誕生日の夜
そろそろ眠りに着こうかと、火を吹き消した時だった。コンコン、と来客を知らせるノックの音がして、クザンは眉を顰めて扉を振り返った。おおかた肴が余ったとか酒が余ったとか、そんな用だろう。前に構うなと言ったはずなんだけどな、とため息をついて戸を開いた。
「はいはい、おれは結構ですよって────」
「お誕生日おめでとうございます、クザン」
妙に恭しい声でそう出迎えたのは、ラフィットだった。自分でもすっかり忘れていたので呆然としてしまったが、何より彼の腕に抱えられている人物に驚いた。
「……コイツは?」
「コビー大佐です」
「そりゃ見たらわかる。どういうつもりだって聞いてるんだ」
「プレゼントですよ、貴方への。眠っているうちにどうぞ」
「…………」
クザンはコビーに注いでいた視線を上げ、ラフィットを睨みつけた。コビーがクザンを恐れているのを知らないわけではないだろうに。クザンとてコビーを見ると胸の内が掻き乱されてしまい、平静ではいられなくなるのに「プレゼント」とは随分な。
それに今、彼が眠っているのも不自然な何かが作用しているのではないか。例えばバスコの酒だとか、ドクQの得体の知れない病だとか。黒ひげ海賊団に囚われてからというもの、無理をさせられ続けている小さな体だ。これ以上の負担を強いるべきではないと、眼差しに怒りが滲む。
その意図を理解したらしいラフィットは、わざとらしく肩をすくめる。
「軽い催眠術ですよ……変なものを飲ませたりはしていません。貴方は眠くなる──というベタなヤツです」
「……」
「受け取らないなんて無粋な真似しないでくださいよ。我々幹部の誕生日には、提督が彼を一日中不可侵で“貸して”くださる。十番船船長の貴方にも当然、その権利がやってくるのが筋というものでしょう?新顔とはいえね」
黙ったままのクザンに、さあさあと言わんばかりにコビーの弛緩した体が押し付けられる。全く引く気のなさそうなラフィットの様子に観念し、とうとうクザンはコビーを受け取った。
「ホホホ……。では、良い一日を」
シルクハットを持ち上げて会釈をするラフィットを一瞥し、ぶっきらぼうに「どーも」とだけ返して扉を閉じた。
さて、どうしたもんかね。
クザンはひとまずコビーをベッドにそっと下ろした。見たところ外傷は無く、血も体液の類も付いていない。ここに来る前まで、誰に何でどうやって愛でられていたのだろう。つるりとした丸い顔にも、泣いた痕跡は残されていなかった。
着せられているブラウスにも見覚えがあるが、誰のものだったか。ティーチか、ラフィットか、オーガーか、ドクQか、デボンか。まァいいや、と胸中で独り言ちて、釦を一つ一つ外していく。
その合わせを開いて出てきた体は、実に綺麗なものだった。代謝が良いのだろう、ところどころ痣や傷跡が残ってはいるものの、ほとんど治りかかっている。若さってヤツか、なんて中年甚だしい感想を抱いてしまう。
滑らかな肌を掌で辿っていると、肩から鎖骨あたりにかけて少し肌が引き攣れたような痕を見つけた。クザンが激情をぶつけた痕。能力で以って凍らせた痕だ。苦々しい思いで目を眇める。
殊に、癪に触る若造である。
マリンコードを返却しようとも、己の正義に従って戦える。どうにも出来ない闇などないのだと信じている。必死に掴もうとすれば、助けを求める手は全て救えると思っている。
きっと絶望や挫折を知らないのだ。燃え上がるような愚直さ、青くさくて敵わない。鼻を摘みたくなる。だのに恩師・ガープすらこの花畑野郎に望みをかけているという事実に、眩暈がするようだった。
だが、クザンの胸中に憧憬と羨望が鎮座していることもまた事実だった。こうであれたならと、かつての自分と重ね合わせてしまうのだ。手に入れられずに妬んで、御し難い苛立ちに飲まれて、泣かせて。どっちが子どもなんだか。本当はこうしてやるべきなんだろうな、とその傷跡に唇を寄せる。
肌と唇が触れ合ったその時、ピクリとコビーの体が跳ねた。起こしてしまったかと顔を上げれば、そこには瞼を瞬かせてぼんやりとしているコビーがいた。未だ夢見心地なのだろう、クザンと視線が交わっているにも関わらず、いつものような怯えた様子はない。
コビーは寝ぼけ眼のまま徐に腕を伸ばして、クザンのゴワゴワとした髪に触れた。ああ、というため息混じりの感嘆と共に、仄かに笑みを浮かべる。しかしながら、その笑顔はどこか寂しげで。クザンは虚を突かれ、動けなくなってしまった。
コビーはもう一方の手でも髪に触れ、頬に触れ、首筋に触れていく。嬉しそうに、触れなかったものが触れるようになった事を実感するように。やがて感極まったのか、クザンの首元に縋るように抱きついてきた。耳のすぐそばから、嗚咽を堪えるような声が聞こえてくる。
「……夢でも嬉しいな。……クザンさんを、抱きしめられるなんて。本物の貴方はきっと……っ、きっと、ゆるしてくれないから」
末尾の方はもう、涙声になってしまっていた。どうやらコビーはこの現状を夢の中だと思っているらしい。彼自身の願望が映されているとでも思っているのだろう。
クザンはというと、抱きしめられても尚動けないままでいた。そしてどうしてか、今なら自身も理想の姿になれる気がしていた。嫉妬になど飲まれず、冷静に、歪な愛を注ぎこまれた若者を正しく癒すような存在に。海賊共の無骨で粗暴な手から、守ってやれるような存在に。
恐る恐るコビーを抱きしめ返して、その頭を撫でる。そうっと、優しく。しかししゃくり上げる泣き声は、大きくなってしまった。
「…………ごめんなさい、っごめんなさい、クザンさん……。こんなの、知られたら……」
知られたら、なんだよ。
普段なら導火線に火をつける言葉も、今は冷ややかに胸中に落ちる。知られたら、また折檻を受けることになると彼は恐れているのだ。ただ抱きしめたいと願うだけで、そんな酷い話があるか。醜くて、ままならない。
────やめたやめた、考え出すとまた苛立っちまう。
クザンはコビーを胸の前に抱え直して、ベッドに転がった。もう一度、丸いピンク髪の頭を撫でる。
「おやすみ、コビー」
その言葉に「ぇ、」とコビーが溢したのも聞かないまま、クザンはぐっすりと夢の世界に旅立った。