああ、こんな日々が
私の兄様
兄様の友
私は願わずにはいられません
私の愛しい凪の日々。こんな日が続いてほしいと。そう、願うのです
一瞬、目を閉じる
広がるのは私の心、冷たい月夜の湖。何も無い凍てつく様な冷たい月明かりでも私の心が凍る事がない様に
こんな陽だまりの様な、暖かな日常が終わる事のない様にと