雨と金木犀
宵闇を湿らせるように漂う雨の中、いつもより少し重い砂を蹴って走る。レース直前であれば、あまりきついトレーニングはしないものだけれど。それならどうしてこんな時間にと聞かれたら、あたしたちのレースは遅い時間に催されることが多いから、と答えるかしら。たっくさんトレーニングをしてるから夜になった、というわけではないのねぇ。
そうして、ほかの娘たちより後ろ倒しなトレーニングをおしまいにして、後片付けや身繕いをしたら。寮に帰る頃には、すこし雨粒がおおきくなってしまったみたい。折りたたみの傘はまいにち持ってきているし、今日は長い傘もあるけれど……せっかくだもの、長いほうにしようかしらねぇ?
女の子が持つにはちょっとだけ重たい傘をばさりと開いて一歩踏み出せば、ぱたぱたと楽しそうに歌いはじめるのよ。そんな、雨の日だけのとくべつと一緒の帰り道に、馴染んだ音。きっと、おせっかいなんじゃろうねぇ、なんて思ったりもするけれど。どうしても惹かれてしまうのは、変えられないわねぇ。
しばらくもしないうちにたどり着いた音の主。暗くてわかりにくいけれど、たぶんあたしとおんなじ鹿毛のウマ娘さん。寂しそうなあなたにも、歌が届くよう傘を差し出して。
「驚かせてしまってごめんなさいねぇ、すこし、寄り道をしたくなったものだから」
傘が雨をはじく音を聞くと楽しくって、なんだか帰りたくなくなっちゃったのよ、とか、いつもならそろそろ眠くなる時間なんじゃけど、とか。いろいろお話ししてみても、やっぱりおせっかいはおせっかいなのかねぇ。
それでも諦めきれないから、冷え切ってしまった手のひらに傘を握らせて、帰ったらすぐお風呂に入るから大丈夫よぉなんて言ってしまえば、きっと返せなくなってしまうはず。
……折りたたみ傘、まだ開きたくないわねぇ。さっき使った言い訳もそうだけど、雨のつめたさを、知りたくなってしまったから。
風邪をひくわけにはいかないし、後ろ髪を引かれながら鞄を開けようとしたときに。力強くコンクリートを蹴って、重心をぶれさせながら走る音が近づいてくる。追いついて、追い越さないで、濡れた体が触れてしまわないように傘を傾けて。動こうと思えるまで元気になってくれたのに、今度こそほんとうに帰りたくなくなってしまうのよ。
寮に帰るのはあたしを濡らさず傘を返すそのついで。きっとそう思ってるじゃろうから、はみ出すように足を速めれば合わせてくれる。寮への方向を外れて向かったのは金木犀が並ぶ道。
「今日は寄るつもりなかったんじゃけどねぇ、あなたにも知ってほしいって思ったんよ」
雨の日の匂いと金木犀の香り、いつもより柔らかくなるそれは、肩に入った力を抜いてくれた。隣で緩んだ寂しさに、ようやくおせっかいじゃなくできたかねぇと息を吐く。
それから、今までのこと、これからのことをゆっくりゆっくりおしゃべりしながら歩いていく。あたしはここで語り続けると決めたから、見送ることも増えるじゃろうけど。寂しいのなら、終わりたくないのなら、まだここにいてもいいと思うのよ。だからねぇ。
「元気よくお風呂に入れるように、飴ちゃんあげようねぇ」
不意を打たれてぽかんと開いたお口に飴ちゃんを放り込む。今度はぽりぽりさんもあげようねぇ、トレーニングのあとなんかはとってもおいしいのよ、なんてあたしの言葉に言い返そうとして、お口の飴ちゃんを気にして黙り込んだしばらくあと。
上手いこと飴ちゃんを固定してためらいがちにこぼした声は、きっとさっき飲み込んだ言葉とは違うけれど。聞かなかったことにしちゃおうかしら。
だってあたしは、傘を貸してもらっただけだもの、ね?