雪解けの春
手を伸ばし、ローの頭を自分の胸に埋めるように抱きついた。
彼女にとっては、いつものように。
彼にとっては、昔のように。
「や……めろ……、やめろ!!」
拒絶の言葉を叫び、自分から引き離そうとするローの言動こそは昔と同じだが、しかしその叫ぶ拒絶はただ単に窒息の危険による怒りではなく、泣き出しそうな縋るような絶叫。
「やめろ!返せ!返せ!!」
自分に絡むように抱きつく少女を引き離そうと抵抗しながら、訴えるのは、望むのは「返せ」。
その言葉に……白い白い少女は……、「自由」となったルフィは微笑んで答える。
「やだ。だって『これ』は、元々わたしのだもん」
ローから奪うものを、自分のものだと主張して、太陽神は、自由の化身は、解放の女神は一人の男をその嫋やかな腕の中に閉じ込める。
珀鉛という、自らが遺してしまった毒に侵された白い男を、抱きしめ続ける。
その身の純白を自らに移し、取り込み続けながら、彼女は自分と共に死ぬ気だった最愛へと告げる。
「大丈夫だよ、トラ男。『これ』はわたしのだから、わたしは平気。毒になんかならない」
「ふざけんな!それは問題を先送りにしてるだけだ!
お前由来の毒だからこそ、お前に効果はなくとも蓄積されて……お前が死ぬことで世界を侵す毒なんだよ、それは!!」
最愛より世界を選んだ男、その「毒」の恐ろしさ……一時的な利用価値、それがもたらす悲劇を誰よりも知っているからこそ、狂気に染まっても選べなかった者が、力の限り引き離そうともがき、叫ぶ。
自分に再び光を、愛を、未来を、自由をくれた人に、「お前は世界の害悪だ」と告げる。
言われた者よりも、傷ついた顔で。
だからこそ、ルフィは笑う。
笑って、頷いた。
「そうだね」
笑顔で肯定する。
その言葉も行動も正しいと肯定され、絶望したのはやはりルフィではなく、ローだった。
「ごめんね、トラ男」
「……やめろ」
ルフィの言葉で、抵抗する力を奪われたようにローはもがくのをやめたが、言葉は失われなかった。
彼女の謝罪を受け入れない。拒絶する。
「やめろ……やめてくれ……返してくれ……。
それだけ……なんだ……。選ばなかった……選べなかった俺に……残されたのはもう……」
体にはもう、抵抗する力はない。それでも心が叫び、求め続けている。
「俺が選んだのは……選べたのはもう……それだけなんだ……」
自分が選ばなかったもの。捨てたもの。
初めから自分のものにならぬからこそ愛したもの。
たった一つだけ、選ばなかったからこそ手にすることが許されたものを、手放さない。
「俺の……『麦わら屋』を、奪わないでくれ」
最も憎んだ、自分の家族も故郷も奪い尽くした珀鉛を奪わないでくれと切願する。
それは、存在を許せない罪そのものでありながら、自らの光が最期に遺したものだから。
「……ごめん。ごめんね、トラ男。……ごめん」
力はもう入らない、ただ壊れた人形のように「返してくれ」を繰り返すローとは逆に、ルフィは更に彼を抱きしめる力を強める。
怯えるように、抱きしめる腕も、その白く華奢な体も、……ローを呼びかける声も震わせながらも、彼女は笑う。
笑って、笑って、頑張って笑うけれど、それでも我慢しきれずボロボロ涙を零しながら、ルフィは語る。
「……トラ男。この白いのはね、『ニカ』の呪いじゃないよ」
珀鉛を取り込むことで理解した、「珀鉛」の真実。
どうして過去の自分がここへ来れたのか。
何のために来たのかを、理解したから。
だから、泣きながらもルフィは語る。
「……これはね、ニカの……ニカになった『わたし』の……自由になりきれなかった、解放しきれなかったもの。
これは……この世界の、未来のわたしが遺しちゃった……未練とか後悔なの」
泣くことすらできず、毒を取り除かれているというのに毒に侵されていた時以上に死んだ目で、同じ言葉を繰り返すしかできなかったローの目に、わずかな光が灯る。
それは決して希望ではない。
だが、死にかけた心を呼び覚ますだけの力は確かにあった。
「……俺が……治せなかった……からか?」
ルフィに抱かれながら視線をあげて、問う。
罪悪感に満ちた、けれどどこかそうだと肯定されることを期待しているような目だった。
「……違うよ。死にたくなかったのは本当だけど、そんなの60歳でも100歳でも多分思う。
トラ男でもチョッパーでも治せなかったのはしょうがないこと。わたしが長く生きることより、強くなること、勝つことを選んだんだから、トラ男たちは悪くないし、そのことにわたしは後悔なんてしてないよ」
彼女が夢を叶えるために支払ってきた代償として、早すぎる寿命を迎えたことに、その寿命を取り戻してやれなかったことかとローは尋ねたが、ルフィは小さく首を振って否定する。
自分を責めてもくれない、流星のように苛烈に、瞬く間に逝ってしまった人の答えに、ローはじわじわと灯ったはずの光をまた失いながら弱々しく訊いた。
「……じゃあ、……何を……」
ルフィは答える。
自分がここにきた訳を。
自分をここまで導いた者が遺してしまった、伝えたかった、世界を侵す毒になっても捨てられなかったものを、告げる。
「ーーーー赤ちゃんが、欲しかったの」
言えなかった。
知っているから。
自分の子供がどのような未来を辿るのかを、ルフィは知っている。
「……バカだよね、わたし。……言っちゃえば良かったのに。
言って……『バカなこと言うな』って叱られてたら、……もうそれで終わってたのに」
自分と愛しい人に、強い縁が生まれたきっかけの戦争。
そこで失った兄こそが、自分の子供の「IF」であることを知っているから。
「こんなこともわかんなかった馬鹿だけど……、わたしの子供はエースみたいに……酷いこと言われるのはわかってた。
だから……言っちゃダメだって……望んじゃダメなことはわかってた」
だから、言えなかった。
諦めた。
諦めた、はずだったのに……捨てきれなかった。
「ごめんね、トラ男。置いていって。一緒に生きられなくて、……結婚しないって言って、ごめん。
……トラ男の大切なものをいっぱい奪った毒になってごめん。そんなの遺してごめん。ごめん、ごめん、……ごめんなさい。
でも……それでも……どうしても……欲しいなってわたしは、未来のわたしは、トラ男のわたしは……」
じわりと全身が白に変じていたはずのルフィの体が、髪が僅かに黒に戻り出す。
解放の化身だからこそ、例えそれは自分自身の思いであれ、何かに縛られて、真に願うことができないのならば、もうその神からの恩恵は失われるのだろう。
まだ、ローから珀鉛は取り込みきっていない。全てを取り除かないと、彼の苦しみが長引くだけであり、それをできるのは「ニカ」となった自分だけなのはわかっている。
わかっているのに、彼から自分が遺し、彼を縛り付ける「業」を全て取り払うことこそが自分の望みなのに、取り込んだ未来の自分の未練が、後悔がルフィを縛る。
それでも、まだ「ニカ」であるうちにローから珀鉛を奪いきろうとさらに腕の力を込めるが、抱きしめたいのに力は入らない。
「…………もういい」
力が入らない。
それでも二人は、離れない。
「もういい。もう……謝らなくていいんだ、麦わら屋」
背中に回った腕。
自分の回りきれていない腕とは違い、すっぽりと片手だけで背中を覆えるのは、彼の腕が大きくて長いからか、それともルフィがあまりに小さいからか。
「お前は悪くない。だから……もう、謝るな」
その手がポンポンと優しく、子供を寝かしつけるように背を叩く。
声音も同じぐらい、優しかった。
「お前は悪くない。悪くないんだ……。悪いとしたら……俺も同罪だ」
拒絶していた全身が、もう引き離そうとする気力すら無くしていた腕が、ルフィを包み込み、抱きしめる。
唯一足掻き続けていたはずの言葉が、全く別の言葉を紡ぎ出す。
「……俺だって、欲しかった」
同じ未来を、望んで、願って、求めて、夢見て、けれど諦めていたと告白した。
解放の女神の前だからではない。
ただ、彼女が泣いていたから。
「俺だって、バカだ。救いようがないくらいにな。
きっとお前が本音を伝えてくれても……、どれだけお前が勇気を振り絞って望んでくれたのかも考えず……聞き分けのいい大人のフリをして俺は……『バカなこと言うな』って言ってただろうからな……」
同じものを求めていたのに、同じものを恐れて口にすることすら出来なかった。
自分たちは同じぐらい、夢だけを見て、目指して、走って行ける愚直な子供ではなく、あまりにたくさんのものに縛られた、賢くて最も愚かな大人であったことを告げる。
「だから……麦わら屋。それはやっぱり……お前のじゃ……お前だけのものじゃないんだよ」
「……トラ男」
泣きながらもかろうじて浮かべていた、貼り付けていた笑みは剥がれ落ち、自由の「白」は失われ続ける。
太陽神から、自由の化身から、解放の女神から、ただの弱くてちっぽけな少女に戻ってしまう。
ただの少女に、泣きじゃくる愛している人にローは伝える。
「珀鉛(それ)は……俺の後悔と未練でもあるんだよ。
ーーーーだから」
ずるりともたれかかるように、崩れるように、力を失ってローを抱きしめることができなくなったルフィと、そんな彼女を支えるように抱き止めるローの体勢が逆転する。
ローの胸に埋もれるように、もう指先くらいしか白くないルフィは抱きしめられながら、泣きじゃくりながら、それでも確かに聞いた。
届いた。
「過去(そっち)の俺には……伝えてくれ」
ひんひんと嗚咽を零しながら泣いていたルフィの顔が上がる。
「……え?」
見上げたローは、困ったように、今にも泣き出しそうな、あまりに幼いくしゃくしゃの顔をしていた。
くしゃくしゃに……笑っていた。
「お前の知る俺はまだ……自覚もしてないクソボケで……自覚したって……取りこぼすのを恐れて、きっとお前の勇気も……望みも……軽々しく否定して……拒絶して逃げるクソ野郎だろうけど……、お前が折れさえしなけりゃ、そのうち白旗を上げる。……俺自身、本音じゃ望んでるんだからな」
拒絶して、最愛を世界の敵だと謗り、存在を否定し、世界を選んだ。
「だから……持っていけ。
そして……いつか必ず……会わせてくれ」
世界を選んでも、それでも愛しているからこそ手離そうとはせず、抱え込んで心中しようとしていたものを手放すと彼は言った。
「麦わら屋、俺ごと持っていってくれ」
手離して……けれど諦めないことを選んだ。
「未来(ここ)のお前が遺して……お前を連れて来るぐらいに諦められなかったお前の……あいつと俺の『夢』を叶えてくれ」
後悔と未練が、眩い夢となる。
何度も何度も言い聞かせて諦めたはずの、最愛の兄が味わった苦しみも悲劇も、きっと兄以上に愛してしまうとわかっているからこそ、同じ思いだけはさせたくなくて、その為には諦めるしかないと思っていたものを、彼は「夢」と言ってくれたから。
望んでくれたから。
「ーーーーうん!!」
少女は再び変じる。
人から神へ、自由の化身にその身は白く解放される。
「トラ男!わたし、トラ男に何を言われたって諦めない!!」
白を失う、黒い男に抱きしめられたまま。
自らの意志で、その男の腕の中に収まって。
広い世界よりも、この腕の中を選んだ。
「エースみたいにならないように、ちゃんとそばにいて、生きてて嬉しいって、大好きだって伝えて守るの!!」
神でありながら、どうしようもなくありきたりでありふれた、ただの少女の心が望むままに。
「産んだら死ぬかもしれないのなら、死なないように頑張るから、トラ男も頑張って!!」
誰よりも自由な心が叫ぶ。
「トラ男!大好き!!」
「知ってる」
きつくきつく手を伸ばして力を込めて抱きつく白い最愛に、ローは笑って抱き返す。
壊れ物を扱うように優しく、ここにいると安心させるようにしっかりと。
「麦わら屋」
笑って、伝える。
彼女の最後の呪縛を、完全に解き放つために。
「愛してくれて、ありがとう」
言葉と一緒に溢れた彼の涙は雪解け。
彼の言葉でまた溢れた彼女の涙は春の陽光。
世界を侵し蝕むはずだった毒、彼が呑んだ雪はもうどこにもない。
春が持っていってしまった。
いつか芽吹くものを育む為に。