追憶/[ハララ=ナイトメア]の場合

追憶/[ハララ=ナイトメア]の場合


 世界にその名を轟かせる大企業アマテラス社にも閑職と呼ばれる部署は確かに存在している。

 ヤコウ=フーリオが部長を務める保安部こそ、アマテラス社の窓際部署、素行不良社員の流刑地と呼ばれる場所である。

 本来保安部とは要人警護、証人保護、テロ対策、警察交渉などの警備関係を担当する部署である。また、さまざまな部署が存在し機密事項も多いアマテラス社において、社内警察、治安保持のような役割を担ってもいる。しかし社内において圧倒的に金と権力を持っている他部署は保安部を恐れることなどなく、保安部の発言力などあってないようなものであった。

 他部署から送られる「本日も異常なし」の無意味なメールに「了解です」の無意味な電子署名を記入し、カナイ区の警察が嫌がるような仕事——酔っ払いの喧嘩等——を代わりに片付け、商店を冷やかして、そしてまたメールを確認しながら煙草を吸って……空っぽの毎日の繰り返し。

 何か運命が違っていたならば探偵特殊能力が無くとも世界探偵機構に認められるほどの優れた知能を持ったヤコウ=フーリオがこの仕事に就いているのはひとえに彼がお人好しでナメられているからである。

 かつては優れた能力を駆使し社内でもそれなりのポストにいた彼だったが、当然のように嫉妬の対象になり、後ろ盾もない彼は当然のように左遷された。誰かが引かないといけない貧乏くじなら、自分が引いてやろう。と諦め半分、保安部なら故郷を支配する会社を少しでも良いものに変えることができるのでは? という期待半分で保安部の部長に就いたものの、当然一人では何もできずに、穏やかな青空を眺めながらのんびりと煙草を吸う日々を送っているのであった。

「そんな保安部に期待の新人ねぇ」

 無駄な文面を省けば「部下が増えるよ」と書かれたメールをぼんやりと眺めながらヤコウはぼやいた。どうせその新人もすぐに「功績」をあげてさっさと元の部署に戻るだろう。保安部とはそういう部署である。

 ヤコウに求められている仕事は送られてきた「部下」に「キミはよく頑張った」と言ってやること。それを保証する書類を作って提出すること。……それだけだ。

 はぁ、とため息をつきながら煙草に火をつけ有害物質を体に取り込もう……としたその瞬間である。

 バドン! と爆発音、あるいは破裂音によく似た音が響き渡った。

 音源はヤコウの目の前、保安部室のドアである。

「ここが保安部か」

 涼やかな声に顔を上げると、鋭利な朱色の瞳でこちらを見つめる美しい人間が光を背に立っていた。

「——もしかして、ハララ=ナイトメアかな?」

「あぁ。僕がそうだ」

 注射器型のピアスを揺らして、ハララが徐に頷く。

 ハララ=ナイトメア。優秀な人間だが人間不信で躊躇無く暴力を行使する。問題がある人材なのでどうにかしてくれ。意訳すればそんなことが書かれているメールの画面をもう一度見返して、ゆっくりと視線をハララに戻した。

「——もしかして、ドアを壊したのはお前か?」

「あぁ。普通に開けたつもりだったが、壊れてしまったな」

「えぇ……」

 呆然とハララを、正確には哀れ蝶番が外れたドアを見つめる。どういう怪力? 怖。

 ハララはヤコウの畏怖に気づいているのかいないのか、つかつかと歩み寄り、ヤコウが手にしたままの煙草を見て顔を顰める。

「屋内で煙草を吸うな」

「あ、悪い。ずっと一人だったからつい」

「口寂しいなら飴でも舐めれば良い」

 灰皿に煙草を押し付けるのとほぼ同時にヤコウの口に甘い棒付きの飴を押し込まれた。躊躇なく突っ込まれたせいで思いっきり歯にぶつかる。

「痛! ちょ、一言言ってくれよ」

 ヤコウの苦言を無視してハララはポケットの中から取り出した飴を自分の口にも入れた。一瞬見えた色合いから察するに苺味の甘いものだろう。

「……とりあえず、ようこそ保安部へ。歓迎するぜ」

 握手のために差し出した右手をハララが一瞥するが、すぐに背を向ける。

「僕用の椅子が無いな。買いに行くぞ」

「……まぁ暇だから良いけどさ……」

 ……今まで社会の中でどうやって生きてきたんだろう。

 そんな疑問は胸の中にしまい、颯爽と歩き出した部下の後を追う。

 雲一つない空から差し込む光がハララの艶やかな髪の毛を照らしていた。


 やたら豪華な作りの椅子を購入し(経費が降りる額をオーバーしているので半分ヤコウが払った。ハララに正気か? と言われたが、そう思うならこんな高い椅子を気に入らないで欲しかった)帰路に着く。

「で。保安部の基本業務はどうなっている?」

「メール確認して、警察の方にも顔出して、ゴタゴタを片付けてって感じだな。ま、安心しろよ。一ヶ月ぐらいで元の部署に戻れるようにしてやるよ」

 ニッと笑顔を見せるも、ハララは興味なさげに肩を竦めただけだ。

「僕の素行報告は読んだだろう。できるのか。そんな事が」

「あんまりオレを舐めるなよ。何年この仕事してると思ってるんだ」

 人間不信で暴力に躊躇が無い。ハララのことを悪し様に書いた報告書を送ってきたのは、社内でも評判が悪いものの権力を持っているため誰も逆らえない——そんな男だった。ヤコウを保安部に回したのもその男である。あまり当てにならないだろう、とヤコウは踏んでいた。ヤコウの予想が合っているなら、ハララもヤコウと同じように嫉妬か何かで貶められたのだろう。

「けど一応聞いておくけど、なんで保安部に来る羽目になったんだ?」

 数時間一緒にいただけだが、その間の短い会話の中でもハララの聡明さは理解できた。こちらの発言の意図をすぐに理解し、テンポ良く返事をする。その頭の良さがあれば保安部に左遷されるような事態は容易く回避できるはずなのに。

 ヤコウの質問にハララは眉を顰める。

「猫を」

 端正な顔立ちが怒りによって歪む。

「猫を虐待していたんだ。あいつは。それを咎めた」

「それは酷いな」

 力が弱く無力な存在への理不尽な暴力。想像するだけで胸糞悪い。ヤコウも顔を顰める。

 ハララがこちらを見つめる。

「信じるのか?」

「お前がここにいるのが何よりの証拠だろ」

「……」

 ぷいっとハララがそっぽを向く。

「あいつって、お前の素行報告書を送ってきたやつだろ? やな奴だとは思っていたけどそんなことしていたとはな」

「猫を傷つけようとする奴は人間じゃない。葦以下の肉の塊だ」

 ハララはまっすぐ前を見つめながら断言する。その瞳は昏い。凛とした表情と相まって壮絶な影を作っている。

「そんな奴の顔色を窺っているような奴らも、どうかしている」

 力無い存在を傷つけてはいけない、という真っ直ぐで無邪気な——ある種子供のような正義感。

 当然のようにそれに従い行動するハララにヤコウは早くも好感を抱いていた。

(我ながらチョロいな……)

 内心苦笑いを浮かべながらも、ヤコウは素早くハララの名誉を取り戻すための計画を組み立て始めていた。


 ハララが保安部に来て三週間が経とうとしている。ヤコウは「一ヶ月で元の部署に戻れるようにしてやる」と言ったものの、それが中々難しい状況であると言わざるを得なかった。

 素行報告に書かれてた「暴力に躊躇がない」。これは紛れもない事実だったのだ。

「ハララの気持ちもわかるけどさー……やっぱ暴力は良くないって」

「早く片付いただろう」

「早く片付ければいいってもんじゃないだろ!」

 行きつけの店で頭を抱える。ヤコウが学生時代から通っている店だ。

 喚き暴れながら目が合った人間に片っ端から喧嘩をふっかけまくる迷惑な酔っ払いをワンパンで沈めたハララを労い、それはそれとして説教をするために暖簾をくぐったのだ。

「悪いけどこれじゃ元の部署に戻れなくなるぞ?」

「奴の下に戻るぐらいなら僕は会社を辞める」

「——そしたらお前、誤解されたまんまだぞ。良いのか?」

「別に構わない。慣れているからな」

 チャーハンを掬いながらハララが吐き捨てるように言う。

「……いや、それはオレが嫌だな」

「部長のエゴだろう」

 呆れた様子のハララの瞳をじっと見つめる。

「そうだな。オレのエゴだよ。悪いがオレのエゴのため、お前には品行方正に仕事をしてもらうからな」

「……」

 ハララは応えずに俯いて、一口チャーハンを口に含む。嚥下したのか、細い喉が動いた。

「僕は」

 ボソリと呟く。

「安くはないからな」

「ハハ、知ってるよ」


 優秀な人間が品行方正に真面目に問題を起こさず仕事をすれば、そしてその様子をきちんと見て評価してくれる人間がいれば、当然その人間には相応の地位と報酬が約束されるものだ。

 ヤコウの報告書を読んだ上の人間はハララの優秀さを認めざるを得なくなったようだ。

 ハララが保安部に配属されてちょうど二ヶ月。ヤコウの元に一通のメールが届いた。内容は、ハララ=ナイトメアの転属通知だ。

「お、おおおおお! やったぞハララ!」

 ハララ本人よりもヤコウが大はしゃぎしながら画面に書かれた「左遷したけれど調査の結果間違ってましたごめんなさい。戻ってきてね」という旨のメールを何度も何度も読み返している。

「いやー良かったなハララ。お前がありとあらゆる所で暴力を駆使していたって知った時は頭を抱えたけど、大人しくしてくれたおかげで助かったよ」

「別に大したことじゃない」

「なんだよー、もうちょっと喜ぼうぜ?」

 ハララの肩に腕を回す。ハララは顔を顰めたものの、なされるがままだ。

「ほらみろ、あの男もハララを左遷させたせいで責任問われてるぜ? 上からお灸を据えられたんだ、さすがにもう無茶苦茶なことはしないだろう」

「なら、もしも奴がまた猫を虐待していたら遠慮なく奴の関節を全て逆向きにするからな」

「気持ちはわかるけどその前にオレに相談して?」

「命を奪わないだけ有情だろう」

 相変わらずなハララにヤコウは苦笑いを浮かべる。

「けど、これでお前ともお別れか。寂しくなるなぁ」

 しみじみと感慨深げなヤコウの言葉にハララが口を開こうとして、けれど止めた。肩に回されたままのヤコウの腕から抜け出して正面から向き合う。

「……二ヶ月、悪くはなかった。何かあったらハララ=ナイトメアの名を呼ぶといい。すぐに駆けつける」

「お前こそ、また何かあったら言えよ。部署は違っても、オレはお前の上司なんだから」

 ヤコウが右手を差し出す。ハララは差し出された右手に視線を落とし——それからゆっくりと顔を上げ、ヤコウの瞳を見つめた。

 ハララの右手が差し出され、握られる。

 眼鏡の奥の鋭利な瞳が細められ、柔和な印象になっている。

 短い間だったけど、ハララが部下で良かった。

 ヤコウも微笑み返し、ほんの少し寂しい気持ちを隠して——ハララを見送った。


 ハララが元の部署に戻って、一週間。

 通い慣れたはずの保安部室が随分と広く、がらんとしているように感じる。

 ハララが気に入ったやたら豪華な椅子はそのまま置かれっぱなしだ。こんな椅子他の部屋に置くスペースはないだろうから保安部室に置きっぱなしなのは仕方のないことだが、その空席が余計部屋の広さを強調しているように思えてしまう。

 随分ハララを気に入っていたようだ。良い歳してみっともないなと自嘲する。

「……はぁ。仕事するかぁ」

 ハララが来る前の、単調な仕事を繰り返すだけの日々。気は楽だが、それだけだ。……でも、煙草も思う存分吸えるし。良いか。

 そう思いながら煙草に火をつけ有害物質を体に取り込もう……としたその瞬間である。

 バドン! と爆発音、あるいは破裂音によく似た懐かしい音が響き渡った。

 音源は——またもやヤコウの目の前、保安部室のドアである。

「屋内で煙草を吸うなと言っただろう」

 涼やかな声に顔を上げると、鋭利な朱色の瞳でこちらを見つめるハララ=ナイトメアが光を背に立っていた。

「は、ハララ? なんで」

「口寂しいなら飴でも舐めれば良い、とも言ったはずだが」

 呆然と名を呼ぶヤコウを無視して、ハララがつかつかと歩み寄る。いつかのようにポケットから棒付きの飴を取り出し、躊躇無くヤコウの口に突っ込んだ。

「痛! だから、一言言ってくれよ!」

 あの時と全く同じ状況に苦言を呈する。唯一違うのは飴の味だ。甘みがほとんど無い薄荷飴だ。

「メールを読んでいないのか? 今日から正式に保安部に異動だ」

「え! なんでお前ほどの奴が……」

 ハララがポケットからヤコウに渡した飴と同じ薄荷飴を取り出し咥える。

「あの男。また懲りずに猫を虐待しようとしていた」

 忌々しげに腕を組むハララ。

「前に部長が相談しろと言っただろう。だが、正直部長だけでは心配だった。イタチごっこになるとしか思えない」

「……まぁ、オレ一人じゃなぁ……」

「だから、僕も一緒にすることにした。左遷だとかじゃない、僕の意思でここに来たんだ」

 凛とした声に瞳を瞬かせる。

「僕のような優秀な人材がいれば、保安部の権力も少しは増すだろう。そうすればあの男を失脚させやすくなる」

「……まぁ、ハララがいてくれれば、多少は保安部も機能するようにはなると思うけど」

「そういうことだ」

 ハララが得意げな顔でヤコウを見つめる。そして、そっと右手を差し出した。

「これから、よろしく頼む。ヤコウ部長」

「……ああ!」

 ヤコウが笑顔でその手を握り返す。

 空がどこまでも青く澄んだ日のことだった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ——空を見上げても、あの時のような青空は見えやしない。

 カナイ区の全住民から一週間の記憶が抜け落ちた、通称「空白の一週間事件」からずっと重い雨雲がカナイ区の空を覆っている。

 保安部に所属する、ハララ=ナイトメアを名乗る彼/彼女も、血液検査以降の一週間の記憶が抜け落ちた状態で倒れていたところを冷たい雨に叩き起こされた。

 しばらく保安部の他のメンバーや部長のヤコウを探し街を彷徨っていたが、ヴィヴィアやデスヒコ、フブキと合流し、ピンク色の液体に塗れ倒れていたヤコウを発見し、彼の看護のためにマコト=カグツチと名乗る謎の人物が用意した救護用テントをありがたく利用させてもらっている。

 ヤコウの体を蛍光色に染めているのは変色した血液だ、と検査の結果わかった。

 マコト=カグツチが言うには雨の影響によるものらしく、怪我をしたカナイ区の住人は赤ではなくピンク色の血を流し医療隊を仰天させていた。

 保安部のメンバーが交代で、気を失っているヤコウの様子を見ながら街の人々の誘導を行なっている。被害が出たのは建物だけで殆どの住民に軽い怪我以上のものはなかったが(気を失って倒れていたヤコウが一番重症と言える)、子供の心的ショックが見受けられ、大人も何が何だか「全くわからない」この状況に参っているようだった。

 変色した血に染まっていたヤコウの姿を思い出す。

(まるで……返り血みたいだったな)

 一瞬過った考えを打ち消すように首を振る。

 返り血を浴びるなんて、お人好しなヤコウのイメージからはかけ離れている。きっとヤコウ自身の血だろう。

 彼が目覚めたら、何が起きたのか聞かなくてはいけない。——自分たちと同じように記憶を失っているかもしれないが。

「う……」

 ヤコウが呻き声を上げながらゆっくりと上体を起こす。

「部長。気が付いたか」

 逸る気持ちを抑えてヤコウに声をかける。ヤコウの顔色は蒼白を超えて死人のような土色だ。

「! は、ハララ……⁉︎」

 ヤコウの瞳が大きく見開かれる。赤く充血した瞳がハララの朱色の瞳を映している。

「意識はハッキリしているようだな。まだ体調は優れないだろうが、非常事態だ。働いてもらうぞ」

「……」

 上司にも容赦のない、普段通りのハララの言葉にヤコウは黙ったまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。ハララからゆっくりと視線を外し、片手で顔を覆うような仕草をする。

「……部長?」

 お人好しな部長が、声をかけても返事をしない。こちらを見もしない。

 混乱しているのか、相当体の調子が悪いのか。それならば、まだ休んでいても構わない。そう言おうとして、口を開きながらそっと右手を伸ばす。

 が。

「触るなッ!」

 バシッ。

 破裂音のような乾いた音が響いた。

 何が起きたのか、優秀なハララ=ナイトメアの脳みそは全く理解ができなかった。ただ、じんじんと痛む右手を中途半端に持ち上げて呆然と上司を見つめることしかできない。

「え、……部長?」

 心臓が早鐘を打っている。雨に打たれたからか、背筋が凍ったように錆びつく。

 ヤコウは自分の行動に驚いたように一瞬目を見開き、顔を伏せた。

 なぜか、その表情には、嫌悪だとか、憎しみだとか。そういうものに類する感情が宿っていた、ような。気がした。

「……まだ、混乱……しているようだな」

 口を無理やり動かす。とにかく何か言わなくては、この状況をどうにかしなくては。

「無理もない……みんな、記憶が無く、混乱している」

「……そうか」

 掠れた低い声が耳に届いた。相変わらず視線は合わない。

「出ていってくれ。一人で休む」

 有無を言わせない命令口調にゆっくり頷くことしか許されなかった。

「また……何かあったら、呼んでくれ。部長」

 どうにかそれだけ言って立ち上がる。ふらつきかけた足を叱咤しながらテントから出て、雨雲の下でしゃがみ込んだ。

 いまだ、右手が痛む。

 ポケットに手を突っ込んで、飴の包装紙を解き口に入れる。

 いつだったかヤコウにも食べさせた甘ったるい飴だ。

 ——彼に何があった?

 右手を摩りながら思考する。

 だって、おかしいだろう。ヤコウ=フーリオが、部長が。あんな風に僕のことを見るなんておかしいじゃないか。

 会って数時間しか経たない部下のためにわざわざ財布を開いて椅子を買ったり、部下のためにしかならない行動をエゴだなんて言ってみたり。そんな人が。

 ——僕を信じてくれた人が。

 ガリ、と飴を噛み砕く。

 打ち付ける雨が体から体温を奪っていくにも関わらず、右手の痛みと熱だけは悲鳴の残響のように留まり続けている。

 昏く輝くヤコウの瞳が脳裏に閃く。

 大きく息を吸って、吐いた。

 記憶が無いと気が付いた時よりも、カナイ区の時間が一週間過ぎていたと知った時よりも、ヤコウに拒絶された今の方が余程不安で恐ろしかった。

(……大丈夫だ、きっとまだ混乱しているだけだ。きっとすぐに謝ってくるだろう。部長のことだから過剰なほど頭を下げてくるに違いない……)

 年上のくせに情けない顔で許してくれハララ〜、なんて言ってくるだろう。今回ばかりはハララも怒って良いはずだ。とにかく右手を打ってくれた分、何か奢ってもらおう。部下へ頻繁に何かを奢ってやるせいで常に薄い部長の財布に配慮して、あの店のチャーハンで手を打ってやろう。

 そしてまたいつものように彼の側で働こう。

 右手をギュッと握る。

 空を見上げても、カナイ区を覆う厚い雨雲しか見えない。

 あの日のような澄んだ青はいくら探しても見つからなかった。


◆終◆

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