食虫植物

食虫植物




 

 スレッタ・マーキュリーはソワソワしていた。講義の教室変更のお知らせを見落としたり、実習ではデミトレーナーの脚を踏み外して盛大にずっこけてしまったり、ミオリネとしていた堆肥用の家畜糞尿を運ぶ約束の時間に遅れかけたりと、普段の彼女ならしないであろう凡ミスが続いていた。

「あんた、最近気が抜けてない?しっかりしないと、また追試になるわよ。」

 ミオリネがジョウロで頭をこづいても、頼りない笑顔で「えへへ、すみません。」としか言わない。

 スレッタが落ち着かないのはこれが初めてではない。一定周期で彼女は何かを心待ちにしているような、ふわふわしている状態になる。

「スレッタ、もしかしてアンタってオメガだったりする?」

 「い、いえっ!そ、そういうわけでは...」

「そうよね。答えづらい質問してごめん。でも、たとえアンタがオメガでも、私は全然気にしないから。」


 この世界には男性・女性の他に3種類の性がある。

 1つ目のアルファは才能や容姿に恵まれるタイプである。世の中で活躍する著名人の多くは、このタイプだといわれている。

 2つ目のベータは、人口比が1番高い性別であり、特徴といった特徴はない。俗に凡庸といわれるが、努力次第ではアルファに負けず劣らずの活躍をする者もいる。

 3つ目のオメガは、他の性別にはない「ヒート」という発情期がある。ヒート期間になると、オメガの身体は熱くなり周囲にフェロモンを発する。フェロモンに当てられた者はオメガに夢中になり、あげくの果てには相手が身籠るまで性行為をしてしまう。ヒート期間中は、個人差はあるが、動くのが億劫になる者も少なくない。さらに、オメガは男女の境なく妊娠することができるので、他の性から被差別的な扱いを受けることもある。

 これらの性差は見た目のみで判断することが難しいのもあり、自ら口外することはあまりない。

 


 スレッタはアルファ性である。なのでヒートは起きない。

 スレッタが落ち着かないのは、別の原因がある。

 温室でトマトに水やりをしている途中で、ぷるるとスレッタの生徒手帳のアラームが鳴る。

「あ、ミオリネさん。すみません、そろそろ時間なので行きますね。」

「分かった。勉強教えてもらうんだから、エランの前でも腑抜けちゃダメよ。」

「はい!」

  スレッタは手際よく道具を片付け、ペイル寮のエランの自室へ向かった。


「エランさん、失礼します。」

  コンコンコンとドアを叩くと、入ってと返事がした。ボタンを押してドアを開けると、心地よくて甘い香りが充満していた。

「…わぁ。」

  こくんとスレッタの喉がなる。近づいてくる歩調、冷ややかなようで真っ直ぐにみつめてくる視線、吐息が漏れる唇、一つ一つの動作から目が離せない。

「もう少ししたら定期考査だね。みっちり教えるから。」

   促されるまま、スレッタはイスに座った。机の側には頭が痛くなるほどの大量の参考書が山積みになっている。いつもならゲンナリしそうになるが、今日のスレッタは燃えていた。

「目標を達成できたら、ご褒美をあげるから。」

「はい。よろしくお願いします。」


  スレッタ・マーキュリーのパートナーであるエラン・ケレスは、オメガである。


 スレッタにとってエランは、独房で初めて会った時から、ある意味特別な存在であった。返事や表情は端的で素っ気ない。けれども、部屋に入ってからお弁当を渡すまでの仕草は優しくて安心した。警戒して吃ったり気持ちが昂ぶって急に泣いても、スレッタを咎めたり変に励ましたりもしない。さらに、「君のこと、もっと知りたい。」と真摯にみつめてきた。その眼差しが、スレッタの心にすとんと刺さった。

 取調べが終わり学園に戻ってからも、エランとの交流は何かしらあった。ぽつりぽつりと交わされる会話から、エランのことを知っていく。決闘委員会の一員であること。ペイル寮の筆頭であるためか、会社の用事で休むことが多いこと。休み時間はたまに図書室へ向かうこと。エランについて知るたびに「もっと、もっと」と欲が溢れてきてしまう。好きな食べ物、好きな色。休日は何をしているのか、決闘の作戦はどのようにたてているのか。エランのすべてが知りたい。外側だけでなく、内面の奥深くまで。


 スレッタがエランの性別に気づいたのは偶然だった。

 ある日、図書室で宿題のレポートに必要な資料を探していたときに、エランが声をかけてくれた。

「何か、困ってる?」

「あの、この本が見つからなくて……。」

「それなら、右奥から3番目の書架だね。」

  エランが生徒手帳に表示された本の検索結果を覗き込んだ時、スレッタはふと不思議な気持ちになった。いつもに比べてやや赤みのさすエランの首筋が、熟れたトマトのようで齧り付いてみたくなった。きめ細やかな肌をかぷりと口にしたら、どんな味がするのだろうか。

「スレッタ・マーキュリー?」

  「は、はいぃぃ!」

   せっかく手伝ってくれるのに、なんて失礼なことを考えているのだろう。スレッタはかぶりを振って返事をした。

「図書室では大声を出さないで。この課題なら、そっちの本も参考になるけど…」

  エランが2冊、3冊と本を薦めてスレッタに手渡す。一瞬しか触れ合わないはずの手から、じんわりと心地良い温かさを感じる。

「ありがとうございます、エランさん。」

「レポート、頑張って。」

 それじゃ、と手短に挨拶をしてエランは足早に離れていった。

 もう少し、一緒にいたかったなぁ。けど、なんで美味しそうと思ったのだろう。気にはなったが、図書室に閉室のチャイムが鳴ったので、スレッタも慌てて本を借りて後にした。

  

 この日はそのまま図書室で別れたが、次の日は森の中でエランに会った。

「エランさん、大丈夫ですか?」

 微かに感じた砂糖菓子の匂いに誘われて森の深くにはいると、そこには両腕を抑えながらうずくまっているエランがいた。

「スレッタ・マーキュリー…?」

   かちりと、スレッタの頭の中でピースが重なった。

 桜色に色づいた肌、熱く荒い吐息、涙が溜まり焦点の合わない瞳。それは明らかにヒート状態になっているオメガだった。

「今、危険だから……。もう少ししたら薬が効くはずだから、離れていて。」

「いえ、私は平気です。それよりも、一人きりになったらエランさんが危険です。」

 嘘。本当はこの場ですぐにでも食べてしまいたいくらいだった。虫を惹きつけるような暴力的なフェロモンが周囲にばら撒かれていて頭がクラクラする。この蠱惑的なエランを他の誰にも見せたくない。

 だが、アルファの本能以上に、いつもお世話になっているエランの役に立ちたい気持ちの方が強かった。

「せめて、薬が効き始めるまで側にいさせてください。それとも、部屋まで送りましょうか?」

「……あと3分くらいで落ち着くと思う。」

「分かりました。…背中をさすってもいいですか?」

 うん、とエランが頷いたのを確認してから、そっと背中を撫でる。固く丸まっていた背中が少し緩む。呼吸も深くなり安定してきた。そして何より、さっきまで濃かった香りが微かにしか感じなくなってきた。

「……ありがとう。大分楽になってきた。」

「安心しました。もし、よければ部屋まで送りましょうか?」

「いいの?」

「はい。むしろいつも助けてもらっているので、嬉しいです。」

 差し伸べた手にエランの一回り大きい手が重なる。

「じゃあ、お願いするよ。スレッタ・マーキュリー。」

 エランが立ち上がる。ふと目が合う。こちらの視線を射抜くような透き通った瞳。

 あぁ、やっぱりエランの全てを知りたい。それと同時に暴かれたい。

「あと、この事は秘密にして。」

しぃーと、人差し指を口元に当ててるエランの仕草はあどけないが、瞳だけは燦々と光っていた。


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