雨粒の檻に入れられて
あにまん民ポタポタと降る雨の音。
蒸し暑い空気を吸いながら、木で組み上げられた粗末な椅子が硬くてお尻が痛い。
たった二人だけしかいない放課後の理科室には、当然冷房なんてつけてもらえずに、ひんやりと冷たい黒机に突っ伏して涼を得ようとする。
わたし──日向葵(ひなたあおい)の対面に座っているのは天道陽介(てんどうようすけ)先輩。生物部の先輩で、雨の音をバックミュージックにして何やら本を読んでいるみたいだ。
茶色みがかった髪は丁寧に切り分けられていて、柔らかな曲線を描く眉毛は整っている。
黒ぶち眼鏡の奥の瞳はキラキラと輝いていて、その目に映る本の内容に夢中だ。
背表紙を見てみる。そこには6月の動植物とあって、きっと先輩はこの雨の後の野外調査に心を躍らしているのだろう。
わたしとしては、雨の日はちょっと苦手なのであまり気乗りしないけれど。
(このくるくるが無ければなぁ)。
自分の癖っ毛を手で遊んでそのもしゃもしゃした感触に眉を顰める。梅雨の時期はいつもこうで、ただでさえ癖っ毛なわたしは湿気に悩まされて憂鬱になる。
それに今は……気になる先輩の前にいるので、なおさら髪の毛はきちんとセットしたかった。
「どうかしたのかい?」
「あ、その……なんでもないです」
そんなわたしの不機嫌な様子を見抜いたのか、先輩が本から顔を上げてわたしを見つめる。
そしてわたしが何に悩んでいるのかを察したようだ。
「日向さん。もしかして髪の毛が気になるの?」
「うう、実はそうなんです……この季節はもうくしゃくしゃになっちゃって」
「ふふふ、確かにいつもよりもボリュームがあるね」
「笑わないでください〜」
くすくすと楽しそうに笑う先輩は意地悪だ。
でも彼に普段から見てもらえて、僅かな違いに気づいてくれたと思うと満更でもなくて、嬉しくなってしまう。けれどやっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。なので鞄から櫛を出して髪を少しでも整えることにした。
「ああ、そんなに乱暴にやっちゃダメだよ」
「でも……結構癖が強くて……」
「えと、その……じゃあ日向さん」
わたしの雑な髪梳きを見かねたのか、先輩は手をモジモジとさせた後に、何かを言いたげな様子だ。
こういう時、先輩は遠慮しているけど、大抵はわたしの喜ぶことをしてくれるのだ。
「僕が……毛繕いしてあげようか?」
「え! 良いんですか?! ……ん? 毛繕い?」
「ああごめんごめん、なんて言えばいいんだろう……髪梳きかな?」
「先輩、わたしのこと動物か何かだと思ってます?」
「咄嗟に出てこなかったんだって! ……その、いいかな?」
ちょっと先輩の言葉に引っかかりつつも、櫛を渡して先輩に髪を委ねてみる。
椅子を動かしてわたしの後ろに座った先輩は、自分で言い出したことなのに緊張してしまってるようで髪に手をつけないでいる。
「先輩、思いっきり触っていいですよ」
「い、いいのかい?」
「痛くしないでくださいね〜」
冗談のつもりだったのだけど、ごくりと生唾を飲む音が聞こえて、こちらにまで身体の強張りが伝染してしまって毛が逆立つようだ。
ゆっくりと、まるで絹を扱うように櫛が入れられる。わたしの癖毛のショートの髪なんてそんなに特別なものでも無いだろうに。髪の毛一本一本に至るまで、まるで撫でるように優しく。
(先輩……髪の毛梳くの上手だなぁ)。
ふわふわとまるで綿のように絡まった髪の毛がどんどんと整えられていく。きっとわたし自身が扱うよりもずっと丁寧だろう。何度も髪の毛を櫛が往復するたびに頭に心地よい感触が伝わってくる。
「どうかな……? 痛くない?」
「ふわぁ……きもちいいです……」
「良かった。そんなに嬉しそうなら大丈夫だね」
言われて気づく、わたしがだらしない笑みを浮かべてしまっていることを。
慌ててなんとか緩んだ口元と垂れた目尻を意識して元に戻して、先輩に向き直る。
「あ、ありがとうございます……その、先輩って髪を梳くのお上手なんですね」
「うん、その……怒らない?」
「……? 怒る?」
なんだろう?
……もしかして先輩にはこうして髪を梳くような間柄の女性がいるのかも?
そうだとするとわたしは何て哀れな女なのだろう。そんなことも知らずに先輩に想いを寄せていたのだとしたら。
「なんだかうちの犬のブラッシングしてるみたいで……」
「……へぇー、犬の……」
いやまあ、別に怒りませんけど。
でもそれはそれとしてなんだかムカッときたので先輩に無言の抗議として頭をぐりぐりと押しつける。
せっかく整った髪の毛がまた乱れてしまうけど知ったことではない。
「あいてて、許してよ日向さん……あ、見て見て」
「怒ってません〜……なんです?」
「ほら、窓の外……」
目を向けると……いつのまにか雨音は止んでいて。
雲の切間から光の梯子が降りて、そこにキラキラとした七色の架け橋が見えた。
美しいその光景を理科室から眺めていると、まるで世界に二人だけしかいないような気分になる。
「野外調査、行けそうだね」
「そうですね……早く外に出て写真に収めないと」
梅雨は嫌いだったのだけれども、先輩からの“毛繕い”とこの鮮やかな景色を見たら、なんだか好きになれる気がした。
カメラを片手に理科室を飛び出して、今にもスキップしそうな足を抑えながら先輩を待つ。
「先輩! 早くしないと虹が消えちゃいますよ!」
「さっきまでの不機嫌さが嘘みたいだね。あんまりはしゃいで転ばないようにね」
「はい! さぁ行きましょう先輩!」
勢いで先輩の手を握ろうとして、でもそれは出来なくて所在なさげに手を引っ込める。
すると……先輩はそんなわたしの手を掴んでくれた。
「! 先輩……!」
「──行こうか、日向さん」
はやる足を押しとどめて、高鳴る鼓動はそのままに。握る手には力を込めて、出来うる限り歩幅を揃えた。
雨は上がって、まだ夏は始まったばかりだ。