軟禁√でハートクルーになってほしい願望

軟禁√でハートクルーになってほしい願望


遠ざかる激戦の果て、ドレスローザを見つめる。船の甲板には二つの人影があった。それらは、遠ざかる国を、勝利の喜びに酔うこともなく静かに見送る。

蒼褪めた空の中で、浮かぶ国は次第に水平線の彼方に掻き消えた。それをしかと確認した後、アドは水平線に背を向けた。傍にはローが佇む。

「船に乗るのも久しぶり。波の音……こんな感じだったっけ」

彼女は細い足で、たん、たん、と歩く。傷付いた甲板を珍しそうに見ていた。

海の光は彼女には少し眩しいのか、目を細めて彼方を見つめている。おれが見えないものが、この女には見えるのだろうか、と視線の先を追っても、海の色も、景色もそうは変わらなかった。ただ、彼女が六年もの間ドフラミンゴに軟禁されていた事実を思った。

「……これからどうするんだ」

「うーん、どうしようね」

軽く発せられる言葉。それは途方に暮れたような響きがあった。

ざざん、と、一際おおきな波が船を揺らす。彼女はたたらを踏んで、ローはそれを咄嗟に支えた。小さな手だ。タコもなにもない、細く、白い手。船に乗っていれば否が応でも日に焼けるが、アドの肌は不健康に白い。そして、手を取ったとき、彼女は僅かに顔を顰めた。

「あ……っ」

「アド?」

握られた片手を咄嗟に振り払い、もう片方の手で押さえて苦しげに顔を歪めている。ローは眉根を寄せた。

「……怪我してんのか」

「ん……ちょっとね」

たいしたことないよ、と、吐く声に浮かぶ青ざめた痛みは、それを否定する。

「診せろ」

「いいよ、気にしないで」

「そういう訳にはいかねェ。おれは医者だ」

彼女の前に向き合い、手を差し伸べる。億劫そうに瞳を開いたアドが、ゆっくりと片手を差し出した。

手首から肘にかけて刻まれた一線が、痛々しくぷっくりと腫れ、じんわりと熱を持っている。どうやら、既に洗ってあるようだ。

あの塔にいた頃、彼女は怪我をすればすぐに分かるような、真白と薄青の服を着ていた。今は、動きやすく血の色が目立たない服を纏っている。一体どこで、と問いかける前に、アドが口を開いた。

「えっと、船に乗る前に、ガラスで切っただけなんだよ。ローくんの方が、ずっとひどい怪我」

呟くアドの額にはわずかに汗が滲んでいる。

「それに、痛いのも別にいいんだ。あの塔にいた頃は、怪我することも許されなかったから。ふふ、こんな風に痛いの、何年ぶりだろ……」

ローは躊躇わず、その柔らかく小さな手を、自分の硬く無骨な手で包んだ。赤黒い血が滲む。

「?なにを……」

「静かに」

常に持ち歩いている簡易的な医療キットを取り出して、簡単に処置を行う。清潔な包帯を丁寧に巻いていく様子を、アドはぼんやりと見ていた。

十数秒。ローがゆっくりと手を離す。アドは「おお」と目をぱちくり瞬かせた。

「器用だね」

「当然だ」

ローは掌を見つめ続けるアドから離れ、立ち上がる。眩しげに彼を見上げる女を、ローは静かに見ていた。

ローはそういえばはじめて、アドの顔をしっかり見た、と思った。二十を迎えたばかりだろうか、今だ少女の幼さが残る彼女は、純粋無垢なようでいて、その内には暗い心が宿っている。鳥籠に囚われ、自由を失い、父親への復讐心を育てられたことを、ローは知っていた。やがてアドは腕の包帯をなぞるのを止め、ローの顔を見た。

「……どうしたの?」

その顔は、どこか不安そうに陰っていた。少女らしい好奇心と、恐れ。ローはそれを汲み取って、少しだけ眉を顰める。塔でも見た、年齢に見合わない幼さ。閉じられた世界で生きることを強制されたが故の不安定さは、彼の思考を鈍らせる。

「……お前を連れ出したのは、おれだ。お前は望まなかっただろうに、無理やり」

「…………」

アドはなにも言わなかった。淡い髪の下にある薄紫色の瞳はかすかに潤み、美しくも可憐である。

二人並んで、海を眺める。船は静かに進んでいる。べたつく潮風を、こいつは何年ぶりに浴びているのだろう。ドフラミンゴの他に誰も来ないあの寂しい塔に、海のにおいは届いていたのだろうか。

そんな風に思って、ローがひとつ溜息を吐くと、アドは何かを決めたように手を握り込み、「いいの」と言った。

「いつか……いつか、こんな日が来るんじゃないかって、予感があった。若様は私を閉じ込めて、大事に、大切にしてたけど、いつか、終わりが来るんだろうって。それは私の願望だったかもしれないけど、同じことでしょう」

「……同じ、」

「ずっと、自分のことも分からなかった。初めは、お父さんたちを憎んでいたけど……同じ日々を過ごしていくうちに、摩耗していった」

それにね、と微笑む。

「私、無理やり連れ出されたんじゃないよ。ローくんに着いていくことを、私が選んだの。だってあの部屋、緊急事態に備えた仕掛けがあったんだよ。ローくんが私を連れ出す前に、それを使うことだってできた。私はそうしなかった。私は、私の意思で若様を裏切った」

穏やかに、アドは語る。ローは、自らが治療したばかりの腕をじっと見ている。アドの髪が日光を浴びきらきらと光った後、ゆるゆると首を振った。

「いや。……裏切りなんて、思う必要はねえんだ。お前は全部おれのせいにしていい。六年間、ドフラミンゴ以外の相手とまともなコミュニケーションを取ることもできなかったお前を、おれが、利用するために連れ出した」

「優しいんだね」

知ってたけど。

初めて会ったとき、彼はアドの境遇に憤っていた。不機嫌そうに口を引き結んで、自分の怪我も構わなかった。それが彼女にとって、どれほど嬉しかったことか。純粋な心配が、どれほどアドの胸を打ったことか。

彼女は手摺に腕を乗せる。陽は陰りを見せ始め、ライトの無い船の上には、少し冷たい夜の風が吹き込んでくる。手摺にもたれ掛かり、彼女は水平線を見た。水平線は、飽きるのが早い。空と海の境界となりうる、揺れることない一本の線を見ていると、それはいつか、塔から見下ろした地平線とそっくりなのだ、と、悟る。

「おれのせいだから、おれが責任を取る。家族に会いてェって言っただろ。おれが会わせてやる」

あんまり真っ直ぐな目でいうものだから、アドは少しだけ怯んでしまう。彼の金色の目が、アドを貫く。穏やかで、しかしギラギラと輝くものがあった。

それは、ローの決意だった。

断られようと、彼は無理にでも彼女を家族の元に連れて行く腹積もりだ。そう決めたのだから仕方ない。だって自分は海賊なのだ。

「ローくんって、やっぱり結構強引?」

アドが不思議そうに首を傾げた。

「この数日、色んなことがあって疲れたけど。今日はあなたのことがたくさん知れて、いい日だね」

「……そんなに良いモンじゃねえだろ」

「だって、連れてってくれるんでしょ。これから一緒に過ごすなら、お互いのことを知るのは大事だと思うよ」

アドが悪戯っぽく笑うので、ローも笑った。随分と上手く笑えたような気がした。

海はだんだんと暗くなり、水平線も見えなくなる。眩い月は、さえぎるものの無い海の真ん中、船を遍く照らしていた。

これからゾウに向かい、仲間たちと合流する。彼らはアドを歓迎するだろうか。きっと喜ぶだろう。気のいい奴らだ。自慢のクルーだ。

そう考えて、ローは穏やかに微笑んだ。

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