逃亡海兵ストロングワールド⑬─2
第十五話 “きっと私は” 前編
一番古い記憶は、痛いという気持ち。その感覚を“痛い”と呼ぶことを知ったのは、ずっと後。
次に古い記憶は、怖いという気持ち。その感情を“恐怖”と呼ぶことを知ったのは、ずっとずっと後。
“このクズが!”
ごめんなさい、という言葉さえも最初は知らなかった。だから蹲り、耐えることしかできなかった。
ごめんなさい、すみません、申し訳ありません──その言葉を知ったのは、いつも自分を殴る人の話し相手がいつも口にしていたから。そういえば、私の飼い主であった人はとりあえず話を聞こうとするのだと学んだ。
けれど、それだって絶対じゃない。声が枯れて、喉から血が出るほどにそれらの言葉を口にしても許されないことも多かった。
耐えるしかなかった。耐える、我慢する……そんな言葉さえも、私は知らなかったけれど。
“おい”
“お前”
“クズ”
それが、最初の呼び名だった。名前というものがあることはなんとなく知っていたけれど、それが誰にだってあることは知らなかった。
名前がある人は、特別な人で。
それがない自分は、だから人ですらないのだと思っていた。
人、という定義さえ……知らなかったけれど。
◇◇◇
その戦闘は、一瞬の気を抜く暇もないほどに激しいものであった。
この戦争を一手で終局へと持っていける可能性を持つ“歌姫”の奪い合い。それはある意味でこの戦場において最も重要な戦いだ。
「援護にも入れねぇ」
相手はたった一人。だというのに、海軍本部の中尉と少尉。アラバスタの英雄たちとCP9という世界政府の特記戦力が押し切れない。
流石に数の有利はある。ウタを守るように命じられた彼女の部下三人の目にはわずかにこちらが優勢のように映っていた。
だが、それでも僅かだ。
この女性の名を、この場の全員が知らなかった。唯一ウタが知っていたが、それは彼女が囚われていた際に聞いただけだ。
完全無名の女剣士。それがこれほどの実力を有しているという事実に、この場の者たちの背筋が凍る。
「“鉄塊・砕”!」
牛の角のような髪型の男、ブルーノが振り抜いた拳は女性──イルには当たらず、後方に飛んで避けられる。地面を砕くほどの一撃も、当たらなければ意味はない。
銃声が響いた。ウタの部下であるオリン中尉の銃撃だ。しかし、彼女が狙いを定めて引き金を引いた時には既に相手は移動している。
彼女の銃の腕は確かだ。ただ単純に相手の動きが速すぎるのだ。
「“夏時雨”!」
しかし、女性剣士が移動した先にはスモーカーの部下であるたしぎ少尉が待ち構えていた。緩急をつけた刀による連撃。一定のリズムでないそれは、相手のガードを崩してその身へ刀を届かせる技だ。
「“白雨”」
だが、女性剣士は左逆手で持った刀でそれを全て捌いてみせた。更に右手の刀で逆にカウンターの突きを放つ。
「…………ッ!」
たしぎが身を捻るが、右肩を切り裂かれた。鮮血が舞う。更なる追撃を放とうとした剣士はしかし、大きく身を翻して左手側に飛ぶ。
数瞬の後、大きく踏み潰すようにしてブルーノがそこへ踏み込んだ。彼は更に身を捻り、退いた剣士を追い詰める。
「“鉄塊・輪”!」
自身の体を鋼鉄の如く硬くする体技、“鉄塊”。それを発動した状態で開脚し、更に身を回転させる。
轟音を響かせながら、その蹴りで剣士を追い詰めるブルーノ。だが剣士もただ追い詰められるわけではない。一度足を止めると、身を屈めて二本の刀を鞘に収めた。
その構えを見、ブルーノも足を止めた。直後。
「“天気雨”!」
「“鉄塊・剛”!」
響き渡るような金属音。今度はブルーノが防ぎ切った。
だが、息を吐く暇はない。そのまま拳と刀で二人が渡り合う。
その実力面においてもブルーノがこちらの要だ。故にその援護のためにたしぎとオリンも攻撃を加えるが、一向に通用しない。
響くのは金属音と銃声、そしてそれぞれの声だけだ。その音が止む瞬間は、この戦いが始まってから一度もない。
「全く止まる気配がねぇ」
「いや多分そういう作戦だ。あの女を休ませないための」
ウタを守る海兵たちの言葉だ。彼らはこの休みの一切ない銭湯について、ブルーノたちの作戦だと受け取っている。数で優っているのだから、休ませず体力を削り取るのだと。
だが、ウタは逆の感想を抱いていた。
(息一つ乱してない)
たしぎもオリンも肩で息をし、血を流していることもあって辛そうだ。ブルーノでさえも僅かに肩が上下しているというのに、動きっぱなしのあの剣士は未だ息一つ乱さずに刀を振るい続けている。
(この状況を作っているのはこちら側じゃなく、あっちだ)
シキの孫娘を名乗る女性剣士、イル。その剣技や身体能力に目を奪われるが、その本質はおそらくあの継戦能力だ。
おそらくあの三人も気付いてはいるはずだ。しかし、それでも乗るしかないのだ。息を入れればその方が相手にとって有利になる。
ここは敵の本拠地。時間をかければかけるほど状況は悪くなっていく。悠長に相手はしていられないというのに、よりによって多数を相手に粘れるタイプの敵だとは。
いや……だからこそ彼女はここに来たのか?
(どうにかして均衡を崩さないと)
海楼石の錠さえなければ、あの戦闘に加わることができるのに。
拳を握り締めるウタの目線の先では、戦いが止まらぬままに続いている。
(それに、変だ)
あの剣士、イルから感じる感情があまりにも異質だ。
通常、戦闘になれば殺気のぶつかり合いになる。ルフィよりも鋭敏な感覚を持つウタの“見聞色の覇気”はそういった殺気を読み取ることで相手の動きを読むのだ。
しかし、彼女からはその殺気をほとんど感じない。
焦燥と、戸惑いと、義務感と、使命感と。
おおよそこの状況からは遠いものだけが伝わってくる。
(どういうこと?)
初めて会った時からそうだった。あの剣士はその行動と伝わってくる感情がちぐはぐなのだ。
もしかしたら、と思う。
──そこが、付け入る隙なのかもしれない。
◇◆◇
読み書きと計算。そんな当たり前のことを知るまでに、随分と長い時間がかかった。
教えてくれた老人は、優しい目で私を見ていた。不憫だ、という言葉が彼の口癖だったのを覚えている。
不憫、という言葉の意味は教わった。けれど、実感はない。
記憶の始まりでは既にこの場所にいたし、こうしていたのだ。だから彼が語る外の世界、その全てが空想の絵物語にしか思えなかった。
“わしは悪いことをしたからな。これは報いよ。因果応報、この間教えたろう?”
老人ははそう言って笑っていた。だけど知っている。いつも彼が隠れて泣いていたことを。
その老人は病を抱えていた。働けなくなった彼は、海へと捨てられた。
“お前も働けなくなればああなる”
飼い主である人は、そう言った。はい、と頷くことしかできなかった。
彼がいなくなって、胸に穴が空いたような感覚が残る。彼が残してくれたのは、この世界で生きる者であれば当たり前に持っているはずの『知識』と呼ばれるものだった。この財産だけが、私の持ち物だ。
けれど、それを知られてはいけなかった。私はクズで、ノロマで、間抜けで、愚かでなければならない。余計なことを言って『処分』された自分と同じ奴隷を何人も、何人も見てきたから。
自由なんて、考えたこともなかった。
そんなものがあるなんて、知らなかった。
──その“歌”を初めて聞いたのは、そんな頃だった。
微かに聞こえてくる歌声。はっきりとは聞こえないのに、それはとても美しい声だった。
聞こえてくる話し声で、声の主は“歌姫”と呼ばれる人物であると知る。
誰もが賞賛する美しい声。──掠れた私の声とは全く違う。
陽の当たる場所で輝く存在。──薄暗い船の奥が全ての私とは全く違う。
多くに愛される人柄。──蔑まれ、虐げられる私とは全く違う。
船の片隅、誰もいない場所で静かに漏れ聞こえるその歌声を聞くことが、私にとっての全てになった。
空想の絵物語。彼女はその物語における、私にとっての“ヒーロー”だった。
どんな人なのだろう。
どんな顔をしているのだろう。
どんな風に笑うんだろう。
どんな風に生きてきたんだろう。
そんなことを、思うようになる。
──それが“憧れ”なのだと知ったのは、ずっとずっと後だった。
◇◇◇
違和感が確信に変わったのは、幾度目かの刃を受けた時だった。
(まただ……!)
こちらの足を掠めるようにして女剣士──イルの刀が通り過ぎ、痛みが走るのを感じながらたしぎは思う。
今の自分は完全に無防備だった。その気になればもっと深く足を斬り裂けたはず。そうなれば脱落だったはず。
「どういうつもりですか!」
斬りかかりながらたしぎは怒鳴るように叫ぶ。たしぎだけではない。ブルーノはともかく、オリンも何度も致命の一撃を貰うタイミングはあったのだ。だというのに、この剣士はその全てをスルーしてきた。
一度や二度なら偶然もあるかもしれない。しかし、そうじゃない。
──手加減されている。
焦りと苛立ちが、たしぎの刃を鈍らせる。
「“空梅雨”」
叩き込むようにして振り下ろした刀を右手の刀で受けると同時に、手首を返して巻き込むような動作をイルが行う。
受けた瞬間はイルの刀が下側だった。だが、次の瞬間には上下が入れ替わり、更に左の刀でたしぎの刀の先端をかち上げるようにして叩いてくる。
てこの原理だ。そのままたしぎは刀を手放してしまう。
ガラ空きの胴。やられると思った瞬間、しかし、そこに叩き込まれたのは右足の蹴りだった。
「うぐ……!?」
重い鈍器で思い切り殴られたかのような衝撃だった。吹き飛ばされるたしぎ。少し離れた場所に彼女の愛刀である“時雨”が突き刺さる。
「たしぎさん!」
ウタの声だ。だが、たしぎにはそれよりも目の前の剣士のことが重要だった。
ブルーノとオリンが挟み込むような位置取りで攻撃を仕掛けるが、イルは前方に踏み込むとブルーノの背後に周り込むようにして滑り込む。無論、それでブルーノの背後は取れないがオリンの銃撃の射線はそれで切られてしまった。
あの一瞬であの動きをできるような剣士が、何故。
どうして──誰も殺せていない?
「馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
頼りない足取りで立ち上がりながら、たしぎが怒鳴る。彼女のその言葉の意味を理解できないのはウタの周囲の海兵たちだけだ。
ブルーノも、オリンも、ウタも理解している。
──この女は、こちらを斬ろうとしていない。
「どういうつもりだ?」
上から押さえつけるようにして組んだ手を振り下ろすブルーノ。それを両の刀で受けるイルはやはり、何も答えない。
足が止まったと見て、オリンが引き金を引く。だがそれを横目で見たイルは右足でブルーノの脇腹を蹴り、その身を浮かせた。銃弾はやはり、空を切る。
咄嗟に“鉄塊”で防御の構えをとったブルーノだが、僅かにその防御が崩れる。だが即座に拳を振るうと、イルはそれを右足で防御した。
後方へと弾かれるイル。この戦いが始まって初めて間が生まれる。
「普通の足ではないようだ」
「元の足は、腱を削ぎ落とされていたので」
イルが弾かれた瞬間に見えた右足は、鈍い光沢を放っていた。しかし彼女の言葉の意味を考える前に、再びイルがブルーノ目掛けて走り出す。
この場における最高戦力を最優先に。そんな思考によるものだろう。迎え撃つ体勢のブルーノはしかし、眼前に現れた人物に動きを止める。
「止まりなさい!」
ブルーノとイル。その間に、錠をかけられたウタが割って入った。
◇◆◇
その人たちが現れたのは、突然だった。
海賊という存在は知っていたし、何度か襲撃を経験している。しかし、この船には護衛のための人間が乗っているし逃げ足も早い船だ。大事になったことはない。
まあ、その後は大抵腹いせで殴られた。だから正直、いい印象はなかった。
“……その首輪、奴隷か?”
船の奥。隠れるようにして膝を抱えていた自分を見た人は、こちらに向かってそんなことを言った。その服が血で汚れていたが、気にならなかった。
殺されるのだろうな、と漠然と思った。海賊とはそういう者たちだと聞いている。お前なんか真っ先に殺されるだろうと、いつもこの船の者たちは笑っていたのだ。
しかし、その男は首輪を外すという予想外の行動に出た。
いつ振り──いや、初めてかもしれない。一番古い記憶の中では、すでに私はこの首輪を付けられていた。
男に立つように促され、よろけてしまう。逃げないようにと幼い頃に右足の腱を削ぎ落とされたせいですぐには立てないのだ。
申し訳ありません、とそう頭を下げた。だが男は怒るどころか不思議な力で杖を作り、こちらに手渡してきた。土で作った杖だと男は語る。
困惑しかなかった。何かを貰うことなど初めてだ。ボロボロになった服を繕う為の布さえ頭を床に擦り付けるようにしてようやく渡されるのに。
“ほう、奴隷か。……権力者の純粋さと、おれたち悪党の悪意。どっちがマシかわからねェな”
連れて行かれた先には、衝撃の光景が広がっていた。
この船の所有者であり、私の所有者でもある人を始めとした人員。その全ての首が床に転がっていた。
“まだ秘密裏の活動中だ。目撃者は消さなきゃならねェ。ラウンド、わかってるな?”
“……選ばせるべきと”
首輪を外してくれた男は、ラウンドというらしい。その人物の言葉を受け、何故か頭に舵輪が刺さった状態の男はこちらへ視線を向けた。
“まあ、人手はあって困るもんじゃねェが。……名前は?”
“……イル、という名を頂きました”
ほう、と男は頷いた。その彼に対し、言葉を続ける。
“いつも端に『居る』から、イルと”
その言葉に、二人の男が息を呑んだ。だが、その感情の意味がわからない。
気が付いた時にはこの船で首輪に繋がれていた。そんな私に所有者である男がそう言って名をくれたのだ。酒に酔うと、いつもこの話をあの人はしていた。
“そうか。それ以外は?”
質問の意味も意図もよくわからなかったが、首を左右に振ることで応じた。自分の持ち物と言えるものは知識を除けばこの名前だけだったから。
“……親分”
“あァ、そうだな。突然で悪いがな、イルよ。おめェ、おれたちと来るか?”
どういうことか、理解ができなかった。
“ここで死にてェんなら殺してやる。苦しみもねェ、一瞬だ。……ただ、もし。まだ何かやりたいことがあるなら、言ってみろ”
やりたいこと。
そんなことは考えたこともなかった。やらなければならないこと、してはならないことだけで精一杯だったから。
嗚呼、でも。
もしも。
たった、一つだけ。
一つだけ、望んでもいいのなら。
“歌を”
あの人の、歌を。
もう一度、だけでも。
“あの人の歌を、聴きたいです”
◇◇◇
その手が止まったのは自分の意志か、それとも違う何かのせいか。
ただ現実として、この手は止まっていた。
「そこを退いてください」
「退かない」
強い瞳と、強い返答だった。かけられた錠によって満足に動けないはずなのに。
その“歌姫”は、殺し合いの最前線に割り込んできていた。
「殺されたいのですか?」
「できもしないくせに」
その言葉で、思わず体が震えた。脳裏に蘇るのは、自分に戦う術を教えてくれた人の言葉。
“正直、才能はないでござるな。身体能力であるとか、技術であるとか。そういう肉体面の問題ではないでござるよ? ただただ純粋に、精神の問題でござる”
──いつか必ず、どこかで破綻する。
あの人は、人を殺すことと息をすることは同じと言い切った人は、そう言っていた。
理解ができない思想だった。……決して口にはしなかったが。
「私が、あなたを殺せないとでも?」
「自分を殺そうとする相手を斬れないあなたが、ろくに抵抗もできない私を斬れるの?」
きっと、その時点で致命的に間違えていたのだろう。
でも、刀を持ったのは自分自身の判断だ。
「あなたの行動は矛盾してる。心が悲鳴を上げてる」
眼前にいるのは、力を押さえ込まれた一人の女だ。
──斬りたくない。
たったの一振りで死んでしまうような、か弱い存在だ。
──傷つけたくない。
それなのに。
「痛いじゃ、ないですか」
漏れ出すようにして紡がれたのは、そんな言葉だった。
「殴られたら、痛いんです。斬られたら、痛いんです」
体が震える。数年という月日が経っても、長い年月の中で受け続けたあの感覚は消えない。
それを誰かに与えることが……怖い。
だって、痛いのだ。
だって、苦しいのだ。
それを私は、誰よりも知っている。
目の前の人も、周囲の者たちもイルのその言葉に困惑した表情を浮かべていた。だが、彼女自身にそれを考える余裕がない。
“ほう、あの大馬鹿野郎から剣術を教わってんのか。やるじゃねェか”
ふと、あの人の顔が、言葉が浮かんだ。
“無理をする必要はねェが、期待はしてるぜ。頼れる奴ってのは何人いてもいいもんだ”
期待は、初めてだった。
信頼も、初めてだった。
──必要とされたいと、願ってしまった。
「────あ」
右手の刀が、“憧れ”を貫いていた。
何かが壊れるような、音がした。