追憶/[フブキ=クロックフォード]の場合

追憶/[フブキ=クロックフォード]の場合


 その日、お忍びでカナイ区に来ていたクロックフォード家令嬢フブキは不思議な集団と出くわした。

「なぁ、ミーちゃん、ご主人様が待ってるぜ、お家に帰ろうな〜」

 木の上でスヤスヤと寝ている三毛猫に語り掛ける草臥れた印象の男性。

「部長。声をかけるよりも気を引くものを使って注意をこちらに寄せた方がいい。それにしても……よく寝ていて可愛らしいな。いっそ、満足させるまで寝かせてあげるというのはどうだ?」

 凛とした瞳が印象的な、美しいひと。

「ハララってこれで猫好きを隠してるつもりだからすげーよな……」

 呆れたように首を振る亜麻色の髪の青年。

「……」

 木に寄りかかって眠りこけている耽美な雰囲気の男性。

 仲が良さそうな四人組がどうにかこうにか猫を捕まえようとしているようだ。

 フブキはその様子を微笑ましく見守っていた。

 カナイ区はギンマ地区。比較的治安が良いとされる場所だ。……だから彼らもフブキも油断したのだろう。

 ……まさかあんなことが起こるなんて。

「にゃーん!」

 不意にミーちゃんと呼ばれていた猫が木から飛び降り、ハララと呼ばれていた人の頭を踏みつけ方向転換し、逃げてしまった。

「げほっ」

「わ! 大丈夫かハララ!」

 猫アレルギーなのだろうか、咳き込み始めるハララに部長と呼ばれた男性が声をかけ背中を摩る。

「げほ、ごほっ……ヤコウ部長、僕のことは構わずにミーちゃんを追うんだ……」

「馬鹿! お前を放っておけるか!」

「死亡フラグ建ててる場合かよ!?」

「ねぇ……早く猫を追った方が良いんじゃないかな……」

 眠っていたはずの青年がいつの間にか目を覚まし、口を開いていた。

「あの猫……今にも横断歩道に突っ込んでしまいそうだよ……」

「な、何ッ!?」

「まずい! ヴィヴィア、ハララを見ててくれ! デスヒコ、行くぞ!」

「おう!」

 ヤコウとデスヒコが横断歩道の方へ駆け出していく。

 カナイ区では横断歩道を渡ろうとする人を察知して信号が変わるシステムを採用しているが、猫を察知することは難しいようで、車は止まらない。

 人間の道理を無視した猫が横断歩道を渡ろうとして、そこにトラックが突っ込んできて——。

「ダメですっ!」

 ——時が逆さまに流れ始めた。

 

「なぁ、ミーちゃん、ご主人様が待ってるぜ、お家に帰ろうな〜」

「部長。声をかけるよりも気を引くものを使って注意をこちらに寄せた方がいい。それにしても……よく寝ていて可愛らしいな。いっそ、満足させるまで寝かせてあげるというのはどうだ?」

「ハララってこれで猫好きを隠してるつもりだからすげーよな……」

「……」

 再び猫は木の上に、ヤコウやハララ、デスヒコにヴィヴィアは猫を下ろそうとし始める。

 先程猫が横断歩道へ突っ込んでしまったのを知るのは、フブキ一人。

 クロックフォードの人間が使う秘術『時戻し』を使用したのだ。

 一度時を戻した以前の時間には戻れないという制限と、使用者の体力を奪うという欠点こそあれど、正に『人間離れした』能力である。心優しい少女であるフブキは躊躇うことなく猫のために能力を使用し、ぐったりとしながら未来に起こる危機を回避するため、ヤコウ達に話しかけた。

「はぁ、はぁ……あのぅ、すみません……」

「どうしたんだい、お嬢さん?」

 デスヒコがキメ顔でフブキに応える。

「どうかしたの? なんか辛そうだけど」

 ヤコウも首を傾げながら振り返り、ハララは猫を気にしたまま視線だけをフブキに向ける。

「気をつけてください、猫ちゃん、横断歩道の方に行ってしまうので……」

「……あぁ。気をつけよう」

 ハララが頷き、猫を見上げる。すると。

「にゃーん!」

 猫がハララ目掛けて飛び降りた!

「ハララさん危ないっ!」

 フブキの声にハララが反応し、素早く避ける。……一瞬悔しそうな顔をしていたのは気のせいだろう。

 ハララを足蹴に方向転換を目論んでいた猫は地面に着地し、駆け出そうとしたところで……。

「よっと!」

 デスヒコに掬いあげられるように捕まった。しばらく彼の腕の中でじたばたと暴れていた猫だったが、諦めたのかすぐに大人しくなった。

「凄いですデスヒコさん!」

 フブキの賞賛にデスヒコは破顔しながら「いや〜それほどでもないって」と応える。

「……あれ? オイラ名乗ったっけ……?」

「あ……え、ええっと……」

 一転、首を傾げるデスヒコにフブキはしどろもどろになりながら俯いた。

 時を戻す前に聞いた名前で思わず呼んでしまったが、彼らの主観ではフブキの前でデスヒコの名前を呼んではおらず、フブキが知る機会は無いのだ。

 怪訝そうな四人の視線から逃れるように顔を背ける。

「……もしかして! オイラの名前が広がってるってことかな!?」

「えっ!?」

「寝言は寝て言え」

 冷徹なハララの声にもめげずデスヒコが弾んだ声でフブキに訊ねる。

「なぁなぁ、オイラのことどこで聞いたの? ……ていうかお嬢さん名前は? どこ住み?」

「はい、わたくしフブキ=クロックフォードと申します! ……あっ! 申し訳ありません、わたくしがクロックフォードの娘だと言ってはいけないのでした……うぅ……。お忍びでしたのに……」

「喋っちゃダメそうなこと全部喋っちゃったね……」

 苦笑いを浮かべるヤコウ。

「あのクロックフォードか。ならばデスヒコの名前を知っているのも頷けるな」

 ハララが頷くと、いつの間にか目を覚ましていたヴィヴィアが補足するように口を開く。

「クロックフォード家の人間が持つ、時を操る力……だね。戻してしまった時の中で私たちの名前を聞いたのかな……?」

「まぁ! よくご存知ですね! まるで本物の探偵さんみたいです!」

「……僕達は保安部だがな……」

 両手を合わせ花のような笑顔をうかべるフブキ。一方褒められたはずのハララは少々苦い顔だ。

「……そう考えると色々辻褄が合うな。フブキちゃんが疲れてるように見えるのも、もしかして能力のせいだったり?」

「はい……、恥ずかしながらわたくし、能力を使う度に疲れが出てしまうのです」

「なら、ちょっと座れる場所に移動しようか。ここで立ち話も何だし、それに、ミーちゃんもヨミーに預けないといけないし……」

 ヤコウの提案で近くの公園に立ち寄ることにした。ミーちゃんはまた逃げ出されると困るのでケージの中に入ってもらう。

 彼らは保安部のはずなのになぜ猫探しをしているのか訊ねると、今日は平和な一日、つまりびっくりするほど暇だったので探偵の仕事を手伝っていたらしい。

 ヨミーへの連絡を終えたヤコウが自動販売機で買った水をフブキに渡す。

「水で良かったかな?」

「ありがとうございます、ヤコウさん」

「気にしないで」

 一行はベンチに腰かけ、ヨミーを待ちながらフブキの話を聞くことにした。

 お屋敷の中では決して会話できないような人たちと会話ができてフブキはテンションが上がっていた。

「わたくし、お屋敷の外にほとんど出たことがなくてこういうお水を飲むのも初めてなのです」

 キラキラとした笑顔でデスヒコに教わった通りにキャップを開けるフブキ。

「今日は世間を知るためにお忍びで来たのですが……、わたくし召使に『無知無知』と言われてしまうほど無知で……」

「お嬢、多分それ違う意味だぞ」

「ですので、よろしければみなさん、この街を案内してくださいませんか?」

 元気よく立ち上がりぺこりとお辞儀をするフブキに四人は笑顔で頷いた。

「オイラ達で良ければ力になるぜ」

「案内ならカナイ区生まれカナイ区育ちに任せてよ」

「……しかしあの探偵、遅いな」

 ハララがため息をついて腕時計を確認する。

「普段はここまで人を待たせるような奴じゃないだろう」

「闇を歩まんとする者の前には必ず闇が姿を現すということかもしれないね……まるで導かれるかのように……」

「事件に巻き込まれてるかもしれないってことか。もう一度連絡取るか」

 ヤコウが懐から古い型の携帯電話を取り出す。ボタンを押してヨミーを呼び出す。

「おいヨミー、なんかあったのか? ……早く逃げろ……? 一体何の」

 ヤコウガそれ以上言葉を紡ぐことは無かった。

 ドカン!

 近くで爆発が起こり、爆風に煽られたヤコウが体勢を崩す。

「部長!」

 ヴィヴィアが叫んだ、と同時に——再び時が逆さまに流れる。


「気にしないで」

 水を手渡し、ベンチに座ろうとしたヤコウの手を引く。

「みなさん! 早く逃げましょう!」

「まさか何かあったのか?」

 素早く立ち上がったハララにこくりと頷く。短時間の間に時戻しを使ったせいで頭がぐらぐらするが、弱音を吐いてはいられない。

「この公園が爆発します! ……ヤコウさん、早く!」

「お、おう」

 ヤコウを急かすフブキに何かを察したのか、珍しくヴィヴィアが厳しい顔で周囲を見渡した。そして、とある一点を見つめ、低い声で告げる。

「……こちらに近づいてくる彼ら。妙な荷物を持ってるみたいです……」

「わたくしには、分かりかねますが……多分、その人たちが……」

 息を荒らげ、辛そうな様子のフブキに、ヤコウが心配そうに顔を覗き込んだ。

「フブキちゃん、しんどいだろ。オレが背負っていくよ」

「ありがとう……ございます……」

 素直にその言葉に甘え、ヤコウに背負われる。昔父親が同じように背負ってくれたことを思い出してフブキは懐かしさに微笑んだ。

「オイ部長! アンタ恋人がいるクセにお嬢とフラグっぽいの建てる気か!? そんなの、天地や法律が許してもオイラが許さねーぞ!」

「この流れでそういう考えになる方が良くないと思うよオレ!」

 賑やかな言い争い、のような何かを交わすデスヒコにヤコウ。ハララとヴィヴィアの方は怪しい人物に注意を払いながらも二人を微笑ましそうに見守っている。

 ——フブキは彼らと共に行動する「この瞬間」を心から楽しんでいた。だからこそ「カナイ区を案内してもらう」という約束を結び、それが巻き戻した時間の中で消えてしまったことを一瞬だけ哀しんで……また前を向いた。

 一行は素早く公園から出て、周囲の安全を確保した後にもう一度ヨミーと連絡をとった。

 ヨミー曰く、現在テロリストがカナイ区の各所に爆弾をしかけ、その混乱に乗じて銀行強盗が銀行を襲い……といった犯罪ドミノ倒しのような状況になっているらしい。

『さらに最悪なのはよりにもよって今日、かのクロックフォード家の令嬢がお忍びで来てる……ってことだ』

「あぁ、それなら問題ない。彼女はオレたちと一緒だ」

『……探偵であるオレが言うのもなんだけどよ、オメーらそれなりに事件を呼び込む才能があるんじゃねぇか?』

「冗談言うなよ……オレたちは保安部で、むしろ事件が起きないように奮闘する側だろ」

『……それもそうだな。……あぁ、そうだ。探してもらってたミーちゃん、三毛猫のオスだそうだ。どこで聞き付けたかは知らねーが、その子を狙ってるヤツも居るみてーだ』

「えぇ……」

『テロリストだの銀行強盗だのはオレたちと警察がなんとかするから、オメーらはクロックフォード家の令嬢を頼む』

 

「——というわけでみんな! フブキちゃんとミーちゃんを守るために頑張ろー!」

「……平穏とは、かくも水面のように揺らぎやすく儚いものなのですね……。はぁ……いつか死にたい……」

 しゃがみこんでしまったヴィヴィアとは対照的に、ハララとデスヒコは乗り気なようだ。

「なに、僕が関わる以上問題無く片付くだろう。……これだけの大事に巻き込んだんだ。弊社はそれなりの報酬を用意するだろうしな」

「とりあえずこれ終わったらなんか奢れよ! 部長!」

「わかった、わかった」

 軽口を叩き合いながら、一行はカナイ区で最も安全だろうアマテラス社へ向けて出発した。そこに辿り着けば、もう誰にも手出しされまいと考えたのだ。

 公園の近くに停めていたヤコウの車に急いで乗り込む。

「古いし狭いけど我慢してくれよ、フブキちゃん!」

「まぁ、わたくしこんな可愛らしいお部屋に招待されるのは初めてです」

「お、お部屋?」

「フブキくん、大地に眠る多数の小さい命が巡り巡って重大な事態を引き寄せる……そういうこともあるんだよ……」

「……なぁ、あの会話繋がってんのか?」

「翻訳を依頼してるのか? なら、五千シエンだ」

「ちげーよ!」

 呑気な会話を繰り広げながら発進したと同時に、爆発音が響き渡る。

 公園の爆発を背景に、フブキ=クロックフォードと、かつてオークションで二千万シエンの値段が付いたという三毛猫のオスを守るため、保安部の大冒険が始まった。

 ヨミー曰く犯罪のドミノ倒し状態だというギンマ地区を早々に抜け出し、カマサキ地区に入った——ところで黒い車に四方を囲まれる。

「うわ! 何だこいつら!」

「先ほど公園を爆破したテロリストだ」

 黒い車にジリジリと接近される中、助手席に座っているハララが冷静に相手を分析している。

「おそらく相手は武器を持っているだろう」

「うおおおい、部長! あいつらこっちにピストル向けてきたぜ! 部長のボロい車の壁なんて簡単に撃ち抜けちまう!」

「ヴィンテージって言ってくれ!」

「……部長が頷いてくれれば、僕は奴らを一網打尽にできる」

「わ、わかった! ハララ、策があるならお前に任せる!」

「良い判断だ」

 ハララは足元に置いてある、それなりに大きい筒状のものを取り出した。

 誰が、どう見ても。

 バズーカである。

「何でそんなもんオレの車に積んでるんだよ!!」

「さっき任せると言っただろう、部長」

「つーか部長も気付けよ、積まれてることに!」

 絶叫するヤコウとデスヒコを綺麗に無視し、ハララは一切の躊躇無しにバズーカをぶちかました。

 ドカーン!

 すぐ近くから放たれる分、先ほど公園で起きた爆発よりも大きく聞こえる爆発音。木っ端微塵になる黒い車。仲間がまさかバズーカで撃たれると思っていなかったのか、陣形が乱れる残りの三台。動揺しながらもヤコウのドライブテクニックでどうにかその間を縫うように通り抜けていく。

「嘘でしょ……本当に撃っちゃった……」

「あはは、楽しい!」

 呆然とその様子を見つめるヤコウとは対照的にフブキはキラキラと瞳を輝かせて笑みを浮かべる。

 今バズーカ撃ったよなあの車! 何が起きてるの!? と街を大混乱に叩き落としながら一行はカマサキ地区を駆け抜けていく。

 バズーカの衝撃のせいで何かしらのパーツが吹っ飛んでしまったのかガタガタ揺れながら走る車の中でも、ヴィヴィアはスヤスヤと寝息を立てている。

「ところで、こちらの、えーと、ヴィヴィアさん……はずいぶん寝つきがよろしいのですね」

「幽体離脱の能力で周囲を探ってくれてるんだ」

「本当に寝てるのかも知れねーけど」

 デスヒコが肩を竦めると、ヴィヴィアがそれに反応したかのように目を覚ます。

「……部長。アマテラス社へと向かう橋ですが、交通規制が敷かれています……」

「……まずいな。そうなるとアマテラス社へ向かうのは難しいか……」

「あの、みなさん。わたくしに提案があるのです」

 フブキが小さく手を上げる。

「どうしたの、フブキちゃん」

 ヤコウの声に促され、フブキは凛と前を向いて口を開く。

「……わたくしだけでしたら、悪者の皆さんに投降する、というのも考えていました。しかし、今は皆さんと一緒です。皆さんがわたくしを守ってくれたように、わたくしも皆さんを守りたい……。だから、わたくしの力を使って、川を飛び越えましょう!」

「なんか急に話が飛んだな。ええっと、川を飛び越えるって……?」

 首を傾げるデスヒコに、ハララが腕を組みながら応える。

「僕が持ってきたバズーカをブースター代わりに使って川を飛び越える、ということだろう。理論上はできなくもないが……」

「フブキくんの能力で何度もやり直せば必ず成功する……そう言いたいんだよね?」

 優しい眼差しでフブキを見つめるヴィヴィアに力強く頷く。

「はい、その通りです!」

「けど、能力を使ったらフブキちゃんが……」

「……部長。ここはお嬢に託そうぜ」

 デスヒコの言葉にヤコウも覚悟を決めたようだ。頷くとハンドルを切り、河川敷へと向かう。

「今から行く河川敷にはちょうどジャンプ台になるような廃材が放置されてる。それを使うぞ」

 ヤコウの言葉に四人は頷き、川を飛び越えるための準備を始めた。

 幸いにも河川敷には人の姿が見えない。おそらく大騒ぎになってしまっているため皆家に籠っているのだろう。

 アクセルを踏み続け、ほとんど最高速度を保ったままジャンプ台から車が飛び出す——!

 ドン! とバズーカが撃たれたが力が足りず、車が自由落下を始めたところで、時が遡る。


「はぁ、はぁ……」

「……失敗したか。どう撃てば良い?」

「ええっと、もう少し早めに、下向きに撃つと良いかもしれないです」

「わかった。……そうだ、デスヒコ、ヴィヴィア。確か後ろにもバズーカを積んであったはずだからそれも使ってくれ」

「ハララ、人の車を勝手に武器庫にしないでくれよ!」

「安心しろ。積んでいるのは部長の車にだけだ」

「あぁ、なら良いんだけどさ」

「いやダメだろ!!」

 ツッコミを入れながらデスヒコがバズーカを構える。徐にヴィヴィアもそれに倣う。

 そして——再び、車が宙を舞う。まずは一発目、ハララが早めにバズーカを撃ち、高度を稼いだところで、デスヒコとヴィヴィアが地面と平行に撃つ。

 ドンドン!

 爆発音の中、フブキは手を組み、じっと祈る。

 お願い、どうにか届いてください!

 フブキの祈りが通じたのか、空を切り突き進んでいく車は十分対岸に届きそうな速度を保っていた。

「着地するぞ! 全員衝撃に備えろ!」

 ヤコウが叫んだほんの数秒後に、ダン! と大きな音を立てて、車が着地した。衝撃で身体を打ったが、重症ではない。

「や、やった……! わたくし達、成功したんですね!」

 フブキが歓声を上げる——しかしすぐに首を傾げる。

「あら? この臭いなんでしょう?」

「エンジンオイルっぽくないか?」

 デスヒコの言葉にヴィヴィアが頷いた。

「私たちはどうにか耐えられたけれど……部長の車は、ダメだったみたいですね……」

「ああ、今の衝撃でとうとうエンジンオイルが漏れ出したんだな。そのうち、ガソリンも漏れるんじゃないか?」

「の、呑気に言ってる場合じゃないって! 早くみんな降りろ! この車爆発するぞー!!」

 ヤコウの号令で一同が慌てて車から降り、アマテラス社へ駆け出す。十分距離を取るのをじっと待っていたかのように、安全な場所まで皆がたどり着いたところで……車は爆発した。

 ドッカーン!

 本日五度目の爆発音である。フブキにとっては八度目ではあるが。

 轟々と炎上する愛車を見つめながら、ヤコウが膝から崩れ落ちる。

「……オレの車が……」

「ま、流石にボロすぎたし良いだろ。この機に買い換えれば良いじゃねーか」

「あの車に恋人を乗せるわけにもいかないだろうしな」

「……私は好きでしたよ、部長の車……」

「ハハ……ありがとなヴィヴィア………………うん、そうだよな。みんなが助かったから良いよな。うん……」

 複雑な顔をしたままヤコウは何とか立ち上がる。

「それにしても、猫探しから随分大事になっちゃったな……」

 ハララが抱えているケージの中のミーちゃんは、あの爆走と爆音の中すやすやと大人しく寝ていた。ヴィヴィアみてーな猫だな……とデスヒコは評していた。

 ヤコウが頭をかきながら呟く。

「こんな大事になってなかったら、フブキちゃんにカナイ区を案内したかったんだけど……」

「えっ」

 カナイ区の案内。

 巻き戻した時間の中で消えてしまったはずの約束だった。

 いや、フブキはきちんと理解している。ヤコウが約束を覚えているはずがないと。

 偶然口にしただけだと。

 ——だけど。

「……ん? どうしたの?」

「……いいえ、なんでもありません」

 まるで消えた約束を果たそうとしてくれたみたいで。

 嬉しかったのだ。

「何言ってんだ部長。オイラたち保安部だぜ? これからスバーッと騒ぎを納めて、んで、お嬢を案内すりゃいい話だろ?」

 腕を腰にやって仁王立ちをしながら言うデスヒコにハララも頷く。

「大事になった原因である事件の方は、あの探偵が解決しているだろうしな」

「……面倒だけど……やらないとね……」

「そうだな」

 部下たちの言葉にヤコウは微笑んで首肯する。

「そういう訳で、フブキちゃん。一旦オレたちは街に戻るよ。騒ぎを納めたら……みんなで街を回ろうか」

「はい……はいっ! 楽しみにしてます!」

 両手を合わせ、フブキは笑顔で頷いた。

 うっすら涙が浮かんでいたけれど……誰もそれを指摘せずに、ただ、幸せそうな彼女の様子を見守っていた。

 

 ヨミーの事件解決に伴い、街は意外と早く落ち着きを取り戻した。

 さすが能力を持っていないにも関わらず世界探偵機構に認められた男だなぁ、と感嘆する。同時に、もしもヨミーがヤコウと同じように保安部の部長だったとしたら、その手腕で一気に会社の権力争いを鎮め重要ポジションになっていただろうなと想像もしてみる。

 閑話休題。保安部メンバーはフブキと合流し、あれはなんですか、これはなんですかとはしゃぐフブキにあちこち連れ回されていた。

 ゲームセンターにも行ったことがないということで、ヤコウが少年時代に通い詰めたゲームセンターに入店した。何だかずいぶん変わったなぁ、と感慨深く周囲を見回す。

 ゲームの腕に自信があったヤコウがお手本として格闘ゲームを遊んで見せたところ、昔よりもボタンが多くなっておりよくわからないままハララにボコボコにされた挙句「目隠しをして操作してるのか?」「部長、いくら何でも弱すぎだぜ」と言葉でもボコボコにされてしまった。

 フブキはそれを見て何故だかやる気を出し、ハララの指導の元デスヒコを練習相手に頑張ってコンボを繋げている。

「あれだけ色々あったのに元気だな、フブキちゃんは」

 早々に寝転がってしまったヴィヴィアをベンチに座らせて、ヤコウもその隣に腰掛ける。

「……標本の中で輝く永遠を尊ぶよりも、野の中の羽ばたきを尊ぶ……彼女は……そういう人間なんでしょうね」

 ヴィヴィアの言い回しは難解だが、何となくニュアンスは伝わったので、こくりと頷いた。

「偶然だったけど、フブキちゃんと交わした約束のことをオレが提案できて良かったよ」

「ふふ……」

 ヴィヴィアが微笑を浮かべ、ヤコウを見上げる。

「部長は……灯台のような人ですね……いつも私たちを……みんなを暖かく照らしてくれる……」

「……そう言ってもらえて嬉しいよ」

「ヤコウさん! 見てください!」

 フブキの明るい声が響く。

「ハララさんとデスヒコさんのおかげで、わたくしもショウリュウケンが出せるようになりました!」

「おお、凄いじゃん」

「お嬢は吸収がはえーな」

「練習すればもっと上手くなるぞ」

 いつの間にやら兄/姉のような顔でフブキを見つめるハララとデスヒコ。フブキの持つ純粋さが、二人の心を溶かしたのだろう。

「わたくし、ゲームがこんなに楽しいことを知りませんでした。世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあるのですね!」

 ニコニコしていたフブキだったが、何かを決意したようで強い眼差しでヤコウを見つめる。

「やはりわたくし、クロックフォードを継ぐ者として、もっと色々な経験をしなくてはならない、と痛感しました。そこで……その。皆さんがよろしければ……」

 フブキの言葉を待つ。

「よろしければ、わたくしも皆さんと一緒に働かせてくださいませんか?」

「——あぁ、フブキちゃんが良ければ、オレたちは歓迎するよ」

 部下を振り返ると、ハララは微笑を浮かべ、デスヒコは満面の笑みで何度も頷いている。ヴィヴィアも目を細めてフブキを見つめている。

 反対意見は無いようだ。

「ええっと、じゃあ、じゃあ……! 皆さん、どうかどうか……よろしくお願いいたします!」

 ゲームの機体が発する騒がしいBGMに包まれる中。

 フブキ=クロックフォードがアマテラス社の保安部に加入することが決まったのだった。

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 今がどんなに哀しくても。

 あの時の決断を後悔することは無いのだろう。

 フブキは懐かしい河川敷へと訪れていた。

 今でも覚えている。小さな車がカナイ区の空を舞ったこと。フブキの人生を変えた大冒険のことを。

 楽しい思い出が残っている場所にくれば、身体の震えは止まってくれると思っていたのに。

 フブキの願いに反して、両手の痙攣が止まない。

 ——つい昨日。ヤコウの命令で公開処刑が行われた。保安部、ひいてはアマテラス社を裏切った人間が処刑されたのだ。

 フブキには難しいことはわからなかった。だが、「そいつは無実だ、何考えてやがる!」と叫んでいたあの探偵や、ハララとヴィヴィアの表情が晴れなかったことを考えるに。その人間は無実だったんだろう。

(わたくしがもっとちゃんと能力を使えていたら、部長もまた前みたいに笑ってくれたのでしょうか……)

 空白の一週間から、少し後。一度だけ、ヤコウの方から話しかけてくれたのだ。

「『フブキちゃん』は時を戻すことが出来ても……半日ぐらいが限度だったよね」

「は、はい……。それ以上はどうしても……」

「——うん。知ってるよ」

 その時の、ナイフの様なヤコウの横顔……今でも思い出せる。悲しみや怒りや憎悪や全ての感情の奥底に——寂しさが、あった。

 フブキには、あの探偵の様な推理力や、ハララとヴィヴィアのような聡明さも無ければ、デスヒコのような相手の気持ちを察する気遣いもできない。

 でも、フブキは誰よりも共有した想い出が無くなってしまう寂しさを知っている。

 だから、ひょっとしてヤコウもそうなんじゃないかと思ってしまった。

 クロックフォードの娘として時がフブキを追い抜くことがあったらすぐに気づくと思っていたけれど、そうじゃないのかも、と。

 もしもフブキの考えがあっていたら。

 わたくしたちみんながヤコウ部長との約束を忘れてしまっていたのだとしたら。

 みんなで謝って、ヤコウ部長の寂しさに寄り添おう。

 ——同じ時間を過ごしている限り、想い出は何度でも作ることが出来るのですから。

 だから部長。きっとわたくし達に教えてください。部長の寂しさを……。

 フブキは雨雲の向こうの、カナイ区の空から消えてしまった星に、祈った。祈り続けた。


◆終◆

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