記憶喪失レオパルド(仮) S8
寝室は真っ暗だった。扉の近くにあったフロアランプを点けると、柔らかい夕暮れ時のような光が室内をぼんやりと浮かび上がらせる。念のため確認すると、窓には鍵がかかっていた。ベッドの脇に置かれた安楽椅子に座り、外から戻ってきた時のことを思い出す。隣の部屋は誰もいないのに明かりが灯され、窓は開いていた。……おれが入ってこられるように用意されていたんだろうか? お互いの立場上、正面から訪ねることのできないおれが以前から窓を使って出入りしていて……。
何か思い出せそうだと思ったところで扉が開き、クロコダイルが現れた。サテンのようなツヤのある生地のガウンを着ている。ランプの光に濡れて艶めかしい……。立ち上がって近づき、絡みつくように抱きしめる。ガウンの下には何も身につけてないようだ。襟の合わせ目に顔を寄せ、舐めるように口付けていく。内腿に指を這わせてガウンの中を探ろうとしていると、いつもの右手が頭を撫で始める。
「……本当に帰らねェのか?」
あまりに予想外の言葉が降ってきて、何を言われたのか理解するのに時間がかかった。冗談かと思ったが、至って真面目な声の調子に思わず手を止め、顔を上げる。おれの視線を受けてクロコダイルは苦い顔をしていた。
「今朝はお前がベッドにいて驚いた」
右手はまだ頭を撫でている。
「朝になってもお前がいたのは初めてだ。それどころか、寝室にいるのもな……」
「……どういうことだ? おれ達は、恋人なんだろう?」
昨日からのあれこれが頭の中を巡る。確かに断言はしなかったが……。
「お前は長居したことがねェ。気まぐれに立ち寄って、おれが近づくと逃げ出す猫だ」
それを聞いて、これまで頭の中に立ち込めていた靄が晴れた気がした。近づきたくても近づけないまま、ずっと微妙な関係が続いていたということか。今、凄まじく緊張しているのは、こうして身体を寄せ合うのが初めてのことだからなんだろう。だが、たとえそれが真実だとしても関係のないことだ。
「おれは逃げ出すつもりはない。お互いの立場がどうだろうと……」
「そりゃ記憶がねェからそう言えるんだ」
クロコダイルの口調はひどく酷薄だった。この恋にとって、おれの過去は互いの立場以上に厄介なものらしい。過去をどうにもできないおれの葛藤の結果として記憶喪失になったのかもしれなかった。しかし、それも逃避に変わりない。記憶を失う前のおれは、それほどまでに恋に臆病だったのか……。
いや、おれだけじゃない。今になってこんな話を始めたのは、クロコダイル自身も先へ進むことに躊躇しているからだろう。お互い憎からず思っていながら、境界線を越える術を持たなかった。つまり、記憶を失ったおれこそが次の扉を開く鍵を渡された存在だと言える。ここで一歩踏み込めなければ、これから先もきっと何も変わらない。これはおれに与えられた試練だ。……受けて立とうじゃないか。
→ 豹の姿で油断させる
強引に押し倒す