逃亡海兵ストロングワールド⑳─1
第二十三話 “フーシャ村のウタ” 前編
ポートガス・D・エースの船出の日。ルフィとウタはコルボ山の山賊たちと一緒に彼を見送った。
その場にはフーシャ村の村長とマキノも来ていた。共に三人と、そしてあと一人が世話になった二人である。
“頑張れよエース!”
船に乗り込むエースへとルフィが声を欠ける。帽子を被りながらエースは頷いた。
“待ってろ。すぐに名を上げてやる”
おう、と満面の笑みで応じるルフィ。そんな彼の隣でウタは複雑な胸中を隠しながらも笑顔で手を振っていた。
ウタは海賊が嫌いだ。だがエースは義兄。一人ぼっちになってしまった自分に寄り添ってくれたルフィの義兄であり、彼もまたウタを支えてくれた一人である。
彼が海賊になると決めたことについて、ウタは何かを言えるような立場ではない。彼の感情もわかるのだ。だからこそ否定はできなかったし、こうして見送りに来ている。
──そう、否定できなかった。
彼らが抱く想いを否定できるだけのものを持っていなかったのだ。
“…………”
チラリと、ウタは隣の幼馴染に視線を向ける。幼い頃から海賊になると言っていた少年。彼もまたこうして旅立つのだろう。
その時、自分はどうしているのだろう。
どう、したいのだろう。
(……あれ?)
ふと、気付いた。
記憶の中にある幼馴染の『海賊になる』という言葉の声が随分と幼い。そういえば、最近その言葉を聞いていないような気がする。
最後に聞いたのは、いつだったか。
“ウタ”
思考の海に沈みそうになっていたウタを呼び戻したのはエースだった。慌てて返答を返す。
“う、うん、どうしたの?”
“一応言っとこうと思ってな。……お前がどんな道を進もうがおれはお前の兄貴だ。それだけは覚えておいてくれ”
何を当然のことを、とウタは思った。だがエースはどこか優しげに微笑むと、ルフィの方へと視線を向ける。
“ルフィ。お前もだ。おれはお前の兄貴だってことを忘れるなよ”
“……いきなりどうしたんだ?”
“あの時は悪かったな。少し動揺しちまったんだ。……だが、まあ。考えてみりゃお前はそうするだろうとも納得した”
一瞬だけウタの方へ視線を送りながらエースは言う。それで何かを察したらしく、ルフィが麦わら帽子を被り直した。
“悪い、エース”
“謝ることじゃねぇだろう。……お前らは優しいからな。心配ではあるが、まあ、お前らなら何とかなるだろうとも思う”
ただな、とエースはルフィを真っ直ぐに見つめながら言葉を紡ぐ。
“男が決めたんだ。絶対に曲げるなよルフィ”
“──ああ、わかってる”
それに対し、真剣な表情で頷くエース。そんなルフィの様子を見て、そうか、と彼は笑った。
“兄ってのはどうしても弟と妹が心配になるもんなんだ”
帆を張り、船を進めるエース。彼は最後に満面の笑顔で振り返った。
“頑張れよ”
彼らしい応援の言葉だったのだとわかるのは、少し後のこと。
エースは姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。それを全員で見送った後、ルフィが笑顔で言う。
“いやー、ずっと手を振ってたなエースの奴”
“うん。でもこれはあくまでエースにとってのスタートライン。予感だけど、エースはきっと凄い海賊になると思う”
隣の幼馴染に対するものほどではないが、エースが何かを成す可能性についてはずっと感じていた。……もうこの世にはいない、もう一人の兄も。
また一人、家族がウタの前から立ち去った。思わず、右掌を強く握りしめる。
“……ごめん、ルフィ。私ちょっと部屋で休んでるね”
幼馴染に対し、絞り出したような言葉でそう告げると、ウタはその場から立ち去った。そして彼女が紆余曲折を経て預けられたダダンのアジトへと一人で戻っていく。
彼女にとっては母のような存在である山賊のダダンはエースの見送りには来なかった。兄二人に弟一人の男たちには手厳しいが、ウタに対しては三人に比べると優しかったし女性としての色々なことを教えてくれた人物である。
そのダダンは壁に寄りかかるようにして酒を煽っていた。その背中がどことなく憂いを帯びていると感じるのは気のせいではないだろう。
“エースは出発したよ”
“ふん。結局ガープに怒られんのはあたしだよ。クソガキが”
憎まれ口を叩くダダン。その彼女に対し、ダダンが見送りに来ないと知ったエースに頼まれていた伝言を伝える。
“ダダン。エースから伝言”
“何を〜? 最後の最後まで文句でもあんのかい?”
“そんなことエースは言わないよ。えっと。──『世話んなった。ありがとう』だって”
こちらを振り返っていたダダンの瞳から涙が溢れた。それを隠すようにこちらにダダンは背を向ける。
“ふざけんじゃねぇよバカが!”
言葉だけを聞くと厳しいが、その声は涙に濡れていた。素直じゃないなぁ二人とも、とウタは小さく笑う。
そのまま彼女のために用意された部屋へと戻ろうと奥へと進んでいく。その彼女に対し、ダダンが声をかけてきた。
“ウタ。お前はどうするつもりだ?”
“…………”
涙の拭い切れていない声で発されたその問いに対し、ウタは答えることができなかった。後ろ手に扉を閉め、自室のベッドに倒れ込む。
掛け布団の中に埋まるようにして入り込み、ウタは思考の海に沈んでいく。
(ルフィは、やっぱり海賊になるんだろうな)
彼の幼い頃からの目標であり、夢だった。それを覆すはずがない。
その時、ここにいる自分はどうする?……どうしたらいい?
何もせずに見送るのか?
“……やだよ……”
大切な幼馴染が、こちらに背を向けて旅立つ姿を幻視する。それはどうしようもないほどの絶望だった。
“……置いて行かないで……”
涙が混じる。体が震える。
あの日の絶望が、何もかもの色が消えた瞬間を思い出す。
“……行っちゃやだ……やだよ……”
海賊は嫌いだ。
私は、シャンクスが、赤髪海賊団が……嫌いだ。
振り返りもしなかったあいつらが、大嫌いだ。
“──行かないで、ルフィ”
絞り出すような言葉は、紛れもない心からの願いで。
だけど、決して口にできない言葉だった。
誰よりも“自由”の似合う人に、こんなことは絶対に言ってはいけないのだ。
溢れる涙を拭いながら、声を殺して少女は泣く。
“ウタ、ちょっといいか?”
どれぐらいそうしていたのだろうか。ルフィの声が聞こえた。扉の向こうにいる彼に対し、涙を拭いながら言葉を返す。
“ごめん。ちょっと一人にして”
“入るぞ”
しかし、幼馴染は強引に入ってきた。ちょっと、と抗議の声を上げながら布団から顔を出す。いつもそうだ。この幼馴染は人の話を聞かない。
こんな自分を見せたくないのに──いくつも浮かんだ文句は、視界に入った彼の姿で全て吹き飛んだ。
“……ルフィ、その格好”
“この間届いたんだよ。どうだ、似合うか?”
そこにいたのは、海軍の制服を着た幼馴染だった。ウタの分もあるぞ、と彼は包みを見せてくる。
“どういう、こと”
状況が受け入れられなかった。ああ、とルフィは常の笑顔で言葉を紡ぐ。
“おれ海軍に入ることにしたんだ。それでよ、ウタも一緒に──”
“海賊は!?”
思わず怒鳴るような声を出してしまった。バタバタとこちらへと人が集まってくる足音が聞こえる。
だが、最早そんなことはどうでもよかった。
“海賊になる、って”
“ああ。海賊はもういいんだ。……もう、いいんだよ”
苦笑いという、彼が普段決してしない表情。ただでさえ不安定な感情の中でそんなものを見せられたウタはベッドから降り、ルフィの側に詰め寄る。
“もういいってどういうこと? あんなに……あんなに、夢だって……シャンクス、を……超えるって……”
シャンクス、という言葉を口にするだけで随分と力が必要だった。そんな自分の肩を、優しくルフィが掴んでくる。
労わるような、優しい手だった。
“昔はそうだったけどな。今は違う。それに、超えるってのも何も海賊じゃないと駄目なわけじゃねぇ”
“でも、海軍なんて”
“じいちゃんにはいっつも海兵になれって言われてたしよー。まあ、そういうのもいいかなって”
ルフィは軽い調子で言っているがこれはそんな簡単な話ではない。あのルフィが“夢”を諦めようとしているなんて。
“ウタは海賊嫌いだろ? 海軍なら一緒にいられるじゃねぇか”
その言葉で、全てを悟ってしまった。
シャンクスたちに置いて行かれたと理解し、荒れに荒れていた日々。いっそのこと死んでしまうことさえ考えるほどにどうしようもなくなっていた自分は、嵐の中を彷徨っていた。
まだどこかで赤髪海賊団を待っていたのかもしれない。死にかけるような目に遭えば助けに来てくれるのではないかと、そんな風に考えて。
そして嵐の中、崖下へと落下して。けれど、彼らは来なくて。
──助けてくれたのは、年下の男の子だった。
その時、身勝手にも願ってしまったのだ。
“どこにも行かないで。ずっと一緒にいて”
幼い体で自分を助けようとしてくれた少年に。
愚かな子供であった自分は、そんな言葉を吐いたのだ。
もう誰も、いなくなって欲しくなかったから。
“ルフィ、もしかして。あの日の、こと”
幼き日の呪いを、この幼馴染は。
ずっと、背負っていたというのか。
背負わせて、しまったのか。
“何言ってんだ。おれはウタと一緒にいたいから海兵になろうって思っただけだ”
様子を見にきていた山賊たちの間で、小さな声が上がった。だが、ウタはそんなことに欠片も意識を向けていない。
嘘だ、と思った。確かにルフィは寂しがり屋で、一人ぼっちは痛いより辛いとまで言っている。けれどそれは“夢”を諦めるほどのことではないはずだ。
しかし、こんなことで冗談を言うような人間ではないことはわかっている。だから余計にこの幼馴染の行動が読めなかった。
“なあ、ウタ。──シャンクスを、捕まえよう”
呆然とするウタに対し、ルフィは言った。
“おれたち二人で、赤髪海賊団を捕まえるんだ”
そこにあったのは、大切な幼馴染の笑顔。
──嗚呼、本当に。
この人は、一体どれだけ。
どれだけ──私の心を救ってくれるのだろう。
ウタは一度、顔を俯かせた。そしてルフィの持っている包みを手に取ると乱暴にその包みを開ける。そこにはルフィと同じ海軍の制服が入っていた。
それを体の正面に当て、ルフィに問う。
“どう? 似合うかな?”
ちゃんと笑えているかはわからなかった。だがその人は、満面の笑みで。
“似合ってるぞ!”
そう、言ってくれた。
似合うぞ、と山賊たちからも声が上がる。そんな彼らにウタは苦笑を返す。
“海兵になったら皆を捕まえなくちゃいけないんだけど?”
“げっ、そういやそうか”
“勘弁してくれよ〜”
“でもガープさん見逃してくれてんだしいいんじゃねぇの?”
わいのわいのと言い始める山賊たち。……家族たち。
その姿を眺めている自分が自然と笑みを浮かべていることにウタは気付いた。そして、目の前で山賊たちの姿を見て笑っている幼馴染に声をかける。
“ね、ルフィ”
“うん?”
“ありがとう”
この時、ウタは決めたのだ。
この大切な人の隣にいたいと願ったのは自分で。そして、彼はそれに応えてくれたのだから。
未来に、何があっても。
──私は、ウタは、彼のために生きよう。
彼の隣で、歩き続けよう。
そんな風に、決めたのだ。
これは、後に世界そのものを変えることになる二人の英雄、その始まりの物語。
それを知っているのは、何の因果か二人と山奥の無法者たちだけである。
◇◇◇
無音の戦闘というのは想像よりも遥かにやりにくいものである。
人は五感を常に働かせながら生きている。視覚による情報が八割を占めるというが、それは他の感覚がなくてもいいというわけではない。特に戦闘ともなれば五感を研ぎ澄ませて行う必要があるし、その中で『音』というものは非常に重要な位置にある。
歴戦の強者は誰もが視界だけに頼った戦闘をしない。海兵ともなれば尚更だ。海賊との戦闘に卑怯も汚いもない。そこで視界だけに頼れば待っているのは死だ。
故に経験を積んだ海兵たちは五感をフルに活用した戦闘を自然と覚えていく。訓練でも指導されることではあるが、やはり実戦における経験に勝るものはないというのも事実。
そういう点において、ウタとルフィの二人は入隊当時からそれらの技術を身につけていた。世間的には“英雄”と呼ばれる人物にジャングルに置き去りにされたり風船に括り付けて飛ばされたり千尋の谷に突き落とされたりした二人は身を寄せ合い、そして生き残るためにありとあらゆる技術を身につけたのだ。
入隊直後の訓練でサバイバル訓練があった時、あまりの手際の良さに当時の教官がドン引きしたのが二人の海兵生活の始まりである。
……このことについて感謝はしていない。したくない。絶対にしないとウタは決めているが、それはそれとして身につけた技術は役に立っているから複雑である。
だが──だからこそ、この戦闘はあまりにも特殊に過ぎた。
『“嵐脚”』
右足を振るい、ウタは斬撃を飛ばす。当たるとは思っていない。相手の進路を制限するのが狙いだ。
右か左か。どちらに避けるか。そこを読み、銃弾を叩き込むのが狙い。
普段であれば“見聞色の覇気”と合わせて『音』という彼女独特の感覚で相手の動きを捉えるのがウタの戦闘方法だ。“見聞色の覇気”についての才能はルフィ以上と謳われる彼女は相手の動きを読み、訓練で培った手札の多さで戦う。自分の悪魔の実の能力を徹底的に伸ばしたルフィとは真逆だ。
その戦闘スタイルから考えてもカガシャは非常にやりにくい相手であった。
いや、そもそも彼女と戦うことが楽だという者がいるのかという話でもあるのだが。
(読めない)
右か左か。カガシャの次の動きがウタには読めない。音がないというだけでこれほどまでに戦いにくくなるのか。
人間に限らず生物とは音の塊である。心臓の音は生物の基礎だ。ウタはそれらを捉え、場合によってはこちらに合わせることさえもやってのける。そうして相手を“読む”のだ。
しかし、カガシャにはその音がない。正確にはあるのだが、ウタには届かない。必然視界に頼る比重が大きくなり、どうしても精神を疲労させていく。
『────ッ』
視界から消えた一瞬の後、ギリギリでウタの“見聞色の覇気”がカガシャを捉えた。右でも左でもなく上。“嵐脚”の斬撃を飛び越えてきたのだ。
振り下ろされたナイフを左手の刀で弾き、それによって捻った身の勢いそのままに右足の回し蹴りを放つ。だがそれは振り下ろされたナイフとは逆側、左手のナイフで防がれた。“覇気”を纏うが故に刺さらなかったが、かといって相手にダメージが通る訳でもない。
「ふっ」
呼吸音。カガシャが蹴られた勢いそのままに身を捻った。眼前で体を文字通り一回転させ、勢いを乗せたナイフの一撃でこちらの喉元を狙ってくる。
体を屈め、それを避ける。そのまま相手の足を薙ぐように刀を振るった。それをカガシャは後方へと跳躍して回避する。
互いの距離が開き、間ができる。相変わらず何の音もウタには届かない。
──奇妙な感覚だ。何の音もしない世界。考えてみれば、そんなものは初めての経験だ。
物心がついた時には船の上にいた。波の音を子守唄にして過ごし、騒がしい海賊の日常が彼女にとっての原風景である。
その日常を失った後にいたのは、いつも騒がしい幼馴染との日常だった。前向きで、ひたむきで、いつだってどんな時だって信じられる大切な人。その人と過ごした日々。彼の兄であり、ウタの兄でもある人たちとの日々。山賊なのに妙に憎めない家族との日々。
海軍に入ってからもそうだ。彼のために歌っていたところを見出され、世界に歌声を届けようと言われて。多くの人に囲まれて、そんな時でも彼は隣にいた。どんな時でも隣で、彼は笑ってくれていたのだ。
大好きなあの笑顔で、いつも。
(そっか。いつも……ルフィが)
騒がしい日常には、いつも彼がいた。
だからこそウタという人間は、“寂しい”なんて思うことがなかったのだ。
悲しいと思うことはあっても。
苦しいと思うことはあっても。
切ないと思うことはあっても。
それでも、彼がいたから寂しくはなかった。彼女はいつも、彼の“音”と共に在ったのだ。
(妙な感覚)
自分自身の音さえも聞こえず、感じられるのは目の前にいるのに霞のように存在感のない佇まいをする暗殺者だけ。
まるで世界に取り残されたかのような感覚。
貫かれた腹に痛みが走った。それが今、自分が生きているということを教えてくれる。
(いつもと違う)
状況が普通ではないということもある。だがそれ以上に、いつもの自分とは違う『何か』がある。
世界に自分が溶け込んでいるかのような感覚。
目の前の敵だけを考える感覚。
──それは、彼女の才能の発露。
積み上げてきた全てが、ここにきて一つの形を成そうとしている。
「────」
変わらず、聞こえるのは呼吸音だけ。カガシャが地面を蹴る音さえも響かない。
相手は三億を超える賞金をかけられた海賊だ。その全力は今までウタが相対してきた『敵』の中で誰よりも強い。
霞のように捉え所のない気配を“見聞色の覇気”で捉え続ける。それには集中力が必要だが、余計な何かがないこの状況であれば逆に捉え切れる。
右手のナイフ。
突き。
そのまま手首を返しての振り下ろし。
刀で受ける。
眼前にナイフ。
しかしそれよりこちらの銃口が向く方が早い。
回避。右だ。
距離を取る。逆側へ。
死角に入られた。だが捉えている。
──振り向き様、こちらの左脇腹を狙うカガシャを撃つ。
『────ッ』
そこで、致命的なミスに気付く。
彼女の“見聞色の覇気”が、その未来を捉えた。
──カガシャの狙いは、こちらの右脇腹だ。
数瞬の後。
鮮血が、音もなく宙を舞った。