逃亡海兵ストロングワールド⑬─3
第十五話 “きっと私は” 後編
何もかもが、初めてだった。
空を飛ぶ船も、その甲板で風を受けることも。
つぎはぎだらけの汚れた服じゃない、綺麗な服を着ることも。
強い風で上手く立てない私を怒鳴ることをせず、気遣うように支えてもらったことも。
──命令されることなく、“自由にしろ”と言われることも。
“何を、したらいいですか?”
この船において一番偉い人に、頭を下げながら問う。膝をつこうとしたが、首輪を外してくれた人に止められた。
“何ができる?”
葉巻の煙を揺らしながら、その人は問いかけてきた。
“何でもします。できなくても、できるようになります”
即答した。そうしなければ、“痛み”が待っているのを知っていたから。
ただ、その人は顎に手を当てて考え込む仕草をした。そして。
“なら、できることをしてもらおうじゃねェか”
命じられたのは、本当にできることだった。
掃除に洗濯に料理。やり方が違うところは丁寧に教えてもらえた。右足が上手く動かないことも咎められることはなく、むしろ心配さえされてしまう始末。
戸惑いが、ずっとあった。
……“痛い”と感じることが、なくなっていった。
“おめェはよく働くなァ”
私を拾った人は、そう言って笑っていた。
“……正直、助かっている。船の雰囲気も随分と変わった”
首輪を外し、杖をくれた人はそう言ってくれた。どういう意味かがわからなかった。
“素直じゃないのう”
彼の言葉の意味を感謝と呼ぶのだと、口元をマフラーで隠した女性は教えてくれた。
“のう、イルよ。酒はどこでござるか?”
“今日の飯は肉にしてくれねェか?”
“イルよすまぬ。掃除を頼みたいのじゃが”
誰も、“命令”をしなかった。
やってくれないかと、こちらに頼むのだ。
──戸惑いが、ずっと続いている。
◇◇◇
体の内側から焼かれたような感覚が広がった。右脇腹の異物感。遅れたように痛みが走る。
「ウタ准将!」
叫んだのはオリンだ。後方の彼女へ大丈夫だと伝えたいが、その前にこの現状をどうにかすることが最優先。
「────ッ!」
ウタの両腕を拘束する海楼石の錠は鎖で繋がっており、ある程度の余裕がある。ウタはその鎖を自身の腹を貫く刀へ巻きつけた。
そのまま、痛みを堪えて引っこ抜くようにして後方へ飛ぶ。抵抗があると考えていたが、何の抵抗もなくイルは刀を手放した。
勢いがあまり、ウタは背中から床へと倒れ込む。衝撃で激痛が走るが、悲鳴を上げるのは堪えた。
「准将をお願い!」
そして、ウタを庇うようにオリンが前に出た。そのまま彼女は銃を構え、引き金を引こうとする。
だが、その前にオリンの銃は半ばから切断された。
辛うじてウタは目で追えた。だが、先程までとは明らかに速度が違う。
「…………」
ボソリと、何事かをイルが呟く。しかし、何と言ったのかはわからぬまま、彼女はオリンに向かって刀を振り下ろす。
ウタを刺したのは左の刀だ。故にオリンの銃を切断したのは右の刀。イルは振り上げたそれを、そのまま振り下ろす。
先程までの、何故か致命傷にはしないようにしていた攻撃とは全く違う。容赦のない、殺すための一振り。
「“鉄塊”」
だが、その刃がオリンを切り裂く前にブルーノが割って入った。
鋭い金属音が響く。飛び退くようにしてオリンが横へと移動すると、立ちはだかるようにブルーノがイルの正面に立った。
「先程までとは随分と違う太刀筋だな」
しかし、彼の言葉にもイルは応じない。ブツブツと、何事かを呟き続けたまま下を向いている。
ウタの腹に刺さった刀を、彼女の部下が引き抜いた。布を当て、止血を行う。痛みで揺れる意識の中、ウタの耳はしかし、イルの呟きを捉えていた。
──ごめんなさい。
何度も、何度も。
その剣士は、言葉を呟き続ける。
しかし。
「くっ……!?」
再び、鋭い金属音。動こうとしたブルーノへ、イルが刀による連撃を叩き込んだのだ。更に彼女は無手となった左手で腰の鞘を掴む。
右手の刀に、左手の鞘。当たり前のようにイルはその二つで構えをとる。
「“鉄塊・剛”!」
凄まじい金属音と打撃音が連続して響いた。全てを受け切ったブルーノはしかし、僅かに体をぐらつかせる。
恐ろしいまでの剣術だった。先程までの彼女の剣が児戯であるかのように。
だが、それでも伝わってくる感情に殺意はない。
(今度は……何? 何も、感じない?)
その剣には感情が乗っているはずなのに、今の彼女は何かしらの感情を発露しているはずなのに。
今の彼女からは、何の感情も伝わってこない。
ぞくりと、ウタの背筋に悪寒が走る。先程まではまだ理解できた。殺意とは違う感情が伝わってきたことに戸惑いと疑問はあったが、それでも伝わってはきたのだ。
なのに、今のこの剣士は。
何の感情も抱いていないのではないかというくらいに、何一つ感情がわからなくなっている。
(そんな人がいるの?)
戦いにおいて感情を抑えるのは当たり前のことだ。昂る感情は判断を鈍らせるし、冷静になることは基本中の基本である。
しかし、冷静であることと感情がないことは全くの別だ。どれほど感情を制御しようとしても、敵意や殺意といった感情を完全に消すことは不可能である。そうでなければ、そもそも目の前の相手と向かい合うことができないはずだ。
なのに、今。
眼前の“敵”からは、何の感情も感じない。
「……役に、立ちますから」
呟く言葉と共に、イルが踏み込んだ。応じるようなブルーノの拳を鞘で受け、右手の刀で突きを繰り出す。
金属音が響くが、同時に鮮血も舞った。心臓という急所を狙った一撃は彼の“鉄塊”を僅かに突き破り、その肉体へと刃を届かせたのだ。
浅い傷だ。だが、狙ったのが心臓という事実にこの場の全員が理解する。
──何もかもが、先程までとは違う。
「ごめんなさい」
左手、鞘を持つ側からたしぎが斬り込んだ。身を低くし、切り上げるような一撃。だがそれを、一瞥さえせずにイルは鞘で受け止める。
受け止めたのは鞘だというのに斬ることができない。“武装色の覇気”ではなかった。イルは受ける瞬間に角度を変え、斬れないようにしたのだ。
「すみません」
振り下ろしの左拳を、イルは後方へ下がって受ける。直後、銃声が響いた。オリンが持っていた短銃による銃撃だ。普段の長銃とは違い射程距離は短いし威力も低い、更には精度も低いがこの距離ならば、問題ない。
だが、イルはオリンと自身の射線上にブルーノが入る位置へと移動した。そのままブルーノへと斬りかかる。
「申し訳ありません」
再び、金属音が何度も響き渡る。後方へ下がりながらしかし、ウタは見た。
──息が上がっている。
先程までの、息一つ乱していなかった時とは違う。
彼女もまた、無理をしている。
「“片時雨”!」
それを察知したのはウタだけではない。たしぎが再びイルの左側から斬り込んだ。それを先程と同じように鞘で受けようとするがしかし、たしぎの太刀筋が接触の瞬間にまるで撓むようにしてズレた。
下から切り上げるような一撃だったそれはしかし、次の瞬間には叩きつけるような軌道になっていた。手首を返し、軌道を強引に反対にしたのだ。
予想と違う軌道の一撃により、イルの鞘が断ち切られる。その直後、彼女の脇腹へとたしぎの刃が到達した。
鮮血が舞う。左脇腹に深い斬撃が入った。だが、止まらない。
「────」
彼女が何と言ったのかはわからなかった。口から血を溢れさせながら、しかし、右手の刀でブルーノへと突きを放つ。
再び“鉄塊”で受けると誰もが思った。だが、しかし。
「──貰ったぞ」
その突きは、彼の体を深々と貫いていた。
「“鉄塊”!」
貫いたのは心臓よりも少し下。急所からは紙一重で外れた場所を通過した刃を、彼は自身の体を硬化することで完全に固めてしまう。
刀を引き戻そうとイルが力を込めるが動かない。その一瞬が致命的な隙だ。
「“砕”!!」
骨が砕ける音が響いた。咄嗟にガードした左腕はしかし、ブルーノの渾身の一撃を受け切れずその骨が砕けたのだ。
衝撃によって吹き飛ばされるイル。床を転がる彼女はしかし、それでも右手を床につき、立ち上がった。
凄まじいまでの執念だ。既に致命傷に近い傷であるはずなのに。
──銃声。
「…………あ」
しかし、それが最後だった。
オリンの短銃から放たれた銃弾が彼女を貫く。崩れ落ちるようにして、シキの孫娘を名乗る剣士は倒れ込んだ。
「…………」
誰も、何も言えなかった。ブルーノが自身の体から刀を引き抜き、投げ捨てる音だけが響く。
「……行こう」
誰かが、呟いた。
反対する者は誰もいない。当たり前だ。ここは敵地で目的は脱出である。その障害を排除したのだから移動しなければならない。
しかし、この場の全員の表情は優れない。
この、何もかもがちぐはぐな剣士のことをどうしても考えてしまう。
互いに肩を貸し合い、前方を警戒しながら先へと進んでいく。
──戦争はまだ、終わっていない。
◇◆◇
“……何でもいいとは言ったが、本当にそんなもんでいいのか? 遠慮はいらねェぞ?”
“はい。ありがとうございます”
手に持っているのは、一つの音貝だ。
欲しいものはないかと問われ、願ったもの。
──私の、初めての持ち物。
“そんなもん、この世にはいくらでも溢れてるってのになァ。欲のねェことだ”
その人は呆れたように言うが、そのいくらでもが自分にはなかったのだ。
ありがとうございます、ともう一度告げる。
“まあ、いい歌声だとは思うがな。そいつは海兵だ。おめェの経験した地獄を肯定する側の人間だぞ”
紫煙を揺らしながら、その人は言った。
それはその通りだろう。この船に来て、多くのことを教えてもらった。自分の置かれていた立場も、状況も、何もかもをようやく知った。
ただ、それでも。
“もう一度、聴きたかったのです”
あの地獄の中で、この歌が光であったことは。
紛れもない、真実だったから。
“おめェがいいってんなら、構わねェがなァ”
煮え切らない表情のその人に、改めて礼を言った。
何度も、何度も。
──そして、その日から。
寝る前に、その歌を聴くことが日課になった。
……きっと、私は。
あなたの、歌を。
◇◇◇
凄まじい戦闘があったのだと、一目でわかる惨状だった。
通路の中心で倒れる友と呼ぶべき女性の近くまで、その海賊は歩み寄る。
「治療を」
周囲の者たちに指示を出す。意識を完全に失っているようだが、命は繋がっているようだ。運がいいのか……いや、違うな。運が悪いからここまで生き残っているのだ。
「……愚かじゃな」
口元をマフラーで隠し、踊り子のような衣装を着た海賊──“毒蛇のカガシャ”は彼女の友人に対して語りかけるように言葉を紡ぐ。
「足を切り落とした時も、刀を手にした時も、親分は何も言わなかった。……あれほどまでに“支配”に拘る男が、“自由”にさせ続けた」
──本当に、愚かじゃ。
彼女は、憐れむようにそう言った。
「親分は身内に随分と甘い男じゃ。だからお主に“孫娘”などと名乗らせた。馬鹿な海賊どもから身を守らせるために。大海賊、“金獅子のシキ”ともあろう男が本当に甘い」
カガシャが右手を上げた。彼女の背後に、十数人の彼女と似たような格好をした女性たちが音もなく現れる。
海賊、“毒蛇のカガシャ”の部下たちだ。その得意分野は戦闘というよりも暗殺にある。
「近くにいるはずじゃ、追え。必要とあれば殺して構わぬ」
その指示を受け、やはり音もなく部下たちが移動する。カガシャもまた、マフラーを整えると部下二人にイルを守るようにと指示を出した。
「まだお主の敗北ではない。お主には悪いが、皆殺しで決着とする」
彼女の“憧れ”について、カガシャは知っている。だが、敵だ。それに容赦をするだけの理由を持ち得ない。
「さて」
音もなく歩き出す、暗殺者。
その標的は、ただ一人だ。
「──ここがお主の死に場所じゃ、“歌姫”」