身を窶した男
「わぁっ!な、なんだい、あんた、脅かすなよ。こんな夜に…獣かと思うじゃないか」
今度こそはと禁域の森の探索を続けて見つけた、崩れかけの建物の縁にいた男。
振り返り言葉を発したその口元からは、ひどい人の血の臭いがした。
「でも、よかった、あんた、普通だし…あの獣も、始末してくれたんだろう?」
禁域の森に佇む崩れかけた建物の片隅、蛇と獣と人の血と、腐った木の臭いの中でも嫌に存在感を放つ男。
まさに夢中で死体に手を付けていたこいつを、なぜだかおれは知っていた。
記憶のどこにもないはずの嫌悪が、ぼろぼろの黒いファーコートから滴り落ちる血のように、小さく確かにこちらを責めている。
「…あんた、どこかおかしいのかい?それとも、勘がいいのかな」
構えたノコギリ鉈の先で、男が嗤った。
やはりおれは、こいつを知っている。
「狩人など、お前らの方が血塗れだろうが!」
叫びとともに頭部を覆っていた包帯も、かろうじて身に纏っていた衣服も喰い破って現れたのは、おそろしい獣の姿。
血を吸い重く湿った体毛は、雷を帯びて青く光っていた。
「死ねっ、死ねっ、死ねっ、狩人など、この人殺しが!」
おかしくなった狩人たちよりよほど理性的なままで、獣が腕を振るう。その様にどうしてか、おれは旧市街で獣を守る男のことを思い出していた。
発火ヤスリで起こした炎が、獣の血肉を焼く臭いのせいだろうか。
「獣だと?獣だとっ?あんたに何が分かる!」
わからない。おれには何もわからない。
おれはこの夜までは正義を背負って生きた海兵で、兄を止めるために海賊団に潜入していた、ただそれだけの男だ。
ほんの少し、出自が特殊なだけの。
でも、そういえばどうしておれは、命を投げ出しても兄を止めたかったのだろう。
命を失うよりも、おそろしいこと。
「おれだってなあ!」
血を流し流させながら続く戦いの中で、獣の姿を"現した"男が悲痛に咆えた。
おれだって、おれだって。
何も、おれには何もなかったはずなのに、胸の痛みで視界が滲んだ。
これは、やはり悲しみなのだろうか。
ぎょっとしたような獣の頸にノコギリの刃が食い込んだのをおれは、まるでだれか、本当に長く連れ添っただれかの命を奪うような心地で眺めていた。
血を流し尽くした獣が、貪り喰った死体のそばに崩れ落ちて長い体毛を広げている。
「それでもおれは、あんたを狩るよ」
今のおれにも、わかることがある。
人はみんな、獣を隠して息をしているのだ。
そしてその中に時折、どうしようもなく大きくおそろしいそれを持って産まれ、もてあます奴がいるだけなのだ。
だが、それを許しては、人間は生き残ってはいけない。
だから、"おれ達"は。
「ああ…あんた…ちゃんと殺してやれればよかったかな…」
悲しみを纏う掠れ声で呟いて、その身におそろしい獣を隠して生きた男はそれきり、動かなくなった。