頂上決戦—前奏曲—
空座町
ドン・観音寺の隣に座った髑髏面の女、ロカ。その周囲で無邪気に戯れる子供姿の破面、ピカロ。そしてザエルアポロと同じ顔をした男、シエンと名乗った破面か——どの破面に攻撃を加えるか迷う石田の隣でカワキがふと蒼い瞳を空に向けた。
カワキは敵を目の前にして、何の意味も無く、よそ見をする人間ではない。
それはつまり、カワキにとって「現世に集った破面」という異常事態より優先して対処すべき「何か」がそこにある——その証左に他ならなかった。
事実、ピクリと僅かに眉を寄せたカワキが、立っていた屋上の手すりから飛び退くと同時に異変は起こった。
カワキが立っていた手すり——今もまだ銀嶺弧雀を構えた石田が立つその場所が、唐突にぐにゃりと歪んだかと思うと石田の手元に絡みつこうと動いたのだ。
「なっ……」
『……来たか』
驚きに目を見開き、カワキに遅れてビルの屋上へと飛び退った石田。
一足早く動いていたカワキは、霊子で形作った銃を手に目を細めて呟いた。
まだザエルアポロと「シエン」を名乗る破面が別人であると割り切れない石田は、今しがた起こった異変はシエンの仕業かと疑ったが————
「……へえ。僕の中でも、随分と古い知識の中にある霊圧だよ」
「…………?」
不思議そうにこちらを見上げた破面が何を言っているのか解らず、石田が問いかけようとした矢先——何者かの声が響いた。
「志島カワキ、そして石田雨竜……最後の滅却師、だったな」
どこから響いているのか推測できない声に不気味な感覚を覚え、身を固くする石田とは対照的に、カワキは予想はついているというような泰然とした態度だった。
カワキは、声の主が言葉を発する前から存在に気づいていたのだろう。
それは相手も同じだったようで、二人は互いに無感情な声で会話を交わした。
『“最後”を名乗っているのは石田くんだけだ。私はそう名乗った記憶はない』
「そうか。それはすまない、謝罪しよう」
さして間を置かず、声の主が姿を現す。
ビルの屋上にいるカワキ達と、信号機下にいるシエンの丁度中間あたり——ドン・観音寺の車の真上に、白地に黒で「十一」と書かれた羽織を纏う一人の死神が、その姿を現した。
「……? 君は……誰だ?」
尸魂界に滞在した間に石田は隊長の顔を全て覚えている。
男が纏う白い羽織は隊長羽織——その名の通り、護廷十三隊の隊長だけが纏うことを許されるものだ。
だが、男の顔は石田の記憶にはない。
戸惑う石田に向かって、男は淡々とした口調で己が石田と敵対する理由を語った。
「滅却師である君達が、ここにいる破面を滅ぼせば、通常の魂魄数万体分のバランスが崩れる事になる。それを止めるのは死神としての義務だ」
「おやおや、無駄が嫌いだと言っていた君が、随分無駄な心配をするんだな」
「私を知っているのか? 技術開発局を襲った虚よ」
「知ってはいるが、はじめまして、と言うべきかな。名前は確か、痣城だったか?」
無表情で必要事項のみを告げる痣城と、愉しげに笑うシエンの間で交わされる会話を聞きながら、石田は冷や汗をかく。
ビルの屋上に石田と並んで立ったカワキは、何かを待つような眼差しで暫く地上を見下ろして黙り込んでいたが————
事態が一変する瞬間は唐突に訪れる。
シエンとの会話に区切りがつき、痣城が屋上を見上げて口を開くと同時——石田の隣にいた筈のカワキの姿が消えた。
「さて……この件は、君達には無関係な話だ、滅却師。その装備を捨て——ッ!?」
先程まで痣城の頭があった位置を青白く輝く刃が真横から一閃する。
石田が思わず声を上げた。
「……はっ!? カワキさん!?」
寸前で身を逸らして凶刃を回避した痣城が目を見開くも、驚愕の一言さえ口にする暇は与えられない。
霊子を固めた足場を踏み締め、カワキは体勢を崩した痣城の背後に回り込むように素早く身を翻した。
上体を大きく仰け反らせた痣城の頭部を目掛けて「魂を切り裂くもの」——ゼーレシュナイダーを振り下ろす。
「くっ……!」
ひゅんっと風を切る鋭い音、一切の躊躇なく急所を狙った一閃。
それは、牽制や威嚇などという生易しいものではない。
明確な殺意。
警告の言葉さえ不要と判断したカワキの行動は予想外だったようで——顔を顰めた痣城が何とか急所への一撃を避けて体勢を立て直す。
『逃がさない』
肌を刺す冷たい殺気を容赦なくぶつけるカワキは間髪入れずに一歩踏み込む。
痣城の隊長羽織が血で赤く染まった。
一拍遅れて走る激痛と悲鳴を押し殺し、痣城は鮮血の滴る傷口を押さえ、苦しげな吐息とともに感嘆の呟きをこぼした。
「……っ! まさかこれほどとはな……」
空気に溶け込むように姿を消してカワキから距離を取った痣城は高度を上げて再び姿を現した。
振り抜いたゼーレシュナイダーの鋒を下に向け、カワキは最小限の動きでくるりと視線を上に向ける。
荒い呼吸を続ける痣城に向けられた冷淡な眼差しには、波の一つもない湖面のように静かな殺意が湛えられていた。
『踏み込みが甘かったか』
話の途中でいきなり痣城に斬りかかったカワキに尋常ではない空気を感じ、石田は視線を交互に動かしてビルの屋上から痣城とカワキを見下ろした。
その表情には困惑がありありと浮かんでいる。
——一体どういうつもりなんだ……?
——恐らく、あの痣城という死神は僕らの敵なんだろうが……。
上から目線な痣城の言動に石田が「死神への敵意」を抱いたのは事実だが——ここまで過激な行動に出るほどではない。
ましてや石田の知るカワキは「死神と力を合わせて戦う滅却師」という石田の師が思い描いた理想を体現した滅却師だった。
カワキの苛烈な行動の理由が解らずに、石田は戸惑いを隠せない。
一方で、地上ではシエンが面白いものを見つけた時のような高揚感の滲む微笑みを湛えて空を見上げた。
「……へえ。やるじゃないか。ノイトラと互角に戦っただけはあるね」
試合でも観戦するかのように戦いの様子を眺めるシエンの視線の先でカワキの指先が僅かに動いた。
と、次の瞬間————
殺気が膨れ上がり、暗い海の底に沈んだと錯覚するほどの霊圧が場に満ちる。
『そうか。余程、命が惜しくないようだ』
抑揚の少なさは普段と同じ——しかし、今回ばかりは抑揚が少ないだけで、その声に込められた感情は逆鱗に触れた愚か者に向けられるソレだった。
僅かに目を細めた痣城が淡々と呟く。
「……気付かれたか」
痣城は、カワキによって重傷一歩手前の傷を負わされながらも、当初の予定通りに滅却師が霊子を収束する為の核となる装備——滅却十字を奪おうとしたのだ。
だが、カワキが一手早かった。
目に見えぬ力で事を成そうとした痣城の狙いに気付き、周囲の霊子を操作して痣城が伸ばした見えない手を弾いたカワキ。
——やはり、彼女を新しい人間のモデルケースに選んだのは正解だった。
心中でそう呟き、痣城は滅却十字の奪取を断念した。
短く息を吐いたカワキは頭上に立つ痣城を睨め付けて追撃をかけようとする。
しかしその刹那、後方から迫り来る異様な霊圧に、その場の全員が動きを止めた。
『————!』
「何か」がこちらへ向かって来ている。
理解した瞬間、カワキの霊圧知覚はその正体を探ることに全力を注いで稼働した。
憶えのある霊圧、近付いて来る「何か」の正体に気付いたカワキは追撃をかける手を止めて振り返る。
「よう。痣城」
「…………」
「正直、鬼道ってもんを舐めてたが……、さっきの手品は、中々楽しかったぜ」
そこには全身の傷から血を滴らせ、凶悪な笑みを浮かべた男が立っていた。
空中に立つカワキの横を通って痣城へと歩みを進める男は、すれ違いざまにカワキと言葉を交わす。
『更木さん』
「あいつを逃がしちまったのは俺だが……代われ。ありゃあ、俺の獲物だ」
『勿論。貴方の獲物に手をつけて悪かったよ』
そう言って、シエンをちらりと一瞥すると、カワキは更木に視線を戻した。
『そういえば、いつかのお礼がまだだったね。利子と言ってはなんだけれど、オマケもつけるよ』
「……あァ? そりゃあ良いな……。ならこれで貸しはチャラだ」
信号機下に佇むシエンにも目を向けて、更木は上機嫌でカワキに告げた。
一度に二人もの強者と斬り合える、その期待で獰猛に笑んだ更木。良く出来た人形のような面持ちで静かに佇むカワキ。地上で愉しげに笑いながら様子を伺うシエン。そして——無表情のまま、上空から全てを俯瞰する痣城。
死神、滅却師、破面——三種族の頂点に立つ強者が集う、未だかつて誰も目にしたことのない戦いが空座町を舞台に始まろうとしていた。