鴉の戦略
『スレッタ』
「あ、あわ……」
ぺたりと座り込んだスレッタはじりじりと後退りしようとして、背中に固いものが当たる感触に行き止まりを悟った。眼前には使い魔の鴉であるエランが、その黒い身体をずいと近付けて迫っている。エランの立派な翼はスレッタを閉じ込めるように壁に向かって広げられおり、どこにも逃げ場はない。
スレッタはもう観念し、それでもやはり大きな羞恥心や罪悪感に目をぎゅっと瞑り──エランの嘴にちゅう、と口付けた。
♦︎♦︎♦︎
「そこ、間違ってるよ。順番が逆だ」
「あっ、本当だ…すみませんエランさん、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
そっと伸ばされた手が触れ合ったのに、スレッタはぽっと顔を赤らめた。そしてちらりと隣を窺って、動揺した様子のない姿に内心で肩を落とす。つきりとした胸の痛みを振り払うように、スレッタは魔法薬作りに集中した。
その姿を、隣に立っている青年──スレッタの使い魔であるエランは、じっと見つめていた。
エランはスレッタの使い魔の鴉である。彼は契約者であるスレッタからの魔力によって、人間の姿をとることもできた。若草色の髪と緑色の瞳をした青年は、ここ最近は鴉の姿よりも見る機会が多くなっているくらいだった。理由は単純で、鴉の姿よりも人間の身体の方がスレッタの手伝いをしやすいのだ。
使い魔にそこまで心配と迷惑をかけていることを心苦しく思ったスレッタがいくら大丈夫だと言っても、エランは「君は目が離せないから」と人間体になることを主張する。人間の姿のエランに何度も助けられてきた身としてはそれ以上何も反論できず、魔力を補給する──のが最近のスレッタの日常であった。
しかし、その魔力の補給方法が大いに問題なのだ。
「スレッタ。補給をお願い」
「え」
不意に隣からかけられた言葉に、スレッタの動きが止まった。ぎくりと固まった手から滑り落ちた薬草を受け止めながら、エランはその唇を指差している。その瞳は何の揺らぎもなく、当たり前のことを当たり前に頼んでいるだけ、といった様子である。
「え、えっと…あとはもう仕上げだけですし、エランさんはもう鴉さんに戻っていただいて大丈夫なので……」
「その仕上げが大事なんじゃないか。最後までちゃんと手伝わせてほしい。……嫌?」
「う、うぅ……」
渋るスレッタを見つめるエランの瞳が悲しげに伏せられたのを見てしまえば、拒否などできるわけもない。スレッタは意を決して少し背伸びをして、エランの形の良い唇に自分のそれを重ね合わせた。
「ん……」
「ん、んぅ……」
背伸びした身体を支えるように腰に手を添えられて、スレッタはぴくりと震えた。思わず唇を離してしまいそうになったのを追いかけるように、エランの手がスレッタのうなじを撫でてそっと頭を固定する。開いた唇から魔力を流し込めば、エランはもっととねだるようにスレッタの舌を吸い上げた。
永遠にも思えるような数秒の後、ゆっくりと唇を離れていく。真っ赤になった顔を隠すように俯いた額に口付けするエランを、スレッタはやや恨めしげに睨んだ。
「……なんか、最近、補給の頻度が多くないですか?」
「そうかな」
「そうです!」
「……負担になってる?」
「そっ、そんなことはないです!けど……」
エランに嘘を吐くことができなくて、スレッタは力強く否定した。けれど本当のことは──あなたのことが好きだから、魔力補給のためにキスをするのが複雑なのだなんて、絶対に言えるわけがない。
じっとスレッタを見つめ続ける緑色の瞳に射抜かれて、心臓がどきりどきりと高鳴っていく。鴉の姿しか知らなかった頃から好きだった相手と、至近距離で触れて合っていることが恥ずかしくて仕方ない。
言葉の続きを待つようなエランの姿に、スレッタはもごもごと口の中で言葉を選んでから、小さく呟いた。
「ちゅ、ちゅーをするのは、恥ずかしい、です…」
口にした瞬間、かあっと全身が赤く染まるのが自分でも分かる。自分ばかり意識しているのが悲しい。自意識過剰だと思われたらどうしよう。エランさんに幻滅されたらどうしよう。次々と浮かび上がる不安にじわりと涙が滲んだ瞬間、エランの指がそれをそっと拭い取った。
「……キス以外の方法もあるけど」
「えっ…本当ですか!?ど、どんなのですか!?」
エランの言葉に、スレッタはばっと顔を上げた。エランとキスできなくなるのは正直に言って寂しいが、しかしこれは自分の片想いなのだ。好きでもない女に口付けられるのは、エランにとっても決して心地よいものではないだろう。それにキスをしなくなれば、もしかしてもしかすると、エランへの想いを、少しずつでも諦めることができるかもしれない。
新たな可能性に思わず前のめりになるスレッタに、エランは表情を変えず、けれど心なしかほんの少しだけ嬉しそうな声音で告げた。
「性交──人間の言葉で言うセックスをすれば、かなりの量の魔力が補給できると思う」
その言葉に、スレッタは一瞬考え込み──意味を理解して爆発するように真っ赤になり、そのままこてりとひっくり返った。
──スレッタは知らない。魔力補給にキスは本来必要ではないことも、使い魔がそれを知った上で黙っていることも、実はスレッタの想いは相手に筒抜けであり、決して逃さぬよう着々と外堀を埋められていることも──スレッタはまだ、全く知らないのである。