魯迅のガチ故郷を読解しながら現パロ個体が取りこぼした幸せを数える会
タイトルからは想像もつかないほど陰鬱な雰囲気に、ヤンおばさんのインパクト、退屈な午後の現代文。私たちが魯迅の「故郷」に抱く印象はそんなものなのではないでしょうか。少なくとも、魯迅の故郷と聞いて暖かい牧歌的文学を結びつける人はそういないでしょう。もしいるとしたら、勉強どころじゃない可哀そうな幼少時代を送り、身寄りもなく、故郷に対するコンプレックスだけが残った…そんな男くらいなのでは?
「育ち」の差は時に言語や距離よりも高く聳え立ち我々人間を分断します。魯迅は「故郷」で幼いころ一緒に遊んだ閏土が、時を経て身分の差と貧困により卑屈な他人になってしまったことをうら寂しい故郷の風景と重ねて表現しています。
そして、そんな壁は安アパートの隣同士にも存在するのです。遠くのタワーマンションを見ればいっそ諦めがつくでしょうに、近いぶん余計に残酷です。
現パロニセルフィは幼いころから過酷な環境を生き抜いてきたため、人との関わりを有限的なエネルギーの移動だと捉えています。人が複数存在すれば必ず「奪う側」と「奪われる側」に別れ、自分は必ず奪う側になってやるという価値観を持っています。一方で田舎で愛されて育ったあの子はありのまま同士、無限の優しさを増幅させることを「人間関係」だとしていました。そしてお互いに頭脳や経験の違いはあれど、その致命的な差に気づかなかったのです。
もう一つ気づいていないことがあります。それはお互いがお互いのことを早い段階で好きだったことです。ニセルフィは初めてあの子の部屋に入った時、「明るい」と感じましたが、それは日当たりではなくあの子が明るい雰囲気を作っていたからです。あの子がお盆に帰れないことを嘆いている時、ニセルフィはアイスを渡しましたが、おかしいと思いませんか?「甘くて酒のつまみにならない」と菓子折りに文句をつけていた男の冷蔵庫にアイスが入っていること自体。
実は、アイスの優しさは確かにあの子に伝わっていました。人への愛を最大限はっきりと解釈して受け取るあの子ですから、地方限定フレーバーのアイスから「都会にだっていいことはある」というメッセージを読み取り「なんて控えめな優しさを持つ人なんだろう」と感動しました。ただし惜しいところはニセルフィがただの親切でそういうことをする人間ではない、それに気づけなかったことです。そして彼は「ガキは甘いものが好き」という考えしかないので完全に深読みです。
アイスを食べながらあの子は思います「好きになってしまったな」
目の前には満月、すると当然「月が綺麗ですね」というフレーズが思い浮かびます。けれどそれはあまりに直球すぎるため言えませんでした。(ニセルフィは多分夏目漱石も知らない)そして代わりに伝書鳩にしたのが魯迅の「故郷」より「深藍色の大空にかかる月はまんまろの黄金色」です。
この、深藍色と黄金色という表現は文中で二回だけ出てきます。一回目は子供のころの閏土を思い出した時、二回目は幼い甥から希望を見た時。
これらの色は故郷では「希望」の象徴なのです。格差や住む場所や諸行無常に妨げられることのなく関わりあえる「希望」の。
それから未成年飲酒事件を通してあの子の恋慕の情は次第に増していきます。一方でニセルフィは変わらないあの子に対して焦っていきます。けれど、あの子は変わりゆくことを拒絶したわけではありません。むしろ変わりゆくことを覚悟して受け入れていましたし、早いうちからヒントに出していました。
魯迅の「故郷」では故郷から離れた主人公も、故郷に残した人々も、故郷自体もそれをとりまく世界も時代も何もかも変わっていきますし、変わるからこそ未来に希望を見るのです。
どうせ変わるなら、いつ、どう変わるかは自分で選びたいだろうし、都会での恋もあの子にとっては立派な変化でしたよ。
ニセルフィにあと少し知識があれば、傾聴力があれば、自信があれば、どれか一つさえあれば答えに辿り着けていました。
あの子は育ちと教養が違う人間は外国人以上に話が通じないことを知らなかったし、ニセルフィはあの子への嗜虐心の正体が愛だと気づけなかった。高い高い壁。「故郷」の主人公は幼いゆえの無邪気さで乗り越えました。では、大人はどうすればこのもどかしい障壁を壊せるのでしょう それは
セックスです
セックス鬼つええ!このままダルい格差ぜんぶブッ壊していこうぜ!
かわいくて愛してやまない推しのニセルフィくんが「おれには、学歴も教養も、いつでも帰れる「故郷」もねえ。だからこんな時、どうすりゃいいのか分かんねーんだよ。教えてくれよ、だれか。」と困っているので質問に答えます
このあと「ごべーん!!もう一回抱かせてくれェ~!!」していちゃらぶセッして快楽堕ちさせてあほエロに舵を切ればこのSSは里帰り同行全力謝罪ハッピーエンド島に辿り着けます