騎士と花嫁、そして獅子

騎士と花嫁、そして獅子



戦火に背を焼かれる、女の姿があった。


覚えている。

己を抱きしめる細腕の力強さを。灼熱の中で氷のように変じていく温もりを。

目の前の喪失をただ眺めることしかできない、己の無力さを。


蒼天のような瞳を向けて、女は言う。


『優しい子になりなさい、グエル』


それが最古の記憶。

母が遺した、たった一つの祝福(のろい)だった。






「ちょっと! 離してよ!!」


鋭い怒声が、休憩時間中の教室に響き渡った。

生徒達のざわめきがぴたりと収まり、その視線が一点に集まる。

「だから、こんなとこまで付き纏うなって言ってんの! まぐれでホルダーになったくらいで婚約者ヅラしないでくれる!?」

悲鳴のような叫びを上げて拒絶の言葉を並べるのは、長い銀髪を靡かせる小柄な少女だ。

ミオリネ・レンブラン。このアスティカシア高等専門学園を運営するベネリットグループ総裁の一人娘である。

そんな彼女と言い争っている相手は、白い制服を着た男だった。それはこの学園で最も強いパイロットを示す色であり、同時にミオリネの婚約者たる証でもある。つまりこの経営戦略科の所属ではないが、立場的にはこの場所にいても不思議ではない人間ということになる。

だから、その諍いも周りの生徒達にとっては別に珍しいものではないのだろう。彼ら彼女らは二人の様子を一瞥した後、何事もなかったかのように会話や作業を再開していた。触れてはいけない、関わってたまるか、と言わんばかりの僅かな悪意を含んだ暗黙の了解があった。

しかし。

「このトロフィー風情が、総裁の娘だからっていい気に……!」

自業自得ではあるがこんな人目の多い場所で婚約者に好き勝手なことを言われ、あげく己まで腫れ物のような扱いを受けて、きっとプライドを傷つけられでもしたのだろう。似合わない純白を纏った男はついに激昂した。

先の暴言を聞けば分かる通り、ミオリネはその見た目の儚げな印象に反して非常に強かな性格である。だが、物理的な力はまた別だ。

だから。


「おい」


誰もが目を向けないままに、その行く末を見守る中。

その声はひどく静かに、厳かなほど凛々しく響いた。

一人の青年だった。わずかに赤みがかった黒髪は獅子の鬣に似て、恵まれた体格を持ち、その肉体はパイロット科にいた方がよほど自然だと思えるほど鍛え上げられている。


彼の名はボブ・プロネ。

つい先日、この学園に来たばかりの編入生だ。


青年は今しがた教室に帰ってきたばかりのようで、渦中の二人からは少し離れた位置に立っていた。それが一歩踏み込めば双方に手が届く間合いだと気づいた人間は、恐らくこの場にはいないだろう。

「もうすぐ授業が始まる時間だろ。お前もそろそろ戻った方がいいんじゃないか?」

その表情には苛立ちも呆れも滲んでいない。あるのはただ、真っ直ぐに言葉を伝えようとする姿勢だけだった。

ホルダーの男はどこか気圧されたように後ずさると、それからようやく顔を顰めて言う。

「な、何だお前。正義の味方気取りかよ? はっ、それともこの女に惚れたか? こんな花嫁が欲しいならオレと決闘しろよ」

「いや……悪いが、俺はパイロット科じゃないんでな。決闘したくてもモビルスーツがないんだ」

「っ、この……」

男がさらに何か捲し立てようと口を開いた瞬間、スピーカーから予鈴が鳴り響く。これ以上は不利だと悟ったのか、言葉を飲み込んだホルダーの男は、大きめの舌打ちを捨て台詞代わりに大人しく踵を返した。

ピシャリと教室の扉が閉まった後、キッモ、とミオリネが嫌悪に溢れた容赦のない罵倒を小さく吐き捨てる。それから今度はクラスメイトの青年の方に鋭い視線を向けると、

「で、編入生。あんたは何のつもり?」

「何のつもりって……別に何でもないが。あのままだとあいつが手を上げそうだったから、その前に止めた方がいいだろうと思って」

「…………あっそう」

彼女はどこか毒気を抜かれたような表情でそう呟くと、そのまま自分の席に戻って行った。

一応助かったわ、とやや棘のある感謝を残して。





「これは……迷ったな」

放課後、ボブ・プロネは森の中にいた。

森と言っても人工的に作られたものだ。地図を見れば迷うようなことはないはずだが、いかんせんこの学園の敷地は広大すぎる。それに加えて当の地図である端末は真っ黒な画面のままうんともすんとも言わない。そういえば昨夜は充電するのを忘れていた気がする。

誰かに道を聞こうにも、周囲は全くと言っていいほど人通りがなかった。生態系も天候もコントロールされた自然に危険も何もないだろうと、そんな甘い考えで遊歩道を外れたのが失敗だったのだ。師匠にバレたら説教モノだな、と青年は現実逃避気味に思った。

だが、とりあえずは歩くしかない。いずれどこかには辿り着くだろうし、誰かと鉢合わせることもあるだろう。と草むらに足を踏み出した直後、

(……?)

木々のざわめきに紛れて、かすかに話し声のような音が耳に届く。方向にあたりをつけながら歩いていくと、やがて人工物のある開けた場所に出た。

(この声……ミオリネか?)

昼間、教室で騒ぎの中心になっていたクラスメイトの少女である。もしかしてまた絡まれてるのか、と思い近づくと、小さな建造物の入り口付近に立っている背の高い男の姿が目に入った。

あのホルダーではない。相手は確かにミオリネのようだが、どことなく穏やかな雰囲気からして言い争っているわけではなさそうだ。

ならば速やかに立ち去ろう、と傾き始めた作り物の陽光を感じながらボブは踵を返す。その直前、ちょうど階段を降りるところだった件の男と思いっきり目が合った。

反射的に逃げる動作に入りかけたが、よく考えたら逃げても仕方がない。迷わずこちらへ向かってくる、胡散臭さと人懐っこさが入り混じった笑みを浮かべた金髪の男と対峙する。

「やあ。君、こんなところでどうしたんだ?」

「あ、すみません。盗み聞きするつもりとかはなかったんですが……その、道に迷ってしまって」

「……もしかして、ミオリネが言ってた編入生の子かい? 名前は?」

やはりミオリネの知り合いのようだ。口ぶりからしてかなり親しいのかもしれない。なぜ分かったのだろうと思いながら、素直にまだ慣れない名乗りを上げると、やっぱりね、と頷きが返ってきた。

「俺はシャディク・ゼネリ。良ければ道案内しようか?」

「……いいんですか?」

「構わないよ。ミオリネを助けて貰った恩もあるし」

なぜ彼女を助けたことにこの人が恩を感じるのだろうか、と心中で首を傾げるボブだったが、それに触れるより前に案内が始まってしまった。



「それにしても、君がジェタークだったとは。あそこは優秀な経営科が少ないから寮長も喜んでるんじゃないか?」

「そうですかね。だといいんですが……」

先程見かけた建物が温室であることや、そこにはミオリネしか入れないこと、あとは端末が死んだときの対処法などを雑談代わりに教えてもらいながら、寮までの道を進む。

ちなみに本来の目的地は地球寮だったのだが、その案内をこの男に頼む訳にはいかなかった。彼の名は流石に知っている。御三家であるグラスレーの寮長だ。今の段階でアーシアンと繋がりがあることを知られるのは避けたい。

ところで、とボブは切り出した。

「シャディク先輩って、もしかしてミオリネのこと好きなんですか?」

「え゛っ」

「え?」

何やらかなり本気の動揺があった。

見れば、何があろうと揺らがないような強固な芯がくの字に折れ曲がって吹っ飛ばされた感じの顔をしていた。

「好きなんですね?」

ほとんど確信をもって念を押すように言うと、シャディクはあからさまにたじろいだ。

「いや、ちょっと待って欲しい。まず俺たち初対面だよね? ……俺そんなに分かりやすい?」

「まあ……」

共通の知り合いなので仕方がない部分はあるとはいえ、彼と会ってから現在に至るまでの会話内容のおよそ八割がミオリネに関することだったし、しかもその話題に触れるときだけ若干含みのある声音と語り方になるのだ。故郷の知り合い達から鈍感野郎という蔑称で親しまれたボブでも流石に察せるほどだった。

そして。

それならばこれだけは、この男に聞いておかなければならないと思った。


「じゃあ何で、ホルダーにならないんですか?」


不意に、横に並んで歩いていた足が止まる。

ボブもまた少し進んだ場所で立ち止まると、振り返って彼と正面から向き合った。

「今のホルダーのことは知っているんでしょう? 貴方はあいつに、自分の大切な人を任せてもいいと思ってるんですか?」

「…………そう、だね。確かに今のままじゃ、いずれはどこかで破綻するだろう。けどその時はその時だ。それに、期限まではまだ一年以上ある。ホルダーが変わる可能性だってあるだろう」

「……その間ずっと、あんたはミオリネが傷つくのを黙って見てるってことか」

「彼がミオリネに手を上げでもすれば、いくらホルダーでもただじゃ済まないさ」

瞳は真っ直ぐで、表情はとても嘘を吐いているようには見えない真剣さを帯びていた。いや、きっと全て事実ではあるのだろう。でもそれは、ただ事実というだけだ。

抑揚の薄い、感情を極限まで殺した声だけが、その言葉が本音ではないことを物語っていた。

「……この学園、意外と治安が悪いみたいなので。温室でしたっけ。あそこも安全とは言い難いんじゃないですかね。……ああ、あとはそうだ。そういえばあの男、多分ミオリネのことそういう目で見てますよ」

「な」

「この意味が分からないほど、あんたは馬鹿でも箱入りでもないだろ」

そう言って彼にまた背を向けると、ふと視界の端に見覚えのある建物が見えた。ジェターク寮だ。

ここまでで良いです、とシャディクに断りを入れる。


「君は」


そこから少し歩いたところで、背後から尋ねる声があった。

「君なら、どうする?」

もう一度、ボブは彼の方に向き直る。

迷いながらも、どこか覚悟を決めようとしているその目が、こちらを見据えていた。


「自分を信じて進むだけです。その結果、求めたものを失うことになったとしても。……それでも、何もしないまま失うよりはずっと良い」


そうか、と言って彼は笑みを浮かべた。


「……もしも君がパイロットだったら、俺に勝ち目はなかっただろうね」

「だとしても、俺では彼女を幸せにはできませんよ」





「双方、魂の代償をリーブラに」

立会人の青年は未だこの状況に対して困惑を隠せないようで、どこか訝しげな表情を浮かべていた。


決闘。

その戦いに懸けるものは原則、自由だ。それは金でも地位でも、名誉でも──あるいは、人間でも。

だからこそ、ミオリネはこのシステムを嫌悪した。

当然だ。人をモノのように扱うなんて唾棄すべき行いであるし、ましてや己自身が拒否権すらなくその対象にされるなど受け入れ難いに決まっている。


「……シャディク・ゼネリ。貴方はこの決闘に何を懸ける」

相手が懸けるもの、というか、シャディクに対する要求は『二度とミオリネに近寄らないこと』だった。なるほど、どうやらあの青年が言っていたことは正しかったらしい。そうでなければ、ここまで嫉妬に狂った視線が突き刺さる訳もない。

彼女のためを思えば、相手と同じような要求をするか、いっそ停学でも求めてしまった方がいいのだろう。だが、それを決めるのはシャディクではなくミオリネ自身だ。


──多くのしがらみに縛られながら、それでも気高さを失わない、燦然と輝く星のような光に憧れた。

だからこそ、彼女やモノや奴隷のように扱うなんて真似はできるはずもなかった。

……いや、違う。本当はそうやって、自分だけが特別だと思いたかっただけだ。

いつまでも許されていたい。嫌われたくない。対等な関係でありたい。そんな汚泥のようなぐちゃぐちゃの意地と馬鹿げたプライドを臆病の言い訳にして、自分の心にも彼女の痛みにもずっと向き合おうとしないままだった。

だけど。

それはもう、ここで終わりにしよう。


「──ミオリネの隣に立つ権利を」


花嫁を手に入れる? 馬鹿を言うな。

これは己自身の戦いだ。


その結果、彼女に憎まれたとしても構わない。弾除けくらいにはなれるはずだ。

それでもいい。

好きな人が、大切な人が、困っている。

理由はそれだけで充分だろう。


「アーレア・ヤクタ・エスト──決闘を承認する」


自分自身すら変えられない腰抜けに、世界なんて変えられるものか。



「……良かったのか?」

「何がよ。あんたがシャディクを唆したんでしょ」

「別に唆した訳じゃない。確かに背中を押す程度のことはしたかもしれないが……それでも、選択したのはあいつ自身だろ」

「そ。まあ、いいけど」

そう言ってのける声音はひどく平坦で。端末の画面を見つめる横顔には、何の感情も浮かんでいない。


けれどその瞳には、どこか星を夢見るような光が確かに宿っていた。




「ではこれより、決闘を執り行う。立会人はジェターク寮長、ラウダ・ジェタークが務める」


中継映像を映し出す巨大モニターを前に、決闘委員会のロビーに宣誓が響く。

先日はシャディクを煽りに煽っていたセセリア・ドートも、今は静かにその行く末を見守っている。ペイル寮代表のエラン・ケレスは相変わらずの無関心だが、いつもは一瞥すらしない画面に僅かながらも集中を割いているようだった。



グラスレー寮のとある一室でも、その中継を見守る少女達の姿があった。

「シャディク、踏み出したねえ。どういう心境の変化なのかな?」

「ついこの間まではヤマアラシだったのにな」

「でも、ヤマアラシのジレンマってウソらしいよ? 本当はちゃんと寄り添えるんだって」

「つーか、今のホルダーがクソすぎんだよ。シャディク以外の御三家もロクにやる気ねーし」

「……だが、まあ。シャディクの迷いは晴れたらしい。どちらに転んでも悪いようにはならないだろう」

彼女達はシャディク・ゼネリを旗印として、革命を成すために集まった同志だ。けれど同時に、同じ場所で共に育った兄妹でもあり、そして何より友でもあった。

ならば、今だけは。ただの友として、素直に彼の決意と恋を祝福しよう。



「──両者、向顔」


そして、決闘が始まる。

根回しも小細工もない、正真正銘の真っ向勝負が。


『勝敗はモビルスーツの性能のみで決まらず』

『操縦者の技のみで決まらず』


『『ただ、結果のみが真実!!』』



「──決心解放(フィックス・リリース)」



決着まで、そう長い時間はかからなかった。

それは衆目を集めるような派手さもなく、名試合として語り継がれるような巧さもない。一人は勝利とともに不安と喜びを噛み締め、一人は敗北に嘆き失意に叫ぶだけの、そんな結末があるだけの戦いで。


けれど、それは。

初めて愛を知った男がようやく踏み出した、世界を変える確かな一歩だった。





地球寮が置かれている地区の一角、学園による監視の目が届かない日陰に、その青年はいた。

「ああ、問題ないよ。あとは……そうだな、デリング・レンブランの娘とグラスレーの寮長にも接触した。今はちょうどホルダー戦をやっていて……え? いや、俺は特に何もしてないんだが……ああ、ホルダーは確実に変わると思うよ。何で笑ってるんだ? というかさっきからジャリルあたりの爆笑する声が後ろから聞こえるんだが気のせいか? まあいい、次の連絡は一月後だな。了解した」

通信を終えた彼は、腰掛けていた廃材から立ち上がると、隣に立っていた少女に持っていた端末を渡す。

「ニカ、助かった。それと合流するのが遅くなってすまなかったな」

「大丈夫だよ。いろいろと噂は聞いてたし、グエルのことだから人助けでもしてたんだろうなって思ってたし。フォルドの人達も分かってたから連絡しなかったんじゃない?」

「? どういうことだ? あと噂って何だよ」

「あはは、相変わらず自覚ないんだねえ」


グエル。

それがボブ・プロネと名乗る青年の、本来の名だった。


彼は地球の反スペーシアン組織『フォルドの夜明け』に所属するアーシアンでもある。連絡係であるニカと同じ、非正規の裏口からこの学園に送り込まれた人間だ。

「学園はどう? 夢、見つかりそう?」

「……そうだな。確かにここでなら、何か見つけられそうな気がするよ」

「そっか」

ニカ自身はフォルドの構成員ではないが、グエルとは地球にいた頃からの友人だった。同じ場所で過ごした時間は短いけれど、彼のことはそれなりに知っている。何を目指して進むべきか、理想と現実の間で迷い続けていることも。

そして。だからこそ、ニカは薄々ながらに察していた。なぜ大人達が彼をアスティカシアに派遣したのか、その本当の理由と目的を。

グエルには人に好かれる才がある。

どこまでも真っ直ぐなその在り方に、その強い信念と善性に、希望を見出した者は少なくないということだろう。ニカもその一人だった。


「それじゃあ、また」

「ああ。お前も頑張れよ」



地球と宇宙の架け橋になる。

そんな夢物語の理想に、あるいは本当に届くかもしれない光を、いつか夜明けの空に見た。




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